第二章 激動

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四、魔物襲来

 遠州と駿河の国境近くにある小山城。ここに直政の願いを受け入れて援軍として岡部家々臣篠田信十郎が1千の兵と共に城に入った。上吉岡勢は金子・今川の援軍を併せて5千となり、下吉岡勢の兵力を大きく上回った。さらに、脇坂らの内通もあり、戦況は圧勝と目されていたが素直に勝たせてくれる訳ではなかった。
 ”魔物”黒雲の再来である。黒雲は直政が吉岡の騒動に加わっていたと知るや、下吉岡に属する海番衆筆頭上野忠篤の隠密となっていた。吉岡の全てを把握している筈の左源ですら黒雲の潜入には気づいていなかった。
 決戦の日、各軍はまだ日も明けぬうちに進軍した。その間にも脇坂新吉の弟広信も兄の策に応じて吉岡水軍を守る部隊長として出陣している。布陣はこうである。
 上吉岡勢は総大将吉岡通長が水軍を率いて川を下って吉岡城より東にある三叉路の入り口で待機し、陸からの攻撃を防ぐために直見国嗣が事前に募兵した者たちを率いて川を前にして陣を構えた。通長の弟直忠は吉岡城の留守を守った。直忠ではいざというときの展開ができないと思われたからだ。金子勢もまた本陣が吉岡城の右翼を固め、前衛には徳村家継、本陣の右翼には亀井左馬介が陣を敷いた。この布陣は吉岡城を本陣と定めるというよりは直政の陣を本陣と定めるといった見方が後々強く残ることになる。また、布陣の前日にはすでに軍目付朱鷺田忠勝が肥代城の警戒に当たっていた。
 一方の下吉岡勢の布陣は総大将吉岡堅桔が水軍を率いて川を遡る。通長も水軍を率いてきたと聞いた堅桔は大声で笑いながら、
「餓鬼如きに何ができる!」
と嘲笑っていたという。余程の自信があるだろうか。しかし、堅桔もまた陸からの守りとして脇坂広信と騎馬隊長を務める道家長元を置いた。肥代城にはすでに新吉の意見により、古屋永邦が5百の兵と共に入城していた。永邦は奥山邦継の縁戚でもある。あとは戦いの火蓋が切って落とされるのを待つばかりである…。

「敵はたしか2千と言っていたな」
具足に身を包んだ直政が本陣足軽大将松家新之助に言う。
「はっ、しかし、浪人も加えたとの事。数は3千を上回る可能性が出てきました」
「まあ、それを言うならばこちらも増えているがな。忠勝のほうはどうだ?」
「すでに布陣を整えております」
「家継は?」
「大丈夫です。こちらもいつでも動けます」
そこへ武将格に昇格した左馬介が真剣な眼差しをしながら走って来た。
「左馬、どうした?」
「恐れていたことが起きました」
「何かあったのか?」
「脇坂新吉、澱嶋左源ら以下陰兵25人が暗殺された模様です」
「何!?」
左馬介が配下の者に灘城の潜入を指示した時にすでに殺されていたという。石櫓には左源が、花王櫓には新吉が、その他要所には陰兵が全員死体で見つかったとの事。
「殿、脇坂とは誰で?」
松家が聞く。
「我らと内通していた者たちだ」
「それは存じませなんだ。しかし、失敗に終わったとなると…」
「全力で堅桔との戦いに挑まなければならないということだ。全軍に油断なきよう伝えよ」
「はっ」
松家が退がると直政が口を開いた。
「人払いしておいたほうがいいだろ?」
「ははは…、殿には参ります」
「で、誰の仕業か?」
「はっ、今回の件はどうやら黒雲の仕業かと」
「黒雲もこの戦に加わっているのか?」
「確かな事はわかりませんが上野忠篤の隠密になっているようです」
「たしか…、上野と申せば海番衆の筆頭だったな」
「はっ、堅桔と共に水軍を率いて出陣している由」
「ふむ…、忠篤は内通の事実を掴んでいたのか?」
「かもしれませぬ。堅桔は陰兵の存在を嫌っていたそうですから」
「なるほど…、内通は手の内だったというわけか」
「暗殺など黒雲にとって基本中の基本。このまま退がらなければ上野も殺されるでしょう」
「ふむ…、黒雲の狙いはやはり…」
「殿の御命かと」
「………」
「ですが、黒雲は襲って来ないでしょう」
「何故?」
「奴にとって、今回の戦が命を賭けられる戦いではないからです」
「遊びだと申すのか?」
「そうです。奴が動くときは天下が動くときです。その時、殿がそれに準ずる立場にあったなら、奴は”最強”の称号を手に入れるために殿の御前に参るでしょう」
「それまで生きていればの話しだな」
「生きていますよ、某が生涯を通じて殿を護ります故」
左馬介の強い決意が今回の戦いの幕を下ろす第一歩となった。
 日明けと共に戦いが開始された。通長率いる水軍は三叉路と道幅を利用して大軍で来る下吉岡水軍を鶴翼の陣で打撃を与えると、陸からの一斉連射により確実に敵の兵を減らして行った。川岸では脇坂広信が突如反旗を翻し、道家勢に攻めかかった。不意を突かれた道家勢は総崩れとなり、家継の軍に加わっていた先崎十左衛門の働きもあり、道家勢は灘城に退却を余儀なくされた。味方の総崩れを知った堅桔は水陸からの攻撃を受けていたにも関わらず、殿軍を務める手際の良さで退却していくが通長の陣より流された油が堅桔の操船に到達した瞬間、一気に火の手があがった。直見勢より火矢が放たれたのだ。
「く、くそっ!」
堅桔は小船に乗り換えようとするが火の勢いは早く、逃げ場を失った堅桔は本陣の中で焼け死んだ。下吉岡水軍は大半を失い、城まで退却できたのは後軍として輸送隊を率いていた2百のみに過ぎなかった。
 一方、肥代城に入っていた古屋永邦は堅桔が敗れたと知るや、朱鷺田忠勝に降伏を申し入れた。その時点でこの戦いの勝負は着いた。上吉岡勢の大勝という結果となり、残るは灘城に籠城する4百余人のみとなった…。

「久しぶりだな、左馬介」
左馬介も戦いに参戦していたが黒雲の気配を感じてある森の中まで追ったのだ。そして、黒雲は左馬介を待つかのように森の中で立っていた。
「………」
「我は親友を失い、配下も失った。今、共にいるのは簸紆のみ。お前も会ったことがあるだろう?」
「………」
「何も語らぬか…。まあ、良い。だが、これだけは言っておく。お前の父を殺したのは我ではない」
「そんな嘘が通じるとでも思うのか?」
「信じてくれとは言わんさ。しかし、これは本当のことだ」
「………」
「おそらく、我でも彼奴には勝てない」
「騙されるとでも思っているのか?、そのような戯言を…。お前より強い者など…」
「いくらでもいるさ。お前の知らない世界はいくらでもな」
「………」
「もっと外の世界に出てみよ。己の能力が足元にも呼ばないと認めざる得ない状況に陥るだろう」
「で、誰なんだ!?」
左馬介に焦りが見えた。黒雲は普通に諭しているだけなのだが左馬介にすれば精神攻撃に映っていたようだ。
「服部半蔵」
「なっ!?」
服部半蔵と言えば伊賀衆を束ねる棟梁でもある。
「この言葉を信じるか信じないかはお前次第。なれど、半蔵はどのような経緯でお前の父を殺したのかは知らぬ。城を襲ったのは我だが手は出してはおらん。むしろ、恩を感じていたぐらいだ」
「恩?」
左馬介が聞き返すが黒雲は答えずに続ける。
「何れまた会うこともあるだろう。お前が直政に付く限りはな。今日のところはこれで引き揚げる。無論、吉岡家を裏切ろうとした30余人の命はもらったが俺が忠篤より与えられた仕事はここまでだ。じゃあな」
黒雲は消えるようにしてその場から去った。左馬介は後を追おうとはせず、その場で立ち尽くすのみだった…。
 翌日、金子・上吉岡勢は小山城の篠田信十郎と合流し、灘城に迫った。無駄な戦いは避けるべきだと直政は通長に進言し、了承されると降伏した脇坂広信と古屋永邦を差し向けて説得させる事にした。完全包囲された敵には逃げ道はない。荒波が舞う西側だけだ。それを見ただけで絶望感に陥る。半刻後、籠城していた道家長元らは開城した。これにより、下吉岡は上吉岡に併呑され、遠州最強の国人衆である吉岡党は再び1つに戻ったのである…。


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