三国志登場人物解説

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【け】

ケイ康【ケイコウ】
?〜?
【魏】

『竹林の七賢』の一人。阮籍とは対照的な性格で自分の意見を通す実直な性格をしており、時には反感を買うこともあったが才があったため、重用された。しかし、同僚に濡れ衣を着せられて刑を命じられると死ぬ前日に子のケイ紹を友人の山濤に託したという。


ケイ紹【ケイショウ】
?〜?
【魏?】

ケイ康の子。父が刑死すると山濤に預けられた。


ケイ貞【ケイテイ】
?〜?
【魏】

太常卿。221年、孫権が魏に臣従を申し出た際、孫権を呉王に封じる使者として呉に遣わされる。そこで君臣の迎えを受けた際に自分が勅使であることを鼻にかけ、城に入っても馬車から下りなかったため、張昭に叱責された。


ケイ泥【ケイデイ】
?〜225
【兀突骨】

土安と共に藤甲軍3万を率いて蜀軍と戦う。盤蛇谷で諸葛亮の火攻めに遭い、焼き殺された。


ケイ道栄【ケイドウエイ】
?〜208
【劉表→魏】

劉度に仕える。劉備の荊南攻略の際、これを迎え撃つが適わず降伏する。一度は解き放たれたものの、再び攻めた際に趙雲に一合で斬られた。


卻正【ゲキセイ】
?〜278
【蜀→魏→晋】

字は令光。秘書令。諸葛亮の北伐では内政を担当する。蜀滅亡後は劉禅と共に洛陽に送られた。劉禅が宴席で国を忘れたかのように無関心でいる事を諫めたこともあったという。後に西晋の巴西太守に任じられた。


ケツ宣【ケツセン】
?〜?
【君主】

正史のみの登場。下ヒで数千の兵を率いて反乱を起こし、「天子」を称する。陶謙と結んで泰山、任城を攻めるが曹操に敗れ、後に陶謙とも対立して殺された。


阮咸【ゲンカン】
?〜?
【不明】

『竹林の七賢』の一人。陳留出身。詳細不明。


厳顔【ゲンガン】
?〜?
【劉璋→蜀】

前将軍。知勇に優れた老将で巴郡太守を任される。劉備の蜀侵攻で張飛の器量を侮り、捕らえられた。初めこそ張飛に罵声を浴びせていたが張飛の態度に感服して降伏した。漢中攻略戦では黄忠と共に先鋒を務めて目覚ましい活躍をした。


牽弘【ケンコウ】
?〜?
【魏】

牽招の子。隴西太守。トウ艾の命により、蜀侵攻軍に加わる。綿竹関の攻防戦で王キと伏兵を率いて諸葛瞻を破った。蜀滅亡後はトウ艾により、益州各郡の太守に任じられた。


厳綱【ゲンコウ】
?〜192
【公孫サン】

公孫サンに仕えて先鋒を務める。袁紹軍と対峙した際、一向に動こうとしない袁紹軍に痺れを切らして突撃したが伏兵に遭って射殺された。


厳氏【ゲンシ】
?〜?
【呂布】

呂布の妻。董卓の死後、李カク・郭シらが長安に攻め入った際、ホウジョに匿われて難を逃れた。曹操に徐州を攻められた際、陳宮が呂布が一度囲みを突破して城兵との挟撃を献策するがこれに猛反発し、呂布の死を早める結果になった。呂布の死後、貂蝉らと共に許昌に送られたという。


厳シュン【ゲンシュン】
?〜?
【呉】

字は曼才。同盟の使者として訪れた諸葛亮に論戦を挑が敗れる。孫権が帝位に就くと衛尉に任じられた。後に尚書令となる。また、学問を好み、『孝経伝』・『潮水論』を著した呉を代表する学者の1人。


牽招【ケンショウ】
?〜?
【袁紹→袁尚→魏】

正史のみの登場。ギョウが曹操に包囲されると兵糧調達の命を受けて上党に向かうが戻る途中で袁尚が敗走したため、曹操に降った。その後、袁尚が公孫康に斬られると曹操の臣下でありながら、袁家の祭祀を行った。後、曹丕が即位すると雁門太守として異民族統治や水路の開通などで功績を挙げる。次の曹叡の時に田豫が軻比能率いる鮮卑軍に包囲されると援軍に駆けつけ、蜀の諸葛亮が鮮卑に通じようとすると警戒を行った。辺境統治の名声は田豫に次ぐ。


厳政【ゲンセイ】
?〜?
【黄巾賊】

張宝配下。朱儁ら官軍と劉備率いる義勇軍の攻撃を受けて陽城県の城に籠城する。落城必至と見切りをつけると張宝を殺して官軍に降伏した。演義では劉備が張宝を射殺している。


騫碩【ケンセキ】
?〜189
【後漢】

十常侍の1人。初め小黄門を務め、西園八校尉が設けられると上軍校尉として曹操ら八校尉を統轄した。後に権勢を奮い、霊帝の死後、何進を殺して劉協(後の献帝)を帝位につけようとしたが失敗して袁紹に追われて宮中で郭勝に殺された。


阮籍【ゲンセキ】
?〜?
【魏】

大将軍参謀で『竹林の七賢』の一人。時に任せて独特な性格をしているが決して顔に出すことはなかったという。見た目には礼法を無視したような行動を取り、人からは「方外の士」と呼ばれた。しかし、仕えていた司馬昭の信頼厚く、性格から幾度の危機もあったが常に官位も高い地位にあったという。


厳白虎【ゲンハクコ】
?〜196
【君主】

山越出身で呉郡を拠とする賊。「東呉の徳王」を称する。一万の兵を率いて朝廷に抵抗し、孫策が挙兵すると許貢、陳登らと結んで戦った。後に敗れると許昭の配下を頼り、王朗が敗れた後も抵抗を続けたという。演義では孫策に攻められると会稽の王朗を頼る。しかし、再度敗走を余儀なくされ落ち延びた先で董襲に殺された。首は孫策に献上されている。


厳輿【ゲンヨ】
?〜196
【厳白虎】

厳白虎の弟。孫策に攻められた際、和睦の使者となるが交渉が失敗し、孫策によって殺された。


【こ】に続く

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