三国志登場人物解説

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【こ】

呉懿【ゴイ】
?〜237
【劉璋→蜀】

字は子遠。高陽侯・驃騎将軍。劉璋の義兄で妹は劉備の妻。劉備が蜀に侵攻してきた時に降伏する。以後、蜀将として北伐にも参加。諸葛亮の死後は漢中の守備をまかされた。


句安【コウアン】
?〜?
【蜀→魏】

249年、姜維の命により、李キンと共に麹山に出城を築いて守備に当たるが魏軍に糧道と水源を断たれて降伏。その後、鐘会に従って蜀を攻めた。


コウ安【コウアン】
?〜?
【蜀→魏】

李厳に仕える。都尉。諸葛亮の5度目の北伐の際、兵糧の輸送を担当したが酒に酔って期限が遅れてしまい、棒打ちの刑を受ける。その事を恨みに思い、魏に降伏し、司馬懿の策で成都にて諸葛亮が簒奪を企んでいるとの噂を流して劉禅に諸葛亮を呼び寄せた結果、蜀軍は兵を退かざる得なかった。


孔イク【コウイク】
?〜?
【不明】

『江夏の八俊』の一人。詳細は不明。


黄エン【コウエン】
141〜192
【後漢】

字は子エン。太尉。董卓の長安遷都に反対して官を剥奪されるが翌年、司隷校尉の位を得て王允・士孫瑞らと共に董卓を討つ計画を立てる。後に李カク・郭シが長安に攻め入った際に捕らえられて獄死した。


黄蓋【コウガイ】
?〜?
【呉】

字は公覆。孫三代に仕えた宿将。鉄鞭の使い手。赤壁の戦いで曹操を欺くために周瑜と協力して「苦肉の策」を行い、諸葛亮が導いた東南の風をもって見事火計を成功させ、曹操軍の船団を炎上させることに成功した。その功により、武鋒中郎将となり、ついで偏将軍・武陵太守となった。


高幹【コウカン】
?〜206
【袁紹】

字は元才。袁紹の甥で并州刺史。官渡の戦いで敗北した袁紹を助けるべく出陣するが敗走する。後、壺関で曹操軍を食い止め、李典・楽進らと激戦を繰り広げるがここでも敗れ、荊州の劉表を頼っていく途中で殺された。正史では袁譚の死後、曹操に降伏し、ヘイ州刺史に任じられたが再び背いたため、殺されたという。


耿紀【コウキ】
?〜218
【後漢→魏】

字は季行。丞相府の掾吏を経て侍中少府になる。曹操が魏王となると漢王朝の存亡に関わることだと韋晃・金イと計り、曹操の討伐を図るが失敗し、一族もろとも殺されてしまった。


黄奎【コウケイ】
?〜211
【魏】

演義のみ登場。黄エンの子。門下侍郎。曹操が馬騰誅殺を謀って許都に召還した際に行軍参謀に任じられるがその馬騰と謀って曹操を討とうと考える。しかし、妾の李春香が情報を漏らしたため、馬騰もろとも殺されてしまった。


黄月英【コウゲツエイ】
?〜?
【蜀】

黄承彦の娘で諸葛亮の妻。醜女だったとも美貌だったとも言われる。広く学問に通じ、夫に劣らない豊富な知識を持ち、陰で支えながら難局を共に切り抜けた。しかし、諸葛亮の死後、後を追うように逝去したという。


黄権【コウケン】
?〜240
【劉璋→蜀→魏】

字は公衛。劉備の入蜀に反対して屋敷に籠もる。劉備が益州を奪取すると再三の要請に応じて偏将軍を賜る。後、夷陵の戦いで水軍を率いて出陣するが本隊壊滅で孤立し、やむなく魏に降伏した。しかし、劉備に対する忠節は変わらなかったという。魏で鎮南将軍を経て車騎将軍・儀同三司(名誉職)に至った。


黄コウ【コウコウ】
?〜263
【蜀】

官宦。劉禅の寵愛を受けて宮中で勢力を広げ、政治にも関与するようになる。腹心の閻宇を重用するよう働きかけ、姜維を左遷しようともした。しかし、蜀の滅亡後、国を乱した罪により処された。


黄射【コウシャ】
?〜?
【劉表】

黄祖の子。禰衡と親しかったという。


孔秀【コウシュウ】
?〜200
【魏】

東嶺関を守る。曹操の許を辞した関羽が劉備の許へ向かう途中、関の通過を願い出る関羽の申し出を拒んだため、殺された。


コウ周【コウシュウ】
?〜?
【魏】

正史のみの登場。字は孔賢。于禁に従って樊城を攻める関羽と戦うが水攻めにより壊滅。于禁と共に捕らえられ、関羽の死後は呉に身柄を移された。後に魏と和睦した呉により魏に戻ることを許された。


高柔【コウジュウ】
?〜?
【袁紹→魏】

字は文恵。高靖の子で高幹の従弟。高幹に招かれて河北に移住。袁家滅亡後は曹操に仕えた。曹丕、曹叡に重用され、廷尉となる。曹芳の時に司徒・司空を歴任し、司馬懿が謀反を起こした際は曹爽に代わって大将軍となり、曹爽の陣営を占拠した。曹ボウの時に太尉となった。


高順【コウジュン】
?〜198
【呂布】

呂布・張遼に次ぐ猛将で「陥陣営」の異名を持つ。清廉潔白の性格で威厳があり、酒を飲まず貢物を一切受け取らなかった。さらに、事あるごとに呂布を諌め、呂布もその忠義を認めていたがその意見は採り上げることはなかった。徐州陥落後、曹操に捕らえられたが無駄な抵抗をすることなく斬られた。


黄邵【コウショウ】
?〜194
【黄巾賊】

張角の死後、汝南や頴川で略奪を繰り返していたところを兵糧を調達するために攻め寄せた曹操軍と戦い、李典に捕らえられて殺された。


高昇【コウショウ】
?〜184
【黄巾賊】

張宝の副将。曲陽の戦いに出陣するが劉備率いる義勇軍と戦い、張飛に一騎討ちを挑み、数合で突き落とされた。


高翔【コウショウ】
?〜?
【蜀】

右将軍。諸葛亮の北伐に参戦し、街亭の戦いでは列柳城を守り、馬謖らの後方支援に当たった。5度目の北伐の際には剣閣から祁山まで木牛や流馬を用いて兵糧の輸送を行った。


黄承彦【コウショウゲン】
?〜?
【民衆】

諸葛亮の舅。諸葛亮がぜひにと申したので娘の月英を嫁にやった。夷陵の戦いで白帝城に逃げ込んだ劉備を追撃せんとする陸遜に石兵八陣のことを伝えて危機を回避させた。


黄崇【コウスウ】
?〜?
【蜀】

黄権の子。夷陵の戦いで父が魏に降伏した際、蜀に残った。裏切り者と揶揄されながらも懸命に臣従し、魏の蜀攻略戦で諸葛瞻に従って戦うが討死した。


高靖【コウセイ】
?〜?
【不明】

詳細は不明。


侯成【コウセイ】
?〜?
【呂布→魏】

呂布に仕え、呂布が下ヒ城に追い詰められると規律を引き締めるために出した禁酒令に反発し、呂布を諫めるが重傷を負った。この行為に憤り、曹操への内通を決意し、魏続・宋憲も呼応し、曹操軍を城へと導くことに成功した。


侯選【コウセン】
?〜?
【韓遂】

211年、馬超・韓遂に従って曹操を攻めるが渭水の戦いで馬超が曹操に敗れると程銀と共に漢中に逃れていたが215年に曹操が漢中を平定した時に降伏した。演義では韓遂と共に降伏したという。


黄祖【コウソ】
?〜208
【劉表】

江夏太守。しばしば孫堅と争い、孫堅の荊州攻めの際は黄蓋に捕らえられて孫堅の遺体と交換させられる。199年、曹操より遣わされた禰衡の態度に憤慨し殺害。また、配下の甘寧を冷遇したために呉に去られてしまった。後、呉の将となった甘寧によって斬られてしまった。正史では馬則なる騎兵に討たれたとある。


高ソ【コウソ】
?〜?
【魏】

正史のみの登場。曹操に従って張魯を攻める。張衛・楊任らが守る陽平関の戦いで武功を立て、陽平関を落とした。


公孫越【コウソンエツ】
?〜191
【公孫サン】

公孫サンの弟(正史では従弟)。冀州割譲を条件に同盟関係にあった袁紹が一方的に冀州を支配したことに不満を抱いた公孫サンに代わって使者となる。冀州で謁見した帰りに闇討ちに遭い討死した。正史では袁術の許に遣わされて袁紹の将である周昂を攻めて流れ矢に当たって死んだという。


公孫淵【コウソンエン】
?〜238
【公孫康→魏→君主】

遼東太守。公孫康の次子。野心家で兄の公孫恭を殺して太守の座を奪い取った。魏を挟撃しようと企む呉より遣わされてきた使者を斬って大司馬・楽浪公に封じられるがこれに不満を抱いて燕王を自称し、魏から独立した。しかし、司馬懿の討伐を受けて夜陰に乗じて脱出を図るが捕らえられて殺された。


公孫恭【コウソンキョウ】
?〜?
【公孫康→魏】

公孫度の次子。兄の死後、甥たちが幼かったため、後を継いで魏より襄平侯(平郭侯とも)・車騎将軍を賜る。しかし、叔父の存在を快く思わない公孫淵によって太守の地位を追われた。


公孫康【コウソンコウ】
?〜?
【公孫度→魏】

公孫度の長子。父の死後、遼東太守を受け継ぐ。207年に曹操の北伐により、逃げてきた袁兄弟を捕らえて首を曹操に送った。後に襄平侯・左将軍となった。


公孫晃【コウソンコウ】
?〜237
【公孫康】

公孫康の長子。叔父で太守をしていた公孫恭の命により、魏の曹丕に公孫淵の反乱を知らせた。反乱後、妻子共々捕らえられて毒殺された。


公孫コウ【コウソンコウ】
?〜?
【公孫淵】

正史のみの登場。呉から使者が来た時に公孫淵は態度を急変させて使者を斬り、公孫淵の命を受けて魏への使者となり、魏への恭順を誓う上奏文と使者2人の首級を携えて洛陽に赴いて曹叡に謁見した。


公孫サン【コウソンサン】
?〜199
【後漢】

字は伯珪。北平太守。「白馬将軍」の異名を持つ。若い頃は廬植に師事し、劉備とは兄弟弟子の間柄。北平太守に任じられると鮮卑族ら北方の民族との戦いに勲功をあげ、反董卓連合にも参加して虎牢関を攻めた。この時、劉備らを擁して呂布と激戦を繰り広げた。後に冀州を制した袁紹と対立すると一進一退を繰り返すも最後は易京の戦いで城に火を放って妻子と共に自害した。正史では董卓討伐軍に参加しておらず、北平太守にもなっていないという。


公孫修【コウソンシュウ】
?〜238
【公孫淵】

公孫淵の子。父が独立を宣言した後、世継ぎとなる。翌年、司馬懿が襄平を包囲すると人質として差し出されるが拒否され、父と共に脱出を図るが捕らえられて殺された。


公孫続【コウソンショク】
?〜?
【公孫サン】

公孫サンの族弟。対立が激しくなる公孫サンを懐柔するために袁紹は渤海太守の印綬を公孫続に渡そうとしたという。


公孫度【コウソンド】
?〜204
【後漢】

字は升済。遼東太守。「こうそんたく」とも言う。内陸の戦乱をよそに独自の勢力を築いた。後に曹操より武威将軍に任じられた。


公孫範【コウソンハン】
?〜?
【公孫サン】

公孫サンの子。父に従って袁紹と戦う。しかし、次第に劣勢となり、易京の戦いで城もろとも自害して果てた。


孔チュウ【コウチュウ】
?〜?
【後漢】

字は公緒。董卓により豫州刺史となる。190年、諸侯が董卓討伐の兵を興すとこれに呼応し、華雄討死後の水関を攻めた。政治よりも詩歌を好む人物であった。


孔宙【コウチュウ】
?〜?
【後漢】

孔子の末裔。泰山郡の都尉を務めた。


黄忠【コウチュウ】
148〜222
【劉表→韓玄→蜀】

字は漢升。五虎将軍の一人。劉備の荊南攻略で関羽と一騎打ちを演じ、魏延と共に降伏する。劉備の入蜀では先鋒を務め、窮地に陥る時もあったが援軍の到着まで持ちこたえた。その数々の勲功により、五虎将軍の一人に任命され、定軍山の戦いでは厳顔と共に夏侯淵を討つことに成功する。しかし、劉備が呉征討の軍を興すと先鋒となるも馬忠に射殺されたという。


句扶【コウフ】
?〜?
【蜀】

正史のみの登場。左将軍。忠義に篤く寛容な性格で武勇に優れていたという。後に「前に王平、句扶あり、後ろに張翼、廖化あり」と人々は4人を並び称した。


高定【コウテイ】
?〜?
【孟獲→蜀】

越雋太守。225年、孟獲が蜀に対して反乱を起こした時に雍ガイ・朱褒らと共に呼応して永昌を攻めた。しかし、諸葛亮の策略にかかって雍ガイ・朱褒らを討ち取り、益州太守に任じられた。正史では当初、越雋の蛮族の王であったという。


高沛【コウハイ】
?〜212
【劉璋】

楊壊と共にフ水関を守る。入蜀した劉備の暗殺を画策するが軍師のホウ統に見破られて劉封・関平らに取り押さえられて楊壊共々殺された。


耿武【コウブ】
?〜191
【韓馥】

字は文威。長史。韓馥が袁紹に冀州を譲ろうとするのを諌め、関純と共に袁紹の暗殺を計るが発覚して顔良に殺された。


皇甫ガイ【コウホガイ】
?〜?
【魏】

263年、鐘会の参軍として蜀攻略に加わった。


【こ】弐に続く

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