三国志登場人物解説
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【か】
韓胤【カンイン】
?〜197
【袁術】
使者として呂布の許を訪れ、袁術の子・袁耀と呂布の娘との縁談を提示するが決裂。捕らえられて曹操の許へ送られた後、斬首された。
関羽【カンウ】
162〜219
【蜀】
字は雲長(初め長生)。五虎将軍筆頭で「美髭公」とも呼ばれる。劉備・張飛と共に「桃園の誓い」を行い、義勇軍を率いて黄巾討伐に参加。大興山で程遠志を討ち取るなどの戦功をあげたが腐敗した宮中の耳には届くことなく、不遇を強いられた。劉備が平原の相になった時に董卓討伐に参加し、華雄を討ったことで名を馳せる。後、曹操に攻められ、徐州が陥落した後、妻子を守っていた関羽は張遼の説得に応じて降伏する。漢寿亭侯を賜り、官渡の戦いに参加して文醜を討ったことで恩義を返したとして劉備の許へ戻る。その後、劉備が劉璋攻略に乗り出すと荊州を任された。しかし、魏呉の巧みな戦術により孤立。麦城外で捕らえられた後、関平と共に討たれた。首は呂蒙の策で曹操の許へ送られたが丁重な扱いを受けて葬られた。
韓瑛【カンエイ】
?〜227
【魏】
韓徳の子。諸葛亮の北伐の際、侵攻してきた趙雲を迎え撃って討ち取られた。
桓嘉【カンカ】
?〜252
【魏】
桓階の子。司馬昭が三路より呉に侵攻した際、胡遵に従って東興を攻めたが雪中において丁奉の奇襲に遭って殺された。
桓階【カンカイ】
?〜?
【呉→魏】
字は伯諸。孫堅が討死した時に孫堅の遺体と黄祖の身柄の交換に成功。後に曹操に召されて魏の重臣となる。曹丕の代には献帝に禅譲を迫った一人という。
管亥【カンガイ】
?〜194
【黄巾賊】
黄巾の乱後、残党数万を率いて青州を急襲。知勇に優れていたようで太守孔融は苦戦を強いられる。陶謙の推挙で援軍に来た劉備軍と戦い、関羽相手に数十合の一騎打ちを演じるが最後は討たれた。正史では太史慈に敗れたとあるだけで斬られたとは記されていない。
韓キ【カンキ】
?〜227
【魏】
韓徳の四子。諸葛亮の北伐の際、兄弟で趙雲を挟撃したが返り討ちにされた。
韓キ【カンキ】
?〜238
【魏】
字は公至。太常卿。曹丕・曹叡に仕えた。諸葛亮の2回目の北伐の際、曹叡の命により、曹真に蜀軍と戦うことを諌めたという。
韓起【カンキ】
?〜?
【公孫淵】
正史のみの登場。呉から使者が訪れると公孫淵は魏の歓心を買うために態度を急変させ、公孫淵の命を受けて使者の護衛兵らを殺害した。
干休【カンキュウ】
?〜?
【民衆】
演義では呉に住む老人で呉皇帝・孫亮が廃位となった後、上京を要請された孫休に曲阿で拝謁し、急ぎ出立するよう求めた。正史では「老公有りて休に干め、叩頭して曰く…」とあり、ここでは「孫休に拝謁した」という意味として捉えられている。
カン丘倹【カンキュウケン】
?〜255
【魏→君主】
字は仲恭。司馬師の曹芳廃位に反対して文欽と共に反乱を起こす。しかし、反乱は失敗して敗走。正史では敗走中に水辺に隠れたが揚州安豊郡にある安風津という渡し場の都尉配下の張属に殺された。演義では途中で宋白を頼るが騙し討ちに遭ったという。
カン丘秀【カンキュウシュウ】
?〜?
【魏→カン丘倹→呉】
カン丘倹の小弟。カン丘倹の反乱に加わるが文欽が敗れると逃亡し、呉に逃れた。
カン丘重【カンキュウチョウ】
?〜?
【魏→カン丘倹→呉】
正史のみの登場。カン丘倹の孫。カン丘倹と共に行動し、魏に対して反乱を起こした。カン丘倹・文欽が相次いで司馬師に敗れるとカン丘秀と共に城から脱出。呉に逃れたという
カン丘句【カンキュウデン】
?〜255
【魏→カン丘倹】
字は子邦。カン丘倹の子。曹芳が司馬師により退位させられるとこれに不満を持ち、父に反乱を促した。そして、挙兵に先立って洛陽を脱出したが殺された。
韓キョ子【カンキョシ】
158〜200
【袁紹】
騎督。官渡の戦いで淳于瓊らと共に烏巣の兵糧を守る。しかし、内通した許攸から情報を得た曹操軍に急襲されて兵糧が焼かれると戦況は逆転してしまった上に自身も乱戦のなかで討たれた。
関銀屏【カンギンペイ】
?〜?
【蜀】
関羽の3番目の娘。父や兄に劣らぬ武勇の持ち主で諸葛亮の南征に参加する。また、孫権の子との縁談話もあったが拒否したため、呉との関係が不穏になったとも言われている。
韓瓊【カンケイ】
?〜227
【魏】
韓徳の三子。諸葛亮の北伐の際、兄弟と共に趙雲を挟撃したが返り討ちにされた。
韓玄【カンゲン】
?〜208
【劉表→魏】
長沙太守。劉備軍が長沙に迫った際、黄忠に関羽を討つよう命じるが公正な戦いを求めて好機を逃した行為に内通を疑い、処刑しようとしたところ、魏延によって逆に討たれた。正史では韓玄は劉備に降伏しており、魏延には殺されていない。
甘公【カンコウ】
?〜?
【後漢】
陶謙の義兄。官を辞した後、交州蒼梧郡に隠棲した。
韓浩【カンコウ】
?〜?
【王匡→袁術→魏】
字は元嗣。初め王匡に仕えて董卓討伐に参加し、次いで袁術に仕えて騎都尉になる。その後、夏侯惇に請われて副将となった。曹操に屯田制の必要を進言して認められ信任を得た。演義では長沙太守・韓玄の弟とされている。
関興【カンコウ】
?〜234
【蜀】
字は安国。関羽の次子。20歳で侍中・中監軍となった。劉備が呉討伐の軍を起こすとこれに参加し、父の仇を討った。後に龍驤将軍、ついで張前左護衛使となり、張飛の子・張苞と義兄弟の契りを結んで共に北伐戦で活躍した。6度目の北伐を前にして病死したという。
韓コウ【カンコウ】
?〜?
【袁紹】
字は子ケイ。幽州別駕。205年、焦触が袁尚に背いて曹操に降ろうとした時にただ一人反対した。後に曹操から幾度も招かれたが応じなかったという。
管孝国【カンコウコク】
?〜?
【民衆】
管輅の一族。斥丘に住む。ある日、管輅の訪問を受けたが偶然2人の客がいるところに出くわした。2人が帰ると管輅が「2人に凶気が出ている。一緒に死んでしまう」と言うと、数十日後、2人は本当に死んでしまったという。
観コク【カンコク】
?〜?
【君主】
正史のみの登場。自らを平天将軍と称して反乱を起こすが、長沙太守となった孫堅に敗れて殺された。
関索【カンサク】
?〜?
【蜀】
関羽の三子。荊州が陥落した際に負傷し、鮑家荘で静養していた。諸葛亮の南征から戦線復帰し、先鋒を務め、孟獲を捕らえるなどの戦功を立てた。後にカ萌関の守備を任された。
甘氏【カンシ】
?〜?
【蜀】
劉備の妻で劉禅の母。心優しい女性で苦労続きだった劉備を励まし、敵に囚われても一途に劉備を想い続けた女性であったという。赤壁の戦い後、若くして亡くなった。
関純【カンジュン】
?〜191
【韓馥】
字は伯典。別駕。韓馥が袁紹に冀州を譲ろうとしたのに反対して耿武と共に袁紹の暗殺を謀って顔良に殺された。
管辰【カンシン】
?〜?
【民衆】
管輅の弟。管輅の評判を耳にした司馬昭が仕官してくれるよう望んでいるという話を管輅にしたところ、死期が近いからと断られた。翌年、管輅は逝去したという。
韓遂【カンスイ】
172〜215
【君主→馬超→魏】
字は文約。ヘイ州刺史。朝廷に対して度々反乱を起こし、西涼太守となった馬騰とも戦ったことがあった。後に義兄弟の契りを結ぶが馬騰が曹操の計略で殺されると馬騰の子・馬超と挙兵し、長安を落とし、曹操と渭水で対陣する。勇猛果敢な涼州軍を崩そうと曹操は離間の計を仕掛け、見事同士討ちさせることに成功。韓遂は片腕を失うが命拾いをして曹操に降伏し、西涼侯に封じられた。正史では曹操には降っておらず、馬超敗走後、涼州に逃れ、夏侯淵と戦って敗死したという。
韓嵩【カンスウ】
?〜?
【劉表→魏】
字は徳高。曹操の動向を探るため、許昌へ潜入するが逆に朝廷から侍中・零陵太守に任じられた。そのため、劉表の怒りを買って投獄された。劉表の死後、劉ソウが後継者となると降伏の使者として許昌に赴くがその帰途に関羽に詰問されて降伏の事実が劉備の耳に入ることになる。後に大鴻ロに封じられた。
関靖【カンセイ】
?〜?
【公孫サン】
正史のみの登場。公孫サンに重用された。袁紹に易京を包囲された際、袁紹の背後を襲おうと出陣する公孫サンを止めた。公孫サンが死ぬと袁紹軍に突撃して死んだという。
韓暹【カンセン】
?〜197
【黄巾賊→後漢→袁術→呂布】
黄巾賊の一派である白波賊の頭目だったが献帝を董卓の残党から救うと征東将軍に任じられた。しかし、曹操と争って献帝を奪われると楊奉と共に袁術を頼り、ついで呂布に仕えて配下となるが最後は民衆を苦しめたとの事で劉備軍に討たれてしまった。
韓綜【カンソウ】
?〜252
【呉→魏】
韓当の子。司馬師が呉討伐の軍を興した際、胡遵に従って東興を攻めたが丁奉の奇襲に遭って殺された。魏には227年に降ったという。
カン沢【カンタク】
?〜243
【呉】
字は徳潤。赤壁の戦いの際、周瑜・黄蓋の苦肉の計に協力し、使者として曹操に会い、巧みな論術で信じ込ませた。見事、計略を成功し、勝利につなげた。劉備の蜀軍侵攻に対しては陸遜を大都督に推挙した。後に太子太傅まで昇った。
韓忠【カンチュウ】
?〜?
【黄巾賊】
張角の死後、趙弘・孫仲らと共に宛城を奪い、朱儁・孫堅・劉備らが率いる官軍と戦って流れ矢に当たって討死した。正史ではその後も抵抗を続けたという。
関定【カンテイ】
?〜?
【民衆】
河北の名家。関平の父。曹操に降伏していた関羽が劉備の居所を知り、そこへ向かう途中、関定の屋敷に立ち寄る。そこで厚遇された関羽は関定の二人の息子のうち、いずれかを養子に迎えたいと申し出たところ、関定は喜んで次子・関平を関羽の養子とした。
韓禎【カンテイ】
?〜?
【蜀】
西平関を守る。諸葛亮が北伐でキ山に布陣していた時に魏の援軍として駆けつけた羌軍の来襲を報せた。
韓当【カントウ】
?〜227
【呉】
字は義公。孫氏三代に仕え、呉水軍の一翼を担う。主要な戦いには必ず参戦し、戦功を立てた。赤壁の戦いでは矢を受けて河に落ちた黄蓋を助けた。また、周瑜に従って南郡を攻め、ついで呂蒙に従って荊州を攻めて関羽を破った。後に劉備が呉討伐の軍を興すと陸遜に従ってこれを破り、翌年、昭武将軍・西城侯に封じられた。
関統【カントウ】
?〜?
【蜀】
正史のみに登場する。関羽の孫で関興の子。父の死後、漢寿亭侯の地位を受け継ぎ、公主を妻に迎えて虎賁中郎将となった。
韓徳【カントク】
?〜227
【魏】
諸葛亮の北伐に対抗していた夏侯楙に召されて配下となる。先鋒となるが4人の息子共々趙雲に討たれてしまった。
甘寧【カンネイ】
?〜222
【水賊→劉表→呉】
字は興覇。西陵太守・折衝将軍。初め錦波という水賊出身で黄祖に仕える。孫策との戦いで敵将凌操を討った。後、黄祖と不和になると蘇飛の協力もあって孫策に寝返った。凌操の子・凌統から仇敵とされるが次第に関係は緩和し、共に前線で戦うようになる。後、劉備の遠征により、甘寧も陸遜らと共に出陣。夷陵の戦いにおいて敵将沙摩柯に射殺されてしまった。
関寧【カンネイ】
?〜?
【民衆】
河北の名士・関定の子で関平の兄。劉備と再会するため、単身河北に来た関羽を父と共に館に歓迎する。その礼にと関羽は関平を養子に迎える旨を申し出て、父と共にこれを了承、兄弟は別れを惜しんだという。
管寧【カンネイ】
158〜241
【民衆】
字は幼安。若い頃に華キン・ヘイ原と交友があり、この3人を1匹の龍に例えてその尾だと称される。後に華キンとは強欲だとして絶交し、戦乱を逃れて遼東に移住。魏の曹丕・曹叡から高位をもって招かれたが固辞し、終生出仕することはなかった。
【か】四に続く
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