第七章 勢力拡大(前編)
玄忠は五年の間、一切の行動を起こさなかった。動かなかったうちに大陸の情勢は大きくかわった。曹操は弘農で董卓軍に敗れた後、陳留で力をため、兌(えん)州を己の領地としたが呂布に敗れ、再起を図るため身を隠した。劉備は二人の猛者を連れて各地を転々とした後、徐州の陶謙に乞われて曹操と戦い、これに勝利した後、陶謙の後継者として徐州を手中に収めた。次いで水関で一番功を手に入れた孫堅は荒れ果てた洛陽の井戸で玉璽を手に入れた後、追討軍と分かち、長沙に戻ったが劉表と対立した結果、襄陽城で無残な戦死を遂げた。子・孫策は江東でその勢力を広げていた袁術のもとに身を寄せて父が残したものを全て失った。しかし、玉璽を餌に兵を袁術から借り入れると瞬く間に江東を手に入れてしまったのである。袁紹は追討軍解散の後、冀州を領地としていた韓馥を臣下に治めて河北に絶大な勢力を築いた。そして最後に追討軍と戦った董卓を殺した呂布は徐州を攻めていた曹操の後ろを突いて兌州を奪った。
玄忠は大陸の情報に耳を傾けながら統一した交州の政治に没頭したのだ。その間、呉巨の残党が荊南地方との国境に砦を築くなどの行動があったが命を受けた劉泰、宗極軍がこれを難なく討ち破り、見事平定に成功した。逆にこの砦を有効に使い、荊南地方への足がかりとした。
「申し上げます」
一人の兵が番禺の政務の間へ入ってきた。文武官がそれぞれ持ち寄った政策の協議が始まろうとしていた頃だった。
「如何した?」
玄忠が聞く。
「ただいま、管嬰と名乗る占い師が参っております」
「管嬰と申せば管越の父殿ではないか。お通ししろ」
「はっ」
兵が来た道を戻っていく。
「王循、どう思う?」
「はい、彼の者は黄巾党張角の軍師で幽州の劉虞に仕えた後、董卓に仕えています。董卓の死後は李確の許で呪術師として名を馳せたと聞き及んでおりますが出生を辿れば元は益南(益州南部)にて勢力があった越族の者です」
「ほう。ならばここに来た理由も頷けるが…」
玄忠はまだ頭にひっかかるものがあった。できすぎているというのが玄忠の本音だった。
「とりあえず全てを決めるのはお会いしてからです」
「うむ」
しばらくして兵が管嬰を連れてきた。きちっとした正装をしている。背丈は長身ではないが少し痩せ気味に見えた。
「お初にお目にかかりまする。管嬰にございます。我が子・管越がお世話になっておると聞きまして参上仕りました」
「うむ、よくぞ参られた。管越は何度も我を救うてくれた。今、ここにいないのが残念だ」
管越は巡回使として交州の各地を回っていた。
「管越は我を憎んでおりますればいないほうがよろしいでしょう」
「憎むとな?」
「はっ、管越は我が母を殺したと思うておるのです」
「どういうことかな?」
「あれはもう二十数年も前になりますが我は青州におりました折、太守・全eの娘を妻として迎えておりました。妻はよくできた女で聡明でございました。管越が5歳のとき、全e殿が亡くなった頃より周りが激変致しました。全e殿の弟・全覇が兄の一族を抹殺しようとしたのです」
「抹殺?、それはどういうことなのかな?」
「全覇は欲望高き男であると同時にある集団に身を投じていた一人です。自分の思うようにならない兄を病死に見せかけて殺したのです。青州を掌握した全覇は次に自分を遠ざけていた兄の一族を殺そうと企んだのです。遠ざけていたというのは全覇の思い込みで本当は親密にしている者もおったぐらいです。私の許にも全覇の追手はやって来ました。私は旧知の間柄であった張角殿を頼って逃れることができたのですが妻と管越とはぐれてしまったのです。私も必死に探索をしましたが見つけることができず、後に妻が死んだとの報せを受けました。それも私がいた場所の目と鼻の先で…。管越を連れて私のところに向かっている最中だったと聞き及びました。私は管越を迎え入れようとしましたが頑として拒み、その理由を尋ねてみましたところ…」
「母を殺したと?」
「その通りにございます。たしかに非があるとすれば私にあります。しかし、それもただの言い訳にしかなりませぬ」
「ふむ、して全覇が入っていた集団とは如何なるものか?」
「よくわかりませぬ。ただ会稽の王朗が関わっているとしか…」
「王朗だと!?」
玄忠は叫んだ。皆が玄忠を見る。
「王循」
玄忠が呼ぶと王循は頷いた。そして、管嬰を別室に通した。玄忠、王循、管嬰の3人だけとなった。
「ここならば誰の耳にも入ることはあるまい」
玄忠は酒を勧めたが管嬰は拒んだ。王循が口を開く。
「この事実を知っている者はごくわずかしかおらぬ。実を申せば我らの許に逃れてきた者の中に王朗配下だった者がおり申す。その者、王朗のある秘密を握ってこの地に来たのです」
「なんと!?」
次は管嬰が驚きの声をあげた。
「その集団の名は永壽党と申し、暗殺を主とする集団にござります」
「暗殺とな…」
「そうです。先の皇帝を殺したのも彼らの仕業と言われております」
「先の皇帝というと…、少帝のことかな?」
今の皇帝・劉協(後の献帝)の兄のことだ。
「いや、あれは李儒がやったことでしょう。我らが言っているのはその前の話」
「では霊帝が…」
「そうです。董卓の依頼を受けて殺したのです。そして、董卓は難なく朝廷を手に入れたというわけです」
「そのようなことが…」
管嬰は絶句した。しかし、すぐに表情を戻す。
「永壽党にはある秘密が隠されていると聞いたがそれはどういうことなのかな?」
「彼らには長寿丹なる秘薬があるのです」
「長寿丹?」
「それを飲めば首をはねられるまで生き続けるという魔性の薬です」
「そのようなものが…」
「彼らはそれを守るために永壽党を飛躍させようと企んでおるのです」
王循は言葉を切る。玄忠が引き継ぐ。
「長寿丹がいかなる製法で作られたものかはわからぬ。ただ、この世に生まれさせてはならぬもの。私は彼らを滅ぼそうと画策しておる。ここにはおらぬが宗極もその犠牲の一人、いずれは一戦交えなければならぬだろうが手がかりがまったくない。唯一の手がかりだった王朗も小覇王に領地を追われて行方をくらましました」
袁術の許に身を寄せていた孫堅の子・孫策は洛陽で父が得た玉璽をもって袁術より軍勢を借りるや否や瞬く間に揚州一円を治めた。この際、呉郡の厳白虎に味方した王朗は一時的に孫策の動きを止めることができたが勢いは止めることができなかった。このとき、王朗は永壽党の力を使わなかったという。そのため、会稽を捨ててどこかへ去ったのである。
「もし、行くとすれば統領の許だろうな」
「統領?」
「奴は参謀なのです。参謀であれば統領を頼るはず…」
王循が言う。
「その統領とは?」
「それはわかりません。わかったときはもう手遅れになっているかもしれません」
「手遅れ?」
「今まで以上の力を得るということです」
「ではそれまでに止めることができれば…」
「我らの勝ちへの道は見えてきます」
管嬰は意を決したかのように自分の荷物から何かを取り出した。それは手のひらに乗ってもまだ余裕がある水晶の玉だった。
「それは?」
「見てのとおり水晶です。これは崑崙にて採れた鉱石です」
崑崙は仙界とされる場所である。
「我が一族はこの水晶を代々受け継いできました。この水晶は自分が思っていることを見ることができます。私がここに来たのもこの水晶に導かれたからです」
玄忠と王循は水晶を見つめたがただの透明の玉でしか見えなかった。
「常人にはこれを目視することはできません。選ばれた者のみが見ることができるのです。それが我が管一族だけです」
この言葉を聞いたとき玄忠は管嬰の傲慢だと思った。
「そうか、ならば見なくても構わぬ。それが我が一族を滅ぼす代物であることには違いないのだから」
「後悔しますよ」
「それでも構わぬ。早々に去るがいい。衛兵!」
玄忠は衛兵を呼んだ。二人の衛兵が入ってきた。
「この男を連れて行け。二度と城の中に入れてはならぬ」
「あなたには失望しました」
「失望?、そうか…、ふっははははははは…」
玄忠は何かを感づいたかのように笑い出した。笑ったかと思うと怖い表情になった。
「早々に立ち去って主に告げるがいい。我は逃げも隠れもせぬ。死の果てまでお前を追っていくぞ、とな」
そう言い捨てると管嬰は衛兵に静かに連れて行かれた。部屋に残った玄忠と王循は顔を見合わせて、
「なぜ、奴を追い返したのだ?」
王循が口を開く。
「奴も仲間だと思ったからだ。奴はおそらく管嬰ではあるまい」
「なぜ、そう思う?」
「管嬰は呪術師だと聞いた。ならばなぜ骨を持っておらぬ?。水晶だけで見るならばそれは呪術師ではない。遥か遠く西の地方にあると言われる占いの道具だ」
玄忠は占星術のことを言った。
「そして失望したとも言った。奴は私の心の内をよく知っている」
「どういうことだ?」
「奴は永壽党に属している者だろう。私の心の片隅にあるはずの記憶を思い出させてくれたわ」
それだけを言い残して玄忠はゆっくりとその場を辞した。
交祉南部、漢と異国との国境に関所がある。関所といっても要衝と言っても過言ではない。城壁の上になびく旗印は「士壱」と記されていた。士壱は士燮の子である。父の命を受けて異民族から交州を守っているのだが一度として異民族が攻めてくることはなかった。
士壱は士燮の死後、散らばっていた残党を集めた。数は三万に上った。これだけあれば一つの郡を治めることさえ可能だろう。それ以上に南方の異民族からの協力も得て総勢八万の兵力をもって挙兵した。この報せは瞬く間に玄忠の許へ届けられ、政務の間では諸将が集まっていた。毛道範だけは交祉の防衛のため、その場にはいなかった。玄忠の傍らに控えた王循が言う。
「皆、聞いていると思うが士統が反乱を起こし、今、交祉に向けて進軍中とのことだ。ただ、これに呼応して呉の孫策の動きも警戒せねばならん。そこで劉将軍!」
「はっ!」
武官の中から劉泰が進み出る。
「劉将軍、貴君には廬陵、建安に当たってもらいたい。今、この二郡は厳白虎、王朗の勢力が及んではおらず今は無統治状態です。そこで三万の軍勢を率いて廬陵に進攻致せ。廬陵を落としたら北の動きを警戒しつつ建安に軍勢を進ませい」
「はっ」
一礼して政務の間から出ていく。
「次いで宗将軍」
「おう」
宗極が歩み寄る。
「今、荊州は不安定な情勢にある。荊州の劉表は名君にあらず、荊南地方を完全に治めきれていない。そこでこの交州と境を接している臨賀を攻めよ。かの地は桂陽、零陵に続く交通の要衝だが手薄のはずだ。難なく落とせよう」
「御意」
一礼すると宗極も政務の間より出た。王循が次ぎの人物を呼ぼうとしたとき手を挙げた者がいた。
「しばしお待ちを」
重臣の楊臣だった。
「何ですかな?」
「王循殿のお言葉を聞いているとまるで士壱などそっちのけで指示を出しているとしか思えませぬ」
「如何にも、士壱など恐るるに足りず」
「何と!?、向こうは八万の軍勢なのですぞ。それを放っておく所存か?」
「いえ、放っておくことは毛頭ありませぬ。今、二将軍に出した指示はあくまで敵に対する抑え。全軍で攻めないといけない相手が目の前にいながら他の勢力を野放しにしておくことはこの国を失うことに等しい。攻めるぞっという構えを見せておけば奴らもそう簡単に交州を攻めようとは思いませぬ。まずは我が方に攻めてきた軍勢の相手をするのが精一杯のはず」
「なるほど…、そういうことでしたか。失礼致した」
楊臣は合点した。王循は頷きながら次ぎの指示を与える人物の名を呼ぶ。
「楊将軍」
「おう」
「御身には本隊の先鋒を務めてもらいたい。毛道範と合流した後、南漢関には攻め込まず展開するだけでよい。ただし、間道の封鎖を忘れるな。関内より合図の狼煙があがったら一気に攻撃を開始せよ」
「はっ」
楊丁もまた劉泰、宗極に続いて政務の間より出て行った。その後姿を確かめることもなく王循は後ろを振り返り、玄忠に言う。
「殿は中軍を率いて頂く。右翼に御車蘭殿、左翼にケ武殿が展開する。後詰には越伯殿が続く。留守は昭王様を大将に管越、玉蒙が遊軍として残し、残りの者はこれに従う。以上です」
「うむ、皆、異論はあるか?」
玄忠の言葉に誰も首を横に振る者はいなかった。
「よしっ!、全軍に出撃命令を出せ」
ここに士壱率いる混合軍と玄忠率いる交州軍が激突することになるのである…。
交祉城の近くに庵がある。そこにはかつて蒼梧を治めていた甘公という人物が住んでいた。もう齢90を越えようかという老人で徐州刺史を務めている陶謙の義父に当たる人物でもある。その人物のもとへ立派な鎧に身を包んだ武人が来た。
「誰かな?」
高齢とも思えないしっかりとした足取りで甘公は武人を迎えた。武人は甘公の前で平伏する。
「甘公殿にお願いがあって参りました」
「願いとな?」
「はっ、我らに力を貸して頂きたく参上仕りました」
「ほう、このような老人に力とな?」
「我らは今、交州をに蔓延る蛮族と戦いを続けています。甘公殿は蒼梧の太守であられた時分より絶大な力を誇示しておられました」
「今はただの隠居じゃ」
「確かに今は隠居かもしれませんが我らの軍勢は劣勢にあり続けて今では遥か南方にその勢力を維持するまでになってしまいました」
「それは自業自得と申すものであろうが」
「なれど交州のことを思う者たちで集まっております。どうかお力を!」
「ふむ…、御身の主の名は何と申す?」
武人は甘公に耳打ちした。その言葉を聞いた甘公は微笑した。
「ほう、あの男が…か…」
「御存知で?」
「うむ、わしも朝廷に出入りしていたからのぉ…」
「ではお力を貸して頂けますね?」
「よかろう、この甘公、交州のために立ちあがろう」
古き武人は凄まじいまでの威信をその場で示した。その姿を見た武人は妖しき気を放ちながら不気味な笑みを浮かべた…。
その頃、交祉では楊丁が出陣し、劉泰、宗極もまた己の戦地へと向かった。その姿を城壁の上から玄忠は見守った。
「王循、どう思う?」
「士壱は所詮、烏合の衆。勝ちは見えております」
「そうではない、その逆だ」
「逆?」
「そう、勝ち目がないのならば策を探すはず。お前ならば何を行う?」
「ふむ…」
王循は一瞬だけ目を閉じた。そして、すぐに開くと、
「伏兵」
「ああ、そうだ。伏兵だ」
「しかし、どこから?」
「仁兆!」
名を呼ぶと颯爽とその姿を現した。
「お呼びで?」
全身、黒装束に身を包んで顔は見えないが眼光は鋭い。
「後顧の憂いを探せ」
「御意」
そしてまた姿を消した。
「彼の者はたしか…」
「ああ、武人だ」
王循は政務の間で左右に並んでいた武人たちの表情を思い出していた。
「密偵もしているのか?」
「もともと密偵なのだ。だから武人が仮の姿、父の代より密偵として各地に暗躍していたんだ」
「なるほど…」
王循の選択肢はさらに拡大した。そう確信したとき玄忠と王循の勝ちはさらに増したのである。
この日の昼、玄忠もまた鎧に身を包んで出陣した。留守を守る昭王は士気を高めるため、城壁にて鼓舞させたのである…。
南漢関では玄忠軍出陣の報せが飛び込んできた。総大将の士壱をはじめ、玄忠によってその勢力を失った反玄忠派の群雄や異民族の王たちが通路の左右から士壱を見つめた。
「とうとう来たか、我らの力を示すにはまたとない機会だ。皆の者、我に力を貸してたもう」
「おおおぉぉぉ―――っ!!!」
地響きするほどの怒声が城全体に響いた。
士壱軍もまたほぼ全軍を交祉に向けて進めたのである。両軍が顔を合わせたのは南漢関と交祉との中間の草原だった。何の障害もない。兵力では士壱軍が勝っているように見える。
「何だ、あの兵の無さは!」
士壱軍の先鋒を務める魯巾躅はあざけ笑った。
「全軍、かかれぇぇぇ――――――!!!!!」
魯巾躅の号令と共に怒涛の如く、士壱軍が動き出した。
一方、玄忠軍の先鋒を務める楊丁は、
「爽快だな、皆の者、我に命を預けてくれ」
「おおおおおぉぉぉぉぉ―――――――――!!!」
明らかに劣勢であるにも関わらず、楊丁率いる精鋭部隊の士気は高い。
「全軍、かかれぇぇぇ――――――!!!!!」
楊丁を先頭に玄忠軍が動いた。楊丁の前に現れる敵兵は次々に楊丁が奮う槍の餌食となった。勇猛果敢な異民族といえども楊丁の前では為す術がない。あっという間に大軍は真っ二つにされた。その間を楊丁軍が突入する。そんな楊丁の勇猛さに武者震いした魯巾躅も馬に跨り、
「たかが少数の軍勢、何するものぞ」
楊丁に一騎討ちを挑む。
「何故、我らを攻めようとする?」
「おかしなことを言う。南漢関は漢の領地、お前たちのものではない」
「ふん、漢が我らに何をした?」
「ならば聞くが士壱は漢の将軍、何故、味方をする?」
「あの方は我らに力を与えてくれた。協力するのは当然のこと」
「力?、見かけだけの力に騙されるのは愚かなことだ」
「見かけだと!?」
「士壱の父・士燮は漢族を信任し、越族を迫害した」
「それは士燮が悪党であって士壱殿がそうであるとは限らない」
「ふん、時期にわかるさ」
「何を馬鹿なことを…」
一騎討ちをするはずの魯巾躅の頭の中は楊丁に惑わされて混乱に陥っていた。その様子を見透かしたかのように楊丁は背後に見える南漢関を見上げた。士壱・異民族連合軍八万は何も知らずに攻撃を行っている。そんなとき後方より煙があがった。城壁にいる兵たちにざわめきが起きた。
「なっ!?」
「言ったとおりのことが起きただろ?」
「これは一体…」
「士壱が火を放って逃げたんだ」
「そんな馬鹿な…」
魯巾躅の中で信じていた何かが崩れた瞬間だったのである…。
これより数刻前、士壱は政務の間で戦勝の報告を待っていた。
「我が軍の勝利は目前でしょう」
「うむ」
武将の言葉に頷く。そこには余裕の表情があった。その表情が一変する。
「申し上げます!」
鎧に身を包んだ兵が飛び込んできた。
「何事か?」
「後方の異民族が反乱、越南地方で混乱が起きています!」
「なっ!?」
兵の言葉に士壱の頭が混乱した。まさかの出来事である。
「そんな馬鹿な!?」
「すでに越南城は陥落、越都に迫りつつあります」
「ありえないっ!」
士壱が叫ぶ。
「殿、越都を抑えられれば我が軍は孤立します。そればかりか!、万が一、このことが外に漏れて異民族たちの耳に入れば全滅も…」
「裏切り…、全滅…」
士壱は恐怖を感じた。武将の一言が全てを台無しにしたのである。このとき武将と兵の表情が不気味に笑っていたことは士壱は知る由もない。そして、城の奥深くに眠る二人の死体も戦乱の彼方に消されていったのである…。疑心暗鬼に陥った士壱は自軍だけを率いて南方にある越北城に退却した。この頃には越都も混乱に陥っていた。港に面した越都を攻めるべく李充率いる水軍が押し寄せていた。異民族には漁船はあっても軍船はない。留守を守っていた士壱の側近、韋詩は兵を沿岸に集中させてこれを撃退しようとしたが海の民も馬鹿ではない。なによりも王循という軍師がいるのである。かつて東治の守護神と呼ばれた李充である。一定の間隔をあけて時を待った。
一方、越都の南方では玄忠軍に呼応するかのように一つの異民族が抵抗を続けていた。周りは全て士壱に味方している。ほとんど勝ち目がないにも関わらず、玄忠軍の援軍を待ち続けた。王の名は珀陵という。
「いいか、必ずや援軍は来る。それまで耐えよ!」
珀陵もまた時を待ち続けた。玄忠を信じて良かったと思うときが来た。手薄な山間の間道を通って毛道範・毛道栄の軍勢が珀陵の砦を囲んでいた士壱軍を後方より攻撃したのである。斧龍槍という獲物を手に毛道範は群がる敵兵を次々に倒していく。その勇敢さを見た珀陵軍の士気も高くなった。
「何という凄まじさか…」
一言そう漏らした。その間にも敵兵が倒されていく。砦の門に毛道範が辿り着いたときには全身返り血を浴びていた。そして言う。
「珀陵殿!、貴公の選択は正しい。我らと共に戦おうぞ!」
この言葉に珀陵の心は動いた。自分の選んだ道が正しかったことを。
「皆の者、名をあげようぞ!」
「おおおぉぉぉぉぉ――――――!!!!!」
門が開く。黒き馬に跨った珀陵が毛道範率いる玄忠軍に応えた。
「行くぞ!」
砦から飛び出した珀陵軍は今までの静寂を全て打ち破った。形勢は逆転し、黒き馬に跨った珀陵と斧龍槍を獲物にした毛道範の前に敵兵は為す術を失った。次々に敵兵が倒され、そして四散する他方法がなくなっていた。
「ま、待て!」
兵を率いていた武将が叫ぶが周りは誰も耳にしない。
「お、おいっ!」
「無駄だ」
武将が振りかえった瞬間、首と胴が離れた。陣屋は炎上していた。それを見定めた珀陵は勝ち鬨をあげ、そのままの勢いで兵の少ない越南城を攻略に成功したのである。
越南城陥落の報せは玄忠の耳にも届いていた。側には王循の他に仁兆と子・仁平の姿があった。仁兆は武人の姿をしていて先ほどの密偵のイメージは消えている。戦況優勢のはずの玄忠の表情は険しい。
「やはり動いたか…」
「はっ、突如、蒼梧より挙兵し、まっすぐ交州に向かっています」
仁兆の言葉に玄忠はわずかに頷く。
「しかも、甘公とは…。因縁とは怖いものよ…」
甘公が陶謙の義父だということを知っていた。かつて陶謙とは黄巾党時代に一戦交えている。
「如何なされます?、引き返すには距離がありまする」
「いや、その必要はない」
王循の言葉に仁兆は顔を向ける。
「何故?」
「こうなることはわかっていた。我らが軍を四つにわけたのはこのため」
「四つ?、本隊、劉泰、宗極の三つでは?」
「いや、もう一軍形成しておいた。それが昭王様率いる軍勢だ」
「ただの留守ではないと?」
「そうだ、ただの守備兵ならおらぬが良い。あとは昭王様に託すのみ。我らは南方攻略に力を注ぐのみ」
王循はそう言いきった。王循の言葉に仁兆は頷くより他なかったのである。
甘公進攻の報せはすぐに交州にもたらされた。昭王をはじめ交州に勢力を持っていた越族や留守を任された鳳瓊らがこれに従っている。
「やはり来たな、数は三万という。どこからそれだけの数を得たのか…」
「昭王、援軍を得るならばどこからでも可能です。今はそれよりも目の前の敵を倒すことに神経を注がないと」
「うむ、わかっておる」
鳳瓊の言葉に昭王が応じる。鳳瓊は当初より昭王に仕え慕っていた。
「よし、甘公軍を迎え撃つ。鳳瓊、一万五千の兵を率いて正面より当たれ。玉蒙、六千の兵を与える。右翼に展開し、中央をやり過ごし、右後方より奇襲をかけよ。そして、越翔、同じく六千の兵を率いて敵の退路となる街道に兵を伏せよ。甘公はそのままやり過ごし、兵だけを叩け」
「甘公は如何なされるのです?」
越翔が口を挟む。
「隠居には隠居らしく生きてもらうほうがよかろう」
「捕らえないのですか?」
「捕らえても仕方あるまい。甘公も所詮、人間なのだから」
父である昭王が意味深な言葉を言った…。
甘公軍は緩やかな進軍を続け、途中にある県城や関所を降していく。
「ふん、他愛ない」
馬に跨った甘公はあまりの玄忠軍の不甲斐なさにあざけ笑った。
「所詮、我が軍の敵ではないわ」
そこに兵が前より駆け寄る。
「申し上げます」
「どうした?」
「前方に敵影あり」
「旗印は?」
「鳳瓊かと思われます」
「ふん、所詮は小僧に過ぎぬ。全軍、攻撃を仕掛けよ」
この言葉はそれぞれの隊長に告げられる。
「攻撃開始!」
その言葉に応じて全軍が鳳瓊軍に攻撃を仕掛ける。
ワアアアアアァァァァァ―――――――――!!!!!、全ての静かなる物音がかき消され、怒涛の如くの物音に変わった。両軍が激突する。鳳瓊は敵を誘導するかのように敵を軍中に誘い込む。先頭が鳳瓊軍に飲まれ込んだのを機に玉蒙軍が右後方より出現し、甘公軍の後軍を突いた。奇襲を受けた甘公軍は混乱に陥ったのである。
「ちっ、伏兵か!」
中軍を率いていた甘公は舌打ちした。さらに先陣が管越の罠にはまり、孤立してしまう事態となってしまったため、一度退却を余儀なくされた。
「退くぞ」
この言葉に側近たちはさらに混乱し、西方向へと逃げる。甘公もそれに倣うかのように敗走する。後ろでは逃げ遅れた兵たちが管越、玉蒙の軍勢に倒されるか降伏さぜる得ない状況になっていた…。
「くそっ!、何故こうなるんだ!?」
甘公は後悔した。しかし、それも無理なことだった。以前のような生活は望めそうにない。前方に敵影現るの報せを受けた甘公は覚悟を決めた。
「皆の者、血路を開いて見事生き延びよ」
その言葉に甘公の覚悟が見え隠れしていた。
甘公を逃がす策に反感を得た越翔は伏兵ではなく、待ち構える行動を取った。そのため、死を覚悟した甘公軍の猛威に太刀打ちすることができず、味方に多大な被害を与える事態に陥り、楽勝のはずが大混乱となってしまったのである。鳳瓊、玉蒙の両軍が駆けつけるまで越翔は生きた心地をしなかったという。そして、戦いが終わった頃には越翔軍は壊滅的状況となっていた。
報せを受けた昭王の怒りは凄まじく、鳳瓊が止めなければ越翔は殺されていただろう。将軍位を剥奪され、平民に落とされたのである。それでも甘公軍を破ったという功績は大きかった。甘公は血路を開いた後、再起を図ろうとしたが何者かに殺されたところを発見されたという。
「よろしかったので?」
「構わぬ、所詮、過去の人間に過ぎぬ」
「それにしても驚きましたな。玄忠を侮っていたかもしれませぬ」
「だろうな、だが、あやつにはまだ生きていてもらわねばならぬ」
「あなたは何を企んでいるのですか?」
「ふふふ…」
洛陽の宮城の一角で不敵に笑う二人の姿があったのである…。
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