第二章 激震

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十五、帰って来た牢人

 表面上、遠江国は今川家に主権がある。しかし、統治しているのは金子宗康であり、もはや、今川家がどんな言葉を浴びせようともそう簡単に手が出せない状態にあった。また、同じく離反した徳川家もすでに今川家の手が及ばないところにあり、織田家はもちろんのこと金子家とも同盟関係にあると同時に知名度も名高い。宗康の知名度も武田信玄を破って以降、大きく高まり、相模の北条家すら無視できないと示唆したのか、いち早く使者を送って密かに同盟を結ぶに至った。足場を確実に固めてきた宗康の元に1人の牢人が帰ってきた。この牢人が最初に足を運んだのは大絹内城であった。この牢人はこの城に向かう途中の近くの宿場にある宿屋に入った。
「女将、この宿場は最近できたのか?」
「へぇ、そうですとも。宗康様が街道を整備して宿場を造られたのです」
「ふーん」
一言漏らしただけであった。牢人は1日かけて宿場を歩いて城に続く道を見つけた。そこより先は関所があり、牢人風情が行けるようなところではなかった。牢人が宿屋に戻った頃には日が暮れかけていた。しかも、牢人の食欲は凄まじく女将は愚か、料理を作る亭主が根を上げる程だった。
「すげぇ…、明日は買出しに行く予定じゃなかったんだが…」
予定を狂わされた事よりも見物人が多く来たことに対する気持ちが大きかった。その後、風呂に入って耳を塞ぐほどの大鼾をかいて眠ってしまったという。豪将とも呼べる人物かもしれない。
 翌朝、牢人は女将に島田興房の居場所を聞いた。
「もう隠居なされて今は子息の興長様が継いでおられます」
そう言われて少し驚きの表情を見せた。そして、死んでいないことを確認すると興房がいる掛川城に向かった。興房は今、年寄衆として掛川に居を移している。街道を真っ直ぐ南に下り、そこから海沿いに港の小さな漁村で宿を取った。薄汚い格好をしている牢人を不審に思うがその視線に気づいた牢人がにこやかに笑う。
「怪しい者ではござらん。某は島田興房殿の知人にござる」
「島田様の?」
「うむ。我が父であり、我が主君である」
そう言われた主人は驚いて牢人を手厚く歓迎した。この話しは宗康の許へも届けられた。すぐに興房を呼んで事の次第を質した。
「噂は聞いているな、あれは本当か?」
「滅相もござらん。興長以外に子はおりませぬ」
「だろうな、律儀なお前のことはよく知っているからな。だとすると…」
「何か企んでいるのやもしれませぬ」
「うむ、大事ないと思うが…。左馬介」
「はっ」
隣室に続く障子がすぅーっと開かれる。
「この牢人の素性を探れ」
「はっ」
左馬介が去ると興房が呟く。
「それにしても、誰だろうか…」
「本当に心当たりがないとすると…、敵の間者と見るべきかな」
「そう考えるのが妥当ですね」
「しばらく、警戒を怠ることのないよう、皆に通達致せ」
「はっ」
そこへ若い武士が入ってくる。
「申し上げます」
「どうした?」
「只今、葉祇宗通様が参られました」
「おう、通してくれ」
「はっ」
武士と入れ替わりに宗通が入ってきた。
「おう、久しぶりだな。どうだ、所領は安定したか?」
「ははは…、大丈夫ですよ。当初は肥嶋に忠誠を誓う者も多くいましたが説得を功を奏したのか、幾分は治政がしやすくなりました」
「そうか、彼の地は信濃に近く、今後も重要な拠点になるがお主であれば民もついてくるだろうな」
「励んでみます。ところで城下で妙な噂を聞きましたが…」
「ああ、あの噂だろ」
「ええ、随分と広まっていますよ。興房殿がここにいるということは確かなので?」
興房は苦笑している。
「残念だが…、興房には興長以外に跡取りはおらぬ。こいつの性格はお前が一番良く知っているだろう?」
「確かに。それもそうですね」
宗通も笑う。そして、言う。
「となると…、やはり、間者ですかな?」
「堂々としているがな」
「混乱させようとしているのでは?」
「とりあえず、左馬介に調べさせているところだ」
「だが、素性がわかったとしても…」
「一度会ってみましょうや?」
「いや、まだそのときではない。何れ、任すとは思うが…」
「そのときは引きうけましょう」
「頼むぞ、いつも損な役割を託してしまうなぁ」
「どんでもないですよ、今の私があるのは殿の御蔭なのですから」
御蔭だと言われても、ここに至るまでの宗通の勲功は宗通自身が築いたものであって宗康はその力添えをしたに過ぎない。
「ところで、家継殿が信州に城を築いていることは御存知ですか?」
「ああ、知っている」
「完成した後は誰に任せる所存か?」
真面目な表情をしながら言う。城が築かれれば遠州・信州、両方の民がもめるのは必死で宗通としても立場が危うくなる可能性があった。良くて信州への足掛り、悪くて治政の悪化が待ちうけている状態だった。
「それはまだわからぬ。しかし、早いうちに答えが出せよう」
「ははっ、承知致しました」
宗通が退がると興房が言う。
「次から次へともめ事が増えますなぁ…」
「これも国を治める者の運命というやつかもしれぬな」
「運命ですか…」
「今後もこのような事が起こるであろうな」
「ありましょう。それを乗りきってこそ国も人も全て強くなっていくのですよ」
宗康は微笑すると興房も笑みを浮かべた。
 その日の夜、弟の宗政を呼んだ。
「兄上、何か?」
「おう、最近どうだ?」
「子が産まれました」
「おお…」
宗政が昨年婚姻したのだ。相手は今川庶流家の一つ、関口氏広の娘だ。氏広はかつて犬居を治めていた瀬田氏俊の弟に当たるが今は駿府城に屋敷を構えて有事に備えている。
「兄上も早く婚姻したらどうですか?」
「ん?、そうだなぁ…」
「誰かお相手は決まっているのですか?」
「宗政、耳を貸せ」
「は?」
ここは兄弟だけしかできない方法でもあった。話しを聞いた宗政は意外そうな顔をしながらも笑っていた。
「いつから?」
「昨年からかな」
「たしか、奥に仕えていましたね」
「まあな」
「多恵は何も言いませんか?」
多恵は宗康にとって血縁はないものの、姉のような存在で台所一切を取り仕切っている。
「何も言ってこないが大体わかっているようだ」
「女って怖いですから、気をつけたほうがいいですよ」
「おいおい…」
宗康は苦笑するしかなかった。すかさず、話しを変える。
「ところで例の噂を知っているか?」
「はっ、たしか興房殿の御曹司が出たという…」
「あれは誤解だ。何者かが流している噂に過ぎないが流した者がいてな」
「流れ者ですか?」
「牢人らしい、一度会ってもらえるか?」
「よろしいでしょう。場所はわかりますか?」
「南の漁村にいるらしい」
「漁村に?」
「近頃、整備して大型の船も出入りできるようにしたあの村だ。あそこの宿にいるそうだ」
「承知しました」
宗政は早速、牢人がいると思われる掛川城の南にある港に向かった。

 遠州国内の街道は今川治世時代から整備され、交通の往来は過去に比べて随分とよくなった。宗康はそこに宿場町を設けることで野宿する者を少なくした。さらに要所に港を整備することで貿易を行う商船が出入りする一方で吉岡水軍がここの護衛に当たっている。また遠州灘を通る他国の船も立ち寄ることも多く、中継地としても活用されていた。
 さて、あの牢人はというと相変わらず宿にいたがその周りには牢人を見物しようとする人々で溢れかえっていた。宗政は家臣3人と共にここに来た。
「凄い人盛りだな。さて、御対面とするか…」
人盛りを掻き分けて宿の暖簾を潜ろうとしたところで主人に止められた。
「ここは島田様のご子息様が居られます。一介のお侍さんに会わす訳にはいきませぬ」
「無礼な!、この御方は…」
「良い」
憤る家臣を諌めて宗政は微笑しながら言う。
「私は金子宗康が弟、宗政と申す。島田興房の子と名乗る者に会わせてもらえぬだろうか?」
「え―――!!、こ、こ、これはご無礼を…」
主人は急に恐縮なり、宗政を案内する。家臣を玄関に待たせて宗政はゆるりとした足取りで中に入った。牢人の部屋は2階の端にあるようであった。
「御子息様、金子宗康様の弟君が参られました」
「何!?、大殿の弟だと!?、ちょ、ちょっと待ってくれ」
障子の向こうでバタバタした後、牢人は宗政を中に招いた。見ると相変わらず薄汚い格好をしている。宗政は一礼して牢人の前に鎮座した。
「金子宗政にござる。貴殿か?、興房殿の子息と申しておるのは…。殿の命により、城にお連れしたいがどうであろう?」
「城ですか…」
「嫌でござれば殿が自らここに来られると申しております」
「えっ?」
さすがに驚いているようだった。宗政は牢人を観察して嘘をついている男ではないと悟った。けれども、何か引っ掛かるものがあるとも思っていた。
「大殿が自ら来られるのであれば断ることができませぬ。しかし、まさか、こんな騒ぎになるとは思っていなかったものでして…」
「御身は何者か?、何故、興房殿を父と呼ぶ?。お主がこれ以上、騒ぎを大きくすれば重大な事態になりかねない」
「重大な事態とは?」
「国を二つに割るということだ」
「ま、まさか、これしきのことで…」
「お主から見ればこの程度のことやもしれぬ。だが、我らから見れば一見律儀に見える興房殿だが内心はどのように思っているかはわからぬ。また、興房殿は家督を娘婿の興長に譲っている。2人の不和につながる恐れだってある」
「は、はぁ…」
困惑する牢人を説得すると直ちに掛川城へ向かった。

 掛川城二の丸に宗康の屋敷がある。本丸にもあるが合戦の時以外は留守居がいる程度で政務は二の丸が行っていた。2人が中に入ると宗康・興房が待っていた。他に人はいない。
興房は牢人の顔を見るなり、蒼白となり、すぐに真っ赤な表情に変わった。どうやら、知っているらしい。
「この戯け者が!、何たることをしてくれたものだ!!」
「義父上、ご、ご無沙汰しておりまする」
「私に恨みでもあるのか!、平四郎!」
「と、とんでもございませぬ!。平に平に…ご容赦を…」
「まあ待て、興房。平四郎と言ったな、島田家とはどういう…」
怒る興房を制して宗康が宥める。
「こ、こやつはかつて植野・葉祇の騒乱の折、切腹した植野元綱の次子で植野家断絶の時はまだ幼く、兄綱政が謹慎となった際、某が預かったのでございます。しかし、この平四郎も元服すると同時に家を出てしまいどうなっているのかと思っていたところでした。名は植野平四郎信政」
「今は以前仕えていた主君から姓を頂いて、横山平左衛門綱長と名乗っております」
「以前仕えていた大名はいずこか?」
宗康の質問に快く応じる。
「近江の浅井長政様にございます」
「浅井家は滅びてまもないが…、ならば織田信長の顔を見たか?」
「はっ、あの憎き信長の顔ならば幾度となく」
「どうであった?」
「あの男は慈悲を知らぬ男、己の治世に歯向かう者は皆殺しとなり、今は一揆衆と戦いを繰り広げております」
信長は室町幕府15代将軍足利義昭との確執から各地の大名を敵に回した。信玄がその命を散らした後も信長包囲網は未だに健在である。
「左様か…、まるで闇に捕われた鬼の類だな」
「魔王と呼んでも過言ではありますまい」
「お主がここに参ったのは1人でか?」
「いえ…、当初は3人でしたが途中で1人が病に倒れ、もう1人は天竜川近くの知り合いに預けています」
「ほう、ならば呼び寄せるがいい」
「えっ?」
「何を驚いている?、遠州に帰ってきたのは私に会うため、そして、連れと共に仕えるため、違うか?」
「ま、正しくその通りにございまする」
全て見通していると言わんばかりに宗康は次々と綱長の心を読んでいく。
「その共の名を聞いておこうか?」
「はっ、浅井長政様が一子万福丸君でございまする」
「何と!?」
宗康は驚いた。浅井一族の男子は皆殺されたと聞いていたからだ。唯一、生き残ったお市の方と女子たちは織田家へ戻っている。
「某が主命により、万福丸君をここまでお護り申した」
「身命を賭してこそ、真の武士、違うか?、興房」
「御意、この平四郎もここまで変わっていたとは思いませなんだ」
先ほどの怒りはすでに消え、感涙しきっている。
「お主は今、名を変えていると申したな?」
「はっ」
「おそらく、植野の家に戻ってもすでに嫡子元家が家督を継いでおる。追い出される可能性が高い。それよりも、家を興したほうが早いだろう。お主は今後、浅井万福丸の後見人として横山家を興すと良い」
「ならば、浅井家の復興をお許し願えるのですか?」
「構わぬ、織田家とも何れは敵対せねばなるまい。それまで浅井家の旧臣を集め、家を復興させよ。それがお主に課せられた使命と思え」
「ははっ、有り難き幸せ」
大層に頭を下げた。
「それともう一つ」
「はっ」
「今回の騒ぎで迷惑を被った興房と宿屋の亭主に詫びを入れよ」
「そ、それはもう…」
すぐに詫び、頷く宗康は興房に言う。
「興房、それで良いかな?」
「某は一向に構いませぬ。今の話を聞いて納得いき申した」
「うむ、綱長」
「はっ」
「何をしておる?、早く迎えに行ってやれ」
「ははっ」
綱長は早々と掛川城を後にした。翌日には浅井万福丸を連れて再度謁見し、万福丸を「武将格」に添えると共に知行を与えて、しばらくは興房の屋敷で居候の身となる。また、綱長の武勇は皆に認められるところとなり、先崎十左衛門、葉祇宗通と並び、金子の虎と書いて「金虎将」と呼ばれることになる…。

第二章 完


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