第一章 継承

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九、甚兵衛なる人物

 犬居の城下でも天竜川に近いところに小竹屋という旅籠に絹笠甚兵衛という主人がいる。この主人、人望が厚く、民どころか豪農や森家の家士に至るまでかなりの信頼が置かれているほどの人物である。かつて、この地には長年武田の忍びの侵入を許していたが甚兵衛が宿を構えてから数日のうちに姿を消すという事態となった。これに驚いたのは甲斐の雄、武田信虎でもなくば東海の今川義元でもない。黒雲である。黒雲は甚兵衛の能力を気に入り、ある契りを結んだ。その契りとは2人の間のみに交わされたもので誰にもわからなかったがその契りによって甚兵衛は黒雲の一味に入った。この契りの後、黒雲は冷笑したという。
 さて、直政が左馬介と共に犬居に入った頃、金子城で火の手が上がった。燃えたのは二の丸の天照櫓だったのだが左馬介の留守を任されていたお耀たちの素早い処置で火は広がらずに済んだ。そして、すぐに探索が行われて2人の足軽が捕らえられた。足軽たちは執拗な拷問の末、ようやく全てを吐いた。なれど頼んだ者の名は知れなかった。この報せを犬居で聞いた2人は神妙な面持ちで目の前にいる吉野時蔵の話しを聞いている。時蔵は亀井忍軍の副棟梁を務めている。
「おそらく黒雲か、上野伊賀の手の者であろうと思うがどちらにしろ敵に変わりはない」
直政の言葉に左馬介が頷いて時蔵に聞く。
「して、被害は?」
「天照櫓のみで被害はありませぬ」
「そうか…、黒雲らの動きは?」
「今のところは…」
「ふむ…、他に何かあるか?」
「はっ、矢野義康が尾張に逃れたとの報せが入っております」
「尾張に?、ならば戦いは近いな」
直政が言う。
「とうとう尾張が動くか…」
「織田家が動くのは今に始まったことではありませぬ。時蔵」
「はっ、織田の様子、探ってみてくれ」
「承知致しました」
時蔵がその場を去った。
「彼奴が時蔵か…」
「はっ、如何なされました?」
「目だけで表情はわからぬが私を見下していたな。おそらく嘲笑っていたのだろう」
「彼奴はいずれ裏切るかもしれませぬ」
「だろうな、殺気で満ちている気がした」
左馬介は黙って頷いた。
「ところでそろそろ動くか」
「そうですな。望月は小竹屋の食客らしい」
「それで、ここに宿を取ったのか…」
出水屋は小竹屋の斜め前に存在した。
「まあ、そういうことです。あ、丁度出てきましたね。あれが望月信三です」
暖簾を潜った信三は体型が大きく、袖から見える腕は太く見えた。背は高く、穏やかな表情をしている。
「女は嫌いだそうですよ」
「ほう、女は好まぬか…」
「殿はどうですか?」
「さあな」
直政は微笑し、左馬介は小竹屋を見つめている。しかし、急に左馬介の表情が変わった。
「どうした?」
「あ、あれは徳之介ではないか!?」
「ん?、何者だ?」
「………」
「左馬、どうした?」
沈黙した左馬介に直政がもう一度聞きなおすが反応が鈍い。直政が左馬介の視線の先を見ると暖簾の近くで店の者と話しをしている男を見つけた。初老の男のようだが…。
(この左馬を黙らせる程の男か…、何者なんだ…)
直政は沈黙を守る左馬介を部屋に残して外に出ることにした。日はまだ高く、沈むまでにはまだ時間があったため、犬居城下を見て回ることにした。金子や矢野城下とは違い、交通の要衝になっているので商人たちの往来が激しい。北に向かえば信州飯田に抜け、天竜川を渡れば三河へ続く街道に出る。南に行けば遠州の中心都市・掛川が見え、今川家の重要拠点としても名高い場所でもあった。直政が商屋の間を練り歩いているとふと小さな小屋で子供たちの声が聞こえた。その声に導かれるようにしてそうっと覗いてみると若者が子供たちに筆を教えていた。しばらく眺めていると相手のほうが気づいたらしく声をかけてきた。
「何か御用かな?」
「いえいえ、何やら楽しそうな声が聞こえたものでつい…」
「そうですか、この犬居は初めてで?」
「ええ、父が亡くなったものでふらっと旅をしている者です」
「まあ、ここでは何ですから中にどうぞ」
「よろしいので?」
「構いませぬ、手前は子供たちが書いたものを見ているだけですから。さあ、どうぞ」
直政は若者に導かれるがまま、中に入った。この小屋は庭続きで隣の屋敷に通じているようである。しばらく、居間で待たされたが若者はすぐにやって来た。しかし、姿形が違った。正装なのである。直政の前に座ると平伏する。
「金子玄十郎殿とお見受け致す」
直政は驚きを隠せない。名を明かした覚えはない。
「貴公は?」
「はっ、某は望月信三と申しまする。高崎家に仕えまする望月信武の甥に当たります」
「ではあなたが?」
「はい、私を探していることは風の噂で聞いておりました。先程の無礼、お許しください」
「とんでもございません。私の顔を知っておられたのですか?」
「ええ、私もあちこちの戦いに参戦した経緯があります。無論、照政様が指揮された戦にも度々参戦したことがあります」
「しかし…、私は戦場(いくさば)には一度も…」
「いいえ、おそらく若様は覚えてはおらぬようですが森家との合戦のときに奥方様が陣中見舞いをされた際、ご同行されていました。その時、たまたま本陣の近くを任されていたのですが、あの時の面影が今も残っております」
「そうですか…」
そう言われても直政には一向に記憶がない。かなり幼少の頃のことなのだろう。直政は相づちを打つ。
「それにこちらでやっかいになっている宿の主人からも若様が来ることを聞かされていましたので…」
「えっ?」
直政の表情が蒼白になる。
「どうなされた?」
「その事を誰かに他言されましたか?」
「いや、今が初めてでござるが…、それが何か?」
直政は宿の主人が怪しいと睨み、信三にここに来た理由を話すと次は信三が蒼白になる。
「ならば、甚兵衛殿は一体何者なんだ…」
「甚兵衛と申すのか…」
「はい、この犬居では知らぬ者はおりませぬ」
「まあ、その甚兵衛なる人物については私の連れが知っている様子。一度、会われますか?」
「いや、今、会えば逆に怪しまれる可能性がある。もうしばらくこのままで…。甚兵衛殿には某から…」
そのとき、カタンという物音がした。2人は話しを止めて物陰に隠れている者を捕らえた。その顔を見て信三は冷静に言う。
「お鴻(こう)殿、今の話しを聞きましたね?」
お鴻は震えていたが直政の顔を見て唖然とした。とても、有力大名の殿様には見えなかったからである。
「お鴻殿と言われるか、この事を他言されても結構だが黒雲には気をつけよと甚兵衛殿に伝えておいてくれ。用済みと見なされれば必ずや殺される」
「なっ!?、黒雲とな!?。あの最強の忍びがこの遠州に…。ならば、甚兵衛殿も…、信じられぬ」
信三は心を痛めた。それは直政とて同じことだった。これから始まる戦国という世の中を恨んだ。また、黒雲という存在が金子家に暗雲もたらすことになる危機感が大きくなり始めていた…。

 その日の夜、信三は小竹屋には帰らなかった。主人である甚兵衛は信三の監視をさせていたお鴻の話しを聞いて蒼白になった。体が震え、
「信三が気づいたとなれば急がねばならぬ」
甚兵衛は黒雲に対する恐怖を覚えてお鴻を見た。その瞬間、お鴻は闇に消えた。
 翌朝、天竜川の渡し近くの橋の下でお鴻の死体が見つかった。遠くで見ていた直政、左馬介、信三は手を合わせて冥福を祈った。3人は甚兵衛の裏をかくかのように逃げると見せかけて実は出水屋にいたのである。甚兵衛のことだから知っているかもしれないが直政は一向に動かなかった。
「左馬介、そろそろ教えてくれないか。もはや、猶予はならぬ」
「………」
「左馬介殿、某からも頼みます」
直政と左馬介、双方から頼まれては黙っていることはできなかった。左馬介のほうが折れて重い口を開いた。
「甚兵衛…、いや、本名は亀井徳之介と申し、某の弟でございまする」
2人は黙っている。
「徳之介は七変化の徳とも呼ばれ、城仕えと密偵を主としていました。ある日のこと、父が仕えていた城が黒雲の手によって焼失し、私は城主の娘とこの遠州に逃れた時、徳之介もまた黒雲の攻撃を受けて守っていた者たちと共に死したと聞いていました」
「ふむ…」
「姿形は変えても私にはあの者が徳之介ということはすぐにわかりまする。もしかすると、この地には腰を下ろしたのは私を探していたのやもしれませぬ」
「だろうな、追手としてか…、兄弟としてか…」
「追手?」
「黒雲の手先としてだ」
「まさか…」
「ありえるだろう?、現に望月殿に私がここに来ることを知らせている。あれだけ内密にしていたにも関わらず、だ…」
信三が頷く。
「私もそう思います。そして、事実を知っているお鴻殿が殺されたとなれば…」
「…信じたくはありませんが…、そこまで言われてしまっては…」
左馬介も突きつけられた事実に顔を背けることができなかった。
「10年余か…、長かったな…」
左馬介が呟くと信三は出水屋に奉公に来ているお篠を呼んだ。以前は小竹屋で奉公していたが出水屋の主人に乞われてこちらに出向いていた。また、お篠は信三に好意を持っているらしく、酒を持って来るとそのまま信三の側を離れなかった。異様な空気を感じ取ったのだろうか。まだ20にも満たない心優しい少女でもあった。
「とりあえず、敵の手が届かないところまで行かなくてはなりませんね」
信三が言う。
「うむ、犬居に一番近いのは高崎家だな。あそこまで行けば黒雲とてそう簡単に侵入はできぬ。左馬介」
「はっ」
「弟と殺り合うのはそのときになるだろう」
左馬介は小さく頷いた。

 翌日、直政は定時連絡に来た左馬介の配下に文を渡して、
「必ずや、これを高崎に届けてくれ。これで我らの命運も変わる」
「承知致しました」
左馬介の配下が去ると3人は緊密な話し合いを続けて夜半にはそれも終わっていた。
 一方、亀井徳之介こと絹笠甚兵衛はお鴻を殺した後、犬居に代官を置く森長政の腹心水野昭長に会い、街道を封鎖させた。そして、その帰りの足で犬居城下にいる配下の忍びを集めた。
「敵に我らの動きがばれてしまった以上、もはや猶予はならぬ。高崎に逃げられたら我らの命運も決まると知れい」
甚兵衛は直政を恐れた訳ではない。黒雲を恐れたのである。一度は敵として戦おうとも試みたが今はその配下になっている自分に後ろめたさと悔しさが入り混じった嫌な気分が心を覆い尽くしつつあった。この夜、甚兵衛は小竹屋に戻らなかった。甚兵衛の配下は総勢20名。それに比べ、左馬介の配下は2百人もいる。まともに戦えば力の差は歴然としているが甚兵衛にも忍びの誇りがある。その誇りが甚兵衛を奮い立たせようとしていた。人望や信頼を失ったとしても…。

 夜半、月が雲に隠れた。お篠を加えた4人は犬居の渡しから対岸に渡り、そこから南下し、再び天竜川を渡って只来の渡しに行き高崎に入る予定だったが甚兵衛の動きが激しくなったのを確認すると二手にわかれることに決めた。直政は左馬介と、信三はお篠を連れて高崎で合流することで合意した。信三たちは当初の道筋を行き、直政たちは左馬介の本拠の集落を経由して諏訪原に向かうことにした。こちらのほうが危険が多く、甚兵衛だけでなく黒雲や上野伊賀の残党たちが待ちうけている可能性が高かった。しかし、勝算はあった。敵が甚兵衛だけであればその配下の者たちは左馬介の知り合いが多いと踏んだからだ。甚兵衛の性格上、古参の者は使えど新たに雇うことはないだろうと見ていた。

 いよいよ、直政たちと黒雲・甚兵衛たちとの戦いの幕が切って落とされる…。


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