四、業火

 向川町は水と風に囲まれた静かな町。盆も過ぎ静かな日々が過ぎていた。最近は妖魔などが多く出ていて退魔師の間では異常だとも囁かれていたが、それは聖の一言で一蹴された。
「人がこの世にある限り、妖魔は近づいてくるんです。こんなものは異常でも何でもない」
と言い放ったのである。つまり、人間が欲を抱けば抱くほど闇に属する願望、恐怖、憎悪、怨念、殺意などに妖魔が好んで近づいていくのだ。そして、平和ボケして退魔師に強い言葉で言った。
「弱い妖魔を退治したぐらいで自分は強いと驕ってはならぬ。もし、そんなことを心の片隅に置いているようなら早々に退魔業をやめるがいい。そのような欲が妖魔を近づけさせる要因にもなる。貴君らが今後、退魔師として戦い続けるのなら我がお前たちを殺るであろう」
と…。これには聖の怒りがこめられていた。この言葉を聞いて苦笑する者、恐怖に満たされる者、目を瞑りながら頷く者、それそれが一様の表情をうかがわせた。その中の1人、豊龍院玄覚が聖に近づいてきた。
「木曾さん、ちょっとよろしいですか?」
「ええ、構いませんよ」
2人は並んで外に出た。
 この日、聖は秘密裏に京都で行われた退魔師の会合に出ていた。会合は京都の退魔師・三条義建(よしたて)の呼びかけによって開かれたもので聖は吉郎の代役としてここに来ていた。聖はここに来た退魔師を見て愕然とした。万が一、武威がここに現れたならここにいる連中が総出で戦っても勝てないだろうと聖の心が揺るがせた。それが前記の言葉となって現れたのである。
 さて、玄覚と聖は顔見知りであった。玄覚は京都の出身だが信州豊龍院の住職・全玄に修行を申し入れ、僧侶となった異例の退魔師でもあった。全玄はもともと法力で退魔をしていた退魔師であったが病気には勝てず、住職の位を長男・全影に譲った。しかし、全影は父と違って金に対する欲望が大きく、欲しいものはどんなものでも手に入れた。そんな全影が目をつけた物に妖刀があった。『業火』と呼ばれた妖刀は戦国時代に戦いで死んだ武士たちの血より造られた魔性の刀であった。それをある資産家が除霊して欲しいと持ち込んだものである。妖刀を納めていた鞘には破魔の封印がされていたが退魔について何の知識もなかった資産家の子供が破がしてしまい、抑えられていた妖気が一気に吹き出した。妖気を浴びた子供は妖魔によって心を奪われ、何人もの罪なき人々を惨殺したという。その恐怖を知っている資産家は鞘にはがした破魔の札を再度貼り付けてここに持ってきたというわけである。
 けれども、一度はがされた札は再度、術を施さなければ何の効果もなかった。この資産家が豊龍院を訪れたとき、玄覚はたまたま私用で出かけていた。全影が欲望に満たされているのに妖魔が近づいてこなかったのは玄覚が秘かに寺の周りに張った結界のおかげだった。しかし、それは外から来る妖魔に対してであり、中に入った妖魔には何の効力もなかった。
「この刀を持つ者は化け物になるのです。どうか、除霊をお願いしたいのですが…」
「うむ、たしかにすごい妖気を放っておる。1日や2日で払える妖気ではない。しばらく、この寺に預けよ」
全影に退魔の力はない。ただ、預けるように言ったのはこの妖刀が欲しくなったのである。資産家にそう言い含めると刀を置いて帰らせた。
 夜になって全影は本殿に置かれた刀のところに行った。
「ほうほう、これがあの有名な『業火』か!。素晴らしい、素晴らしいぞ!」
刀の鍔に左手で持ち、右手でゆっくりと刀を抜きはなった。妖刀は青白い光を放ちながら輝いていた。
「これは何という素晴らしさだ。このようなもの、資産家の手に委ねるにはもったいない。私が有効に使ってやろう。有効に…」
刀から放たれた妖気が全影の欲望の中に入り込んで心を闇と化したのである。
「ククク…、血だ…、血が欲しい…」
全影の表情から血の気が引いた。そこに見回りのため1人の僧侶が入ってきた。蝋燭を持っている。
「あれ?、和尚。こんな夜更けにいかがなされたのですか?」
しかし、その呼びかけには応じない。
「和尚、どうしたのですか?」
「血だ…、血をよこせ…」
「えっ?」
全影は刀を振りかぶると一気に右袈裟切り(右肩から左脇下に切り落とす)で僧侶の体を切り刻んだのである。
「ぎゃあああぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」
悲鳴が寺全体に響き渡った。闇に見いだされた全影はゆっくりと血を求めて本殿から出て行った。
 全影の弟で副住職を務める全舞は事務の仕事を処理していた。全影とは違い真面目一本の性格で兄とは何かある事に対立していたのである。しかし、全影が全舞を追放できないのには訳があった。それが玄覚の存在である。玄覚は以前、全影の命を救ったことがあったのである。欲望に駆られるのは幼少の頃からそうだったのだが僧侶の1人が知らずに結界の術を施していた「四法の陣」の一角を壊してしまったのである。一角でも抑えが効かなくなれば結界としての効力は消えてしまうのである。そんなところに妖魔が全影の欲望に目をつけて近寄ってきたのだった。
 このとき、全玄は全舞を連れて留守にしており、玄覚だけが全影の補佐として残っていた。玄覚は寺に結界の効力が失ったのに気づいたときには無数の妖魔によって寺を包囲されていたのである。
「すごい数だ…。わし1人では勝てぬかもしれぬ」
玄覚は死を覚悟した。しかし、妖魔たちは玄覚のところには向かって来ず、本殿のほうへ向かい始めていたのである。本殿には賽銭を盗もうとしていた全影の姿があった。
「また、少しもらっていくか…」
賽銭箱の鍵を寺務所から持ち出していた全影が鍵穴に鍵を差し込んだとき、無数の妖魔が障子を乗り越えて姿を現したのである。
「うわぁぁぁぁぁ!!!、な、なんだ!!??」
全影はその場で腰を抜かした。あまりの恐怖に動けなくなってしまったのだ。
「く、来るなぁぁぁぁぁぁ!!!、あっちに行けぇぇぇーーーー!!!」
後ずさりで必死に逃げようとしても妖魔たちはどんどん迫ってくる。そして、もう目の前に鋭い爪を生やした鬼の手が届きそうなとき、バチっという音が響いて鬼の手が消え去ったのである。
「ぐおおおぉぉぉぉぉぉ!!!」
「へっ?」
全影は何が起きたのか分からなかった。そこに、
「全影殿ぉーーー!!!」
遠くから聞こえてくる呼びかけにハッと我に返った。
「おおおおおお、玄覚!」
全影も玄覚が退魔師であることを父から聞かされていた。このときはがりはさすがの全影も玄覚に頼る他なかった。
 玄覚は精霊を使わなかった。全玄のもとで修行した法力を使ったのである。
「闇の者どもよ、不動明王の剛力のもとに消し去るがいい」
と叫んで数珠を前に出した。すると、その数珠に導かれたかのように剣を持った不動明王が妖魔たちの前に立ちふさがったのである。たちまちのうちに不動明王は妖魔を消滅させていく。剣に切り刻まれ、握り潰され、蹴り飛ばされていった。しかし、玄覚の法力も完全なものではなかった。5分も経たないうちに不動明王はその姿を消し去った。
 妖魔はどんどん増えていった。玄覚は全影の前に行くと、
「全影殿、数が多すぎます。朝まで結界を張り続けますので全影殿は読経でカバーしてください」
しかし、全影はそれに答えることができなかった。なぜならば、気絶してしまっていたからである。
「全影殿!、しっかりなされい!」
玄覚の呼びかけにも応じなかった。玄覚は単身で無数の妖魔たちを前にして小さな結界を張った。ただし、この結界は強力なもので妖魔たちが近づこうとした瞬間、次々と消し去ってしまったのである。こうなると、さすがの妖魔たちも手が出せない。妖魔たちは玄覚が疲れて結界の力を弱める一瞬を狙うことに決めたようだが玄覚の力は朝まで耐え続けたという。朝の光が寺の中に入り込むと同時に妖魔たちは次々と消し去ったのである。
 しかし、玄覚のおかげで全影が助かったのは言うまでもなかった。それ以来、全影は玄覚に対して頭があがらなくなったのである。そればかりか、全玄が死去する数日前のこと、全玄は後継者を誰にするか悩んでいた。そこで玄覚を部屋に呼んだ。
「わしとしては全舞に後を継がせたいんじゃがお前はどう見る?」
「家は長男が継ぐものです。長男以外の者が家を継いだ場合、長男側の者たちは強く反発しましょう。そうなれば豊龍院は真っ二つに分かれてしまいます。能力で劣るというなら周りの者がカバーすればよいのです」
「うむ…、よし、わかった」
こんなやりとりの末、全影は全玄の死後、豊龍院住職になったわけである。つまり、玄覚の一言のおかげで全影は住職になったようなものだった。
 しかし、『業火』の妖刀を手にした全影は違った。全て欲望の中に埋もれて闇の支配されてしまっていた。早く『業火』を封印してしまわないと全影は妖魔になる恐れもあったがこの日、玄覚はあいにくと寺を留守にしていた。 全舞が一仕事を終えてゆっくりと立ち上がろうとしたとき、
「ぎゃあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
すごい叫び声が寺の中に響き渡った。
「な、何だ!?」
全舞は何事かと急いで叫び声のした本殿のほうへ向かった。
 全舞が本殿の中に入ると異様な空気になっているのを感じた。そして、1人の僧侶の死体を見つけたのである。
「うわっ、ど、どうした?」
ゆっくりと死体に近づいていくと遠くのほうからフ〜フ〜という息づかいが聞こえてきた。本殿の中にはいないらしいがすぐそこまで来ている気配であった。全舞は本尊の前に刀の鞘が落ちているのに気づいた。
「これは…、昼頃ここに来た資産家の…。ま、まさか!?」
全舞は周りに気を配った。何者かが『業火』を解き放ったのだと思った全舞は本殿の結界を敷いた。念力をこめた数珠を四方に配置し、自身は本尊の前で読経を読み始めた。内部に残っていた妖気が浄化されていく。全舞には退魔の力はなかったが法力は父譲りであった。ただ、退魔のために使ったことは一度もなかったのである。
「我が法力がどこまで通じるか…。こんなときに玄覚がいてくれれば…」
玄覚に私用を頼んだのは全舞であった。こんなことになるのなら、頼まなかったらよかったと今頃になって悔やんだ。遠くから聞こえ続けていた息づかいがドアの向こうに現れた。
「来たか…」
全舞は読経を読み続けていた。外にいるのが全影とは知る由もなかった。
 ちらっと柱にかかっている時計を見た。午前3時を少し過ぎた頃だった。
「朝まで保ってくれれば…」
そう呟いたとき、外からも呟く声が聞こえた。
「血だ…、血をよこせ…」
その声を聞いた全舞は咄嗟に声の主が誰か分かった。
「くっ…、やはり『業火』を持ち出したのは兄であったか…」
認めたくはなかったがこうなってしまうと認めざる得なくなった。外では結界をこじ開けようと全影が『業火』を振り回していた。その都度、バチッという音と共に妖気が跳ね返されてしまうのだ。
「くそくそくそくそくそぉぉぉぉぉ!!!!!。おのれぇ…、全舞めが…。あやつの血を全部吸い取ってくれるわ!!!」
すさまじい勢いで結界を切り刻んでいった。しかし、切り傷はあっという間に消え去った。そんなことが繰り返し繰り返し寺の外で行われている中、全舞は生きた心地はしていなかった。兄はもともと弟の全舞に対して強い恨みを抱いていた。それが妖魔を便乗させたといっても過言ではないだろうが全舞は全力をもって対応しなければならないという状態に陥っていることは確かだった。
「玄覚…、間にあってくれ…。私の力ではまもなく破られる」
そのとき、全舞の視界に殺された僧侶の死体が写った。その瞬間、全舞の心に恐怖と不安が増大していった。そのことが結界の法力の強さを弱める結果となった。
ドンッ、ガッタン…。
「やっとだ。お前の血が吸えるのは…」
妖刀『業火』を手にした全影が障子を突き破って本殿の中に入ってきた。『業火』の刃からは青白い光を放って妖気があふれ出ていた。
「兄貴…、何て様だ…」
「ふふふ…、そんなことを言えるのもそこまでだ…」
「玄覚が戻ってきたらお前の命はなくなるぞ」
「それはない…、あやつもこの『業火』に血を吸われるのだからな…」
「お前では無理だな」
「黙れっ!」
全影は大きく振りかぶった。一刀両断してしまおうという魂胆らしいが全舞は刃が振り下ろされる瞬間に後ろに跳んだ。刃は床を貫き、床は衝撃で大きく裂けた。
「すまん、兄貴」
その隙を突いて全舞は数珠を全影の両手に投げた瞬間、鋭い刃に切られたかのようにストンと落ちたのである。
「ぎゃあああぁぁぁぁぁぁ!!!」
痛みなのか、『業火』を放したためなのかは分からないが全影は一種のうちに正気に戻った。
「お、お、俺の両手がぁぁぁぁぁ!!!。全舞、何をしたぁ!!??」
自分が何をしたのか覚えていないらしい。
「愚かな兄よ」
「何だとぉぉぉ!!??」
「自らの欲望を抑えきれず妖刀などを抜かなかったら我が友は死なずに済んだ。これも自業自得と思え」
「な、何を言ってる!?」
全舞が言っていることがさっぱり分からない全影は自分の横に死体があるのに気づくとさらに絶叫した。
「うわあああぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
全影は叫びながら後ずさりした。そのとき、全影の両腕から流れる血が妖刀に向いていることに気づいた。
「兄貴、この場から離れろ!」
と、叫んだときには妖刀『業火』は宙に浮いて全影の体を貫いた。
「ぎゃあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
その後、バキバキという音を立てながら骨ごと飲み込んだのである。飲み込んだというより吸い込まれたといってもよかった。刃の中に全影まるごと吸い込まれてしまったのである。
「な、血があるところに動くというわけか…」
その直後、ゆっくりと本殿の中に光が差し込んできたのである。妖刀は朝日によって妖気を消されたのかそのまま床の上に突き刺さった。
「ふぅ…、やっと終わったか…」
全舞は壮絶な一夜を過ごして一息ついたと同時にゆっくりと腰を下ろした。
「この刀は封印せねばならぬ。二度と光の世界に出てこぬように…」
全舞はゆっくりと立ち上がり、体を浄めるため中庭に続く障子を開いた時、ズブッという音と共に痛みが全身に走った。
「ぐふっ」
全舞は口から大量の血を吐いた。『業火』が全舞の体を貫いたためだ。
「な、なぜ…」
そのままドカッと崩れ去ったのである…。

「ふぅ…、ずいぶんと遅くなってしまったな。覚翠」
玄覚は唯一の弟子である覚翠に言った。
「ええ、ご住職たちも首を長くして待っておられることでしょう」
玄覚は全舞の代役として京都の退魔師が主催した会合に出ていたのだ。全玄の死去を伝える役目を仰せつかってのことでもあった。
「覚翠」
「はい」
「お前は京都の退魔師連中を見てどう思った?」
「そうですねぇ…、平和ボケしてるっていうか何というか…」
「お前もそう思ったか、連中はたしかに平和ボケしてしまっている。弱い妖魔を退魔したぐらいで驕っている連中もいたからな」
「師匠」
「うん?、なんだ?」
「実は1人会ってみたい御方がいるんですよ」
「ん?、誰だ?」
「ええ、今回の会合に行けば会えると思ったのですが甘かったようですね」
「誰なんだい?、お前の目の向こうに見えている人物は?」
「怒らないでくださいよ」
覚翠は笑いながら言った。玄覚も笑っている。
「怒らんよ」
「木曾聖という人物です」
「木曾聖…、双魔木曾一族の棟梁だな」
「ええ、退魔師の間では最強と呼ばれる御方です」
「最強か…、たしかに最強もしれんな。今度会う機会があったら共に行こうではないか?」
「どこへです?」
「奥木曾、双魔木曾一族が住む地へだ」
「えっ?、御存知なんですか?」
「ああ、知っている。知っているといっても諏訪の地で会った1度だけなんだがな」
「へぇぇーーー」
「あのときは諏訪に封印されていた妖刀が人間の欲望に触れてな、突然、暴れ出したということで呼ばれたんだ。あのときはまだ豊龍院に入っていない頃だ。そのときに共に呼ばれたのか、偶然通りかかったのかあっという間に封印してしまったよ。まだ15の若造が一瞬のうちに封印してしまったのだから」
「ええええええ!!??、じゅうごぉ!?」
覚翠は驚きの声をあげた。玄覚が笑っている。
「そんなに大きな声を出すな、耳が痛い」
「あっ、すみません」
「しかし、15であれ程の力を秘めていたのだから今はどんなものか…」
「まさか…」
覚翠が覗き込むようにして玄覚を見た。
「何だ?」
「戦ってみたいとか?」
「あははははは、若い頃なら戦ってみたいとも思ったが今はそんな気も失せた」
「何を言ってるんですか?、まだまだ若いですよ」
「そういうのはお前だけだ。お前が挑んでみたらどうだ?」
「私ですか!?」
「お前なら素質があると思うぞ」
「冗談はやめてくださいよ」
玄覚は正面を見た。小さくだが丘の上に豊龍院が見えた。
「おおお、寺が見えてきたぞ」
「本当ですね、長い道のりでしたね」
「ああ」
「でも、師匠」
「うん?」
「どうして歩きなんですか?」
「ん?、足の筋力を鍛えるためさ」
「限度というものがありますよ」
「何か言ったか?」
「いいえ、何でもありませんよ」
覚翠は笑っていた。玄覚の弟子というだけあって退魔師としての力量も備わっていた。退魔師であっても法力ではなく、精霊のほうが好んでいるようにも見えた。しかし、まだ実戦のほうは経験なかった。
「さて、もうすぐだな」
寺の門が大きくなってきたとき、玄覚はピタッと足を止めた。その様子を不審げに見る覚翠が聞いた。
「どうかしたんですか?」
「覚翠、何も感じぬか?」
「えっ?」
覚翠も寺のほうを見た。その瞬間、あるものがなくなっていることに気づいた。それは結界である。玄覚が張っていた結界が消えてしまっていたのである。
「覚翠、四方を調べて来い」
「はい」
覚翠は東西南北にある結界の元となる塔の確認に行った。
「結界が消えるなんてことは尋常なことではない。一体、何が起こったというのだ」
しばらくして覚翠が戻ってきた。
「師匠、結界の塔には異常がありませんでした」
「ふむ…」
「どういうことでしょうか?」
「おそらく、内部から妖気を発せられたのだろう。だから、結界が耐えきれなくなって消え去ってしまったとしか考えられん。覚翠、気を抜くなよ」
「はい」
2人は周りに気配を配りながら寺の門へ続く階段を上っていった。

 そこで2人が見たものは凄まじいものだった。本殿では僧侶が1人殺され、中庭では刀が刺さった状態で全舞が倒れていた。
「全舞!」
玄覚は近づこうとした。しかし、刺さっている刀に凝視した。それは諏訪の地に封印されているはずの妖刀『業火』だったのである。
「副住職!」
覚翠が全舞に近づこうとした。
「待て!、近づくな」
「なぜです?」
「刺さっている妖刀を見ろ。『業火』だ」
「業火?」
「そうだ、戦国の世に戦いで死んだ武士たちの血によって造られた魔性の剣だ。そいつは血を求めてどこまでも暴走する。今は朝日の力で弱まっているが直に動き出す」
「しかし、一体誰が諏訪から持ってきたんでしょうか?」
「それはこの妖刀を持ち込んだ者に聞けば分かる。即刻、封印するぞ」
玄覚は封印の儀を行うため、覚翠に浄化の滝から水を持ってこさせた。
「これをかければ少しは抑えられる」
玄覚は滝の水をかけた。すると、シュウゥゥゥゥゥゥ〜という音を立てながら妖気が消え去っていく。
「どこかに鞘があるはずだ。探せ」
「はい」
覚翠は本殿の中に入って行った。
 しばらくして、覚翠は1本の鞘を持ってきた。本尊の前にあったのを見つけてきたのである。
「よしっ、私はこのまま妖刀を滝に持っていく。お前は生き残っている者を探せ」
「御住職はどこでしょうか?」
「それなら、目の前におる」
「目の前?」
覚翠は妖刀を見た。
「その中に魂ごと吸い込まれたようだ。覚翠、心を欲で満たすなよ。吸い込まれるぞ」
「助けることは?」
「不可能だ。だが、このままにしておくつもりはない。妖刀を浄化してやれば皆の魂も昇天するだろう」
玄覚は久しぶりに精霊を呼び出した。精霊の声は毎日玄覚の心に響いていて良き友人として会話をしているのである。
「風の精霊たちよ。全てを動かす手足となりて、闇の力より我を守りたまえ。風動(ふうどう)」
精霊が玄覚の両手を操るかのように両手を空中に形成した。玄覚が動かせば精霊が造った両手も動くという仕組みである。
「覚翠、本殿以外の場所で誰かいないか見て来い」
「分かりました」
覚翠は急いで社務所のほうへ向かった。
 玄覚は風動を使って妖刀を全舞の体から切り離し、ゆっくりと鞘の中に納めた。鞘にあったと思われる破れた札の跡だけがかすかに残っていた。そして、そのままの態勢でゆっくりと浄化の滝へ持っていった。

 浄化の滝…、それは豊龍院の裏手にある滝のことで源流は地下水の洞窟から流れてくるため判断しにくいが木曾だとも言われている。木曾の地より遥か奥に入ったところに奥木曾の地こそが双魔木曾一族が住む場所なのである。
 玄覚は風動で妖刀を滝壺まで持ってくるとそのまま投げ入れるとゆっくりと沈んでいった。しばらくして濁った赤黒いものが湖底から現れた。
「すごい妖気だな。浄化の水の力が圧されている」
滝壺は瞬く間に赤黒い水の色に変わった。さらにそれは滝の流れを逆流し始めたのである。
「むっ!?、これはまさか…」
浄化の力を吸い取っているのだ。
「この妖刀…、血を求めるだけじゃないのか!?。浄化されないとなると封印しか手はない」
かつて、諏訪で聖が封印したように玄覚も封印だけしか方法はないと判断した。
「風の精霊たちよ、闇の力を封印せよ!。風覇封滅陣(ふうはふうめつじん)!」
風の精霊は濁った浄化の水を巻き込んで竜巻となり、妖刀は竜巻に吸い込まれるように近くにあった結界(北部分)の塔の中に封じ込められた。玄覚は塔に「破魔」の札を何枚も貼り付け、寺の者には、
「滝壺近くにある塔はこの寺を守る結界であり、闇を封じ込めた大事な塔である。誰であっても触れてはならぬ。良いな」
と、一切触れることのないように伝えたのである。
 この一夜で『業火』に殺されたのは住職の全影、副住職の全舞、全舞の弟子で僧侶の舞祐(ぶゆう)の3人だけで残りの7人は何が起こったのかも分からなかったらしい。全舞と舞祐は丁重に豊龍院一門の墓に葬られ、魂ごと吸い取られた全影は名前だけが歴代門主に連ねられることになった。この事件は表沙汰にはならなかった。それは有力退魔師の1人であり、『業火』を何者かにまんまと盗まれてしまった大諏訪神社の諏訪頼直が処理したからと言われている。
 その後、主を失った豊龍院は頼直の計らいで廃寺になることなく、玄覚を住職とする旨を豊龍院が属する宗派の総本山に伝えられ、これを了承された。玄覚は再三の拒否したものの、修行僧や檀家、頼直からの強い意向を受けてこれを承諾したのである。
 今ある豊龍院は門主(住職)に玄覚が就き、弟子の覚翠は副住職ではなく社務所の長となった。これは寺内における争いを避けるための処置であった。

 聖は玄覚と2人で会合が開かれた三条邸の中庭を歩いていた。先祖が上級公家(くげ)らしく屋敷は数々の戦火から逃れ、今なお現存していた。広さは京都御所の半分近くの広さと思われるがどこまで広いのかは誰も分からなかった。
「何年ぶりでしょうか、前に会ったのは諏訪でしたよね?」
聖が前を向きながら口を開いた。
「そうじゃ、皆が妖刀に手こずっていたのにお主はあっという間に封印してしまったんだから。あのときだけじゃ、武者震いしたのは」
「武者震いですか?」
「うむ、双魔の力というものを見せつけられた思いだったわ」
「玄覚殿もあれを封印したというではありませんか?」
「ああ、今も豊龍院で眠っているわい。あれを見たときは生きた心地がしなかったがな」
「しかし…、どうやって諏訪から盗まれたのだろうかぁ…。あそこの封印の間は厳重なことで有名なんだが…」
「そこなんじゃ、お主に聞きたいと思っていたのは…」
玄覚は近くにあった池の前で立ち止まり、優雅に泳ぐ鯉の姿を見ていた。
「何者であろうか?」
「そうですねぇ…。まずは闇に属する妖魔、鬼の類が近づくのはほとんど不可能に近い。なぜなら、神社自体が強力な結界で守られているからです。次に欲望に満たされた人間が入るのも不可能です。神社には入れますが封印の間の結界に弾かれるでしょう。ささいな欲でもです。最近は退魔師の中からもそういった者たちが多く出ていますが誰であってもあの結界は破れないと思います」
「すると…」
玄覚は聖の顔を見た。
「七魔に属する退魔師の仕業ということになりますね」
「やはり…」
「それでも、大半の退魔師は不可能に近いでしょう。それだけに諏訪の結界は強いんです。ただ、結界を破らずに侵入できるとすればただ1つだけしかありません」
「どこです?」
「神魔です。東北の神山神社にしている七魔の筆頭格の一門です」
「神魔…」
「彼らにはありとあらゆる結界は通用しません。木曾の結界も以前破られたことがありますから。ただ、そうなってくると彼らが『業火』を手に入れて何をしたかったのかというのが疑問なのです」
「疑問とは?」
「彼らはその名の通り、神聖さを重視した術の持ち主たちばかりです。少しでも邪な心を持った者がいれば自らの術によって飲み込まれてしまうのです。まあ、言うなれば『業火』と『神聖』を入れ替えたようなものです」
「なるほど…」
「あの結界を入るとなれば、何の事柄に対しても欲しいと思わず、何の感情も持たない者であれば入ることができましょう」
「そんな人間がいるのですか?」
「無いとは言い切れないでしょうがほとんどこの世には存在しないでしょう」
「この世には…ということは…」
「死魂であれば何とも言い切れませんが…」
「死魂…」
死魂とはその名のとおり、死んだ人の魂のことである。
「思い当たることがあるので?」
「いや…」
あるようだ。聖の直感はそのように見えた。

 玄覚は豊龍院に戻ると封印した『業火』がある浄化の滝などを見回りした後、歴代門主が眠る墓のところに行った。墓は100を越えており、その中でも一番大きいのが門主の墓だった。歴代門主の墓は無数の墓に囲まれるようにして真ん中の広場にあり、まるで門主を守っている雰囲気を見せていた。 玄覚はゆっくりと門主の墓へと進む。墓の前で一礼した後、
「全玄門主、子弟・玄覚にございます。なぜ、『業火』が我が寺にもたらされ、そして、全影門主及び門弟・全舞、子弟・舞祐が殺されたのか分かりました。今まで疑問に思っていたのです。前門主たちが殺されたにも関わらず、他の7人はなぜ『業火』に殺されなかったのかという疑問です。普通なら、『業火』は血を求めるためには容赦ない攻撃を加えるのです。それなのに3人だけを殺したのに留まった。これはなぜか?」
玄覚は真っ直ぐ門主たちが眠る墓を見上げた。
「死魂によって操られていたからです。全玄門主の死魂によって…。理由は言わなくても分かります。が、私には門主という重い地位に就く力量がなかった。私は豊龍院一門の者ではない。これを迎えてくれた全玄門主には感謝せねばならないでしょうが何も殺すことはなかった。殺すことは…」
玄覚の両眼から涙がこぼれたように見えた。
「けれども、『業火』がこの地に封印された以上、死魂によって操られないようしっかりと見守る役目が私にはあります。完全に浄化できたときこそ、我が役目は終わることと思います」
玄覚はゆっくりと手を合わせて、般若心経を唱え始めたのである。

 空からはポツポツと小雨が降り注ぎ、霧が小雨を誘うように覆い続けるのであった…。

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