第一章 継承

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十、明暗を分けた兄弟

 直政ら4人が犬居から姿を消した。犬居を含む遠州北部を支配する森長春は甚兵衛の依頼で密かに関所などを設けたが、今後の勢力拡大のためにあわよくば直政の暗殺を試みた。行き来する商人や旅人を検分する強行姿勢は主家今川家より批判があったばかりか、直政らも取り逃がし、最後に残ったのは長政に対する非難の言葉だけだった。結局、無駄な労力だけを使って血税を遣い続けた末路でもあった。一方の甚兵衛はそんな長政のことなど気にすることもなく直政らに対して追跡を続けていたが二手に別れたこともあり、甚兵衛は信三よりも直政一点に目標を定めて追いかけ続けた。
 直政と左馬介は街道を避けて間道を通った。森家の家士には気づかれはしなかったが甚兵衛率いる忍者集団は撒くことは不可能に等しく、距離も徐々に迫り、2人に近づきつつあった。直政と共に行く左馬介も馬鹿ではない。本拠の村から配下の忍びたちを出張らせて罠を仕掛けてこれに対抗した。
「左馬、少し休まぬか?」
直政は息を弾ませながら言うと左馬介は振り向きながらどこかに目配せする。直政は左馬介の仕草を見て初めて周りに護衛がついていることに気づいた。
「そろそろ、10年余ぶりの再会を果たすときでしょうな」
「殺るのか?」
「敵として来ている以上、無用な手加減をすれば徳之介の恥にさせてしまいまする」
「そうだな…」
直政は甚兵衛も仲間にできないかと思っていたのだが左馬介は首を横に振った。
「ここは若い者に任せますがよろしいですか?」
「ああ、構わぬ」
「殿と年もあまり変わらぬ若忍ですが力量は我が側近にも劣りませぬ。ご安心を」
「うむ」
直政は大きな石に腰をかけると若い2人の忍びが現れた。1人は直政の後ろに、もう1人は木の上に備えた。父から譲り受けた大刀を抜き放つと左馬介らの動きを見守った。

 直政から離れた左馬介は配下に指示を送りながら布陣する。一方の甚兵衛もまた配下20人で左馬介の動きを睨みながら待ち構えた。甚兵衛は勝ちに不安などなかったが味方が逃げる不安が大きかった。味方は全員、父に仕えていた忍びばかりで左馬介の力量はよく知っている者たちばかりだった。また、甚兵衛は変化を得意とするが忍び同士の戦い、ましてや、左馬介率いる手練ばかりではいくら甚兵衛のほうが数で上回っていたとしても勝ち目はなかった。小細工など無用に等しい。しかし、直政の姿が見えないことを報された甚兵衛は狙いを直政に変更して夜まで待つことを決めたが…。
 一方の左馬介は甚兵衛に動きがないことを不審に思い、こちらから仕掛けることにした。「攻め」の合図を送ると3人1組になって敵に襲いかかる。当然のことながら敵も反撃に転じるが左馬介のほうが動きが速い。しかも、仲間につなぎを取る前に瞬殺されているので甚兵衛方は瞬く間に数を減らしていく。左馬介は味方の動きを利用して甚兵衛の背後に回る。なれど、甚兵衛も咄嗟の判断で気配を消して地に潜る。左馬介たちは敵本陣に到達するが甚兵衛の姿が消えていることに悟ると直政のほうが心配になった。それでも、敵が周りを囲んでいる以上、簡単には動けない。こればかりは運に任せる他になかった。
 直政を護衛している忍びは吉野時蔵の従弟時の助、中野忠勝の子忠豊である。年は16と18であったが力量は左馬介が認めるほどの能力が秘めていた。甚兵衛は父親は知っていても彼らのことまでわからない。直政は大きな石の上で身構えている。
「その方が甚兵衛か…。左馬介の弟らしいな」
甚兵衛はピクリと眉を潜めるが直政の問いには答えずに向かってくる。気配が感じないと悟ってことだった。刀を構えて横に流れる。直政は大刀を構えて甚兵衛の動きを見守る。直政はあらかじめ掴んでおいた小石を甚兵衛に投げつけて威嚇する。しかし、到底、当たるはずもなく左右に避けながら直政に迫る。直政との間合いを詰めようと動いた瞬間、上から時の助が、後ろから忠豊が襲いかかった。突然、現れた気配に驚きつつも攻撃を交わす。甚兵衛も反撃に転ずるが2人の能力がそれを上回る。次第に追い込まれていく甚兵衛の視界に直政が目に入った。甚兵衛は決死の覚悟で直政に突進する。2人の忍びから斬りつけられてもまったく動じない。直政も刀を構えた。父譲り、守役長居弘政譲りの剣法である。童子と侮っていた甚兵衛が一気に飛びかかる。その空いた懐に直政の刀が滑り込んだ。
「ぐ…」
食い込む刀にうめき声を上げた。そこへ左馬介が甚兵衛方の忍びを全滅させて直政のところに戻ってきた。
「徳之介!」
呼びかけるが応答はない。もう意識すらないように思えた。直政が近づく。
「左馬、すまぬ」
左馬介はこの言葉を耳に入れることなく、息が途絶えた弟に呟く。
「甚兵衛…、許せ…」
左馬介は苦虫を噛むような無念の表情で甚兵衛を見つめていた。直政も合掌しながら成仏を祈った。そして、黒雲に対する憎悪の念が一層強くなったのである…。

 直政と左馬介が山中にて戦いを繰り広げている頃、信三とお篠は天竜川を渡り、対岸を南下して只来の渡しに着いていた。この辺りは森領ではなかったが森長春の密偵が2人の姿を見つけると忍びたちを束ねる佐藤蔵人(くらんど)に伝えた。蔵人は黒雲一派ではないが金子家に仕える左馬介の存在を嫌っていた。報せを受けた蔵人はただちに配下に命じて2人に追手を差し向けた。信三たちは渡しから人の多い街道を歩いて高崎城が見える丘に着くと一息ついた。お篠に疲れが見えていたので近くの茶店で休もうとした矢先のことだった。2人を蔵人率いる忍びを囲まれた。
「何者か?」
「葉祇の倅だな?」
「如何にも」
「恨みはないが死んでもらう」
「やめておけ。お前たちでは私にはかなわぬ」
信三が蔵人に言うが蔵人も臆さない。間合いを取りつつ攻撃の陣形を組む。そこまでならば明らかに蔵人のほうが優勢に見えたのだが…。
「貴様ら、ここで何をしておるか!?」
突如、現れた軍勢を率いている男が叫ぶ。
「おお…」
信三は男の顔を見て懐かしそうな顔をする。高崎家々臣望月武元率いる足軽隊50人が蔵人らを囲む。武元は信三の従兄にあたる。
「この地は高崎定長様の領地と知ってのことか!。その者は高崎に属する者、お主ら誰に仕える者か!?」
「ちっ…」
蔵人は舌打ちしつつも、多勢に無勢と見て取るや、「散れい!」と叫んで四方八方に四散させて自らも退いた。
「すまぬ、助かったぞ」
「信三…、この地に戻って来るとは聞いていたが女連れとは思わなかったぞ」
「ん、ああ、俺の妻のお篠だ」
「なにぃ!?、妻だとぉ!!??。いつ夫婦(めおと)に…」
「それは戻ってからゆるりと」
信三はあっさりと言うが武元は悲しい表情をしていた。
「ああ…、父上の顔が浮かぶ…」
信三の爆弾発言で力が抜けてしまった武元をよそに、信三とお篠は馬に揺られながらはしゃいでいた…。

「叔父上、ただいま戻りました」
信三はすでに隠居していた叔父信武に頭を下げた。信武の表情は明るい。
「やっと戻ってきてくれたな。どれだけの戦場(いくさば)に参戦した?」
「はっ、尾張・美濃を中心に加賀の一揆にも加わっておりました」
「そうか、武元など家から出ようとせぬ故、森家との戦いに加わっただけじゃ。もっと信三を見習ってもらわないとな」
武元は信三の横で鎮座していたが父の指摘に顔を赤くする。先ほどの呆れ顔は微塵も感じさせない。
「しかし、もうすぐ大きな戦いも起こるだろう。金子の御家騒動など序の口に過ぎぬ。本当の地獄をこれからじゃ。心の支えにもなろうが大事にするがよい。さて…、話しは変わるが金子の若様は一緒ではなかったのか?」
「はっ、森家の追撃を逃れるために二手に別れて私は天竜川を渡り、若殿は諏訪原に向かいました」
「そうか…、しかし、何故別れたのじゃ?。お前の武勇であれば森の弱兵如き、打ち破れように…。最近、武元も何も言わぬのでお主が来ることも知らなかったからな」
信武は我が子を睨みながら言う。それを制するように信三が口を挟む。
「黒雲と申す者は御存知で?」
「いや、知らぬ。何者じゃ?」
「忍びです。かなりの手練のようで過去には京を中心に暗躍していたとか…」
「何!?、ならばお前がいなくてどうやって諏訪原に抜ける?」
「ご安心を。若殿にも忍びがついております」
「ほう、忍びがな。たしか…、照政殿にも忍びが仕えていたな。名はたしか…」
「亀井左馬介」
「おお、そうじゃ!。たしか、そのような名じゃったわい。照政殿に向けられた刺客は全て左馬介が制したそうな。そうかそうか…、彼奴が若様についたか…」
信武は安心した表情を見せた。信三もニコリと笑っている。
 外から流れる日差しか時が経るにつれて居間を霞めていった…。

 甚兵衛の囲みを突破した直政は左馬介に伴われて初めて忍びの村に入った。切り立った崖に凸凹した道を歩き、秘境とも呼べる場所に村はあった。外の者がこの村に入るのは景成を含めて2人目である。
「この村にいる者は皆忍びです。最も、この村ができたのは10年余前のことです」
左馬介がそう言ったが見る限りではそうは見えなかった。左馬介は直政をある屋敷に案内し、自身は屋形に戻った。客間にはいつの間にか茶が置かれて湯気とほのかな匂いが広がりを見せる。その漂いを楽しみながら茶には手をつけずにきれいに整えられた庭に面した廊下に腰を下ろしていた。丁度、高崎の方向である。順調にいけば高崎には信三が到着しているはずだからだ。そんな直政を見守る人物がいた。この屋敷の主の鳥居行左衛門という初老の老人だ。老人は直政がかける言葉には応じるが自分から声をかけることはなく、じっと見つめているだけであった。しかし、直政は一向に気にすることなく、のんびりと庭を眺めていたのだがふと気配を感じて、そちらに視線を写す。ぱっと見ではわからないがどうやら誰か隠れているようだ。
「誰かおるのか?」
静かな声音が言うが相手は動かない。そこに老人が声をかけた。
「如何なされた?」
「あ、いや…」
「何かを見つめておられたようですが…」
「誰かいる気配を感じましたので…」
しかし、老人は気配を気にすることなく、
「まあまあ、お気になさらずに。お茶が冷めてしまいますぞ」
笑いながら勧める。直政も老人の巧みな話術に吸い込まれるかのように気配のことは気にしなくなった。お茶を勧める老人を気遣いながらも今後のことを考えれば自然と沈黙が直政を包み込む。それを知ってか知らずか、老人は尚も茶を勧める。
「お茶が冷めてしまいますぞ」
「気になされなくてもよろしゅうございますのに」
「いやいや、長に仕える者が参っておるというのに何もせぬというのは無礼に当たりまする」
と丁重な仕儀で返してきた。直政はせっかくの申し出と心に決めて茶を一気に喉に注ぐ。熱くもなく冷めてもない茶湯が直政の体を覆った。
「ふぅ…」
不思議なことに安堵感だけが伝わる空間を得た。それでも、老人の言葉には訂正を加えることを忘れない。
「左馬とは君臣の間柄ではない。友と友、ただそれだけだ。それだけあれば口に出さずとも心は伝わる。そうではござらんか?」
「たしかに…」
老人は静かな声で頷く。まるで全てを知っているかのように…。
「長居殿」
「何でござろうか?」
「あなたは左馬よりも高い地位にある者ではござらんか?」
「何故、そう思われる?」
「勘です。私の勘がそう言わせておるのでございます」
「ほう、勘か…」
老人は苦笑する。
「勘は運命を左右するときこそ初めて発揮する代物。大事になされよ」
そう言うと直政の側を離れて廊下を歩いていく。直政が飲み干した茶碗も一緒になくなっていた。いつの間にか…。

 翌朝、直政は左馬介と亀井党の忍びたちに守られて高崎城に入った。そして、本丸にて城主高崎定長に談義した後、望月信武の屋敷を訪れた。突然の来訪者に嫡子武元は驚きを隠せない。従者は左馬介1人だけなのだから…。最も、左馬介の力量を知っていれば驚きもせずに納得したのだろうが武元は籠から出ない鳥でもあった。知らぬことが多すぎた。
「信三が世話になり申した」
信武が頭を深々と下げる。
「とんでもございません。信三殿が居らなければ私の命などとうに消えていたでしょう。ところで本日、私がここに来たのは…」
「解っております。いずれはこうなると思っておりました。信三もその覚悟を決めておる様子、葉祇家の再興は遺臣はもとより我ら望月一党にとっても喜ばしい限り」
信武は本当に喜んでいた。以前より再興は成ると確信していたからだ。続けて言う。
「私も信三と共に行きましょうかね」
「えっ!?、あ、いや、それは…」
信武までが金子家に来られては高崎家との間に確執が起きてもおかしくない。直政は焦った。しかし、それを見越していたかのように信武は笑う。
「わはははは…、冗談ですよ、冗談。望月家は葉祇とは血縁であっても高崎家の従者、主君が健在である以上、葉祇に従う訳には参りませぬ故」
そう説明されても直政の心は尚もハラハラしていたのである…。


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