第二章 激震

戻る

十四、武田忍び

 宗康が遠江守護代になってから落ちついた日々がなかった。遠州で季節外れの洪水、一向一揆や朝比奈・武田との戦いなど忙しい月日が続き、西遠州にも城を築くメドがだったこともあり、本格的に国内に目を向けることができた。その中心となる東遠州領に最も力を入れ、山岳地帯にまで農地を広げ、集落には詰所を置き、治安を万全にさせた上で民衆にはできるだけ農地を与えた。先崎領は山岳地帯が多いため、最もこの改革が功を奏して石高があがったのは言うまでもない。さらに人事にも改革を進め、武田との戦いで内通・謀反を起こした肥嶋・大絹内・永山の三家は一門郎党に至るまで罷免という厳しい沙汰を下し、新たに若い家臣を要職にも起用することに成功した。
 目付衆陣中目付となった前原誠十郎義近は松平家に仕えていた前原義信の甥で父の死後、野に下っていたが松平清之の説得により、奥居衆(護衛)に加わり、幾度の武勇を認められたのだ。郷村目付の池田光三郎義国は三河刈谷の出身で豪商の池田元国の次子でかつては三河松平家に仕えていた武士でもある。元国は主君でもあった松平広忠が暗殺されたのを機に野に下り、森林奉行をしていた経緯もあり、材木問屋として一代で東海有数の商人となったという。光三郎は次子ということもあり、早くから家を出て各地を放浪、地理には詳しく、10年もの間、畿内を中心に活動していたがふと思い立って家に戻ってきたところ、親友でもある川村源兵衛に出会い、松山家に仕えた後、景成の推挙を受けて領内の集落や街道の整備を指揮する郷村目付となった。傘下には藤代総正がいる大役を命じられたがその重さに怯むことはなく、的確な判断で民心を力としたのである。
 続いて奉行衆だが島田興房の後を受けて城下町奉行となった立花政信はかつて叔父の謀反に巻き込まれて宗康を暗殺しようとしたが典医榊原長安の助けもあり、一身に金子家に尽くしていた功が認められての抜擢だった。政信は町医師の不破良善と協力して病に打ち勝つ城下町を目指した。その政信と親友関係にある榊原直信は兵糧・金奉行に命じられた。榊原長安の長子として医術の知識もあり、旗本衆に加わって各地を転戦、朝比奈との戦いを最後に暇を願い出たが先崎十左衛門の推挙と宗康の説得もあり、重責を担うことを了承した。普請奉行の寺坂元信は寺坂美作守の末子で父同様、城普請に明るく、聡明な性格でもあるため、宗康が寺坂に頼み込んで普請奉行に登用したのである。最後に御台所奉行となった原忠長は松家新之助の推挙で宗康に登用され、吉岡直忠の下で勉学に励んだ後、奉行衆に加わったのである。
 さらに付け加えて城主衆の補佐格の形で「準城主衆」を設け、各領にある属城を守る者たちをこれに加えて地盤を確固たるものにした。また、奥居頭・鉄砲頭・旗本組頭・水軍頭の「四頭(しとう)衆」に留守居役・御典医を加えた「六番衆」を新設したのである。これにより、金子家は新たな節目を迎えると共に視野を大きく広げて天下に名を馳せる準備を着々と整えつつあった…。

 甲斐・躑躅ヶ崎館では英雄が最後の刻を迎えようとしている。
「よ、良い…か…、か、金子と……徳川…は………か…な……ら………ず…ほろ……ぼ…せ…」
「………」
病床にあった武田信玄は途切れ途切れに言うが子勝頼は無言で最後を看取る。勝頼は諏訪家の血を引いており、父となる信玄を心の奥では嫌っていたという。兄義信は父により自殺させられていた事もあり、英雄と謳われようが何と言われようがそんな父を好きになれと言われても無理な話でもあった…。

 夜の掛川城下、すっかり日も暮れて人々は寝静まっていた。1人の男が奉行所の門を叩き、乾いた音だけが暗闇に響く。中で待機していた番士が外に出たときは男の意識はなかった。驚いた番士はすぐに立花政信に知らせて奉行自らが男の治療に当たるが男は記憶を失っているらしく、素性がまったくわからなかった。また、傷は思ったよりも深く、危険と察知した政信の配慮で男に護衛をつけた上で城下に屋敷を持つ池田光三郎に預けた上で宗康へ急ぎ取次ぎを願い出た。
「ほう、記憶をなぁ…」
「はっ、名が解らぬ故、どこから手をつけたいいものかと…」
「斬り傷があったのであろう?。ならば、死体があがらぬと知れば必ず襲ってやもしれぬ」
「そこを一網打尽に…」
「いや、敵が誰か知りたい。襲う者も雇われ浪人であれば捕らえたところで一向にわからぬ。それにその男が何故狙われているのかも…。できれば左馬介に頼みたいが大半が小石山に退いている。政信、光三郎と協力して探索の網を巡らせ。万が一、襲撃してきた際は1人だけ逃せ。敵の拠点を抑えればこちらのものだ」
「はっ」
政信が退がるとお耀を呼ぶ。
「お前のほうでも探索を頼む」
「はっ」
お耀もまた消えるようにしてその場を辞した。

 男が池田家に預かれて数日が経った。しかし、今だ襲撃の気配もなくば素性もまた一向にわからず、皆、頭を抱えていた。
「ふむ…、男に会えるか?」
政信から報告を受けた宗康が尋ねる。
「記憶は戻っておりませぬが…」
「今は推測でしか掴みようがない。一度、会ってみようと思う」
「殿も物好きな…」
「今に限ったことではあるまい。夜半、城に入れよ」
「殿がそういうのであれば…」
政信は渋々承諾して退がるとお耀が現れる。
「お前でも無理か…」
「申し訳ありませぬ。男が城下に入った様子がないのです」
「様子がない?」
「はっ、突然現れたとしか思えませぬ」
「もし、それが事実なら妖怪やもしれぬな」
「えっ?、妖怪ですか?」
お耀がきょとんとする。
「忍びが真に受けてどうする?、忍びではないのかと聞いているのだ」
「あ、なるほど…。忍びならば…、黒雲ではないでしょう。姑息な真似は致しませんから」
「堂々と来る忍びも珍しいが…」
「確かに…」
お耀が笑う。そこに亀井左馬介が姿を現した。
「只今、戻りました」
「おう、左馬か。男のことは聞いているな?」
「はっ、おそらく忍びで間違いないでしょう。おそらく、武田か風魔か…」
風魔とは箱根山中に拠点を置く忍びで棟梁は風魔小太郎。現在は北条家に仕えている。
「風魔ではあるまい。彼奴らに恨みは買っていないからな。北条も我らより今川を攻めるが先…、だとしたら武田か…。主を死に追いやられた恨みという可能性もある」
「調べてみますか?」
「いや、先日申した男が後ほどここに来ることになっている。周りに人を集めてもらいたい」
「承知しました」
左馬介とお耀が下がると松家新之助が呼ばれた。松家は奥居頭の任を就いている。
「この前、話した男が来るそうだ。ここに通す故、屋敷に限らず、城の守りも強化するよう皆に伝えよ」
「はっ、男は何者ですか?」
「忍びの可能性が高い」
「承知しました」
松家が下がると宗康は一息ついた。

 夜半、男が立花政信と池田光三郎と共に城にやってきた。男は城をあちこち見つめている。
「城がそんなに珍しいのか?、どこにでも見れる代物だろう?」
尋ねるが返事はない。そんな男の様子を光三郎もまた馬上から窺っていた。3人は何事もなく、二の丸屋敷に入る。すでに松家、左馬介の両名が宗康と共に待ち構えていた。
「ほう、貴殿か…。こんな夜半に申し訳ない。傷のほうは大事ないか?」
「はい、迷惑をかけ申したがこちらの方に救われました」
「そうか、政信、御苦労であった。退がって休むが良い」
「では、これにて」
政信は男をここに留め置くものばかりと思っていた。
「さて、記憶のほうは戻りましたかな?」
「いや、一向に…」
「左様か…、我らも貴殿の素性を探っているところだ。今しばらく待たれよ、何かのきっかけがあれば記憶も戻るであろう」
「そうであることを願いたいのですが…」
「前向きに行けばよろしかろう」
「ありがとうございます」
「たいしたこともできぬが今日はもう遅い。ここに留まればよろしかろう。我らも今は信濃に城を築城している最中でなかなかお主の事を気にかけてやれぬが心配することはない」
家の大事を糧にかまをかけてみたのだ。何かしら反応を見たかったのだがそんな様子はない。
「光三郎、御身はどうする?」
「殿に任せまする」
「ならば、この者に付いてやるがいい。記憶がないのであればどうすることもできまい」
「はっ、殿は如何なされますか?」
「私は本丸のほうにいる。何かあったら知らせよ」
「はっ」
「お主もゆっくりと休まれよ」
宗康はそう言うと二の丸屋敷を後にした…。

 夜遅く…、男が動いた。気配を絶っているらしく、隣室にいる光三郎は気づいていない。男は静かな歩みで外を窺っている。
(足軽が数人…)
障子を開かずに素早い動きで屋根裏から屋根に出る。天守が望める位置に屋敷があることを知る。
(この守りでは門まで行くのは無理だな。森を抜けるか…)
屋根から屋敷の外へ飛び、通路を足早に走って兵の隙を窺いながら、森が生い茂っている場所に来る。城の地形には詳しいようだ。
(これか…、ここまで来れば兵もいまいが油断ならぬ。城築城か…、記憶を失う真似など動作もないことだ)
森に入ると地面は歩かず、木から木へ枝つたいに城の外へ向かう。
(方角は違うがやむ得ぬ。駿河から甲斐に向かうとしよう)
そう思ったとき、幾つかの気配を感じた。
(このままでは死地に飛び込む。一度、戻って脱する方法を考えねば…)
本能的に足を後退させる。また来た道を戻ろうとした時に声をかけられる。
「やはり、間者であったか。他の者は騙せても我らはそうはいかぬ」
黒装束を身に纏った左馬介が退路を塞ぐ。
「くっ…、もはやこれまで…」
男は忍刀を抜いて構える。左馬介は手を組んだまま、男を見据えていた。微動だにしない。
(どういうつもりだ…)
相手の器量がまったく計れない。しばらく、そのままだったが周りを囲まれているため、焦りを隠せない。少しずつ間合いを詰めているのに相手はまったく動かない。イチかバチか正面から仕掛けてみる。すると、刀を人形に突き刺さる。
「なっ…」
「残念だったな、後ろだ」
左馬介は身代わりの術でいつの間にか背後に回っていた。まるで弄んでいるかのように。しかし、男は勢いでそのまま突破し、森を抜ける。河が見えたため、そのまま飛び込んだ…。
 支流から天竜川を下り、引馬城近くで忍びから薬売りに変わる。そして、街道を通って駿河に入り、甲斐へ続く間道へと道を外れた。街道とは違い、人気はほとんどない。道の周りは生い茂る木々あるだけだ。そのまま真っ直ぐ進む薬売りは何度かけもの道を入り、
追手を気にしながら甲斐南部にある上野城近くの廃屋に入る。
「戻ったか?」
「はっ」
「どうであった?」
「信濃に城を築いているとの話しを受けました」
「信濃に?」
「はっ、彼の地からすると飯田付近ではないかと…」
「宗康め…、信濃に勢力を広げる腹か!」
報せを受けた武士は憤る。
「殿に報せねば……はっ」
無数の気配が廃屋を囲む。忍びのようであったが味方ではない。明らかに敵だった。
「まさか、仁科殿がこの男の主君であったとはな」
「何奴!?」
「我が名は亀井左馬介。金子を守護する忍びよ」
「何だと!?」
武田家々臣仁科盛清が叫ぶ。当主仁科盛信は武田信玄の四子で川中島で死した盛政の名跡を受け継いでおり、一門衆は皆、高遠城に拠る盛信に準じている。盛清は盛政の弟に当たった。咄嗟に刀を抜くが所詮は多勢に無勢、勝ち目はなく、一瞬にしてその命を散らしたのである…。

「ふぅ…、今日1日疲れたな…」
宗康が池田光三郎に言う。光三郎は申し訳なさそうな表情をしている。
「何、気にすることはない。相手は忍びであったのだ、家の大事が敵に知られなければそれで良い」
「はっ、しかし、忍びというものは恐ろしいものでござりまする」
「そうだろうな、我らに左馬介がいるように武田や北条、有力と思える大名にはお抱えの者に至るまで忍びがいるという。忍びという存在は何れどうなるかはわからないがこの時代に終止符が打たれれば自然とその姿を消すこともあるだろう」
「姿を消す?、そんな簡単にいくものでござりましょうや?」
「簡単にはいくまい。だが、役目を失えばそうなるだろうか」
「役目を失う時代…、私には考えられぬことですが忍びというものは他国の情報や家臣団の把握などを主君に報せるのが役目。時には暗殺も行い、一国をも変えてしまうことができると聞いております。今の殿のお言葉に反するわけではありませんが天下が統べられることがあったとしても、忍びは必要なのではありますまいか?」
「確かに一理ある。なれど、天下泰平になり、戦というものを忘れる時代が来た時、忍びは生きる術を失ってしまう。忍術を生かした職に就くか、忍びを捨てて野に下るか…、選択視はほとんどない。そんな時代で自らの欲のために忍びを雇い、高い金を支払うとするならば私なら、その辺りにいるゴロツキ共を雇うぞ」
「なるほど…、殿は100年先を見ておられるようだ」
「金子の家も100年続いてくれることを願うのみ」
「そのためには殿の力量が必要ですな」
「うむ、お前たちの支えもな。あ、そうだ…、政信には内密にな。忍びであることを知れば自害しかねん」
「承知致しました。では、何と答えておきましょうや?」
「政信にはな、『昨晩、夢を見て記憶が戻るきっかけができ、その地に行ってみようと思う。皆様には大変申し訳ないが早速発ちたい。政信殿にはよろしく伝えてくださるよう、お礼は必ず果たす故』と申しておったと言えば良い」
「なるほど…、流石ですな。では、政信殿にはそのように申しましょう」
そう言って光三郎は城から辞した。宗康は照らす太陽の下で一眠りをすることにしたのである…。


続きを読む(第十五話)

戻る


.