三国志登場人物解説

【し】

諸葛瑾【ショカツキン】
174〜241
【呉】

字は子瑜。諸葛亮の兄。孫権に登用され、208年、諸葛亮が呉を訪れた際に呉に仕えるよう説得を試みる。孫権が合肥を攻めた際は張遼に注意するよう太史慈に忠告したという。214年、劉備に荊州の返還を求めるが劉キがいることを理由に拒否される。219年には関羽の娘と孫権の息子との縁談をもちかけるが拒否され、戦に発展、関羽が捕らえられた際は降伏を提示したが潔く斬られた。これに怒った劉備を説得するため、白帝城に赴くが失敗している。翌年、陸遜に従って南郡で魏軍を破り、228年の石亭の戦いでは司馬懿に備えて江陵を守るが、234年、諸葛亮の北伐に呼応して襄陽を攻めるが曹叡に敗れた。諸葛瑾の官位は孫権が即位した後、大将軍・左都護・豫州牧に任じられている。度量が広くて実直な性格をしていたという。


諸葛珪【ショカツケイ】
?〜?
【後漢】

字は君貢。泰山郡丞を務めていたが早世した。


諸葛虔【ショカツケン】
?〜?
【魏】

曹丕が呉を攻めた際に常チョウ・王雙と共に濡須を攻撃したが敵将朱桓に敗れた。


諸葛玄【ショカツゲン】
?〜197
【劉表】

諸葛珪の弟で諸葛亮の叔父。諸葛珪の死後、幼い諸葛亮と諸葛均を引き取って旧知の劉表を頼った。後に予章太守となるが劉ヨウに攻められて城を失い、最後は土民に殺された。


諸葛原【ショカツゲン】
?〜?
【後漢】

字は景春。新興太守に栄転した際に挨拶に来た管輅に箱の中身を当てさせた。


諸葛緒【ショカツショ】
?〜?
【魏】

諸葛亮の従兄弟。雍州刺史。263年、トウ艾の命で姜維の退路を断とうとするが失敗し、鐘会に殺されそうになるが諸将のとりなしで洛陽に護送されて司馬昭の判断を仰ぐことになった。


諸葛尚【ショカツショウ】
245〜263
【蜀】

諸葛瞻の子。魏の蜀侵攻に対して父と共に綿竹関を守り、トウ艾と戦う。呉の援軍を待ちきれずに父が城から討って出ると自らも敵軍に斬り込んで討死した。


諸葛セイ【ショカツセイ】
?〜?
【魏→呉】

諸葛誕の子。257年、父が呉と結んで司馬昭に反乱を起こした際、人質として呉に送られる。後に右将軍となり、280年、張悌に従って晋軍と戦うが敵の勢いに圧倒されて張悌に逃亡を勧めた。


諸葛瞻【ショカツセン】
227〜263
【蜀】

字は思遠。諸葛亮の子。劉禅の娘を妻に迎えて附馬都尉となり、次いで行都護衛将軍に任じられる。黄コウの専横を嫌って館に引きこもるが卻正の推薦により、綿竹関の守りを任される。魏の蜀侵攻に対して迎え撃つがトウ艾の降伏勧告を拒否し、呉に援軍を求める。しかし、待ちきれずに出陣して討死した。


諸葛誕【ショカツタン】
?〜258
【魏→君主】

字は公休。諸葛亮の従弟。魏に仕えて鎮東将軍となり、255年、司馬師がカン丘倹を攻めた時に豫州の軍勢を率いて寿春に向かい、戦後、征東大将軍となる。後に司馬昭の専横に不満に感じ、257年、呉の支援を受けて反乱を起こすが魏軍に包囲されて胡奮に討たれた。


諸葛亮【ショカツリョウ】
181〜234
【蜀】

字は孔明。諸葛珪の子で諸葛瑾の弟。幼い頃に叔父と共に荊州へ移住し、司馬徽に師事して『伏龍』と称される。207年、劉備の三顧の礼で軍師となり、208年、曹操軍によって劉備が荊州を追われると呉との同盟を締結し、赤壁の戦いでは東南の風を吹かせて火計を成功させ、曹操を大敗させる。翌年、軍師中郎将となり、魏と呉の争いの隙を突いて荊州を落とした。214年、劉備が益州牧となると軍師将軍となり、劉備に従って漢中を落とし、三国鼎立の基礎を固めた。221年、劉備を即位させ、丞相となるが呉の荊州侵攻により、関羽の仇を討とうとする劉備を止めることができず、白帝において呉に敗れた劉備を失い、二代皇帝に劉禅を添えて国政を担う。武郷侯に封じられる。223年、呉との同盟を成立させ、225年には南征を行い、後顧の憂いを絶った。227年、出師の表を上奏し、6度に渡る北伐を開始したが長安まで届かず、最後は五丈原で司馬懿と対峙中に陣没した。亡骸は定軍山に葬られた。


徐キュウ【ジョキュウ】
?〜?
【後漢→魏】

字は孟玉。汝南太守。太傅の位をもって袁術に招かれたが拒否し、曹操に仕え、太常となった。199年、袁術の棺と妻子を守る袁胤を捕らえて伝国の玉璽を見つけて曹操に献じた。これにより高陵太守に任じられた。


徐クン【ジョクン】
?〜?
【後漢】

従事中郎。199年、袁紹が陳琳に書かせた激文に袁紹の命で曹操への使者となり、そのまま曹操により、献帝の補佐に当たらせた人物として名を挙げられている。


徐晃【ジョコウ】
169〜227
【後漢→魏】

字は公明。初め楊奉に仕えて献帝を守りながら、李カク・郭シ軍と戦った後、推挙されて曹操に仕える。智勇に優れ、官渡の戦いでは曹操に従って烏巣を急襲した。後、各地の主要な戦いに参加し、名を馳せる。219年、樊城を包囲した関羽を破って平南将軍・襄陽太守となる。


徐康【ジョコウ】
?〜?
【民衆】

徐庶の弟。演義のみの登場。兄の不在中、母の世話をしていたが早世した。


沮鵠【ショコク】
?〜204
【袁紹→袁尚】

「そこく」とも言う。沮授の子。曹操が冀州を攻めた際に袁尚の命で邯鄲を守るが張遼と戦って殺された。


徐氏【ジョシ】
?〜?
【呉】

孫ヨクの妻。キ覧・戴員が孫ヨク謀殺し、彼女に言い寄ってきた際、孫高・傅嬰と密かに孫ヨクの仇討ちをもちかけて殺すことに成功する。後、孫権の館に引き取られて余生を送った。


徐氏【ジョシ】
?〜?
【呉】

孫権の妻で孫登の義母。孫登の生母ではないが母親代わりとして孫登の養育を担当した。


徐質【ジョシツ】
?〜253
【魏】

曹芳の時に輔国将軍となる。253年、姜維の2度目の北伐の際、司馬昭の先鋒として迎撃し、廖化・張翼を破るが伏兵に遭って殺された。正史では実際に死んだのは254年だという。


沮授【ショジュ】
?〜200
【韓馥→袁紹】

「そじゅ」とも言う。初め韓馥に仕えて別駕となる。袁紹が冀州を奪うと招かれて監軍・奮威将軍に任じられた。200年、官渡の戦いにおいて度々袁紹を諫めて投獄され、戦後、曹操の捕虜となり、降伏を勧められるが拒否し、故意に脱走を図って殺された。


徐庶【ジョショ】
?〜?
【蜀→魏】

字は元直。元の名を徐福と言い、司馬徽門下で諸葛亮らと親交があった。200年に劉備に仕えて軍師として曹操軍を破る。その智謀が欲しくなった曹操が徐庶の母を捕らえ、騙して許昌に留め置き、偽手紙で誘きだそうとする。徐庶はやむなく劉備の元を辞し、曹操の許へ向かうが母はその事に失意して自害した。徐庶はそのまま魏に仕えたが劉備に対して智謀を発することはなかったという。後に右中郎将・御史中丞になった。諸葛亮を劉備に推挙したのは徐庶であったという。


徐商【ジョショウ】
?〜?
【魏】

219年、徐晃に従って関羽に包囲された樊城の援軍に向かう。呂蒙が荊州を奪うと呂建と共に関羽を攻めて樊城の包囲を解いた。


徐盛【ジョセイ】
?〜?
【呉】

字は文嚮。215年、孫権に従って合肥を攻め、219年、呂蒙に従って荊州を攻略し、222年、夷陵の戦いでは丁奉と共に護衛を務めた。224年、曹丕の呉侵攻では安東将軍として南徐に偽城を築いて魏軍を欺いて破った。孫権の即位後は蕪湖侯に封じられた。


徐奉【ジョホウ】
?〜184
【後漢】

霊帝の時に中常侍を務め、184年、張角らが黄巾の決起準備をしていた際、馬元義から賄賂を贈られて内応を約束するが唐周に密告されて封ショと共に処された。


岑威【シンイ】
?〜234
【魏】

鎮遠将軍。司馬懿の模造した木牛流馬で兵糧を運ぶ途中に王平に討たれた。


甄逸【シンイツ】
?〜?
【後漢】

甄氏の父。代々、後漢の官吏の家柄で三男五女をもうけた。


沈塋【シンエイ】
?〜280
【呉】

丹陽太守。張悌と共に晋軍を迎え討って討死した。


審栄【シンエイ】
?〜?
【袁紹→袁尚】

審配の甥。袁尚に仕える。204年、曹操が冀州を包囲した際に友人の辛ピの一族が審配によって皆殺しにされると城門を開いて曹操軍を迎え入れた。


秦キ【シンキ】
?〜200
【魏】

蔡陽の妻の甥。夏侯惇に仕える。黄河の渡し場を守るが劉備の許に向かう途中の関羽に殺された。


申儀【シンギ】
?〜?
【魏→蜀→魏】

申耽の弟。兄と共に劉封に仕えて西城太守となる。関羽の死後、孟達が魏に降ると同調し、員郷侯・新興太守となる。後、孟達が蜀に戻ろうと画策したため、司馬懿の許に密使を遣わして謀反を知らせて孟達を城から誘き出した。


任キ【ジンギ】
?〜218
【蜀】

牙将。漢中攻防戦の際、馬超に従って下辧に赴いて呉蘭と共に物見に出たところ、曹洪に出会って討ち取られた。


秦慶童【シンケイドウ】
?〜200
【民衆】

董承の下僕。200年、董承の妾の雲英と忍び逢っているところを発見されて棒打ちに処せられる。この事を恨み、曹操に董承らの計画を漏らし、雲英との仲を許してもらおうとするが逆に怒りを買って殺された。


辛憲英【シンケンエイ】
191〜269
【魏】

辛ピの娘。249年、司馬懿の反乱の際、弟の辛敞から相談を受けて司馬懿の狙いが曹爽一派にあると指摘。これを聞いた辛敞は洛陽を脱出して曹爽の許に駆け付け、節義と生命の双方を全うすることができた。後に子の羊eが鐘会の参軍に任じられた際、身の処し方を助言し、羊eは命を全うすることができた。


岑コン【シンコン】
?〜280
【呉】

中常侍。孫コウに寵愛される。晋の南下に備えて長江を鉄鎖で封じるよう進言。魏が呉を攻めた際は呉軍の士気低下の原因とされて群臣によって宮中で殺された。


甄氏【シンシ】
182〜221
【袁紹→魏】

甄逸の娘。初め袁熙の妻となり、204年、曹操が冀州を制した際に曹丕の妻となった。曹叡を産む。曹丕の即位後は讒言などで寵愛を失い、郭氏の陰謀で曹丕から自殺を命じられた。後に曹叡が即位すると文昭皇后と追尊された。


岑シツ【シンシツ】
?〜?
【民衆】

字は公孝。劉表の友人で『江夏八俊』の一人。詳細は不明。


任峻【ジンシュン】
?〜204
【魏】

字は伯達。196年、曹操に仕えて典農中郎将となり、屯田の実施において目覚ましい成果を挙げて曹操の戦力増強に多大な貢献をした。


辛敞【シンショウ】
?〜?
【魏→晋】

字は泰雍。辛ピの子。曹爽に仕える。249年、司馬懿の反乱の際、魯芝と共に城門を突破して曹爽の許に駆け付ける。曹爽の死後、司馬懿にその節義が認められて旧職に復した。正史では後に晋に仕えて衛尉となった。


申耽【シンタン】
?〜?
【魏→蜀→魏】

字は義挙。申儀の兄。219年、漢中を制した劉備に降り、劉封・孟達に従って上庸都尉となる。関羽の死後、孟達を説得して魏に降り、懐集将軍として南陽に移る。孟達の乱には関与していない。


審配【シンパイ】
?〜204
【袁紹→袁尚】

字は正南。199年、郭図と共に曹操を攻めるよう進言し、翌年、黎陽を攻めた際は逢紀と共に総指揮を務めた。202年、袁紹が死ぬと逢紀と共に袁尚に従って袁譚と争う。曹操が冀州を攻めた際は陳琳と城を守るが甥の審栄が城門を開いて曹操軍を迎え入れたため、徐晃に捕らえられて降伏を拒み処された。


辛ピ【シンピ】
?〜?
【袁紹→魏】

字は佐治。辛評の弟。袁紹の死後、袁譚派につき、曹操に援軍を求めてそのまま仕える。220年、曹操が死ぬと華キン・王朗と共に献帝に譲位を迫り、曹叡の時に衛尉となる。234年、司馬懿と諸葛亮が対峙した際、諸将に出陣を禁じるため、勅使として魏陣営に赴いた。


秦ビツ【シンビツ】
?〜226
【劉璋→蜀】

字は子勅。「しんひつ」とも言う。初め劉璋に仕えて劉備が益州を制すると従事郎となり、諸葛亮と共に劉備に皇帝になるよう勧める。後に学士となるが劉備の呉侵攻に反対し、投獄される。223年、呉が張温を使者として遣わした際、張温と学術討論を行い、出る質問には全て答えて感服させた。


辛評【シンヒョウ】
?〜205
【韓馥→袁紹→袁譚】

字は仲治。初め韓馥に仕え、袁紹が冀州を制するとその配下となる。202年、袁紹が死ぬと袁譚派につき、袁尚と争う。205年、曹操が袁譚を攻めると降伏の使者となり、降伏を拒否されたことから二心を疑われて心痛のあまり死んだ。


岑壁【シンヘキ】
?〜202
【袁紹→袁譚】

袁譚に仕える。袁紹の死後、袁譚の命で冀州を攻めるが呂曠に討たれた。


辛明【シンメイ】
?〜?
【袁紹】

200年、官渡の戦いの後、曹操が黎陽を攻めて袁紹の退路を断つ動きを示したため、袁紹の命で黎陽を守った。


秦明【シンメイ】
?〜234
【魏】

秦朗の弟。司馬懿が鄭文に蜀軍への偽の降伏をさせた際に諸葛亮を信用させるために秦朗と名乗って鄭文に一騎打ちに挑み、斬られた。


秦良【シンリョウ】
?〜231
【魏】

曹真に仕える。諸葛亮の4度目の北伐の際、曹真と共に斜谷口を守る。偵察の命を受けて出陣するが蜀の伏兵に遭って廖化に斬られた。


秦朗【シンロウ】
?〜234
【魏】

前将軍。諸葛亮の6度目の北伐の際、五丈原において司馬懿の命で蜀軍に夜襲をかけるが伏兵に遭って討死した。


【す】に続く

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