第二章 激震

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十二、清忠

 家康が去った後、宗康は渡辺守綱に会っていた。そのまま同盟の使者としての大役を背負ってしまった守綱相手に宗康は家臣団を揃えて宴を開いていた。強敵を撃退したということも重なって皆の緊張の糸もほぐれているようにも感じられた。その席上で宗康が言う。
「…ところで松平清忠殿は元気ですかな」
「ええ、清忠殿は本多忠勝殿と並び、なかなか勇猛な御方ですな」
「ここに清忠殿の御子がおりましてな」
「存じております。しかし…」
「何でしょう?」
「こういう席上で申すことではないのですが清忠殿は我が子をひどく嫌っておられた」
「ほう、嫌っていたとな?」
「ええ、理由は解りませんが…」
解るはずがない。解るのはここにいる者たちだけだ。徳川家の者はまだ彼の者を知らな過ぎると思えてならなかった。
「左様ですか?、しかし、清之は父にも劣らぬ、いや、清政公と互角以上の名将ですよ」
「……」
「清忠はこの家を裏切った男です。彼の者が死のうが死なまいがすでにこの家を離れた者、許す訳にはいかぬが徳川家に戻ったのではあれば肝に命じて欲しいものだ」
「肝に命じるとは?」
「無駄に命を捨てるなということですよ」
「なるほど…、そういうことか…」
この言葉は誰にでも言えることだった。宗康も例外ではない。守綱の主君である家康も今川家から離反し、織田家と組みしている。裏切り者という言葉に当てはまってしまうが松平清忠は3度も裏切り行為をしているのだ。1度目は父と共に家康の祖父清康を裏切り、敵である今川義元に従い、2度目は今川家を離反して金子家に寝返り、最後は…、いや、最後と呼べないかもしれないがこの金子家から徳川家へ再び舞い戻ったということだ。正に裏切りの人生のように思える。かつて古代中国に裏切りの武将がいた。三国史上、最強と謳われた呂布である。呂布は赤兎馬欲しさに養父丁原を殺して時の権力者董卓に従い、次は美しき美女を巡って司徒王允の策略にかかり、その董卓を殺した。そして、董卓の遺臣に追われて領地を失ったところに後に蜀を建国する劉備の好意を踏みにじってその領地を得た。最後は自らの家臣の手にかかって殺されてしまった。日本にも同じような武将がいる。備前の宇喜多直家だ。直家は浦上家に仕えた後、岳父中山信正を殺してその領地を奪い、さらに主君である浦上宗景をも滅ぼして備前一国を掌握した。その他にも多くの者を謀殺してその地位を築いた男なのだ。しかし、それも何かの理由がなければ起こることのない問題であり、備前の人々にとっては安泰を守り抜いた英雄なのかもしれない。清忠も家臣にとっては心強い武将であり、それを一心に受けて命を賭けて戦いに行くのだ。結局は家臣は主君と一心同体なのだ。それを踏みにじればどれだけの恨みを買うやもしれぬ。そのことを宗康は伝えたかったのかもしれない。
 守綱は宴を終えて宿に戻る途中、ずっと考え事をしていた。
(3度も寝返った男が今では備前守を賜っている朝臣とは情けないものよ。しかし、時代をうまく渡り歩いているとも言えるな。そこまでして生きる目的とは一体…、己の保身だけではここまでできぬな。いやはや…、殿にも言っておかねばなるまい。万が一のことがあっては徳川家も無事では済まぬ気がしてきた)
そう思いながら、掛川郊外に設けた陣屋に戻り、翌日には礼を伝えて三河へ帰った。

「どうであった?」
守綱は家康に問われて宗康との会話をそのまま伝えた。
「なるほど…、裏切りの武将か…。備前に伝えたらどのような顔をするであろうな」
「おそらく…、笑い飛ばすかと」
「笑い飛ばすと申すか?」
「御意、彼奴の頭には我が子のことなど考えておらぬと思います」
「ほう」
「己の保身だけが彼奴が願っていることかと」
「そうなれば、清之と申す者は苦労するのぉ」
「宗康がいる限り、そうはなりますまい」
「何故、そう思う?」
「殿によく似た御方ですから」
「なるほど…」
家康は苦笑した。そして、家臣をねぎらう。
「お主にはしばらく金子との間に立ってもらうが構わぬか?」
「無論」
「次は備前も連れて行け」
「は?、備前もですか!?」
「そうだ、宗康の反応を見たい。万が一、備前の身に何かあれば攻める名目もできるしな」
「殿も御人が悪い」
「今は戦国の世ぞ、何かなければ盟など結ばぬものよ」
「それは信長公でも?」
「ははは…、さあな」
家康は返答をはぐらかした。岡崎城から眺める三河国には平穏が続くのか…、それはその地を治める家康でも解らぬ事でもあった…。

 京、都として栄えてきた場所も戦乱に呑み込まれて平穏の二文字は影薄い。その地のある場所で男が忍びと会っていた。
「ほう、家康の奴め、遠州に足を伸ばしたか」
「はっ、盟を結んだ様子」
「ほう、何を考えていることやら…。しかし、金子宗康という男、なかなか侮れぬ。遠州に赴き、探索致せ」
「ははっ」
忍びが姿を消すと男は不気味な笑みを漏らした。
「ふふふ…、信玄を破った男か…。おもしろい、一戦交えたくなったわ」
側に控えていた家臣は男の顔を見て驚いた。恐怖を感じたのだ…。

 宗康は信玄の戦いで功あった者に所領を与えた。まず、我先にと武田方に寝返った肥嶋・大絹内・永山の三家を断絶とし、代わって旧肥嶋領に葉祇宗通、旧大絹内領に島田興房の養子となった興永、旧永山領には鉄砲頭を務めた久保田久成が入り、この地を鉄砲生産の場とした。それにより、金子勢の鉄砲生産は一気に高まることになる。そして、諸城を回り、普請工事の様子を検分した後、金子城に入った。掛川を居城とした後は徳村家継が治め、安定した政治を行い、民衆からの信頼はどの城を見比べても高い。先の戦いでは戦には参加せず、後方から補給や援軍などの後方支援を行っていた。
「このたびの合戦、勝利おめでとうございまする」
「何とか勝てたという気持ちが前面に出るな」
「それだけ、力が拮抗していた証拠でしょう。しかし、武田に勝ったということは周辺の大名にとっても脅威となりましょう。特に織田は活発に忍びを発している由」
「うむ、すでに左馬に命じて警戒を強めている」
「そのほうがよろしかろうと存じます。ですが、油断はなりませぬ。武田とてまだこの遠州を狙っていることには変わりはありませぬ」
「それは承知している。今は破損が大きい犬居・宮の口の改修を急いでいる」
「御意。その上で某からお願いがありまする」
「うん?」
「遠江と信濃との境に城を築きたく存じまする」
「城か…、武田を食いとめる城が必要だな。しかし、あの当たりは飯田城に近い。築くことはできようか」
「できまする」
「ならば任せるが万が一のことも視野に入れなければなるまい。狼煙台を築こうと思うのだがどうであろう?」
「そうですな、よろしかろうと存じます。城を築く場は国境と葉祇、犬居の地が適していると思います」
「うむ、それならば金子城まで報せが届くだろうし、問題はあるまい」
「御意」
「しかし、この城も大きくなったものだな」
「はっ、先代より受け継いでかなりの月日が経ちました。それまでに幾度となく改修致しました故」
「おかげで領内屈指の堅城となった。皆に感謝せねばなるまい」
「いや、殿の手腕が良かったからこその結果。その采配は見習わなくてはなりませぬ」
「その采配とて1人では何もできぬ。やはり、家臣あってこその金子家と思わなくてはならぬ」
「左様でございまする。殿も大きくなられた」
「なれど、まだまだこれからよ。我が願いを果たすまでは…」
天下に覇を唱える、それこそが宗康の一番の願いだった。家継はそんな主君の顔をじっと見つめているのだった。
「ところで、先日の同盟の一件だがお前はどう思う?」
「ふむ…、こちらにとっては願ってもないところですが向こうにとっては不利益。家康の意図が掴めませぬ」
「たしかに…、勢力を広げることは不可能なのだから同盟を結ぶ必要はない」
「どこかに狙いがあるはずです。それが解れば警戒もできるでしょうが…」
「うむ、西遠州を狙っているとは考えられぬか?」
「あのただ広い平原をですか?」
「平原とて、それは南側の話しで北側には山もある。西に目をやれば湖もあるしな」
「ならば先手を打ってみては?」
「城でも築くか?」
「それでもよろしかろうと存じますが表面上は我らの支配でも民衆の心は徳川にあるようです」
「うむ、故に刺激になるようなことはせぬつもりだったが…」
「西側を抑えられれば我らにとっては脅威となりましょう」
「わかった。打てる手は打ってみよう」
「御意」
「あと、先日、守綱にな」
「守綱と申せば渡辺勘兵衛でございますかな?」
「うむ。その席上でな、清忠のことを問い質してみた」
「ほう、して何と?」
「勇猛果敢な男だと申しておったな」
「勇猛と申すより、謀略のほうが好む男と思っていましたが」
「平八郎忠勝と比べても引けを取らないらしい」
「これは驚きました」
本当に驚いている。
「平八郎と申せば徳川随一と名高い男、それに劣らぬとは…」
「やはり、驚くと思っていたよ。聞けば今は備前守を賜っているそうな」
「何と!?、あの男が!?」
「うむ、信じ難い話だが清忠はうまく世の中を渡り歩いているとしか思えん」
「その言葉、他の者には言わぬほうが…」
「わかっている。あの男を憎くて仕方ないのは皆一緒だ」
「ああ!、それで…」
家継は何か思い立ったかのように声をあげた。
「どうした?」
「家康の狙いが読めました」
「何?」
「おそらく、狙いは西遠州でしょうが攻めるには名目がいる。その餌が清忠なのかもしれませぬ」
「なるほど…、そのようなところに盲点があったとは…」
宗康は合点した。
「今後の交渉次第では清忠を前面に出してくるときもあるやもしれませぬ。その際、万が一、我が家臣の誰かが清忠に手を出せば、それは徳川に対する反逆行為。向こうにとってはこれほどの好都合はありませぬ。気をつけていかねば」
「うむ、家康も抜け目のない男よ」
宗康はすぅーっと障子を開く。廊下にはお耀が控えていた。
「織田の忍びの動きは?」
「何人か仕留めましたが武田からも侵入があるようです」
「警戒致せ」
「はっ」
お耀が煙のように消える。
「このまま何も起きなければ一番良いのだがなぁ…」
「それは無理な話でしょう。それにそろそろ…」
家継の言葉の先は宗康が止めた。言わずともわかっていたからだ。その時期がまもなく訪れようとしていることに宗康は少しずつ感じ取っているのだった。


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