第二章 激震
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十三、一向一揆
時が遡り、武田信玄との戦いの5年前、三河で大規模な一向一揆が勃発した。原因は徳川勢の兵が寺院に与えられていた不入特権を侵して内部に踏み込んだことに始まる。事態を重く見た三河三ヶ寺(本證寺・上宮寺・勝鬘寺)では門徒衆を集結させた上、これに呼応した吉良氏や桜井松平氏などの在地領主を始め、家臣である鳥居氏・本多氏などの一門衆からも一揆側に走るものが多く出たため家康は苦戦を強いられた。しかし、戦いが長引くにつれて戦況は家康に有利に運ぶ形となり、降伏してくる者が続出。家康に反した在地領主が三河から退去すると一向一揆も終焉を迎えるに至ったという。
当初、静観をしていた隣国の金子宗康は遠州から駆けつけようとする門徒衆に対して、自制するよう促した。しかし、家康に対する憎悪は増すばかりか、宗康に対しても非難の言葉を浴びせる。そして、西遠州を中心に一向一揆が集結するに至った。信仰心だけで動く彼らに宗康は戦いを挑むという苦渋の選択を迫られた。そんな主君の行動に家臣団も徳川家と同じく二つに割れると思われた。宗康は単身、先崎家をはじめとする幾つもの屋敷を訪れて説得を試みた。説得は1ヶ月にわたり、会話を拒否する者も多くいたが宗康は諦めなかった。懇々と相手が納得いくまで話し合いは続いた。最後に得たのは忠臣という言葉だけだった。宗康はまた門徒衆の説得も試みる。東の慶照寺があれば西には永興寺が存在した。不入特権などはなかったが絶大な寄付をもって小さな城郭となっていた。二重の堀をもち、周りに形成された寺町は一種の要塞と化していたのだ。その要塞を守るようにして河が行く手を阻む。住職の永興寺全覚は1万もの門徒を前に宗康に対して攻撃を仕掛けることを宣言した。喝采と怒声が士気を高める。門徒衆の怒りを我がものとした全覚の根深いものは他にあった。それは西遠州を獲物に他家に売ることだった。徳川でも金子でもない、別の勢力に…。そう、信州を落としつつある武田信玄だった。当初より、全覚と内通していた信玄は全覚を使い、遠州に進攻するきっかけを探っていたのだ。それが今、大義となって現れた。その動きは宗康の元にも知るところだった。
「全覚め、とうとう正体を現したか…」
「殿、好き勝手にさせては我らの面目は丸潰れでございまする」
徳村家継が言うと泊貴房も言う。
「我らにとっては一向宗と戦うのは心苦しいがこれも戦国を生きる世の運命。攻めましょうぞ」
先崎十左衛門の言葉が宗康の心に突き刺さり、決断が下された。当時はまだ東遠州は森・朝比奈・金子の3勢力が犇いている状態で油断できない情勢でもあった。宗康は主家に上奏すると共に森に対する備えとして松山景成・高崎定長、朝比奈に対する備えとして矢野義綱・徳村家継を配した上で主力は永興寺に進軍したのである。北に葉祇宗通、東に先崎十左衛門、南に金子右近を配し、西には本隊を配置した。ぐるっと迂回しての行動だったが退路は無いという意思表示のためだった。
「行くぞ、これを制して戦国に覇を唱える布石を作るのだ」
宗康は攻撃を命じる。全軍が四方から永興寺を囲む河に近づく。寺側からは弓の他に火縄を放たれて金子勢の盾を砕く。それでも、前進を続ける金子勢が門に近づいたとき、閂を壊すことに成功した。前夜に亀井左馬介の忍者集団が潜入しており、内部から呼応して櫓を担っていた家屋を破壊することで死角を失わせた。そこに足軽隊が入り込んで一揆勢に攻撃を仕掛ける。白兵戦となれば戦いは圧倒的に金子勢にあった。一角が崩れれば脆いと思われがちだが要塞はそう簡単には落ちなかった。長槍や鉄砲を用いて狭い路地に罠を仕掛けて金子勢を崩す。三重の外郭を誇る永興寺には抵抗する兵と兵糧が十分備わっていたのだ。
「よいか、援軍は必ず来る。それまで抵抗を続けるのだ」
全覚の言葉に門徒衆の士気はますます高まるが逆にそれを危惧する者もいた。徳川四天王としてその名を馳せていた本多正信である。正信は三河一向一揆以来、各地を転戦し、それぞれの戦国大名と刃を構えているがここでも参謀として迎えられていた。
「全覚殿、援軍とは何処に?」
「安心召されい。我らは彼らの布石に過ぎぬ」
「彼らとは?」
「ふふふ…」
正信もこの時点ではどこの勢力が援軍に来るのか知らなかった。全覚の思惑はたった1人の男によって左右される。
「何とか持ち応えるのだ。背後を突かれることのないよう、手薄な地点の強化をするのだ」
命令に手足となって動く門徒衆が全覚の器なのかもしれない。東西の門を突破された永興寺は南北の門を固める。宗康は左馬介に命じて、全覚の策の裏をかこうとする。亀井忍軍が西側の第二の門の内部から門を開け、高崎忍軍が東側から味方を導いた。これにより、退路を失うことを恐れた一揆勢が退却するため、永興寺の本丸となる本殿は混乱した。全ての者を受け入れるのは困難な状態となったのだ。全覚は門を閉じるように命じる。
「全覚殿、味方を見殺しになさる気か!」
正信の言葉に強気の言葉で返す。
「やむ得ぬ。口惜しいがここを守らねば…」
まだ援軍に虎視しているようだ。そこに報せが舞い込む。援軍が到着したというのだ。
「ようやく来たか!」
「はっ、西から攻め寄せる金子勢の背後を突いておりまする」
「なっ!?、西だと!?、北ではないのか!?」
「いえ、西の三河からの援軍でございまする!」
三河で退去させられた吉良義昭の手勢が駆けつけたのだが全覚の表情は明るくない。しかも、北と発言したことで正信は合点した。
「まさか、武田の援軍を待っておられるのですか!?」
「………」
これ以上の戦いは無謀と判断した。なぜなら、境に今川の諸城が点在しており、信濃から援軍を発したとしてもここで食いとめられることになるだろう。森家の力は武田とてなかなか踏み込むのは容易ではなかったのだ。それを知らない全覚にとってはこの一揆はあまりにも無謀だった。
「この戦、負けは必死。ここは許しを乞うて降伏するのがよろしいかと思われまする」
「だ、黙れ!。我らを愚弄する気か!?」
「三河の二の舞を踏む気ですか!?」
吉良家がここにあるということは三河は平定されたと見るべきだった。
「いや、援軍は必ず来る」
そう信じてやまない全覚の旗印はますます悪くなる。正信は抵抗を続けていた北側から秘密の脱出口を抜けて吉良義昭に近づいた。そして、旗色悪しと告げて退却するよう進言したのだ。結局、吉良勢は金子勢と満足に戦うこともなく、退くことになる。吉良勢退却の報せを受けてなお援軍に期待する全覚に憐れみすら感じる。四方の南北の門も突破された永興寺だがここから必死の抵抗を見せる。火縄をうまく扱う男が軍勢を指揮する武将のみを狙撃し始めたのだ。北門から葉祇宗通に従って来ていた高崎家臣を数人殺し、その勢いを挽回させた。さらに、陥落必死だった南側も金子右近の側近徳村家義の足を撃ち抜いて落馬させるなどの功績で金子勢は一時的に退却を余儀なくされた。しかし、門の閂と櫓を壊すことは忘れず、再度攻め寄せるために前面に盾を置き、各武将に火縄を警戒させ、永興寺の外堀となっていた河はせき止められて、違う方向へ流れるよう堤防を築きはじめた。これが功を奏して今まで不作続きだった集落に豊富な水を流すことになる。宗康は兵糧攻めにすることで降伏を再三促したのだがまったく応じる気配はない。戦が長引くことで南北に挟まれている領地を失うことを懸念した宗康はまた1ヶ月ほどかけて西遠州に拠を置く集落を回り、村長を説得する策に出た。不満などがあれば援助を施し、民心を勝ちとっていった。一揆勢に参戦している者の多くは西遠州に属する者ばかりだ。故郷が良くなれば必然的に降伏する者も出てきたのを見て宗康は全覚に再度降伏を勧告した。使者となったのは弓組頭を務める久保田久家だった。しかし、全覚の答えはすぐ返ってきた。中に入った久家は死体となってきたのだ。もはや、これまでと悟った宗康は全軍に総攻撃を命じる。再び、永興寺は四方から攻撃を受け、櫓は燃やされ、門は屋根から崩れ落ち、退路もないまま討たれるしかなかった。鉄砲巧者もいつの間にか脱出しており、攻撃に悩まされることなく、永興寺の本殿は炎上し、全覚は脱出を試みたものの、捕らえられて僧官と共に宗康の前に引き出された。
「仏を知らぬ若造に罰を与えてくれようぞ!」
「まだ言うか!?」
「ククク…、我を殺したとて他の者が黙っておらぬ!」
「西遠州の民心はすでに我が手にある。お前の負けだ、諦めよ」
「本願寺が黙っておるとでも言うか!?」
永興寺の本山は大坂にある石山本願寺で門主は蓮如という。織田信長を相手に一揆勢を指揮し、1580年に降伏するまで抵抗し、これに呼応していた紀州雑賀衆や根来衆も豊臣秀吉に討たれるまで一向宗の勢力は収まることはなかった。
「ならば聞くがお主は援軍を待っていたそうだな」
「………」
「お主が以前より武田に内通していたことは存じておる。それを糧に西遠州を売る腹だったというではないか。それは御仏の心に反しているのではないのか?」
「だ、黙れ!。わしの信仰心はそんな軽いものではない!」
「勝手なものだな、お主が降伏しておれば多くの民が死なずに済んだというものを」
「彼らは親鸞上人のために生きたのだ。悔いは無いはず」
「ならば、彼らにも同じことを言えるのか?」
「何!?」
全覚が振り向くとそこにあったのは前日に姿を消したある男だった。火縄を片手に全覚の前に出る。
「き、貴様は!?」
「よう、まだ生きているのか?」
「我らを裏切った行為…」
その先は全覚に投げつけられた紙によって遮られた。
「こ、これは…」
「そいつはあんたの部屋にあったものだ。これを見たときは俺たちが裏切られたと悟ったよ」
「な、何故ここにある!?。あのとき燃えたはず…」
「その前に失敬したのさ、この俺がな」
「くっ…」
「そいつがお前が民衆の心を逆撫でし、一揆という名目で武田信玄を遠州に導くことを確約した証拠だな」
「………」
「御仏を信じて死んでいった者のうらみを知れ!」
火縄の銃口が全覚の頭に突きつけられる。
「や、止めろ!!」
「お前が死ねば皆の魂も少しは救われるだろう!!」
「やめろおおおおぉぉぉぉぉ――――――!!!!!」
銃声が響き渡った…。
金子城に戻った宗康は西遠州の守りを固めるため、幾つかの砦を築いた。城を築くことになるのはそれから後のことになるのだが民衆の心に危険を与えることは一切しなかった。
「なぜ、殺さなかったのだ?」
宗康は男に言う。
「殺したところで皆は救われぬ。生き地獄を味合わせたほうがいい」
「貴殿の許から来た鉄砲鍛冶がいなければ我も死していたかな?」
「さあな…、俺は鷹だ。空飛ぶ鷹…、ここより去りて新たな御仏を求めるのみ」
「気ままだな」
「それこそ自由人である証でもある」
「そんな世の中が来ればいいのだがなぁ…」
「来るさ、こんな息苦しい世の中なんざ、すぐに終わっちまうよ」
「そう願いたいね」
「じゃ、俺は帰るわ」
「ああ、こいつを持っていけ」
宗康は男に布袋を渡す。
「道中使うがいい」
「礼はできねえぜ?」
「構わぬ、礼はすでにもらっている」
「ふん、確かにな」
男は火縄片手に優々と去って行く。後ろから見守る宗康に十左が声をかける。
「良き武将ですな」
「ああ、一つに捕われない良き生き方だな」
「さすが自分を鷹と呼ぶだけのことはある」
「次はどこに姿を現すことやら…」
「この世が続く限り、また会えますよ」
「だろうな…」
この世の終焉を目指して人は戦い続ける。それがどんな形であっても天下人の出現はすでに誰もが願うものでもあった。
「雑賀孫一…、お前はどこを突き進むのか…」
宗康は雑賀衆棟梁雑賀孫一の後ろ姿をじっと見つめているのだった。
永興寺における遠江一向一揆は2ヶ月という短さで終わりを告げた。住職の永興寺全覚をはじめとする僧官は全員討たれることなく、労役を課せられることになり、仏とは無縁の世界に送られ、西遠州には今までと同様、わずかばかりの平穏が訪れることになる…。
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