二、黒角鬼

 向川沿いの旅館で向川屋は古参の旅館だが周りは商店街、それもかなり古い建物が並ぶ観光街(街道筋ではない)としても町の観光資源の一つとなっている。その観光街の旅館の一つ、緑屋に妙な客が泊まっているという。夜な夜な、お経のような声が響いて他のお客を困らし、何度女将が注意をしても出て行くにしてもやめようともせず、一体、何のためにこんな行為をしているのか、まったく分からなかった。
「木曾さん、どう思います?」
朝の食事のときである。聖はすでに家族の一員となっていた。
「うーん、どんなことをしているんです?」
「さあ、夜になるとブツブツと声が聞こえてくるというんです。昼間はそんなことはないらしいんですが」
「こわ〜い」
知香が口を挟む。知香は学校を辞めて以来、旅館で事務関係の手伝いをしている。
「うーむ、無理に追い出すわけにも行かないですからねぇ。ただ、みんなが怖がってしまって緑屋さんは商売上がったりですよ。どうしようかと頭を抱えている次第でしてね」
「もう、一週間でしたっけ?。いるの?」
「ええ、もう、そのぐらい経ちますか」
「その間、周りで何か問題でもありましたか?」
「問題?」
「ええ、噂と緑屋さんの営業以外で」
「さあ、あんまり聞きませんなぁ…」
「そういえば、最近、野良犬とか、野良猫とか少なくなったって聞いているよ」
知香が口を挟む。
「おいおい、黒ミサとかやってんじゃないだろうな」
吉郎は驚いている。
「一度、会ってみますよ」
「そうですかお願いします」
吉郎の依頼を受けた聖は昼間ではなく夜に伺うと緑屋に伝えた。

 夜、聖は向川屋から30メートル程離れた緑屋に行った。緑屋は女将の昌子が仕切っている。若主人の母親に当たる人だが若妻の舞子とは仲が良いらしく、家族関係は豊かということである。
「ごめんよぉ〜」
聖は中に入った。
「は〜い、あっ、これはこれは向川屋さんの」
「話を聞いて駆けつけてしまいました。すみませんね、こんな夜分に」
「いいえ、そんなことはありません」
舞子はまだ20代前半という話だ。昌子にしてみれば娘に等しい。
「で、またやっているんですか?」
「ええ、他のお客さんが怖がってしまって近寄ろうとしないんですよ」
「一つ、聞きたいんですが泊まっている客は昼間は何をしているんですか?」
「昼間ですか?。えーとぉ、部屋にいるときもありますが外に出かけるときもあります」
「その時に白い包みとか大きめの鞄とか持って出ていますか?」
「さあ、そこまでは」
「女将さんはおられます?。話を聞きたいんでそれに奥さんも疲労が溜まっている様子ですよ」
「あっ、分かります?。そうなんですよ」
奥から女将の昌子が出てきた。
「あら、居候さん。来て下さったんですか。わざわざすみません」
「いえいえ、今、若奥さんに話を聞いていたところですが彼らは何人です?」
「三人ですね」
「外に出るときは何か持って外に出て行きますか?」
「う〜ん、さあねぇ。手ぶらじゃなかったかしら」
「そうですか、ならば話は簡単ですよ」
聖は昌子の案内で三人の部屋に向かった。確かに中からブツブツと声が聞こえてくる。一人は老婆のようだ。昌子が障子の外から声をかける。
「ごめん下さいまし、お客様をお連れ致しました」
「客?、我らに客などない。そうそうに帰せ」
「そいつはできないんでね」
聖は障子を開いた。そこにあったものは水晶らしいものが老婆の前にあり、男二人が鐘らしいものを持って振りかざしていた。
「何だ!、貴様!、勝手に入ってくるとは何事か!」
「何をしているんです?」
「我らの儀式に邪魔立てするような真似は許さぬぞ!」
「そのような儀式などこのような場所でなくてもよろしいでしょう。大勢の人々が迷惑しているのが分からないのか?」
「お前等みたいな人間に分かってもらおうとは思わぬわ!」
一人の男が赤い顔をして聖を睨み付けている。
「戯れ言を言う暇があったら早々に退去を願いたいものだな」
「貴様らは善良な市民を追い出すというのか!」
「あんたらが善良であるという証拠はないだろう?。お前みたいな欲望の塊のような人間に宗教などを語る資格はない」
「言わせておけばー!!!」
男は近くに置いていた錫杖を取り聖に向けた。聖は怯まない。昌子の方を向き、
「警察を呼んで」
「は、はいはい」
昌子が駆けていく。
「さあ、出て行くか?。さもなくは警察に連れて行かれるかどちらが良い?」
その瞬間、
「きえええぇぇぇぇぇぇぇー!!!」
老婆が奇声をあげた。そして、ぐったりと倒れた。
「見ろ!、神託が下るぞ!」
もう一人の男が言う。聖は呆れている。
「神が舞い降りる。神が舞い降りるぞぉ!!!」
老婆は奇声をあげながら言い放った。そして、聖は対峙している男に言った。
「無理に神を召せば、妖(あや)しい者が来ることを知っているか?」
「まだ言うか!」
「信じる信じないはおたくら次第だがこっちに迷惑をかけてもらっては困るな。万が一、こちらに被害を及ぼすならば容赦はしないからな」
そう言い捨てて聖は緑屋を後にした。
 三人は警察に連行されたのは言うまでもなかった。

 聖は昨日のことが頭から離れなかった。中庭を眺めながらそのことを考えていた。
「何を考えているの?」
知香がやって来た。
「ん?、昨日の婆さんのことでね」
「ああ、あのお婆さんね」
「うん、二人の男はただの欲を持った連中だったがあの婆さんは違うような気がするんだよ」
「どういうふうに?」
「彼らは神託と言ったがあの婆さん、元は神主か、巫女ではないかと思うんだよ」
「それで神を召す神託を受けたっていうの?」
「いや、それだけじゃ何もできないけれどあの水晶は霊水晶(れいすいしょう)ではないかと思うんだよ」
「何なの、霊水晶って?」
「霊気を持つ術師の魂を封じ込めた水晶のことだ。滅多に見ることのない代物だろうね。まあ、古代より続く神社か、未開の場所なんかで見られた代物だがあれを悪用すればとんでもないことになることは確かだ。例えば霊獣とか、聖獣とかね」
「聖なる獣なら良いんじゃない?」
「普通はそう思うけれど、聖獣は完成体と分裂体に分かれるんだよ。完成体はまさしく聖なる獣なんだけど、分裂体は闇の力を持った未完成の獣ってとこかな。今は見ることはないけれど分裂体が降ってきたときは町は一瞬にして消し飛ぶからね」
「でも、そんなことあったけ?」
「ないよ。実際には創造上の獣だからね。来るとしたら霊獣かなぁ」
「ふーん、で、強いの?」
「うん、並の退魔師だと歯が立たないかもしれない」
聖は中庭の鯉を見つめていた。

 その日の夜、警察から釈放された例の三人が向川沿いの河原にいた。聖は旅館の窓から眺めていた。また何かを唱えている。もはや、放っておくしかできない。無理に止めようとすればまた暴れる可能性があるからである。
 一番、得したのは緑屋であった。一番、損をしたのは聖、もしくは向川町かもしれない。緑屋にはあの奇怪な3人を見ようと多くの客が来たのだから。
 聖は早朝、万が一に備え、町全域に結界を敷いた。被害を最小限に食い止めるためである。
 三人は訳の分からない詠唱の後、後ろの二人が錫杖を二、三回地面に叩くと老婆は、
「観自在菩薩、行深般若波羅密多時(かんじざいぼさ ぎょうじんはんにゃはらみた)…」
般若心経を唱え始めた。聖には何をしようとしているのがまったく分からなかった。
「色不異空、空不異色、色即是空、空想是色(しきくいくう くういしき しきそくぜくう くうそうぜしき)…」
詠唱は続く。窓を眺めている聖を見つけた知香が中に入ってきた。
「何、見てるの?」
「ん、あれ」
知香が聖の隣に来て窓の外を眺めた。外では相変わらず、老婆が般若心経を唱えている。
「是故空中無色無受想行識、無眼耳鼻舌身意(ぜこくうちゅうむしきむじゅそうぎょうしき むげんかいびぜっしんに)…」
「何なの、あれ?」
「般若心経」
「ふ〜ん」
二人して眺めている。そこに聖の心の中に呼びかける声が聞こえた。聖は心の中で声を発した。
「誰だい?」
「私です」
それは聖に集う、水の精霊であった。
「何やら嫌な予感がします」
「うん、結界を敷いておいたが破られる可能性はないこともない」
「胸騒ぎがするのです」
「止めた方が良いかもしれん」
「私もそう思います」
聖は視界を三人に移した。
「知香、行くぞ」
「えっ?」
聖は知香を連れて向川大橋に向かった。三人がいる場所は向川大橋の近くなのである。
 老婆は般若心経を終えようとしていた。
「即説呪日、掲締掲締波羅掲締波羅僧掲締菩提娑婆袈(そくせつじゅうじつ ぎゃていぎゃていはらぎゃてはらそうぎゃていぼじそわか)」
錫杖がまた二、三回、地面に叩きつけられる。鐘がチリンチリンと鳴らされ、老婆が呪文を唱えている。聖は大声で制した。
「そこまでにしておけ!」
しかし、止めようとしない。聖は川の深奥から何かが来るのを感じていた。知香が不安な声をあげる。何かを感じたらしい。
「ね、ねぇ…。様子が変だよ」
川の水面に時空の変化ができている。
「いかん!、詠唱を止めるんだ!」
老婆は胸の前に印を結んだ。
「いでよ、我を守る神々よ!」
その瞬間、雷雲が立ちこめ、川の水面が波立ち、周りの空間が歪み始めた。
「ひ、聖、これ、何なの?」
「知香!、心を集中して私から離れるな!」
そう叫びながら自らも周りに結界を敷いた。彼らは古代の妖魔を呼び出したらしい。その姿がここに現れる。暗闇と化した時空の歪みから黒い影が両眼を赤く輝かせながら、ぬぅっと姿を現した。
「グオオオオオォォォォォォォォー!!!!!」
大きなわめき声が響いた。聖は呼び出した元凶たちにも結界を敷いた。
「知香、大丈夫か?」
「え、ええ。何か周りが歪んでみえるんだけど」
「歪んでいるんだよ。連中、とんでもないものを呼び出しやがった。平安の末、魑魅魍魎が京の町を暗躍した。我が祖・木曾双発もこれの退魔に当たったという。その鬼たちの中には陰陽師たちの退魔を逃れた者を多い。特に歴史の変化が起きる頃、もしくは戦国時代など血が溢れた頃には多く現れたし、現代においてもそれは変わることはない。人の欲望を愛する鬼が一つとなって、ここに」
聖は歪んで見える川の中心を見た。
「グルルルルルルル…」
鬼というわりには獣である。黒い獣、黒い体を持ち、四本の足でそれを支え、眼は赤く、口からは牙が窺え額には角が出ている。それが黒角鬼(こくかくき)である。
「グゥオオオオオォォォォォォォー!!!!」
聖はゆっくりと氣を溜めている。知香は聖の体から白いオーラが見えているのが分かった。
 知香も精霊を呼び出して周りを固めている。
「知香、守りは心配するな。攻撃だけを重視しろ」
「う、うん」
聖は両手を前に出して上下から包み込むようにして構え、その中に氣が集まりつつあった。明らかに精霊ではない。
「双魔霊風術(そうまれいふうじゅつ)、霊風波動(れいふうはどう)!」
包みの中から氣が黒角鬼にめがけて放たれた。氣は鬼に近づくにつれて大きさは太い光線となり威力も増していく。元凶たちに向かっていく鬼の背中に直撃した。
「グオオオオオォォォォォォォォー!!!!!」
鬼は白い煙を出しながらこちらを振り返る。
「き、効いていなんじゃぁ」
知香はおどおどしているが聖は次の詠唱に入っている。
「水の精霊たちよ。神に仕える者を召喚せよ。水龍召喚!」
歪みとはいっても時空の中心は黒角鬼にあるため、召喚には問題はない。川に水龍が姿を現した。水龍は真上から霊気を含んだ冷気を鬼に放つ。鬼がそれに煽られて狂い始めている。角を振り回しながら、水龍に攻撃をかけるが、水龍の聖なる体が角を溶かす。黒角鬼の攻撃の主だし、生命線でもある角を失った鬼はこちらに顔を向けて睨んでいる。
「ガアアアアアアァァァァァァァー!!!!!」
鬼の周りに似たような黒角鬼が三体現れた。その瞬間、呼び出した鬼は消えていった。
 しかし、聖は気にしていなかった。水龍が真上から攻撃を加える一方で聖も詠唱に入っている。知香もそれに遅れじと詠唱に入った。
「最強の力を誇る天の精霊たちよ、熱き心を秘める火の精霊たちよ。今こそ、魔に自然界の力を闇の者どもに示せ!、烈火天龍鳳翼翔!」
「我に集う精霊たちよ。魔に属する者たちを封じ込めよ。火炎封包陣(かえんふうほうじん)!」
詠唱は聖の方がしか少し早かったため、黒角鬼は体を溶け始めてかなり弱ったところに火の精霊が黒角鬼を囲み、その姿は消し飛んだ。
 しかし、消しきれなかった黒角鬼がいた。自らの仲間を盾にして生き残っていたのだ。
 また、仲間を呼びだし消えていった。
「えー!、まただよぉ!」
「知香、今のは当たり前のことだ。彼らは仲間を呼べるのは三体までって分かったし、それに自分に余裕が持てなくなった時に限ってだから攻撃の方法は分かった。次は知香が遠隔で攻撃を加えてなるべく弱めてくれ」
「聖は?」
「あの腰を抜かしている三人を何とかしよう」
知香は頷き、詠唱に入る。聖は水龍を解いた。聖は時空の扉を三人の近くに開いた。
「お前ら、その中に飛び込め!」
聖の怒鳴り声に反応した三人は我に返った。男二人は扉に飛び込んだが老婆が去ろうとしない。聖は黒角鬼を威嚇しつつ、老婆の許に向かった。
「婆さん、どうした?」
「あれは何じゃろうか?」
「あれは黒角鬼といって、鬼の仲間です」
「あんたらは何者なんじゃ?」
「退魔師です」
「ほうほう。最近の若いもんにも退魔師はいるのかえ」
老婆は気にした様子もなかった。しかし、顔を覆った頭巾から光るものがあった。
 その時、一匹の黒角鬼がこちらに突進してきた。聖は氣を集中している。突進してきた鬼の角を掴み、動きを止めると、
「氣爆陣!」
叫ぶや否や、鬼は霊力に包まれ、消し飛んだのである。
「おやおや、凄いねぇ」老婆は感心はしているが尚も動かない。
「婆さん、何を呼んだんだい?」
「何だと思うかえ?」
「息子さんか?」
「おやおや、よく分かったねぇ」
「分かるよ、婆さんの気持ちは息子に傾いているから」
「なるほどなるほど」
老婆は感心している。
 知香が二、三度攻撃を仕掛け、さらに詠唱を呼んでいる。場慣れはしていないものの、戦い方は身につけつつある。
「我に集う精霊たちよ。爆発の力をもって、魔に属する者を消し去れ。烈火爆炎陣!(れっかばくえんじん)」
火の精霊たちが大爆発を起こし、黒角鬼はその炎に飲まれた。聖がすかさず、
「五法邪封陣!」
知香の術で大ダメージを受けた黒角鬼は聖の術により、完全に光に飲まれ消し去った。
 その瞬間、時空の歪みは消えて雷雲は消えていた。静かな向川町に戻っていった。橋の上にいる知香は疲れた表情を見せ、
「あ〜、終わったぁ〜、疲れたぁ!」
その場に倒れ込んだ。
「知香ぁ、後で回復してやるよ」
「はぁい」
知香の弱々しい声が聞こえている。
「さあて、婆さんの方をしなくちゃあね」
「何をだい?」
婆さんはきょとんとしている。
「息子さんを呼んであげるよ」
「息子を?」
「そう、その心の内に見えている息子さんをね」
聖は心の中で呟いた。
「光の者たちよ。我が頼みを聞き入れてくれるなら、我の願う者をここに差し向かえたまえ」
聖は天に拝むように両膝をついて頼んだ。その時、天の柱が伸びて、一つの魂が舞い降りた。その魂は老婆の前で止まる。
「母さん」
声が響く。その聞き覚えある声に老婆は頭巾の中で泣いていた。
「おおおお」
「母さん、心配しなくても良いから向こうでゆっくりと暮らしているよ。母さんも元気でね」
「おおおお」
魂は聖の前にゆらゆらと近寄り、頭を下げたように見えた。そして、天の柱から天の世界へと舞い戻った。
「婆さん、良かったなぁ」
「ええ、ええ。それにしても、あの人たちはどうなったんだろうか」
「さあね、今頃、改心していると思うよ」
聖は笑いながら、
「婆さんも二度とああいうことをしちゃダメだよ。どうしてもというなら私のところに来たら良い」
「申し訳なかったねぇ。この水晶、お前さんが預かってはくれまいか?」
老婆は申し訳なさそうに言った。
「いや、それは婆さんの大事なものでしょう。そうそう、手放すものではありませんよ」
聖は笑いながら言った。
「もう夜明けか…」
聖は空を見上げて白ばんでいるのに気づいた。もうすぐ太陽が顔を出す頃である。
「私はこの町が好きだよ」
「ここに住んでいるのかい?」
「いいや、この隣の杵島じゃ」
「なるほどねぇ。この向川はこの周りの象徴だからねぇ」
「また会えるかえ?」
「いつでも」
聖は笑顔で言った。知香は橋の上ですやすやと寝ていたのである。
 この日の聖と知香は他者にとっては珍しく感じられていた。
「聖さんと知香がまだ寝ているんですよ。もう昼ですのに」
「ほう、珍しいこともあるもんだな。まあ、知香のことは聖さんに頼んでいるから、何かしていたんじゃないかい」
吉郎と多恵は結局、気づかないままであったという。

続きを読む(第三話)

戻る



.