三国志登場人物解説

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【こ】

皇甫嵩【コウホスウ】
?〜195
【後漢】

字は義真。184年、左中郎将として黄巾討伐に加わり、朱儁・曹操らと共に官軍を率いて戦功を立て、鎮圧後、左車騎将軍・冀州牧となる。演義では官宦に賄賂を送らなかったとして罷免されている。後、董卓が実権を握ると捕らえられるが御史中丞として復帰。その死後、王允・呂布と共に董卓の遺産を没収した。死後、太尉に昇進している。


皇甫レキ【コウホレキ】
?〜?
【後漢】

皇甫嵩の甥。195年、李カクと郭シが争った際、献帝から和睦させるよう命じられるが李カクの激怒を買って斬られそうになるが西涼兵の中に紛れて李カクを罵り、士気を大きく低下させた。


孔融【コウユウ】
153〜208
【後漢→魏】

字は文挙。孔宙の子で『建安七子』の一人。190年、北海太守の時に董卓討伐軍に参加し、諸侯と共に董卓を攻めた。後に太中大夫となって曹操の南征に批判的であったため、一族もろとも殺されてしまった。実直な性格をしていたという。


侯覧【コウラン】
?〜?
【後漢】

宦官で十常侍の1人。霊帝に取り入って張譲、趙忠らと共に宮中で権力を奮った。後に列侯になるが大将軍の何進と対立し、殺害したことで袁紹らの怒りを買って攻められるが張譲らと共に少帝と協皇子(後の献帝)を宮中から連れ出した。正史では172年に専横の罪で官を剥奪されているため、十常侍ではないという。


高覧【コウラン】
?〜201
【袁紹→魏】

官渡の戦いで袁紹軍の要である烏巣を攻められた際、張コウと共に曹操軍の本陣を急襲するが夏侯惇に敗れる。さらに郭図に敗戦の責を追わされそうになったため、曹操に降る。その後、曹操の荊州遠征に従うが趙雲に討たれた。


黄龍【コウリュウ】
?〜?
【黄巾賊】

蜂起した農民兵を指揮して各地で暴れ回る。後に朝歌の鹿場山で袁紹率いる討伐軍と戦って左髭丈八と共に討たれた。


胡淵【コエン】
?〜?
【魏→晋】

字は世元。胡烈の子。鐘会に従って蜀侵攻に加わる。蜀滅亡後、父が鐘会によって監禁されると事態を察した衛カンらと共に鐘会を攻めて殺害した。後に八王の乱に巻き込まれて死亡した。


伍延【ゴエン】
?〜280
【呉】

江陵督(演義で車騎将軍)。江陵で杜預率いる魏軍を迎え撃ち、捕らえられて殺された。


胡華【コカ】
?〜?
【後漢】

議郎。官を辞して隠棲していたが曹操の許から劉備の許に向かっていた関羽一行を屋敷に泊めた際、我が子への手紙を託した。


呉桓【ゴカン】
?〜?
【黄巾賊】

正史のみの登場。黄巾の乱後も残党を率いて各地を荒らし回る。後に会稽で留賛に討たれた。


呉巨【ゴキョ】
?〜?
【劉表】

呉臣とも言う。蒼梧太守。劉表の後援を得て交州に勢力を築く。劉備とは旧知の仲だという。


呉匡【ゴキョウ】
?〜?
【後漢】

189年、何進が十常侍に殺された際、袁紹と共に宮中に乱入し、何苗を兄殺しの共犯として配下に殺させた。


胡玉【コギョク】
?〜?
【海賊】

銭トウの海賊。商人を襲って港で獲物を分配している時に孫堅の計略にかかって蹴散らされた。


国淵【コクエン】
?〜?
【魏】

正史のみの登場。国泰の子。学問に熱心で古学を好み、謙虚な性格をしていた。師事していた鄭玄から「国家的人物になる」と評される。後、曹操に仕えて屯田政策を統括し、5年で国庫を回復させた。曹操が馬超の乱を鎮圧するべく出陣すると留守を任され、河間で田銀と蘇伯が反乱を起こすとこれを鎮圧し、魏郡太守となり、次いで太僕となった。


国泰【コクタイ】
?〜?
【不明】

詳細は不明。


伍瓊【ゴケイ】
?〜190
【後漢】

字は徳瑜。城門校尉。董卓が袁紹を殺そうとした際、袁紹を郡守に任じて懐柔するよう勧める周ヒの意見に賛同する。後、董卓が洛陽から長安への遷都を決めた時に周ヒと反対して殺された。


呉景【ゴケイ】
?〜203
【呉】

孫策の叔父。姉の呉夫人が孫堅に嫁ぎ、挙兵に従う。孫堅の死後、袁術に仕えて丹陽太守となる。196年に劉ヨウに攻められて孫策に援軍を要請し、孫策が袁術の許から離れたのを機に孫策に仕えるようになる。揚武将軍を兼任した。


吾彦【ゴゲン】
?〜?
【呉→晋】

字は子則。建平太守。晋の呉侵攻戦に抵抗し、善戦するが呉皇帝・孫コウが降伏したのを知ると降伏した。後、晋に仕えて金城太守となる。


胡広【ココウ】
91〜172
【後漢】

字は伯始。司徒。6人の皇帝に仕えて重用され、度々三公となる。霊帝即位後はその補佐を務めた。


呉綱【ゴコウ】
?〜?
【諸葛誕】

長史。257年、諸葛誕が反乱を起こそうとした時に呉の支援を得るため、人質として諸葛セイを建業へ送るよう命じられた。


呉国太【ゴコクタ】
?〜?
【呉】

呉夫人の妹。孫堅の第二夫人となり、孫朗・孫仁(孫尚香)を生む。呉夫人の死後、呉国太と尊称された。後、孫権が孫仁を使って荊州調略の企みを知ると喬国郎(橋公)と共に反対し、正式な縁談にするよう強く迫った。


胡才【コサイ】
?〜195
【黄巾賊→後漢】

白波賊の頭目。李楽・韓暹と共に洛陽に向かう献帝の護衛をするが李カク・郭シの追撃にあって討死した。一説には仇敵に殺されたとも言われる。


吾粲【ゴサン】
?〜?
【呉】

字は孔休。孫和の長史となり、孫権が帝位につくと少府・太子太傅を歴任した。後に孫和が孫覇と対立すると孫和側についたため、孫覇に罪を着せられて獄死した。


胡氏【コシ】
?〜?
【蜀】

劉エンの妻。234年、呉太后に謁見し、気に入られ、一ヶ月に渡って引き留められたため、夫に劉禅との不義を疑われ、縛られた上、兵士に靴で顔を打たれた。


呉氏【ゴシ】
?〜245
【劉璋→蜀】

呉懿の妹。穆皇后とも言う。はじめ、劉璋の兄・劉瑁に嫁ぐがすぐに未亡人となる。219年、劉備が漢中王になると妻に迎えられて劉永・劉理を産んだ。後に劉備の即位で皇后となり、劉備の死後は皇太后として劉禅を後見した。


呉氏【ゴシ】
?〜202
【呉】

孫堅の妻。孫策・孫権・孫翊・孫匡を産む。202年、曹操が孫権の子を人質にしようとした際、周瑜・張昭らに相談して拒否を決めた。正史では4男1女の子供がいたという。


胡質【コシツ】
?〜250
【魏】

字は文徳。曹叡の時に東カン太守となり、満寵と共に賈逵に従って呉を攻めた。


呉質【ゴシツ】
?〜?
【魏】

字は季重。朝歌県長(県令と同等)を務め、曹丕とは親交があり、良き相談役となった。後、振威将軍・列侯となり、曹叡の時には侍中となった。文人としても優れた人物であったという。


胡車児【コシャジ】
?〜?
【張繍】

張繍配下で随一の勇の持ち主。197年、張繍が曹操の攻撃を受けて一度は降伏するが叔母の雛氏を曹操に奪われた恨みから挙兵するにあたり、曹操の護衛をしていた典韋の武器を奪った。


胡脩【コシュウ】
?〜219
【魏→蜀】

正史のみの登場。曹操から荊州刺史に任じられる。司馬懿は南郡太守の傅方と合わせて性格に問題があると評していたが、樊城の戦いで蜀に寝返り、最後は徐晃に討たれた。


伍習【ゴシュウ】
?〜?
【郭シ→魏】

197年、郭シを殺して首を曹操に献じた。それにより、テン虜将軍に任じられて長安の守備に当たった。


胡遵【コジュン】
?〜?
【魏】

238年、司馬懿に従って公孫淵討伐に参加し、先鋒を務め、征東将軍となった。後に司馬師の呉征討で東興を攻めるが丁奉の奇襲を受けて大敗した。


呉子蘭【ゴシラン】
?〜200
【後漢】

董承が献帝の密詔を受けて曹操打倒の計画に参加する。しかし、翌年、董承に恨みを抱いた秦慶童に密告されて一族皆殺しとなった。


胡軫【コシン】
?〜190
【董卓】

字は文才。陳郡太守。袁紹ら諸侯が率いる連合軍がシ水関に迫った際、華雄の副将として孫堅軍と戦って程普に討ち取られた。正史では敗走しただけで殺されてはいない。


胡済【コセイ】
?〜?
【蜀】

字は偉度。北伐では主簿(演義では行参軍)して参加し、諸葛亮によく諫言して称賛された。諸葛亮の死後、前将軍・右驃騎将軍を歴任した。演義では漢寿城を守ったという。


呉碩【ゴセキ】
?〜200
【後漢】

議郎。董承が献帝より曹操打倒の密詔を受けた際、董承に賛同する。しかし、密告により計画が漏れて一族皆殺しとなった。


胡赤児【コセキジ】
?〜192
【董卓】

牛輔の腹心。董卓の死後、牛輔が呂布に敗れて逃亡した際に蓄えた財宝に目がくらんで牛輔を殺した。後、首級を呂布に献じるが事情を知った呂布に殺された。


胡沖【コチュウ】
?〜?
【呉】

中書令。279年、晋軍が建業に迫った時に薛瑩と共に蜀の劉禅に倣って降伏するよう孫コウに勧めた。


胡忠【コチュウ】
?〜?
【蜀】

234年、北伐に向かう諸葛亮の命で杜叡と共に上方谷において木牛流馬の製造にあたった。


兀突骨【ゴツトツコツ】
?〜225
【孟獲(国王)】

烏戈国の王。孟獲の求めに応じて藤甲軍を率いて蜀軍と戦う。藤甲とは蔓を油に浸して乾燥させ固くすることであらゆる攻撃を防ぐ防具のことで序盤は蜀軍を蹴散らすことに成功した。しかし、藤甲の弱点を知った諸葛亮の誘引を受けて火計により、爆殺した。


呉敦【ゴトン】
?〜?
【山賊→呂布→曹操】

泰山の山賊。臧覇・孫観らと共に呂布を助けて曹操を攻める。呂布の死後、先に曹操に降伏していた臧覇に説得されて曹操に降伏した。


胡バク【コバク】
?〜?
【後漢】

字は敬才。侍中。195年、皇甫レキが郭シとの和睦を受け入れない李カクに罵声を浴びせた際、これをなだめようとして逆に叱責された。


胡班【コハン】
?〜?
【魏→蜀】

胡華の子。ケイ陽の王植に従事として仕えていた際、関羽が劉備に会うためにケイ陽に来る。王植の命で焼討ちを試みるが関羽より父からの手紙を受け取り、改心し、一行を密かに逃した。後に関羽を頼って荊州に行き、劉備に謁見した際に牙門将に任じられた。


呉班【ゴハン】
?〜234
【蜀】

字は元雄。呉匡の子で呉懿の族弟。張飛に従ってロウ中に入り、劉備が呉を攻めた際は先鋒となる。劉禅の即位後は驃騎将軍・綿竹侯となり、234年、北原の魏軍を攻めて伏兵に遭って射殺された。


伍孚【ゴフ】
?〜190
【後漢】

字は徳瑜。越騎校尉。董卓の横暴に憤り、暗殺を試みるが失敗し、呂布に捕らえられて殺された。正史では姓・字・原籍が伍瓊と同じであり、董卓に殺された点も共通することから同一人物ではないかと言われている。


胡奮【コフン】
?〜?
【魏→晋】

字は玄威。胡遵の子。大将軍司馬として司馬昭に従って諸葛誕を斬る。司馬炎が即位すると平南将軍となり、呉攻略に参加した。


胡封【コホウ】
?〜?
【董卓→李カク】

正史のみの登場。董卓の死後、李カクに仕える。李カクは馬騰・韓遂と対立し戦いとなっており、討伐を任された樊稠が同郷のよしみで見逃したため、内通を疑った李カクの命を受けて樊稠を評定の席で殺した。


顧雍【コヨウ】
168〜243
【呉】

字は元歎。孫権に仕えて呉郡の丞となる。208年、同盟のために呉を訪れた諸葛亮に論戦を挑む。後、孫権が即位すると丞相に任じられた。厳正な性格をしていたという。


呉蘭【ゴラン】
?〜218
【劉璋→蜀】

ラク城で劉備軍と戦うが適わず降伏する。漢中攻略戦では馬超の先鋒として下辨に駐屯した。218年、雷銅と共に武都を攻めるが殺された。


胡烈【コレツ】
?〜?
【魏】

字は玄武。胡遵の子で胡奮の弟。鐘会の蜀攻略にあたり護軍に任じられる。蜀滅亡後、鐘会により幽閉されるが子の胡淵と連絡を取り、外部から鐘会を攻めさせて鐘会を殺した。


【さ】に続く

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