三国志登場人物解説

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【し】

史渙【シカン】
?〜209
【魏】

字は公劉。中領軍として禁軍を率いる。演義では198年、曹操の命でスイ固を追討する。後に徐晃に従って官渡の戦いに参戦し、袁紹の間者を捕らえて糧抹車を急襲することに成功した。翌年、倉亭で袁尚軍と戦って射殺されたという。正史では死んだのは209年だという。


施寛【シカン】
?〜?
【呉】

正史のみの登場。孫峻に仕える。孫峻らが諸葛恪を殺害した際に、弟の諸葛融を討った。後に孫チンに仕えて呂拠が反乱を起こすと丁奉らと共に討伐に向かうが、呂拠は自害した後だった。


施朔【シサク】
?〜?
【呉】

武衛士。258年、丁奉が孫チンを討った時、孫チンの弟たちを捕らえた。


師纂【シサン】
?〜264
【魏】

帳前校尉。トウ艾に仕えて蜀と戦う。後、蜀侵攻にも加わり、益州刺史に任じられた。


脂習【シシュウ】
?〜?
【魏】

字は元升。孔融の友人で孔融が曹操に処せられた際、その遺体に取りすがって泣き、曹操に殺されかけたが荀イクに救われた。後、孔融の遺体を引き取って手厚く葬った。


斯従【シジュウ】
?〜?
【頭目】

正史のみの登場。山越を結んで悪事を働くが賀斉に討たれた。


史招【シショウ】
?〜?
【魏→カン丘倹→魏】

正史のみの登場。カン丘倹に仕え、魏に反乱を起こすが集まる将兵や離反する民を見て不安を抱いて、司馬懿に降伏した。


史蹟【シセキ】
?〜222
【呉】

潘璋に仕える。劉備の呉征討の際、黄忠と戦って討ち取られた。


士孫瑞【シソンズイ】
?〜195
【後漢】

字は君栄。僕射。192年、王允らの董卓暗殺計画に加わった。後、献帝が洛陽に逃れる際に李カクらの追撃に遭って殺された。


司馬懿【シバイ】
179〜251
【魏】

字は仲達。曹操に仕えて文学掾、ついで主簿となる。曹操が漢中を平定した際に余勢を駆って益州を攻めるよう進言したという。219年、関羽の進攻を恐れた曹操を諌め、孫権に関羽の背後を突かせるよう進言した。曹操の死後、曹丕が皇帝になると尚書僕射・撫軍将軍となり、曹叡の時に驃騎将軍となるが諸葛亮の策略で一時遠ざけられる。しかし、曹真の死後、平西都督として蜀軍と対し、諸葛亮と激戦を繰り広げた。235年、太尉となり、遼東の公孫淵を討伐したが曹叡の死後、曹爽の策略で軍事権を奪われるも249年にこれを奪取した。後に孫の司馬炎より宣帝と謚られた。


司馬炎【シバエン】
236〜290
【魏→晋】

司馬昭の子。晋王朝を築いた。265年、司馬昭が死ぬと晋王となり、魏帝曹奐を退位させて魏を滅ぼし、ついで280年に呉に進攻して三国統一を果たした。武帝と謚られた。


司馬徽【シバキ】
173〜208
【民衆】

人物鑑定に長け、古文学者でもあった。道号は水鏡。荊州で多くの門弟を集め、諸葛亮やホウ統、徐庶等がいる。207年、蔡瑁の追跡から逃れてきた劉備を匿い、劉備に軍師がいないことを指摘し、《伏龍・鳳鄒》のいずれかを軍師に迎えれれば天下を取れようと伝えた。後に曹操が招こうとしたがその前後に病死したという。


司馬馗【シバキ】
?〜?
【魏】

字は季達。司馬懿の弟で、「司馬八達」の一人。魯国の相を務め、侯に封じられた。


司馬倶【シバク】
?〜?
【黄巾賊】

正史のみの登場。黄巾の乱後も徐勲と結んで済南付近に勢力があったが曹操の命を受けた夏侯淵に討たれた。


司馬師【シバシ】
208〜255
【魏】

字は子元。司馬懿の長子。249年、父と共に曹爽一派を討ち、驃騎将軍として蜀軍と戦う。251年、父が死ぬと撫軍将軍・録尚書事として魏の実権を握り、254年、魏帝曹芳を廃して曹ボウを擁立する。翌年、カン丘倹の反乱を鎮圧したが病が悪化し、許昌で死去した。後に司馬炎より景帝と謚られた。


司馬ジュン【シバジュン】
?〜?
【魏】

司馬懿の弟で、「司馬八達」の一人。魏に仕えて鴻臚丞に任じられた。


司馬昭【シバショウ】
211〜265
【魏】

字は子尚。司馬懿の次子。249年、父と共に曹爽一派を討つ。司馬師が魏の実権を握ると驃騎上将軍として蜀軍と戦う。255年、兄が死ぬと大将軍・録尚書事として魏の実権を握り、260年に魏帝曹ボウを殺して曹奐を擁立する。263年、蜀を平定して晋王に封じられたが265年8月急死した。後に司馬炎より文帝と謚られた。


司馬進【シバシン】
?〜?
【魏】

司馬懿の弟で、「司馬八達」の一人。魏に仕えて中郎に任じられた。


司馬チュウ【シバチュウ】
227〜283
【魏→晋】

字は子将。司馬懿の六子。司馬炎より琅邪王・鎮東大将軍に封じられる。279年、呉進攻の際にト中に出陣した。


司馬通【シバトウ】
?〜?
【魏】

司馬懿の弟で、「司馬八達」の一人。魏に仕えて、司隸従事となり、侯に封じられた。


司馬敏【シバビン】
?〜?
【魏】

字は幼達。司馬懿の弟で、「司馬八達」の一人。子が無かったため、司馬進の孫司馬魁が後を継いだ。


司馬孚【シバフ】
180〜272
【魏】

字は叔達。司馬懿の弟。220年に曹操が死ぬと曹丕の即位を進言する。尚書・尚書令を歴任した。249年、兄と共に曹爽一派を討ち、司空・太傅を歴任したが260年に曹ボウが殺されると号泣し、王の格式で葬るよう司馬昭に願い出た。後に司馬炎より安平王に封じられたが魏への忠誠を誓って固辞した。


司馬防【シバボウ】
149〜219
【後漢】

字は建公。京兆尹に任じられた。


司馬望【シバボウ】
205〜271
【魏→晋】

字は子初。司馬孚の子。伯父の司馬朗の養子となる。魏では司徒、晋では義陽王に封じられ、太尉・大司馬を歴任した。


司馬攸【シバユウ】
248〜283
【魏→晋】

字は大猷。司馬昭の次子で司馬師の養子となる。後に司馬炎より斉王に封じられ、軍事を統べて名声があったが司馬炎に疎まれ、失意のうちに死んだ。


司馬朗【シバロウ】
171〜217
【魏】

字は伯達。司馬懿の兄で8人兄弟の長兄。「司馬八達」の一人。曹操に仕えて丞相主簿となる。崔エンから司馬懿に劣ると評されたが人格者として有名であった。疫病が蔓延した際に薬を全て配下に分け与えて自分の分は残さなかったので、病にかかって死んだとされる。


司蕃【シハン】
?〜?
【魏】

洛陽の平昌門を守る。249年、司馬懿が曹爽一派を討つべく挙兵した際にこれに加わる。桓範が偽りの太后の令旨で門を突破した際に司馬懿に知らせた。


謝旌【シャセイ】
?〜221
【呉】

孫桓に仕える。劉備が呉を攻めた際、宜都で張苞と戦って討ち取られた。


車冑【シャチュウ】
?〜199
【後漢→魏】

演義のみの登場。198年、車騎将軍・徐州刺史となる。翌年、劉備討伐を命じられ、相談を受けた陳登が関羽・張飛に知らせたため、急襲されて殺された。


謝雄【シャユウ】
?〜228
【蜀】

裨将軍。228年、諸葛亮の2度目の北伐の際、陳倉の援軍に来た王ソウに討たれた。


朱異【シュイ】
?〜257
【呉】

字は季文。朱桓の子。孫チンの命で諸葛誕の反乱に加勢するが幾度に渡って魏に敗れ、孫チンに殺された。正史では諸葛誕の反乱の際は大都督を務めており、出陣はしていない。


周奐【シュウカン】
?〜192
【後漢】

字は文明。大鴻臚。李カク・郭シ率いる董卓軍が長安を攻めた際に殺された。


周キン【シュウキン】
?〜196
【後漢→王朗】

字は大明。初め丹陽太守で袁術に城を追われて王朗の許に身を寄せた。孫策が王朗を攻めた際に計略にかかって殺された。


周羣【シュウグン】
?〜?
【劉璋→蜀】

字は仲直。図識に長け、劉璋に招かれて師友従事となり、劉備が益州牧となると儒林校尉に任じられた。


習宏【シュウコウ】
?〜?
【蜀→呉】

正史のみの登場。習珍の弟。荊州へ侵攻する呉軍と戦うが関羽が討たれて荊州の大半が呉に支配されると、兄の習珍に呉に偽りの降伏をするよう勧めた。後に劉備が呉討伐の兵を挙げると兄と共に呼応するが潘濬に敗れた。


周旨【シュウシ】
?〜?
【晋】

牙将。279年、杜預に従って呉を攻めて孫キン・沈塋を斬った。


周循【シュウジュン】
?〜?
【呉】

周瑜の子。周瑜の死後、全公主を妻に迎え騎都尉となるが早世した。


周尚【シュウショウ】
?〜?
【後漢】

周瑜の叔父。丹陽太守を務めた。


習選【シュウセン】
?〜?
【呉】

正史のみの登場。習珍の子。関羽の死後、叔父の習宏の助言を受けて父と共に呉に偽りの降伏をする。後に劉備が呉討伐の兵を挙げると呼応するが潘濬に敗れ、呉に降った。


周善【シュウゼン】
?〜212
【呉】

孫策・孫権に仕える。劉備が蜀に入ると孫権の命を受けて荊州に残った孫尚香の許に向かい、呉国太急病だとして孫尚香と阿斗を連れ出そうとするが長江の畔で趙雲に遮られ、自身は張飛に殺された。


周倉【シュウソウ】
?〜219
【黄巾賊→蜀】

演義のみの登場。最初、黄巾賊の属し、張宝の配下となる。黄巾賊壊滅後は山賊をしていたが200年、関羽を慕ってその配下となり、以後、共に転戦した。また、水練達者と知られ、樊城の戦いでは水中でホウ徳を捕らえる功を見せるが関羽が呉軍に捕らえられて関平共々首を晒されると自らの首を刎ねて自害した。


州泰【シュウタイ】
?〜261
【魏】

エン州刺史。用兵の才に長け、257年、司馬昭に従って諸葛誕を攻めた。後に征虜将軍・都督・江南諸軍事となった。


周泰【シュウタイ】
?〜?
【呉】

字は幼平。蒋欽と共に孫策に仕え、車前校尉となる。後に孫権に従って宣城を守るが山賊の襲撃に遭って重傷を負うが孫権を見事救い出した。208年には赤壁の戦いに参戦し、次いで周瑜に従って南郡を攻めた。215年、孫権の合肥攻めにも参戦したが窮地に陥った孫権と徐盛を救い出し、青絹の傘を賜った。222年、陸遜と共に彝陵で蜀軍を敗り、漢中太守・奮威将軍・陵陽侯に任じられた。


周朝【シュウチョウ】
?〜?
【君主】

正史のみの登場。区星が反乱を起こすと零陵、桂陽で挙兵するが、孫堅に討たれた。


習珍【シュウチン】
?〜?
【蜀→呉】

正史のみの登場。昭陵太守。荊州へ侵攻する呉軍と戦うが関羽の死後、荊州の大半が呉に支配されると、弟の習宏の助言を受けて偽りの降伏をする。後に劉備が呉討伐の兵を挙げると呼応するが潘濬に敗れた。


周ヒ【シュウヒ】
?〜191
【後漢】

字は仲遠。侍中・尚書を歴任する。189年、董卓が少帝を廃立に反対する袁紹を殺そうとした時、郡守の位を与えて懐柔するよう進言した。後に董卓が長安に遷都しようとした際に伍瓊と共に反対して殺された。


周平【シュウヘイ】
?〜222
【呉】

周泰の弟。彝陵の戦いで夏シュンが張苞と戦った際、加勢に出て関興に討たれた。


宗宝【シュウホウ】
?〜?
【孔融】

演義のみの登場。管亥が数万の軍勢を率いて北海を攻めた際、孔融の命を受けて管亥を迎え討つが数合で斬られた。


周魴【シュウホウ】
?〜?
【呉】

字は子魚。ハン陽太守。228年、曹休に偽りの降伏をして石亭において魏軍を破った。後に関内侯に封じられた。


周瑜【シュウユ】
175〜210
【呉】

字は公瑾。孫策とは義兄弟。孫策の死後、孫権に仕えて前部大督となり、208年に孫権に従って黄祖を討つ。赤壁の戦いでは呉軍を率いて曹操を破り、次いで曹仁が守る南郡を攻めるが劉備に隙を突かれて荊州の南半分を奪われる。以後、何度も奪回しようと画策するが悉く諸葛亮に見破られて、最後は血を吐いて憤死した。周瑜はおおらかな性格をしており、度量があったと正史では伝えている。


朱恩【シュオン】
?〜253
【呉】

散騎常侍。諸葛恪の腹心であったが諸葛恪が殺された時に一族もろとも処された。


朱蓋【シュガイ】
?〜?
【魏】

正史のみの登場。袁術配下であった陳蘭らが反乱を起こすと張コウ、楽進らと鎮圧。樊城の戦いでは殿署と共に曹仁の援軍に赴いて徐晃らと共に蜀軍と戦った。


朱桓【シュカン】
177〜238
【呉】

字は休穆。222年、濡須に攻め寄せた曹仁を迎え討って常雕を討ち取る。後に奮武将軍として石亭で魏軍を破った。孫権が皇帝になると前将軍・青州牧に任じられた。


祝融【シュクユウ】
?〜?
【孟獲】

演義のみの登場。孟獲の妻。古代の南方神・火神の末裔である祝融氏の出身で飛刀の名手。諸葛亮の南征の際、馬忠・張嶷を捕らえる武勇を見せた。後に孟獲と共に改心し、蜀に忠誠を誓った。


朱コウ【シュコウ】
?〜195
【後漢】

予章太守。孫策に敗れた劉ヨウらを匿うがサク融に殺された。


朱光【シュコウ】
?〜215
【魏】

廬江太守。214年、曹操が濡須から撤退する際に皖城の守りを任された。翌年、孫権が皖城を攻めた際、城を死守するが甘寧に打ち倒されて殺された。


朱讃【シュサン】
?〜227
【魏】

盪寇将軍。227年、諸葛亮が漢中から出陣した際に曹真の副先鋒となるが蜀軍の伏兵に遭って趙雲に討たれた。正史では朱讃と曹真と同郷だという。


朱氏【シュシ】
?〜265
【呉】

孫休の妻。夫の死後、太后となり、濮陽興から次の皇帝に孫ワンと孫コウのどちらかを立てるべきか相談された。後、孫コウが即位すると位を皇后に落とされて翌年、迫害されて死んだという。


朱儁【シュシュン】
?〜195
【後漢】

字は公偉。184年、黄巾の乱鎮めた功績により、車騎将軍・河南尹に任じられ、次いで太僕となるが李カクと郭シが争った際に和睦の勧めを行って逆に投獄され、解放された後、憤死した。


朱然【シュゼン】
182〜249
【呉】

字は義封。219年、呂蒙に従って荊州を攻めて関羽を生け捕る。後に左大司馬・右軍師に任じられ、孫権に重用されたという。


朱治【シュチ】
156〜224
【呉】

字は君理。孫三代に仕える。孫策のときに呉郡太守、孫権のときにヒ陵侯・安国将軍となり、赤壁の戦いで四方巡警使となった。


【し】弐へ続く

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