第二章 激震

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一、騒乱

 1560年、今川家は大きく動き出した。すでに三河の松平家を併呑し、駿河・遠江を含めた大勢力は将軍家のみならず全国の大名たちにその名が知られるようになっていた。だが、義元には夢があった。上洛である。自らの力を示すため、上洛する必要があったのだ。その壁となったのが織田家である。織田家を継承しているのが「うつけ者」と名高い織田信長だった。信長は家督を相続した途端、今までの行動が嘘のように破竹の勢いをもって織田家を統一したのだ。もはや、守護職にある斯波は織田家の勢いに飲み込まれる形になっていたが全国規模の勢力としてはまだまだ小さかった。そんな折、東海地方は激震に揺れた。義元が上洛を決意し、3万の兵をもって駿府を出陣したのである。この報せは金子家にももたらされ、緊張が家臣団に走る。
「とうとう主家が動いたな」
当主として風格が出てきた直政が重臣たちを前にして言う。
「我らもおそらく動かねばならないだろうが主家よりは何の沙汰もない。岡部殿に確かめたところ、此度は駿河における家臣をもってこれを叩くとの報せがあった」
「ならば我らは?」
弘政が言う。
「後ろで物資などの輸送が主なお役目ということになる」
「朝比奈は?、朝比奈は動くのか?」
これは十左だった。
「いや、朝比奈も動かない。家督を継いだ泰朝は参戦を許されなかったらしい。まあ、狙いは我らの監視といったところだろうか」
「なるほど。留守の間に駿府を奪われれば主家は退路を失うことになる。それを見越しての朝比奈か…」
興房が応じた。
「準備だけは怠るな。いつでも動けるようしておくように」
「ははっ」
一同が頭を下げた。そして、各々引き揚げる。
「どう思う?」
残った直政は隣室に控えている男に語りかける。
「大方の予想は今川義元の勝利。しかし…」
「信長は奇才だということを忘れている」
「その通りだ、信長は遊んでいると見せかけて実は戦略を練っている男なのだから」
「今度の戦いで織田が勝利するためには信長の奇才が必要になるな」
「つまり、勝負はどちらに転ぶかわからないというところかな」
「そうだな。主家が勝っても敗れても我らの目的は一つだけしかない」
「ああ、その時こそ兄上の木阿弥通りになる」
鶴丸改め宗政が戸を開いて入ってきた。直政の補佐として助言を与え続けている。過去の蟠りなど2人には必要なかった。純粋に素直な気持ちでここにいるのだ。
「さてさて…、この戦、どうなることやら…」
直政は西の空に翳る暗雲を目にして義元の戦いを遠く遠州の地で見守った…。

 義元の軍勢は駿河を出陣して5日で三河岡崎に到着し、翌日には沓掛城に入る。その頃にはすでに前哨戦が開始されており、前衛大高城を拠点にして織田方の3つの砦に攻撃を仕掛けた。その中には後の天下人となる松平元康の姿もあった。戦いは序盤より今川勢が優勢で織田家滅亡の噂が尾張国内に流れる程だった。そんな背景があるにも関わらず、織田信長は一向に動く気配がなかった。今川勢の勢いは義元が沓掛城から尾張に入る頃には絶頂に達する。途中、桶狭間まで兵を進めたところで義元は陣を張った。その報せが信長の許に入った瞬間、目の色が変わった。
「者ども、出陣ぞ!」
わずか手勢2百余人を率いて疾風の如く、闇の清洲城から熱田神宮に向かい、戦勝祈願をしたという。信長が桶狭間に到着したときには辺りには豪雨が降り注ぎ、視界の悪さが織田勢の秘匿行動を隠した。見つけたときには時すでに遅く、今川勢本陣近くまで来ていた。その時には軍勢は3千に膨れ上がっていた。
「目指すは義元の首、それ以外は目もくれるな!。かかれっ!」
信長の命のもと、一丸となった織田勢は一路、義元の首を目指した。突如、現れた軍勢に今川勢は混乱した。当初は兵たちの喧嘩だと思っていた義元もあまりの騒ぎにおかしいことに気づく頃には織田勢の兵が周りを囲んでいた。そして、兵の1人が義元の前に現れる。
「何者じゃ!?」
「織田家々臣服部小平太、参る!」
小平太が槍をもって義元を突き刺した。
「ぐわっ!」
悲鳴をあげる義元に同じく織田家に仕える毛利新助がこれを討ち取った。今川勢はわずか十分の一の兵力だけしか持たない織田勢の前に脆くもその夢を砕かれた。
「勝ち鬨をあげよ!」
勝利を確信した織田勢は勝ち鬨をあげる。その声は戦いが行われている全ての場で聞こえ、士気を高めた織田勢の前に為す術なく敗走を余儀なくされた。しかし、こんな中、今川勢の中で唯一息を吹き返した者がいた。今川家でも屈指の勇を誇る岡部元信である。義元を討たれたことを知った元信は手勢を率いて退却するどころか、奪われた義元の首を奪い返すべく、毛利新助に攻めかかり、首を見事奪還したのである。それでも圧倒的有利を覆した信長の存在は大きく、士気を高めた織田勢は追撃を開始する。一方、大高城で訃報を聞いた松平元康もまた退却の路についていたのだが岡崎城に駐留していた代官が逃げたとの報せを得て家臣と共に故郷に戻った。これ以後、元康は今川主家の許へ戻ることはなかった…。

 『義元散る』の報せは直政の許にも届けられた。すぐに総崩れする今川勢を迎えるため、三河との国境まで軍勢を進める。三河に入らなかったのは朝比奈を警戒してのことだった。この位置であれば万が一、何かが起きたとしてもすぐに退却ができるからだ。無傷の者はほとんどいない。大半が傷を負っている姿が見てとれた。
「今川の命運はまもなく尽きるだろうな」
「………」
「このままでは…」
直政の言葉は家臣団に緊張感が走った。しかし、諌める者はいない。皆が内心思っていることなのかもしれない。
「殿…」
「ん?」
景成の呼びかけに応じる。
「勝てますか?」
「ああ、勝てるさ。だから、ここにいるんだ」
直政と景成の一問一答の意味は誰にもわからなかった…。

 今川義元の死後、嫡男氏真が家督を継いだのだが、氏真は国を纏めるより貴族的な文化を好む人物であった。父の仇討ちなど遠い未来のものと知らされることになる。遠州中部を治める金子家でも大きな波紋を呼び、二の丸屋敷において重臣たちが連日論議を続けていた。
「今の主家では必ずや時の流れに飲み込まれる。今こそ立ち上がり、真の目的を果たすべきだ」
「いや、それはまだ早い。今の統率力では北の森さえ勝てぬ」
「ならば三河に離れた松平元康と組んでみては…」
家臣は離反派・慎重派・中立派が入り乱れているがほとんど進展はなく、無意味に等しかった。直政はこの論議にはまったく加わらず、自室で左馬介、興房、十左と話しをしていた。3人とも離反にはまだ早いと考えていた。
「離反派の筆頭は奥山邦継ですな。あの男はかつて矢野義康に組みしていたこともあり、野心の大きい男ですな」
興房が言うと直政がふと思い立ったかのように呟く。
「うむ…、そういえば義康はどうしていようか?」
「そのまま織田家に仕えている様子」
左馬介が言う。
「そうか…、敵に回るか」
「その前に家臣を束なければなりませぬ」
興房が苦言を呈す。
「よし、皆はまだ広間にいるな?」
「はっ、しかし、応じますかな?」
「わからぬ、なれど、応じなければ国は二つ三つに割れる」
「奥山一派の動向が気になるところですが…」
「そのときは潰してしまえばよかろう!」
十左が過激な発言をする。興房がまた苦言を呈するが直政は十左の言葉に応じる。
「万が一、森に走るようなことがあれば由々しき事態。その時は覚悟を決めてもらうぞ」
「それは当然のことにございりまする」
興房は諦め表情で言った。
「では、そろそろ行くとしようか」
直政が立ちあがると皆も頷いて応じた。二の丸屋敷の広間では家臣たちが繰り返し論議を続けている。
「静まれぃ!、殿のお成りであるぞ!」
誰かが叫ぶと騒がしかった声が止まり、一瞬にして左右に退いた。直政が上座に座って広間を見まわす。
「お主らにも言いたいことはあるだろう。しかし、この件は単純には決められる問題ではない。一つの発言が金子の家を滅ぼしかねぬ。まずは…、邦継、お主の意見を聞かせてくれるか?」
「はっ、私の考えはこれを機に全兵を挙げて掛川を落とし、その勢いをもって高天神の要衝を抑えれば森家に対する威嚇になると同時に、主家に対する威厳を示すことになります。そして、うまくいけば主家を配下にし、一挙に2国を治めることも可能かと存じます」
「ふむ、たしかに天下に覇を知らしめるには必要なことだが…。松家、お主の意見も聞こうか?」
松家新之助は徳村家に仕える若い武将なのだが高い能力を家継によって見出され、、家継の信任厚く、家継の留守を預かる人物でもある。その家継はというと…、森家への警戒のため、嫡子家義や真概利康らと共に高崎城にいた。
「はっ、まだ本城の普請も完全ではなく、多くの死角が点在します。また清忠様の離反もあり、強力な後ろ盾もまだまだ必要かと思われます。今はまだ主家より離れるのは得策ではありませぬ」
前年、清政が病死したのを機に清忠と弟元忠が突如離反した。また、今川義元の死が彼らをここに戻させる機会も失っていた。しかし、清忠の子清之はそんな父を嫌い、心有る家臣を率いて諏訪原城に残るが主家の命により、諏訪原から柴浦に拠点を移していた。今は城壁の普請工事を続けている。
「清之、何かあるか?」
「はっ、新之助の言い分に賛成致しまする。奥山殿の意見は将来的にはよろしいですが今の殿の立場を考えれば無理があるかと思われます」
「うむ、中立派は意見あるか?」
中立派の家臣に声をかける。
「はっ…、殿に一存致します」
誰かが答える。
「相解った。皆もそれで良いか?」
直政は家臣たちを見渡す。離反派の邦継が舌打ちしながら清之を睨んでいる姿が見てとれた。
「邦継、何か言いたそうだな?」
「いえ…、何も」
話題を振るなと言わんばかりに邦継は後ろに退こうとするが直政の一言でその動きが止まる。
「お主、森とつながっているそうだな」
その瞬間、邦継の顔が蒼白になった。家臣たちは直政の言葉に驚き、直政と邦継の顔を交互に見る。
「な、何をそのような戯言を…」
「ほう、知らぬと申すか?」
「し、知りませぬ」
「ならば、私に忍びがいることは知っていような?」
邦継の体が震えている。いや、怯えているのだろうか…。邦継が左馬介の存在を忘れていたとは思えないが油断していたのだろう。徹底的な失策であった。左馬介は森家の情報を随時、直政の耳に入れている。その過程で邦継内通の報せも受けていたのだ。体ごと崩れる邦継を見る。
「邦継よ、私を甘く見るなよ。何も知らぬと思ったら大きな間違いだぞ」
「は、ははっ―――…」
邦継に味方していた離反派の家臣たちも蒼白になる。失脚を恐れてのことだ。
「皆、異論はあるか?」
「ございませぬ」
清之が言うと家臣一同が平伏する。
「この論議はやはり無意味であったな。答えは皆が一番解るであろう。さて…、邦継よ」
「は…」
「沙汰あるまで小石山城預かりとする」
「ははっ」
小石山城とは左馬介が金子城の北の小高い丘に築いた城で小規模ながら要塞だった。普請は全て左馬介によるものであり、内部は迷路のようになっているという。邦継はこの城で5年もの間、幽閉されることになる。高崎城で邦継の処分を聞いた家継は当然のように言ってのけ、隠居している朱鷺田忠政は金子家の危機を未然に防いだ直政の手腕を喜んだ。直政の亡き後、家老の地位にあった忠政や元景は年寄衆として政治の中枢からは退き、相談役として各々の屋敷で余生を過ごしていた…。


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