三国志登場人物解説

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【し】

朱芳【シュホウ】
?〜?
【魏】

王経に仕える。姜維の3度目の北伐の際、トウ水で張明・花永・劉達と共に迎え討った。


朱褒【シュホウ】
?〜225
【蜀→孟獲】

ソウカ太守。223年、孟獲・雍ガイの反乱に呼応して挙兵するが諸葛亮の離間の計を受けた高定に攻められて最後は高定配下の鄂煥に討ち取られた。


朱霊【シュレイ】
?〜?
【魏】

字は文博。最初、袁紹に仕え、曹操が陶謙を攻めた際に援軍として赴き、そのまま帰参せずに曹操の配下となった。199年、袁術討伐に出陣した劉備の監視のため、路昭と共に監軍として同行する。袁術の死後、劉備の命を受けて許都に帰って曹操の怒りを買って斬られそうになるが荀イクの救われた。また、馬超攻めにも参戦している。後に後将軍・高唐亭侯に封じられた。


荀イク【ジュンイク】
163〜212
【袁紹→魏】

字は文若。荀毘の子。最初、袁紹、次いで曹操に仕え、行軍司馬となる。呂布が曹操の留守の隙を突いてエン州を攻めた際に程イクと共にケン城・東阿・范県を死守する。196年、献帝を許都で迎えるよう曹操に進言し、侍中尚書令となる。後、参謀として数々の功績を残し、前漢の名参謀・張良に例えられたが曹操の魏公就任に反対して不興を買う。曹操が孫権を攻めた際に病と称して許都に留まり、曹操から何も入っていない蓋つきの容器を贈られ、その意「自分にはお前を養ってやる気はない」と汲んで自害した。


淳于瓊【ジュンウケイ】
?〜200
【後漢→袁紹】

字は仲簡。後漢で右校尉として仕えた後、袁紹の配下となる。200年、官渡の戦いで烏巣の兵糧を守るが曹操軍の奇襲に遭って捕らえられて殺された。


淳于丹【ジュンウタン】
?〜?
【呉】

陸遜に仕える。222年、劉備の呉征討の際、陸遜の命を受けて蜀陣営に夜襲を仕掛けるが敗れた。帰陣後、敵の備えがわかったとして罰せられなかった。


淳于導【ジュンドウ】
?〜208
【魏】

曹仁に仕える。208年、長坂の戦いで麋竺を捕らえ、引き立てていく途中で趙雲に討たれた。


荀ウン【ジュンウン】
?〜?
【魏】

字は長セン。荀イクの子。父の死を書面で曹操に伝えた。後、父の爵位を継いで曹操の娘を妻に迎え、曹植と親しかったが早世した。


荀カイ【ジュンカイ】
?〜?
【魏】

263年、鐘会に従って蜀に出陣し、漢中を攻め、鐘会を討とうとした敵将廬遜を射倒し、護軍に任じられた。


荀ギ【ジュンギ】
?〜274
【魏→晋】

字は景倩。荀イクの子で陳泰の舅。曹ボウの時に尚書、曹奐の時に司空を務め、司馬昭に世子を司馬炎にするよう勧めた。司馬炎が即位すると臨淮公・太尉に封じられた。


荀キョク【ジュンキョク】
?〜289
【魏→晋】

司馬昭に仕え、従事中郎を務める。姜維が沓中で取った屯田の計への対抗策として蜀の宮廷腐敗を理由に征討を主張し、総大将に鐘会・トウ艾を推挙した。司馬炎が即位すると中書監・侍中となり、次いで尚書令に任じられた。


荀シン【ジュンシン】
?〜?
【韓馥→袁紹】

荀イクの弟。初め韓馥の許で参謀として仕える。後、袁紹に仕えて、199年、袁紹から曹操討伐の是非を問われて賛成した。


荀正【ジュンセイ】
?〜196
【袁術】

劉備が袁術を攻めた際、紀霊に従って関羽と戦って討ち取られた。


荀爽【ジュンソウ】
?〜191
【後漢】

荀イクの叔父。司空。楊彪らと共に董卓の長安遷都に反対し、官位を剥奪されて平民に落とされた後、死去している。


荀毘【ジュンビ】
?〜?
【後漢】

三公を輩出した家柄の出身。詳細は不明。


荀攸【ジュンユウ】
157〜214
【後漢→魏】

字は公達。荀イクの甥。初め何進の許で黄門侍郎となり、後に曹操に仕えて行軍教授となる。198年、呂布が包囲した際に速攻することを曹操に進言。200年、官渡の戦いにおいては度々献策を行う。203年、袁譚が袁尚に敗れて曹操に援軍を請うた際は逆に冀州を奪うことを進言した。後に赤壁、西涼にも従事するが呉討伐の最中に病死し、曹操は荀攸の話をするたびに涙を流したという。


焦彝【ショウイ】
?〜?
【諸葛誕→魏】

257年、司馬昭に包囲された際に諸葛誕に早期決戦を主張するが聞き入れられず、魏に降伏した。


鐘イク【ショウイク】
224〜263
【魏】

字は稚叔。鐘ヨウの子で鐘会の兄。8歳の時に曹丕に拝謁し、冷静な弟に対して満面に汗をかいていたという。後に黄門侍郎・廷尉・尚書などを歴任し、都督・荊州諸軍事になった。


蒋延【ショウエイ】
?〜?
【呉】

253年、東興の戦いに勝った諸葛恪が勢いに乗じて魏を攻めようとした際に白虹が現われたのは不吉だと出陣に反対したため、諸葛恪の怒りを買って朝議の席から追い出された。


蒋エン【ショウエン】
?〜246
【蜀】

字は公エン。諸葛亮・費イ・董允と並んで『四相』または『四英』と呼ばれる。劉備に仕えて書記となり、諸葛亮の南征のは参軍として参加し、北伐の際は成都に留まって前線との間で調停を行う。234年、諸葛亮が死ぬと遺言により、尚書令となる。次いで大将軍・録尚書事・大司馬となり、蜀の政務を執り行った。


鐘会【ショウカイ】
225〜264
【魏】

字は士季。鐘ヨウの子。曹芳の時に秘書となり、曹ボウの時に中書侍郎となる。諸葛誕討伐の際に献策を行って勝利に導いた。263年、トウ艾と共に蜀征討の総大将となり、見事蜀を滅ぼすが姜維の扇動により、反旗を翻す。しかし、司馬昭によって看破され殺された。


蒋幹【ショウカン】
?〜?
【魏】

字は子翼。赤壁の戦いにおいて周瑜に降伏を勧めるが逆に周瑜の計略にかかって蔡瑁・張允を殺す結果となった。その後、再び周瑜の許に遣わされるが罵られて追い出された。そこでホウ統と出会い、曹軍陣営に導くが赤壁の敗戦の原因となった連環の計を献じられてしまった。演義では無能で自惚れの強い人物とされているが実際には長江・淮水一帯に才気と弁舌をもって聞こえた秀才であったという。また、曹操が蒋幹を周瑜の許に遣わしたのは赤壁の戦いの後である。


昌キ【ショウキ】
?〜206
【山賊→呂布】

臧覇・孫観らと共に呂布に味方して曹操を苦しめる。呂布の死後、臧覇らが降伏していく中で一人抵抗を続けた。正史では、206年、于禁・夏侯淵に降伏したという。


蒋奇【ショウキ】
?〜200
【袁紹】

官渡の戦いにおいて曹操軍の夜襲に遭った烏巣の援軍に向かう途中、張遼に討ち取られた。


蒋義渠【ショウギキョ】
?〜?
【袁紹】

200年、官渡で敗れた袁紹を黎陽で迎え、敗残の兵を呼び集めた。


向挙【ショウキョ】
?〜?
【蜀】

青衣侯。221年、諸葛亮と共に劉備に皇帝となるよう勧めた。


小喬【ショウキョウ】
?〜?
【呉】

喬国老の娘で周瑜の妻。姉の大喬と共に絶世の美女として知られ、『二喬』と称される。


蒋欽【ショウキン】
?〜219
【水賊→呉】

字は公奕。長江の水賊であったが196年に孫策に仕えて車前校尉となる。208年、赤壁の戦いに参加する。また、南郡攻めにも加わり、215年に孫権が合肥を攻めた際は後詰めを務める。219年、荊州攻めでは呂蒙に従って関羽を破るがその帰路に病死した。最終的に官位は右護軍に至った。


蒋顕【ショウケン】
?〜264
【蜀】

蒋エンの子で蒋斌の弟。太僕。263年、劉禅が魏への降伏を決めた際、その旨を前線の姜維に伝えた。翌年、鐘会の反乱の最中に兄と共に殺されたという。


尚広【ショウコウ】
?〜?
【民衆】

方術士。孫コウに召されて占いを立て、「庚子の年に天子が洛陽に入る」と予言し、孫コウを喜ばせた。


尚弘【ショウコウ】
?〜?
【後漢】

行軍校尉。195年、献帝に随行して長安を脱出。黄河を渡る際に献帝と伏皇后を白絹で包んで切り立った岸から下に下ろした。


ショウ周【ショウシュウ】
210〜270
【劉璋→蜀】

字は允南。初め劉璋に仕え、劉備の入蜀後は光禄大夫となり、諸葛亮と共に劉備に皇帝になるよう勧める。後に太史・中散大夫を歴任し、257年には『仇国論』を著す。263年、トウ艾の蜀征討軍が成都に迫ると劉禅に降伏を進言。翌年、劉禅と共に洛陽に身柄を移された。経書に通じ、書簡に巧みで天文に詳しかったという。


蒋舒【ショウジョ】
?〜?
【蜀】

姜維に従って北伐に参戦し、傅僉と共に陽安関を守る。263年、鐘会が攻めてきた際に敵の多さに圧倒されて傅僉が出陣している最中に魏に降伏した。


焦触【ショウショク】
?〜208
【袁紹→魏】

袁熙に仕えていたが曹操が袁熙を攻めた際に張南と共に降伏した。後に曹操の南征に従って劉表を攻めて赤壁の戦いで呉の韓当に討たれた。正史には殺されたという記述はない。


鐘紳【ショウシン】
?〜208
【魏】

鐘縉の弟。夏侯惇に仕える。長坂の戦いで阿斗を抱いて逃げる趙雲を阻止しようとして殺された。


鐘進【ショウシン】
?〜211
【魏】

鐘ヨウの弟。兄と共に長安を守るが211年、馬超・韓遂が長安に攻め寄せた際にホウ徳に斬られた。


鐘縉【ショウシン】
?〜208
【魏】

夏侯惇に仕える。長坂の戦いで弟と共に趙雲に挑んで殺された。


蒋済【ショウサイ】
?〜249
【魏】

字は子通。主簿として曹操に仕える。219年、曹操が関羽の北上を避けるために遷都を考えた時に司馬懿と共に反対し、孫権に関羽を討たせるよう働きかけた。後に太尉となり、249年に司馬懿が起こした反乱で曹爽に対して兵権を削る以上のことはしないと確約したが司馬懿が曹爽一族を殺してしまったことを病み、まもなく病死した。


向寵【ショウチョウ】
?〜240
【蜀】

向朗の甥。劉備の時に牙門将・都亭侯となり、中部督となって近衛兵を指揮した。さらに中領軍となるが漢嘉郡の少数民族を攻めて殺された。


常チョウ【ジョウチョウ】
?〜223
【魏】

曹仁に仕える。彝陵の戦い後、呉の濡須を攻めたが朱桓の計略にかかって討ち取られた。


邵悌【ショウテイ】
?〜?
【魏】

字は元伯。司馬昭に仕える。西曹掾。263年、司馬昭が鐘会に蜀征討を命じた際に密かに「鐘会は大望を抱いているから兵権を委ねるべきではない」と進言し、注意を促した。


焦伯【ショウハク】
?〜260
【魏】

曹ボウの側近。曹ボウに手を下した成済に打ち掛かって殺された。


蒋班【ショウハン】
?〜?
【諸葛誕】

257年、諸葛誕が司馬昭に包囲された時に焦彝と共に早期決戦を主張したが聞き入れられず、魏に降伏した。


蒋斌【ショウヒン】
?〜264
【蜀】

蒋エンの子。258年、姜維の北伐に従って漢城を守る。263年、漢中が魏軍に落とされたことを知ると降伏するが鐘会の反乱に巻き込まれて殺された。


焦炳【ショウヘイ】
?〜219
【魏】

劉備と曹操の漢中争奪戦で魏軍が黄忠を包囲した際に黄忠の援軍として駆けつけた趙雲に討たれた。


鐘ヨウ【ショウヨウ】
151〜230
【魏】

字は元常。曹操に仕えて長安太守となり、211年に馬超・韓遂連合軍と戦って敗走する。曹操が魏王になると相国となり、曹叡の時に太傅となる。諸葛亮の北伐で祁山に迫った時に司馬懿を用いるよう進言した。鐘ヨウは書家として有名であり、晋代の王義之と並んで『鐘王』と称されているがその筆は現代に伝わっていない。


向朗【ショウロウ】
168〜247
【蜀】

字は巨達。213年、諸葛亮の入蜀の際に関羽と共に荊州の守りを任された。後に巴西太守となり、街亭の戦いで馬謖を庇って罷免されるが光禄勲となり、諸葛亮の死後は左将軍に任じられた。


徐栄【ジョエイ】
?〜191
【董卓】

中郎将。191年、董卓が遷都する際にケイ陽に伏兵を仕掛けて曹操軍を破った。そして、無事長安へ退いたという。


諸葛恪【ショカツカク】
203〜253
【呉】

字は元遜。諸葛瑾の長子。孫権に寵愛され、太子左輔となる。後に太傅となって実権を握り、252年、東興で魏を破るが合肥攻略に失敗して撤退。まもなく孫峻・トウ胤に殺された。


諸葛喬【ショカツキョウ】
?〜228
【呉→蜀】

正史のみの登場。字は仲慎(後に伯松)。諸葛瑾の次子で諸葛亮の養子。兄と並んで評判が良く、才能では劣るが性質では兄より優れていた。諸葛亮に請われて養子になった後、227年、諸葛亮の北伐に参加し、記室として霍弋と共に各軍を視察して回った。


諸葛均【ショカツキン】
?〜?
【蜀】

諸葛珪の子で諸葛亮の弟。兄と共に荊州の隆中で農耕を営み、兄が劉備の配下となると留守を守った。後に蜀に仕えて長水校尉となった。


【し】参に続く

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