第一章 継承
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十二、弟と対面
直政は主君義元との謁見を断わられてから領内経営に没頭した。朝から景成に会って城普請の状況を聞き、十左や忠勝を連れて領内の巡回などを行った。昼には河川の治水や政策の協議、未耕地の開発などに力を注ぐ毎日を送っていた頃、ふと思い出すことがあった。
「そういえば鶴丸はどうしているだろうか」
夏の翳りが迫るこの頃、2ヶ月も間、鶴丸とは会っていなかった。茶を持ってきた多恵が寝転がっている直政を見て言う。
「若様、お疲れですか?」
「いや、たいしたことじゃない」
そう言いつつも疲れは顔に出ていた。多恵も仕方ないことだと思い、茶をそっと側に置いて何か話題を探した。
「そういえば、望月様は如何なされたのですか?」
「ああ、信三か…。もうしばらく待ってくれとのことだ。今は城下に屋敷を構えてそこに移り住んでいる」
「そうですか…、一度会ってみたいですね」
「彼奴には妻がいるぞ」
「そう言う意味ではありません」
「ははは…、そうだったな。明日も仕事と考えると、ときより自分が嫌になる」
「皆はもっと忙しくなさっておられますよ」
「それもそうだな。そういえば…、近頃、ふと思うことがあるのだが…」
「何でございましょう?」
「鶴丸は今頃どうしているのかと思ってな」
「鶴丸様ですか…、たしか、朱鷺田のお城から諏訪原へ行き、そこからは…」
多恵はその先を言わなかった。直政も聞く気もなかったが多恵の表情を見つめていた。
「どこにいるのやら…、なあ、多恵」
多恵はピクリと眉を動かしたがすぐにいつもの表情に戻った。
鶴丸は国外追放となっていたが彼は駿府にいないことをすでに耳にしていた。どうやら金子城の近くにいるらしいと左馬介からの報せも受けていたのだが、多恵はどうしても会わしたくないらしく、話題を他へそらそうとする。どうやら、鶴丸が恋しいらしいのだ。直政はふと多恵に言う。
「鶴丸が恋しいか?」
直政と鶴丸はほとんど面識はない。会おうとすれば義姫が悉く邪魔したからだ。直政の一言で表情が崩れ始める。
「はい…」
「お供をしたいか?」
「はい…」
「ならば一緒に行くといい。左馬には追うなと伝えておこう」
「えっ!?」
多恵は驚きを隠せない。信じられないという思いが前面に出ている。
「ここもこれからは戦続きになるだろう。鶴丸と一緒であればまき込まれずに済む」
しかし、多恵は首を横に振って断った。疲労で倒れそうな表情をしている直政を見ていると、とてもそんな気にはなれなかったからである。
「若様、少しはお休みください」
「いや、いい。皆に比べると…、これしき…」
直政の感覚がうわっと浮く。多恵が何かを叫んでいるがまったく耳に入らない。そして、ドタンッと畳を鳴らして意識が遠のいてしまった。多恵はすぐに家士を呼んで榊原長安を呼ぶよう伝えた。
報せを受けた典医榊原長安が駆けつけた。長安は元々町医者だったのだが先代照政が不治の病にかかった際、いずれの医者も匙を投げたが長安は中国薬術秘伝の秘薬を投与してこれを救った。それ以来、照政は痛く長安を気に入り、典医として迎えた。照政の最後を診たのも長安である。長安には2人の子がいるが長子紹翠(しょうすい)は父の後継者として医術を学び、次子長政は武士として松山家に仕えていた。直政を診た長安は溜め息をつきながら大事ないことを告げ、
「過労でございましょう。しかし、この年で過労とは…」
側にいる清政と景成に言う。
「申し訳ございませぬ。何分、人手が足りぬ模様で…」
景成は頭を掻きながら申し訳なさそうに言うと清政は、
「まあ、これも経験じゃろう」
と、事もなげに言った。景成も頷く。
「体が慣れてくれば自然と身につくものですから」
「うむ、直政を見ているとわしの愚息など雲泥の差だな」
「そういえば、清忠殿は?」
「今は矢野爺に託してある」
「なるほど…、鬼に金棒とはこのことですな」
「お主もうまいことを言うな」
2人は笑おうとしたが長安に諌められて黙った。清忠は父の命で矢野義綱のもとで柴浦城を治める朱鷺田忠勝と兵の編成を行っていた。また、ここには長居弘政や泊貴房といった若い武将たちも多く集まっている。その彼らを見ているのが矢野義綱である。義綱は一度は清忠に裏切られているため、清忠にしてみれば油断できない人物でもある。
直政は結局、5日間寝込んだ。その間、多恵が直政の身の回りの世話を行っていた。
数人の侍がお堂の中で話し合っていた。わずかな光が不動明王を照らす。
「暗殺だと!?」
1人が叫ぶ。
「そうだ、殿は倒られたと聞く。今が好機ではないか」
「奥に踏み込めとでも申すのか?」
「そんな犬死みたいなことはしないさ。毒殺するのよ」
「調合する薬に混ぜるのか?」
「そうだ」
「馬鹿な…。長安は名医と言われるほどの御方だぞ。毒の見分けなど…」
「それができるのさ。長安には弟子がいてな、その弟子が薬の調合を行うそうだ」
「ならば、その弟子を使って…」
「ああ、詳しいことはわしに任せよ。よいな」
各々が頷いた…。
直政は長安と会っていた。薬湯を飲み、体調は幾分か良くなってきていたが職務にはまだ戻れなかった。直政の代理は清政が務め、補佐に松山元景や朱鷺田忠政ら年寄衆が引き受けていた。長安はいつも1人の若者を連れてくる。
「どうですかな、体調は?」
「幾分かは」
「そうですか、あまり無理はなさらぬよう」
「心得ております」
そう言いながら、ふと視線を横に向ける。
「この者は?」
「私のもとで医術の勉学に励んでいる立花三郎にござる。殿に渡す薬はこの者が調合しています」
三郎は一礼して長安の後ろに退がる。しばらく長安と話しをしたが三郎は一言も話しをすることがなかった。長安が辞すると多恵が入って来た。
「あの者、どう思う?」
「良い若者ではありませんか?」
「そうではない、目を合わせなかったのだ」
「目を…ですか?」
「うむ、何かあると思ってな。左馬、いるか?」
「はっ」
左馬介は隣室から戸を開いて入ってくる。
「あの者を見張れ」
「承知致しました」
左馬介が退がると多恵が言う。
「怪しいのですか?」
「一応な、一応…。うん?、庭に誰かいるな」
直政はそう答えると布団を飛び出して庭に面した廊下に出た。池の近くに人が見える。それが誰であるかすぐに察した。
「お前は…」
「お初にお目にかかります、兄上」
「そういえば、初めてだったな。幾度となく会いに行ったことはあったが継母に邪魔されてな」
「知っています」
「まあ、ここではつもる話しもできぬ。中へ入らぬか?」
「いえ、遠慮しておきましょう。私が中に入れば他の方々が黙っておりませぬ」
「そうか…」
「九郎丸は元気にしていますか?」
「ああ、二の丸にいる。最近、会っていないが元気にしているようだ。会うか?」
「いや、やめておきましょう」
鶴丸は遠慮がちに言う。
「ところで自分勝手なことかもしれないがお主に頼みがある」
「頼み?」
「お前を登用したい。本気だ」
「その気持ちは有り難いですがまだ私の決心がつきませぬ。それに私がここに参ったのはあることを告げるため」
「あること?」
「兄上は命を狙われております」
「当然のことだろうな。狙う者はいくらでもいる」
「兄上は金子の家にいなくてはならない存在です。万が一のことがあっては…」
「それはどういうことだ?」
鶴丸が左馬介の存在を知らぬはずがない。多恵の口から伝わっているはずなのだから。現に伝わっていなければここまで入り込めるはずがなかった。だから、鶴丸の言葉は直政を驚かせた。左馬介にも知らぬ事実があるということだ。事実であれば…。
「詳しく聞きたい」
直政は多恵に茶を用意するように命じると鶴丸に言う。
「中に入れないとは言わぬだろうな?」
「仕方ありませんな」
鶴丸は溜め息まじりに直政の寝所に入った。中で行われたことを知る者は2人の他には多恵だけであった。
これより数日前、南口丸普請頭である立花新八郎は非番の日、甥の三郎に会った。
「叔父上、久しぶりに会いましたが如何なされた?」
「うむ、手伝って欲しいことがあってな」
「手伝う?、力仕事はできませんよ」
「お前にそんなことを頼んだところで何もできないだろう?」
「まあ、そうですな」
「実はな、薬を調合してもらいたいのだ」
「薬?、誰か病でも…」
「飲むのはわしではない。若き主に飲んで頂こうと思う」
「若き主…って…まさか…」
三郎が蒼白になった。新八郎の言葉の意味を理解したのだ。
「毒殺する」
「む、無茶だ。叔父上はあの御方を知らな過ぎる」
「大丈夫だ、命は保証する。殺すのが怖いなら毒を調達してもらいたい」
「…だ、駄目だ。私は暗殺などに加担できぬ」
「そうか…、それなら…」
新八郎は脇差を抜くと三郎の首に近づける。
「承知せぬのであればお前の命を頂くまでだな」
「なっ!?」
脅しをかけられた三郎は止む得ず従うことにした。しかし、毒を調達するつもりはなかった。新八郎には長安がどこかに隠してあると言って時を稼いだ。左馬介が監視に当たった時期はこの頃だった。左馬介は金子家士に扮して長安に近づいて三郎のことを探った。そして、新八郎の存在が浮上して事実を突き止めた。直政に伝える。傍らには鶴丸がいた。結局、去ることなく直政に言いくるめられてあるお役目を得た。それは影武者である。影武者として政治の中枢に組み込むことに成功した。
「そうか、鶴の言うとおりになってきたな」
「そうですな。三郎が拒んでいるのが何よりの救いです」
「三郎が鶴の腹心だと聞いたときは驚いたがさすがはお前の家臣だな。暗殺にも耳を貸さぬとは」
「そこが彼奴のいいところなんだ」
「ところで、左馬、敵の数は?」
話しを左馬介に振る。
「はっ、十数人かと思われます。首謀者は立花新八郎。御存知のとおり、三郎の叔父にあたります」
「そうか、一網打尽は難しいか…。戦うとすればどこになる?」
「はっ、城の中では混乱をきたすかもしれませんが敵の拠点を狙えば…」
「拠点か…、帰るところを失えば愚かな考えも自然と消えうせるか…。よし、すぐに探ってみてくれ」
「承知致しました」
「多恵、長安を呼んでくれ。三郎も一緒にな」
「はい」
それからまもなくして長安と三郎がやって来た。そして、驚きの顔をする。国外追放になったと聞いていた鶴丸がそこにいたからである…。
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