三国志登場人物解説

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【き】

魏延【ギエン】
?〜234
【劉表→魏→蜀】

字は文長。劉表の死後、劉備を襄陽に導こうとして蔡瑁の反感を買い、長沙の韓玄を頼る。その後、劉備が荊南攻略に乗り出し、長沙へは関羽が出陣し、黄忠が敗走してくると韓玄は内通を疑い、殺そうとするが逆に魏延に斬られた。そして、黄忠と共に降伏するも次は諸葛亮に反骨の相があるとして反感を受けるが劉備が重用した。五虎将軍に次ぐ武勇で北征で活躍したが諸葛亮の死後、反乱を起こそうとしたが馬岱に斬られてしまった。


麹義【キクギ】
?〜?
【袁紹】

かつては涼州に長く滞在し、羌族の戦法を学んだという。後、袁紹と公孫サンが対立し、麹義は袁紹と共に出陣。界橋の戦いで中軍を指揮し、敵将厳綱を討つが趙雲に討たれた。正史では傲慢な態度に怒った袁紹に殺されたという。


戯志才【ギシサイ】
?〜?
【魏】

正史のみ登場。荀イクの推挙で曹操に仕える。策略に優れ、重用されたが若くして死去した。


魏続【ギゾク】
156〜200
【呂布→曹操】

濮陽の戦いで曹操軍を破る。呂布が下ヒ城に籠城し、士気を高めようと禁酒令を出す。しかし、これを諫めようとした侯成が重傷を負わされたのを気に侯成・宋憲と組して呂布を裏切り、いち早く陳宮を捕らえた。白馬の戦いで顔良と一騎打ちを演じるが一合で斬られたという。


吉バク【キツバク】
?〜218
【後漢】

字は文然。吉本の長子。演義のみ登場。耿紀らと共に曹操討伐の挙兵をあげるが乱戦の中で殺された。


吉穆【キツボク】
?〜218
【後漢】

字は思然。吉本の次子。演義のみ登場。耿紀らと共に曹操討伐の挙兵をするが乱戦の中で殺された。


吉本【キツホン】
?〜200
【後漢】

字は称平。吉平と称される。太医令。董承らと共に曹操誅殺の計画に参加し、翌年、暗殺を試みるが計画が事前に漏れて捕らえられる。しかし、董承らのことは明かすことなく自害した。


魏バク【ギバク】
?〜?
【呉】

孫チンが謀反した際、皇帝孫休の命を受けて丁奉と共に孫チンの一族を捕らえた。


魏平【ギヘイ】
?〜?
【魏】

諸葛亮の5度目の北伐の際、蜀軍が有利に展開していたが李厳の虚言により退却を始め、これを追撃するよう進言し、将は張コウとなったが魏平も続いて出陣している。


魏攸【ギユウ】
?〜?
【劉虞】

正史のみ登場。公孫サン討伐を考える劉虞に「小さな欠点には目を瞑るべき」と諫めたという。


牛金【ギュウキン】
173〜?
【魏】

曹仁に仕える。後将軍。呉軍が南郡を攻めた際、籠城を決めた曹仁に反発して討って出るが逆に孤立する羽目となり、これを助けださんと曹仁が牛金を救出し、反撃に転じたことで呉軍を退かせた。しかし、周瑜の計略により敗走し、城は両軍の間隙を突いた趙雲によって奪われてしまった。


丘建【キュウケン】
239〜?
【魏】

胡烈の配下であったが鐘会の腹心となる。ショク滅亡後に鐘会が謀反を企て胡烈らを幽閉した際、胡烈に対する恩義から胡烈の子・胡淵に急報した。


牛輔【ギュウホ】
159〜192
【董卓】

董卓の娘婿。董卓が洛陽に上った際は陜西を守備し、別動隊を率いて李カク・郭シらに地方の諸県を攻略させていた。董卓の死後、長安を攻めるが呂布に大敗し、陣より金銀財宝を奪って逃げる途中で腹心の赤胡児に捕らえられて殺された。


丘本【キュウホン】
232〜?
【魏】

蜀攻略でトウ艾付きの監軍を務めた。綿竹関の攻防戦で敵将諸葛瞻に対して降伏勧告するよう進言し、これが拒否されると奇襲を仕掛けて攻め落とすよう進言した。


許晏【キョアン】
?〜233
【呉】

孫権の使者として張弥と共に遼東へ遣わされるが魏の威勢を恐れた公孫淵によって殺され、首を魏に送られた。


仇連【キュウレン】
?〜238
【魏】

司馬懿が公孫淵を攻めた際、右都督に任じられるが襄平を包囲した時に長雨に遭い、司馬懿の命に背いて高地へ移動する申し出を行い、処された。


許允【キョイン】
?〜?
【蜀】

漢成亭侯。諸葛亮が北伐のため、漢中に駐屯した際に前護軍に任じられた。


許允【キョイン】
?〜254
【魏】

字は士宗。侍中。司馬懿が謀反を起こした際、曹爽を騙すために兵権を削るだけで他意はないと伝えた。後に李豊の事件に連座して楽浪に流される途中で死んだという。


姜維【キョウイ】
202〜264
【魏→蜀】

字は伯約。姜ケイの子。魏に属し、北伐に来た蜀軍を巧みな計略で退かせた。この見事な計略に感服した諸葛亮は姜維を計略によって打ち負かして配下に引き込むことに成功する。そして、後継者として深く信任されると同時に北伐にも参戦した。五丈原において諸葛亮臨終の際、兵法の全てを託された。後、その遺志を受け継いで九度にわたる北伐を行うが良い成果は見られず、逆に蜀の衰退を招く一因を作った。蜀が滅亡すると鐘会に近づき謀反を起こすよう説くが発覚して鐘会もろとも殺された。


キョウ起【キョウキ】
?〜228
【蜀】

諸葛亮の2度目の北伐で陳倉攻略の行った際、王雙に挑んで討ち取られた。


キョウ景【キョウケイ】
?〜?
【後漢】

青州刺史。黄巾の乱では度々領地を侵されるがこれを切り抜けた。張角の死後、管亥率いる数万の黄巾軍に攻められ、隣国の陶謙に援軍を求める。陶謙は援軍は困難だと平原の劉備を紹介し、劉備は快諾して敵の包囲を崩すことに成功した。


姜ケイ【キョウケイ】
?〜?
【後漢】

天水郡の功曹。羌族が反乱を起こした際に討死した。


橋玄【キョウゲン】
109〜184
【後漢】

字は公祖。太尉。若い頃の曹操を評して、「天下は正に乱れんとしている。これを治めることが適うのは一世の賢者でなければならぬ。その賢者は君かもしれぬ」と語ったという。喬国老と混同されることが多いが出身地が違う(橋玄は梁国スイ陽、喬国老は廬江郡皖県)ところから、まったくの別人である。


橋公【キョウコウ】
?〜?
【呉】

大喬(孫策の妻)・小喬(周瑜の妻)の父で喬国老と呼ばれる。孫権が妹の孫尚香を使って政略結婚を画策した際、全てを看破していた諸葛亮の指示により、劉備は橋玄を訪れて驚かせた。事の真意を孫権より打ち明けられた橋玄は呉国太(孫権の母)と共に策略に反対し、劉備に孫尚香を与える器があるとして正式な婚姻にすることを勧めた。


鞏志【キョウシ】
?〜?
【劉表→魏→蜀】

武陵太守金旋配下。主簿。劉備の荊南攻略で張飛が武陵に侵攻してきた際、鞏志は降伏を進言したが退けられ、金旋が出陣する。しかし、張飛の勇猛さの前にあえなく敗走してきた金旋を討って降伏した。劉備は鞏志を許し後任の武陵太守に命じた。


姜叙【キョウジョ】
?〜?
【後漢→魏】

楊阜の従兄。献帝より撫夷将軍に任じられ、歴城を守る。後に馬超が冀城を奪った際、楊阜と共に馬超と戦い、夏侯淵の援軍を得て撃破した。


橋ズイ【キョウズイ】
143〜197
【袁術】

曹操が袁術を攻めた際、先鋒として寿春の県境で迎え撃つが夏侯惇に討たれた。正史では袁術より大将軍に任じられたという。


許靖【キョセイ】
?〜222
【劉璋→蜀】

字は文休。許劭と同族。劉璋に仕えて蜀郡太守となる。劉備が劉璋を攻め、追い詰められた劉璋に降伏を促した際に共に降伏する。後に左将軍となり、劉備が漢中王になった時は太傅となり、即位した時は司徒となった。


強端【キョウタン】
?〜?
【魏】

陰平の蛮族。劉備が漢中を攻めた際、呉蘭を出陣させるが曹洪に大敗した。この時、呉蘭の首を斬って曹操に送ったのが強端だという。


キョウ都【キョウト】
?〜201
【黄巾賊→蜀】

張角の許で官軍と戦い、その死後は汝南に拠る。その後、劉辟と共に袁紹・劉備に協力し、曹操軍を攻めるが夏侯淵に討たれた。正史では討たれずに荊州へ逃れたという。


橋瑁【キョウボウ】
?〜?
【後漢】

字は元偉。橋公の甥。東郡太守として反董卓連合軍に参加する。同盟が決裂した後、エン州の劉岱から兵糧借用の申し出があり、これを断ったところ、劉岱に攻められて殺された。


許儀【キョギ】
213〜?
【魏】

許チョの子。蜀侵攻軍で鐘会の先鋒になる。道の整備を担当したが鐘会が通ったときに道が崩れたため、斬首された。


許貢【キョコウ】
?〜?
【呉】

呉郡太守。曹操に孫策に気をつけるよう密使を遣わしたが途中で密使が捕らえられて発覚し、殺された。しかし、許貢に仕えていた食客三人が仇を討つべく狩猟中の孫策を襲って重傷を負わせた。


許【キョシ】
?〜?
【魏→呂布】

曹操がエン州牧だった時に従事中郎として仕える。194年に呂布に寝返る。呂布が下ヒで曹操に包囲されると援軍を請うために袁術のもとへ遣わされた。


許芝【キョシ】
?〜?
【魏】

太史丞。曹丕が魏王に就くと李伏(中郎将)と共に瑞兆や図識を根拠として世論を造成し、魏が漢に代わるべきだと主張し、華キン・王朗らと共に献帝に禅譲を迫った。


許慈【キョジ】
?〜?
【蜀】

字は仁篤。劉備が帝位に就いた際、即位の儀式を執り行った。後に劉禅が皇帝になると大長秋に昇った。


許劭【キョショウ】
?〜?
【民衆】

字は子将。許靖の兄(従兄とも)で人物批評の大家。若き頃の曹操に「お前は治世であれば能臣だが、乱世であれば肝臣なり」と言わしめたという。


許昌【キョショウ】
?〜174
【君主】

妖術を使って皇帝を称して数万の信徒と共に反乱を起こすが孫堅の義勇軍によって討たれた。


許チョ【キョチョ】
?〜?
【魏】

字は仲康。曹操が豫州を攻めた際、黄巾賊と戦っていた義勇軍があり、これを率いていたのが許チョで典韋が敵将を渡すよう求めたが拒否したため、一騎討ちとなり、互角の戦いぶりに曹操が許チョの力量を認め、護衛役とした。普段はぼんやりとしているのに戦場では勇猛果敢な働きをすることから「虎痴」の異名を持つ。曹操の死後は曹丕に仕えて武衛将軍となり、呉侵攻にも加わった。死んだのは曹叡の時だという。


許攸【キョユウ】
?〜204
【袁紹→魏】

字は子遠。袁紹が冀州を奪った際に行政を任される。官渡の戦いでは自らの策を退けられたのを根に持ち、親交のあった曹操に降り、袁紹軍の要であった烏巣に兵糧が貯えられていることを教えた。曹操がこれを急襲したことで形勢が逆転し、中原を制するきっかけを作った。後にこの事を自慢し、他人を蔑む態度に業を煮やした許チョに殺された。


【き】弐に続く

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