第二章 激震
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九、誘出
勢田伴篤が逃れた掛川城は霧雲城とも呼ばれる名城で守るのは朝比奈泰朝である。
朝比奈家は元々遠州の地頭であったがいつ頃か今川家に仕えるようになり、時の当主・朝比奈泰熙(やすてる)の代に遠江守護でもあった斯波家を牽制するため、掛川に入った。それ以後、泰能から泰朝と受け継げられ、今に至っているわけなのだが金子家との仲は悪い。照政の代より、対立は深くなり、勢田の掛川逃れにより一層悪化することになる。この年、直政は松山景成の居城となった笹掘城で過ごした。目的は北の守りと民の安堵である。前統治者の森家に対する不満が大きかったのか、景成の入城は歓迎された。政治は安定の一途を辿っており、森家の家督を継いだ長元もまた民に近い立場にあったことも功を奏している。しかし、森家の残党が鱶橋城から南に下る山に潜んでいるとの報せを受けていたため、兵たちは油断はすることなく警戒に務めている。直政は用心のために小石山の左馬介に探索を命じていた。
南の守りはというと金子城は隙無く、旗本5百を筆頭に総勢8百余人がこれを支え、家継・十左・興房などの武将も揃っていた。金子領では一番堅固な城になりつつあった。さらに、周辺に目をやると北側は堤防兼土塁を要する矢野城と忍びの城となった小石山城、東側は3千の兵を誇る朱鷺田城、南側は直政の弟・右近が治める慶照寺城があり、この城は旧吉岡城を併せた2つの城を兼ねており、城内には寺も建築されている。その上、3つの河川に囲まれる天然の要害でもあり、四方への街道を結ぶ要衝でもあった。また、海に面した灘城には吉岡水軍の拠点でもある。前衛となる肥代城とは違い、完全に海と繋がっているため、陸からは攻めにくく、守りやすい地形になっている。
また、掛川以西に目を移すと直政の譜代家臣でもある泊貴房・長居弘政が勢田・藤代の両城を治め、掛川に対してむ包囲する形を取っている。その他にも天竜川に沿って高崎城をはじめ六家衆改め外番衆(げばんしゅう)の諸城が点在しており、天竜川以東はほぼ完全に直政の手中にあると言ってよかった。しかし、逆を言えば天竜川以西はその勢力ではなく、主な城も築いていないため、三河方面より攻略されれば天竜川を挟んで対峙することになる。
直政の家臣団も大幅に増え、大きく6つの集団に分かれる。年寄衆・家老衆・目付衆・奉行衆・城主衆・外番衆である。年寄衆には筆頭格はないが家老衆は松山景成、目付衆は徳村家継、奉行衆は島田興房、城主衆は高崎定長、外番衆は寺坂美作守がその名を連ねている。全領地の石高は不明だが兵力は主家より勝り、武将の数も主家に属する者たちを越えた。直政の意図は家督を継いだときより変わっていない。それは天下に覇を唱えることであり、その一歩として今川家の領地を完全に支配化に治めることだった。この事実を知る者はほとんどいないが薄々気づいている者は数多くいる。さらに、遠州を中心として四方に勢力を広げることも直政の頭に入っていたのである。
勢田伴篤が逃亡して以来、朝比奈家に対して再三の引渡し要求をしてきたが全て断られていた。そのため、直政は自ら掛川城に向かうことにした。城主朝比奈泰朝に会うためだ。敵兵の殺気が渦巻く中、直政は堂々と乗り込むつもりだった。しかし、それはかなわず、城門は閉じられたまま、応答にもまったく応じようとしなかった。そこで大声で叫ぶ。
「泰朝よ!、我が怖くなったか!!。我らはたったの3騎しかおらん!。腰抜けでなくば、矢を放ってみよ!!、刀を抜いてみよ!!。どうした!?、臆したか!!!」
静けさだけが漂う。
「ふっ…、所詮はこの程度の武将にこの城はもったいないわ」
宣戦布告とも取れる言葉に緊張感は一気に高まる。それでも、城からは誰も言葉を発しない。ただ、殺気だけが包み込むのみ。直政は仕方なく居城である金子城に戻るとすぐに年寄衆を呼んだ。朱鷺田忠政、松山元景、金子宗政の3人である。宗政以外の2人とはこういう時でない限り、あまり会うことはない。
「朝比奈泰朝のやり方はよくわかったが掛川を攻めるべきかどうか…、皆の意見を聞きたい」
直政が言うとまず先に口を開いたのは忠政だった。
「朝比奈を攻めるのは一向に構わぬが主家への対応にしくじると後々国は2つに割れかねない」
それを聞いて元景が言う。
「わしの考えは忠政殿と対となるが、掛川を攻めるのなら高天神の要塞を落としておいたほうがよろしかろう」
「ふむ…、2つの意見が出てきたか…。宗政、お主はどう考える?」
直政が弟に話しを振る。
「城から誘い出しては如何と存ずる。城を攻めたとしてもあの堅固な掛川を落とすのは時間がかかるかと…」
誘い出しの言葉に忠政が頷く。
「なるほど…、誘い出してわざと攻めさせれば攻める名目ができる。そうすれば、金子の主家に対する裏切りにはなることはなく、非は全て朝比奈にあるということになる」
元景も応じながら、
「ならば、どうやって城からおびき出す?。城門の外で挑発しても出てこなかった輩に」
こう聞いてきたが直政は微笑しながら答えた。
「別に朝比奈自身でなくても良いのだ。朝比奈に属する兵で事足りる。とすれば、奴が頭に血が昇るような挑発をしてみようか」
直政は早速、年寄衆と共に挑発策を含めた名案を考えた。
翌朝、金子城二の丸屋敷に身近な者たちだけを集めた。直政の後ろには左馬介が控えている。
「朝比奈が殿を門前払いするとは何たることか!?。同じ今川の家臣として許せぬ行為ですぞ!」
家継が侮辱されたと言わんばかりに言い放つ。
「殿!、朝比奈と一戦交えましょう。このままにしておくことは恥となりましょう」
忠勝も憤怒している。景成は真剣に策を案じている様子であった。
「まあ、2人とも落ちつけ。朝比奈と交えるのは構わないがこちらから動く訳にはいかぬ。名目がない以上、謀反人の汚名を被ってしまうのでな。私としては朝比奈を誘い出そうと思っているのだが皆はどう考える?」
左右にいる諸将を見まわした。口を開いたのは柴浦城主の松平清之である。
「殿の策は一番有効だと思いますが朝比奈が自ら出てくるとは思いませぬ。例え、出てきたとしても我が領内に入ってくるとは言い難い」
と、慎重論を述べる。続いて藤代の旧領を任された長居弘政が、
「清之殿、朝比奈が出てくることは無理と判断せざる得ないが朝比奈の者であれば殿の策も通用しよう。掛川は我らの領地の南東に位置し、境は掛川近くまで伸びている。さすれば、境に堅固な砦を築いてみてはどうでしょうか?。万が一、攻められたとしても防ぐ役割も大きい」
と言うと貴房が苦言を呈した。
「しかし、それは危険な普請になるぞ。誰がやる?」
諸将を見渡す。一時の沈黙が訪れた。朝比奈攻略には持久戦なども考えると近場に城を構えるのが一番なのだが、危険とわかっていて無駄に兵を犠牲にはできない。
「その役目、某が致しましょう」
沈黙を破ったのは景成の家老を務めている外番衆の寺坂美作守だった。全員が寺坂を見る。
「危険な普請になるぞ。妨害もあるやもしれぬ」
直政が真剣な眼差しで言うが寺坂は待ってましたと言わんばかりに答えを出す。
「それならば一夜城を築きましょう。策は私に任せて頂ければ…」
かつて織田信長の家臣である木下藤吉郎が美濃墨俣に一夜城を築いて美濃攻めの足がかりにしたことはあまりにも有名な話しだ。
「そこまで言うのであればやってみるがいい。金・兵糧の手配はこちらでしよう」
「ははっ、では、早速、策を練りますのでこれにて御免」
寺坂は立ちあがるとその場を辞した。諸将はざわついている。直政は寺坂の自信に賭けてみることにしたのだ。
「殿、寺坂は良き武将です。死地とわかっていながら行かせるのは賛成できませぬ」
家継が苦言を呈したが直政は家継の目を見ながら言う。
「家継、寺坂のあの自信を見たか?。ただ軍略に長けているだけでは発せない言葉だ。信じてみようではないか」
「殿がそういうのであれば…」
直政は家継を説き伏せて諸将も納得させたのである…。
それから数日が過ぎた。冬から春にかけての時期には珍しく大雨が続いた。連日降り注ぐ大雨で農地は湖のようになり、川は濁流に化け、築いた堤防を惜しげもなく削り去っていく。直政は興房と十左に命じて領民を高台や城に避難させるよう命じた。大雨の被害は遠州南部に広がり、大規模な治水工事を行っていない勢田・藤代の領地では洪水が起こり、掛川方面にまで広がった。北部では大雪に見舞われた。笹掘・鱶橋地方では深い雪に埋もれる村々が数多く、被害も大きかったが直政の指示を受けた景成の早めの対処が功を奏して死者は最小限に食い止められた。直政は貴房・弘政の両名に救済の手を差し伸べるよう指示を送ると同時に今川家に属している犬居・只来・二俣領にも援助を行った。これにより、直政の知名度はますます上がり、主家の今川氏真も高く評価したという。そして、氏真より遠江守護代の重職を得たのである。これは朝比奈を差し置いてのことだけに大きな波紋を呼んだ。しかし、氏真の命は絶対であり、逆らうことは許されないため、朝比奈家はおろか譜代家臣ですら讒言できる余地はなかったという。直政は快くこれを受け入れ、駿河に御礼の品々を送ったのである。
遠州一円に広がりを見せた大雨の中、奮闘していた男たちがいた。寺坂美作守である。彼は城普請のため、人材を集めて必死に大雨の最中、一夜城を築こうとしていたのだ。寺坂は人夫を統括する家臣・小倉長三郎正綱、寺坂家に代々仕えている野武士の棟梁・広川盛左衛門義勝、領民からの信頼が厚い豪族・木津又八郎範政の協力を得て一夜城築城を試みた。まず、範政に命じて領内の森林を伐採し、その伐採した大量の木を義勝率いる50余人の野武士たちが分散させながら街道は通らずに間道や裏道を選んで目的地まで易々と運び込んだ。そして、寺坂は木々の数を確認すると泥で汚した布を被せて岩山と思われる台地の麓に岩と紛れるようにして隠した。あとは城を築く場所さえ定まれば勝ったも当然である。この役目を担ったのが強靭な体を持つ人夫たちを率いる正綱だった。正綱は人の行き来が少ない夜半に行動を起こして城の場所を定めると同時に城普請を開始した。始める頃には豪雨となっており、視界はまったくと言っていいほど見えなかった。岩場に隠していた木々を組立て、柵を築き、正面に二箇所の物見櫓を建て、柵の内側には浅い堀を掘った。浅い堀を掘ったのは豪雨で人夫たちが溺死させないがための工夫である。そして、その内側に敵の間者を惑わすために薄い板を使って壁とし、崩れないように後ろで棒を使って板を支えた。中心となる場所には陣屋を設けてその周辺に土塁を築いた。見た目には小さいながらも完全な城である。数日の雨が洪水を引き起こしたおかげもあるが寺坂の決死の行動は朝比奈家に対して脅威を与えた。翌朝、朝比奈の間者が城を見つけたときの驚きは大変なものだったという。街道からは外れているが掛川に近い場所に築かれた城の存在に報せを受けた朝比奈泰朝は怒りのあまり、家臣に怒声をあげた。そして、一夜城を潰すために間者を送り込んだ。しかし、事前に察知していた左馬介の手によって闇に葬られた。その後も幾度か朝比奈の間者が侵入して来るが一夜城まで到達できた者は誰一人いなかったのである。
度重なる失敗に朝比奈は掛川に総勢5千の兵を集めた。高天神を守らせていた兵までも集めたのだ。この5千をもって一夜城と金子城を落とそうと言うのである。しかし、朝比奈自身が出陣することはなく、代わって総大将となったのが勢田伴篤だった。伴篤はこの5千の兵を預かることを再三拒んでいたが泰朝の強い希望により行かざる得なくなってしまった。伴篤の子・伴定と伴信もこれに加わった。伴篤は直政に敗れたものの、朝比奈では直政に勝てないと踏んでいた。そこで再び金子に降ることで家を保つ道を選んだ。伴定と伴信にそれぞれ1千の兵を一夜城と金子城を同時に攻めさせたのである。そして、自身は直政に書状を送っている。使者に立ったのは腹心の古木政國だった。古木は以前の戦いには加わらなかったものの、主君の最後を見届けるため、伴篤に従っていた。最後とは生涯仕えることにある。金子城に入った古木は急ぎ直政に謁見を求める。直政は勢田の意外な行動に驚いたが火急とあっては会わないわけにはいかない。
「ほう、勢田がな…」
猛将と呼ばれた朝比奈泰朝の消極的な行動には驚かされたが伴篤が総大将に選ばれたことにはもっと驚いた。
「死ぬ気だな」
「はっ…」
古木もその予感はしていた。
「なれど、その意は組んでやらないとな。家継、異論はあるか?」
「勢田の策は我らに有利を働く機会になります。殿の一存に任せます」
「わかった。勢田には過去の遺恨は忘れ、伴篤の意、全て受け入れようと伝えてくれ」
「承知」
「ただし、条件がある」
「条件とは?」
「朝比奈に不利となるような噂を流してもらいたい」
「流言ですか?」
「そうだ、頼めるか?」
「試みてみましょう。では、御免」
古木が去ると家継が口を開く。
「願ってもない動きでしたな」
「うむ、一夜城を築いたのはいいがどのように攻めるか考えていたところだ。内応があれば尚更こちらにとっては好都合だ」
「流言が失敗したとしても混乱させることはできましょう」
「ああ、すぐに皆を集めてくれ」
「ははっ」
直政の言葉に家継は平伏して広間から去った。
流言は成功したとは言い難かった。朝比奈陣営の泰朝に対する忠誠心があまりにも高かったためだ。それでも、一部の兵には動揺が広がった。城外では左馬介の働きにより、噂はたちまち広がり、朝比奈勢の忠義を足元から揺るすには十分過ぎたのである。また、勢田伴信の降伏に対しては貴房に命じて受け入れるよう伝え、伴信を失った烏合の衆は貴房・弘政と援軍に来た清之の軍勢によって蹴散らされた。一夜城を守っていた寺坂も勢田伴定の降伏を受け入れ、援軍として参戦した十左率いる旗本衆と共に敵陣に攻め込んで敗走させた。この時、古木も手勢を率いて降伏している。さらに、金子家に属していた吉岡水軍棟梁・吉岡通長もまた全軍に下知して遠州灘を西に進んで掛川領南側にある漁村を支配下に置いた。皆の働きに直政は大きく頷きながら、
「もはや、朝比奈に生きる術はない」
と言い放ち、諸将に指示を命じる。
金子右近・朱鷺田忠勝は東より掛川に向かい、吉岡直忠は空城に近い高天神を、掛川の北側を先崎十左衛門・寺坂美作守・肥嶋種盛ら先発隊が攻めると同時に一夜城には本陣が置かれた。亀井左馬介率いる忍者集団が待機している。その後ろには金子城を守る徳村家継・矢野義綱が控え、掛川の西側には泊貴房・長居弘政・松平清之らが進軍していた。これで掛川城は四方を囲まれる状態となり、朝比奈泰朝に残された選択は2つしか残っていない。降伏か死のみだった。
掛川包囲が完了する頃、遠州北部の守りも完了しつつあった。各軍待機のまま、森長元・松山景成は各々の居城で守りを固めると同時に大雪に対する対策を講じている最中でもあった。高崎城を守る高崎定長は要衝を抑えるために高崎の東に領地を持つ大絹内信貞・永山政綱らと共に犬居城に入り、高崎の留守は復帰した望月信武と甥の葉祇宗通が守った。
さて、朝比奈泰朝はというと勢田伴篤の内応策には手早い反応を示して、伴信・伴定兄弟は取り逃がすも伴篤は捕らえて斬首に処した。けれども、直政の早い動きに遅れを取った。泰朝が手に入れるべき情報は全て左馬介の猫の子一匹逃さぬ包囲網によって塞がれてしまっていた。こんな状態の泰朝とは裏腹に直政は手薄な場所に兵を集め、掛川が窺える海上に陣を敷いた吉岡通長には金子宗政と葛良忠平が援軍として駆けつけている。掛川包囲網は泰朝以下朝比奈勢を孤立させるには十分過ぎた。ここから先は早期決戦か持久戦になるかは直政の采配にかかっている。本陣に入った直政は掛川城を見つめながら父から聞いた話を思い出していた。
金子と朝比奈の騒乱は父・照政が今川義元に武勇を認められて城を構えた頃より始まる。金子城の南に領地を持つ朝比奈一族の総領・泰能が照政の武名を嫌い、治世の妨害や言いがかりは日常茶飯事で兵を繰り出しては国境近くを荒らすこともあった。また、照政が朱鷺田家を臣下にしたと聞かされるや、泰能も東は高天神近く、西は天竜川まで勢力を広げた。しかし、それが逆に朝比奈にとって重荷になる。度重なる洪水が幾多の集落を襲い、水没した村もあった。そのため、撤退を余儀なくされたという。一方の照政は外交戦略を巧みに操り、金子城の北に城を構えていた福田家の娘を娶り、姻戚関係を結ぶことで自然に勢力が広がり、もはや、朝比奈だけでは止めることは不可能に近く、今川宗家も静観している状況だ。そのため、泰能は遠州北部に勢力を持つ森長政と同盟を結んだのである。当時、森家の勢力は犬居周辺から始まって金子領北側、さらに勢田・藤代両家も傘下に入れて大勢力を誇っていた。長政が泰能と同盟を結んだのは主家である今川家に敵視されないための策であり、いざという時のために朝比奈家を盾にして逃れる術も模索していた。また、長政は朝比奈同様、金子一族を嫌っていた。原因は豊富な領地を奪われてしまったという切ない理由だった。けれども、それは主家の命であり、照政の独断ではない。照政から見ればただの言いがかりに過ぎなかったが人には名目があれば何でもできてしまうのが戦国の世であった。長政は少しばかりの策では効果がないと感じ、照政の義父・福田元信を暗殺に成功、すでに照政と元信の娘との間には露丸が誕生していたが長政からの刺客から守るために厳重な警備を敷いていたという。また、子がいなかった元信の嫡流を絶えさせないために元信の娘に従っていた依田三郎太の子・新十郎に家督を継がせることで福田家を保たせた。本来なら、詰問してもいいところだが証拠がつかめなかった。心の中は煮えくり返っていたに違いないが照政の側近として仕えていた亀井左馬介が野に下っていたこともあり、詰問は不問としていた。左馬介を去らせたことは照政の失策に違いないが決して彼を恨むようなことはなかった。なれど、悪いことは続くもので妻が病死してしまったのである。露丸を難産で産んだためである。体調を崩していたところへ実父の死はあまりにも衝撃な事実であり、元信の死後、後を追うようにしてこの世を去った。照政は愛すべき父子を失ったが忘れ形見の露丸を抱き、恨みを森・朝比奈両家に向けることで強い遺志を生んだ。そして、その意志は直政に受け継げられていく。
直政は朝比奈家に対して最後の勧告を行うも、城に出向いた使者が斬られてしまった。そのため、直政は諸将に布陣を命じる。金子勢1万余に対して朝比奈勢は3千人余と数では圧倒的に金子勢が優勢であったが朝比奈家には掛川城という要塞があった。ここは難攻不落の城であり、誘出の策が用いられた…。
掛川城本丸から敵陣を眺めた朝比奈泰朝は手薄な陣から攻撃を仕掛けることに決め、城の西側に布陣していた泊・長居勢に攻撃を仕掛ける。しかし、奇襲を予期していた松平勢が伏兵の策で退路を塞ぐと攻撃を仕掛けた6百余のうち、城に戻れたのは2百余人となっていた。この戦いで長居弘政が敵の最初の勢いを防ぎきれずに負傷している。直政は弘政の負傷が重いと判断し、急遽、降伏した勢田勢の一部を長居勢の援軍に回した。総大将は勢田伴篤の側近をしていた坂本永信(えいしん)である。けれども、永信は朝比奈寄りの人物であったため、援軍と見せかけて松平勢に攻撃を加えた。突然の攻撃に松平勢は総崩れとなり、泊・長居勢も混乱した。報せを受けた直政はすぐに一夜城にいた寺坂美作守を援軍に差し向け、三軍を脱出させることに成功するが永信は掛川に逃してしまう。
その日の夜、掛川城内部から火の手があがった。無風であったにも関わらず、武器庫や足軽小屋などを焼き、一部の城門を火薬で吹き飛ばされる事態となった。これは左馬介の仕業であるが忍びを本業とする者はおらず、手の打ち様がなかったように思われた。直政は好機と判断し、全軍に総攻撃の下知をかけた。四方より一斉に兵を押し寄せるが名城はなかなか落とすことができなかった。伝令が本陣に入ってくる。
「申し上げます!、先崎十左衛門様が火縄により負傷!」
続いて、
「申し上げます!、吉岡水軍が撤退!」
この言葉に本陣を守る徳村家継が絶句する。金子勢の士気低下を意味するからだ。豪将・先崎十左衛門勝理は当時伝来されて研究が各大名によって進められたばかりの火縄により、深手を負い、戦線の離脱を余儀なくされた。それを後押しするかのように吉岡通長が水軍の全滅を予感したため、独断で灘城に撤退してしまったのである。しかし、東側から攻める金子右近・朱鷺田忠勝の主力に高天神城を落とした吉岡直忠が合流し、本丸に迫る勢いを見せる。北側は勢田伴信・伴定兄弟率いる旧朝比奈勢に加え、旗本副頭を務める十左の弟・先崎勝正が火縄相手に善戦し、西側は遠巻きであったが一度は敗走した長居弘政・泊貴房・松平清之が退路を封じ、南側は吉岡水軍の撤退で孤軍奮闘していた金子宗政は寺坂美作守・永山政綱の援軍を得て勢いを盛り返していた。
掛川城天守にいる朝比奈泰朝以下諸将は金子勢の攻勢に奮戦していたものの、陥落は必死と判断した。
「火縄が今より数が多く生産されていれば我らの勝利は間違いないものであっただろう。しかし、見よ、敵陣の動きを。北側の兵の動きが鈍くなってきておるわ。皆の者、最後になるかも知れぬが金子に一泡吹かせてやろうではないか」
泰朝は天守を出ると諸将に下知し、北門に集結する。そして、城門を開くと死兵と化した者たちが駆け出した。死を覚悟した者の恐ろしさを知る由もない勢田勢は幾多の犠牲を出して真っ二つにされてしまった。突撃のみしか策を用いていない朝比奈勢の武勇は代々受け継げられてきたものだ。泰朝もまたその血をもって憎き相手に向かって攻め寄せるが目の前には金子家でも最強を誇る旗本衆が立ちふさがった。旗本5百人のうち、すでに半数を失っていたが先崎勝正率いる旗本衆は家継の援軍が来るまでに朝比奈勢を食いとめ、逆に援軍を得た途端、一気に勢いを盛り返し、怒涛の如く攻勢を強める。その隙に東側から攻めていた主力が掛川城を落としたのである。退路を完全に失った朝比奈勢は士気が激減し、泰朝は血路を開いて囲みを突破した。金子勢は多くの死傷者を出したものの、金子・朝比奈の戦いは一応の決着を見せた。
翌朝、直政は掛川城に入った。城の各所で戦の爪あとが残されていた。双方で出した死者は数千にのぼる。直政は供養塔を建てて金子家の菩提寺の住職を務めている慧恩和尚に読経させた。戦いで一番被害が大きかったのは前線で奮戦した旗本衆、そして、西側に陣を構えていた長居・泊・松平の三軍だけだった。一方の朝比奈泰朝は追撃を受けたにも関わらず、天竜川を強行に渡って三河に逃れてしまった。遠くに去ってしまった者を追うことは敵わず、直政は独断で離脱した吉岡通長に詰問の使者を送った。使者は岡部元信の臣・篠田信十郎である。信十郎は小山城の兵を率いて灘城に迫った。戦えば、おそらく通長は海上に逃れるだろうと踏んでいたが時すでに遅く、城を空になった後で行方はわからず仕舞いだった。灘城は今川譜代家臣の意向により、今川領となり、水軍の基地となった。直政には朝比奈が先に仕掛けたという名目があったため、掛川及び高天神城は直政に与えられた。
直政は一の功を一夜城を築いた寺坂美作守、二の功は前線で負傷したにも関わらず、朝比奈勢の猛攻を食いとめた先崎十左衛門及び弟の勝正、三の功は掛川城本丸に一番に駆けつけた朱鷺田忠勝に与えられた。寺坂への恩賞は旧領を失ったものの、高天神城を得た。寺坂の旧領は山間だったが鱶橋以南から小石山以北の広さだが荒地が多いため、辺境とも目されていた。この領地に以前から目をつけていたのが十左だったことを思い出した直政は、
「いいのか?、本当にあそこで?」
「ああ、あそこでいい」
「荒れているぞ」
「何とかなるさ」
「ふむ…、お前がそこまで言うのならば…」
「俺を信じろ」
2人だけならば親友に変わりはない。敬語で話すのは諸将が揃っている時だけだ。
「お前が言うと何でもできそうな気がする」
「任せろって」
この会話が後に荒地が見事な農地に化けることなど誰も知る由がない…。
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