第五章 東治の戦い

 伯錦は総勢三万の兵を率いて番禺に迫った。士燮の決断は早かった。白旗をあげて降伏したのである。しかし、かつてこの地を治めていた伯錦はそれを許さなかった。身柄を昭王に預けた後、斬首されたという。それだけに伯錦よりも越族のほうが恨みは遥かに大きかったわけである。
「伯錦軍、番禺に迫る!」
という報せを聞いても呉巨は動かなかった。いや、動けなかったというほうがいいかもしれない。腹心として長年仕えていたケ武は一軍を率いて伯錦に降ってしまったのである。その影響が呉巨軍を大きく揺るがした。伯錦の強さを恐れた諸将が次々と降伏していくのである。呉巨はその歯止めをかけることができなかった。所詮、それだけの人物しかなかったわけである。このまま事態を放置しておくわけにはいかないとして呉巨は交州西部を支配する郁林・合浦・朱崖・交祉の各太守に伯錦討伐の檄文を送った。かつて曹操が董卓を倒すために各地の群雄たちに檄文を送ったように…。
 この報せは伯錦の耳にすぐに届いた。玄忠が呉巨の身辺を探らせていたからだ。伯錦はすでに番禺の政庁内に入っていた。士燮によって城を奪われて以来の鎮座である。
「して、太守たちの返答は?」
「応じるとのこと」
「ふむ…、玄忠、どう思う?」
「呉巨は自らの保身に走ったようですな」
「で、如何する?」
「無論、迎え討ちまする」
「わかった、任せる」
「はっ」
玄忠はすぐさま対応策を練った。その上で番禺の防御を固めることを優先させることとなった。管越には人夫を総動員させて城壁の改修を急がせ、楊丁にはケ武の降伏によって得た蒼梧郡高要県を守らせ、その高要の南西にある臨充に劉彭を向かわせ、高涼郡を治めていたケ武をそのまま赴任させると同時に劉泰と御車尚を補佐とした。そして、番禺の前衛として四会という小さな県城に玄忠と御車蘭、そして武官として城門校尉に任じられた越伯が入った。それでも後方の憂いとして増城に昭王ら越族が入り、番禺には伯錦と楊臣ら文官が護りに入ったのである。

 揚州建安郡より一人の武将が馬を走らせていた。全身鎧に身を包んでいたがすでに返り血により真っ赤に染めていた。馬の蹄の音が地面を通じて響いてくる。
「もはやこれまでか…」
その武将は死を覚悟した。遠くのほうに土煙が見えていた。先頭に立っているのは会稽を治める王朗の配下の張豊という武将だった。その姿を見たとき、武将は一人奮い立った。
「勝てるか…」
もう目と鼻の先には交州との国境が近づいていた。しかし、そこまで行かなくても追いつかれるのは目に見えていた。そう思ったからこそ槍を構えて張豊が来るのを待った。
 張豊は武将の姿を認めると、
「あやつの首を捕れぃ!」
そう率いてきた兵に向かって叫んだ。
 ワアアアアアアアアアァァァァァァァァァァァァァァァァァァーーーーー!!!!!
喚声が四方に響き渡ったのである。

 その武将が張豊の軍勢を迎え撃つときより遡るが玄忠は単身、ある場所に向かっていた。その地は交州ではなかった。揚州である。揚州南部にある港町・東治という街だった。以前、海賊に襲われてすでに荒廃してしまっていたが商人たちがこの街に目をつけて繁栄のある街に成長させた。その街に玄忠がいたのである。崩れてしまった城門があった場所を潜ると売り娘たちが駆け寄ってきて商売を始めようとしているのが目に映った。その間を抜けるようにして玄忠は政庁があった場所に向かった。政庁といっても塀などの類はない。建物も半壊していて面影すら残っていない。しかし、人はいるようだ。玄忠が門の前で馬を下りると童子が出迎えに来た。玄忠の顔を見て懐かしそうに言った。
「久しぶりですね」
「ああ、五年ぶりかな」
「今日は港のほうに行っていますよ」
「ほう、珍しいな」
「ええ、本当に珍しいです。いつもなら書物に囲まれているんですけどね」
「ならば港のほうに行ってみるとするか…」
玄忠はゆっくりと港のほうへ足を向けた。
 東治の港は貿易港で商人たちの多くがここに集まる。遠く洛陽から来る商人もいるほどだ。そのため、用心棒みたいなことを職としている者も少なくなかった。そんな中で市場は最も盛んなはずなのだがその市場は静寂に包まれていた。人々の会話すら聞こえてこない。先ほどの城門で会った売り娘たちの様子とは全然違っていた。玄忠は海を見て一艘も船が出ていないことに気づいた。
「海賊か…」
その呟きは当たった。玄忠は市場の中にある酒場に行った。五年前に来たときは栄えていたのだが今は潰れていて人の気配すらないように思えた。玄忠はこの中に入った。中に入ると一人の男が小さな酒壷を持って飲んでいた。玄忠はその前に腰を下ろした。酒場の厨房には埃がかぶり、天井には穴が開いていた。
「待っていたぞ」
「屋敷に行ったら港だと聞いたんでな」
「五年ぶりか…。諸国はどうだった?」
皆同じことを聞くなと思いながら語り始めた。相手はちびちびと酒を飲んでいる。別に相槌などを打つこともなく、話しに聞き入っていた。玄忠の話しが終わるとゆっくりと口を開いた。
「この国も荒れるな」
「ああ…」
「この街もかわっただろ」
「ああ、海賊に襲われたのか?」
「うむ、李充を知っているか?」
李充とは揚州、交州を中心に暴れまわる海賊のことだ。しかし、伯錦に敗れてから改心したと聞いていた。
「李充はこの街を護ってくれる守護神だったのだが遠く南の国よりやって異民族に敗れたのだ」
「それがこの有様か…」
「ああ、異民族は商船などを襲い略奪を繰り返している。そのおかげでこの東治もさびれた」
そう言うと相手は玄忠のほうを向いて目を見た。玄忠も視線を合わせる。
「力を貸してもらえぬか?」
「それは構わぬ。だが相手は水軍、こちらも水軍でなければ勝てぬぞ」
「それはわかっている。李充が再起を願って戦船を造船している」
「ほう」
「水軍の戦い方というものを御身にも見せてやろう」
そう言って相手はゆっくりと東治郊外にある岩場に向かった。岩場には海とつながっている洞窟があった。その脇にある細道を下ると頭に布を巻いた男たちが姿を現した。
「これはこれは王循様、ようこそおいでくださいました。そちらの方は?」
「公伯錦の一子・玄忠殿だ。異民族を破るために助太刀に応じてくれた」
「なんと!?、伯錦様の…。ささ、どうぞどうぞ」
二人はゆっくりと洞窟内に足を進めた。中は入り組んだ迷路になっていた。外敵に備えるためだろうか。海水が流れ込んでいる終着の場に造船された船が何艘か並んでいた。まだ造船中の物も混じっていた。
「意地だな」
「ああ、海の男として引き下がれないのであろう」
「ならば勝たせてやらねばなるまい」
「うむ」
二人は交互に頷いた。玄忠と王循の出会いは十年前に遡る。当時、南海郡には越族の他にも異民族が多数いた。街道は略奪を行う異民族が横行していたまである。玄忠が十二歳のとき、父の命で初陣を飾った。増城から番禺までの輸送だったが油断はできなかった。案の定、玄忠軍は襲われた。必死に荷駄を護ろうするが多勢に無勢である。斬っても斬っても敵はやってきた。そのときに盗賊の背後を突いて義勇軍が攻めてきたのだ。盗賊たちは荷駄だけを奪って逃げようしたが中身はもぬけの殻だったのである。空っぽの箱だけが積まれていたからだ。罠と気づいた頃には玄忠軍は反撃していた。それでもわずかな敵は逃がしてやった。逃がしたというよりも利用したのである。山間や奥深い場所に拠点を構えているため、なかなか探しにくかった。一網打尽にすることが玄忠の目的だった。輸送というのは玄忠が流した流言だった。博羅に拠を構えていた農兵の棟梁こそが王循だった。玄忠は王循と結び、次々に異民族の勢力を滅ぼしていった。そのおかげで南海郡には越族を除く全ての異民族の勢力が失われたのである。それ以来、会っていなかったのだが風の便りで王循が東治にいると聞いていた。
 李充が数人の護衛を引き連れてやってきた。
「よう、王循、久しぶりだな」
「ああ、出陣はいつぐらいにはできる?」
「あと二、三日もあれば十分。…ん?」
李充は玄忠を見てニヤッと笑った。
「ほう、これは珍しいところでお目にかかる」
「久しいな」
「五年ぶりですな」
「うむ」
「で、何が頼みなんだい?」
李充は玄忠の企みに気づいた。
「まさかこの戦いのために来たわけではあるまい?」
「よくわかるな」
「そりゃあ、御身が伯錦様の御子だからな。何もなしで来るはずがない」
「さすがは李充、実はな、交州を統一するためにお前の力を借りたい」
「おいおい、冗談で言ってるんじゃないだろうな?」
「無論、正気だ」
「番禺を奪還したと聞いたがまさか統一を企んでいたとは…、いやはや恐れ入る」
「請け負ってくれぬか?」
「高いぞ」
「構わぬ」
「よし、いいだろう」
李充は満足げに言った。王循がこちらを見る。
「本当にいいのか?」
「構わぬ。これぐらい言わないと応じる奴じゃないことは最初から承知している」
「何をくれてやるつもりだ?」
「まだ見ぬ領地を一つ」
「はぁ?」
「ま、まだまだ先の話しだな」
玄忠はゆっくりとした口調で言った。

 東治よりも交州よりも遥か南方にある孤島、そこにある異民族が勢力を張っていた。棟梁の名は全莫といい体は赤黒かった。元は王として君臨していたらしいが海の魅力に取り付かれて王位を捨てたらしい。しかも、攻めてきた他国の水軍を打ち破り、その名を高めると各国の有数の港をその支配下にいれた。そして、その全莫が目に付けたのが商人の街・東治だった。東治には数多くの商船が集まることを知っていた。そこを襲ったのである。しかし、それに対抗したのが李充だった。李充は元海賊とは申せ、その技術・知識は交州随一だった。東治の海上で行き来する商船を巻き込んで戦いになった。李充は東治を治める商人たちより約定を得ていたから正当防衛に当たったが勝てば英雄になるのだが全莫の連環の計の前になす術なく敗れてしまったのである。三十もの船を持っていたがそれを全て失う事態となったが全莫の軍勢は上陸できなかった。李充を破った勢いで上陸しようとした全莫軍を迎え撃ったのが王循だったのである。王循は陸から戦況不利と見ると東治の若者・用心棒を集めて街を陣形に見立てて見事全滅させた。これにより全莫は一時退却せざる得なかったが東治も失ったものが大きかった。商業で栄えた街は静寂に包まれたただの田舎街へと変貌せざる得なかった。それでも全莫は新たに編成した船を海上に展開させ、商船を襲い続けた。挑発したのだが李充にはその力がなかった。商人たちも対抗策を練れば練るほど無謀な策しか見出せなかった。そんな頃に玄忠が東治の街を訪れたのである。次の戦いに勝てなければこの街の再起は難しくなるだろう。もう追い詰められた戦いだった。が、玄忠は追い詰められたとは見ていなかった。それは王循も同じだった。二人は岩場の外へ出て空を見上げていた。
「戦略は立てているか?」
王循が口を開いた。それに玄忠が応じる。
「ああ、すでに」
「何で行く?」
「無論、火」
「私もそうだ。火でしか勝てまい」
「ただ、問題は…」
「風だな」
「しかも、強い南東か南西でなければ勝てぬ」
ただの南風では敵の一部しか焼くことができないと見ていたからだ。逆に北の風は効果がないどころか味方に被害が及ぶかもしれないと踏んでいた。
「しかし、それは正面からの攻撃に対してだけのことか?」
「いいや、東西両方もだ」
「他に何か企んでいるな?」
「わかるか?」
「わかる」
王循は言いきった。そう、玄忠にはもう一つの策略があった。それは全莫の拠点そのものを失わせるというものであった。それを聞いた王循は呆然とした。
「無謀すぎるな」
「案ずるな、これは先にやることだ」
「先?」
「そうだ」
玄忠は空を見つめたまま頷いた。
 二日後、李充の船が久しぶりに港の展開した。その数、五十。本陣を務める船に玄忠と王循の姿があった。
「素晴らしい光景ではないか」
「ああ、李充もなかなかやりおる」
「さて、どう攻める」
「先手を打つ」
「それが一番だな」
王循は李充の許へ向かった。玄忠はその足で自らが率いる船へと足を運んだ。率いる船はわずか5艘。たったこれだけで敵の本拠地を急襲しようというのである。王循の言葉をそのまま受け取るならそれは無謀としか言い様がなかった。船長が玄忠に言う。
「本当にこれだけで攻めるのか?」
「ああ」
「死を急ぐようなものだ」
「敵にそう思わせればそれでいい。で、頼んでおいたものは?」
「ああ、すでに」
「ならば勝てよう」
玄忠の自信満々の言葉に船長は不安な表情を覗かせた。
「安心致せ。必ずや勝てる」
「船長、この男がそう言っているんだから勝てるんだよ」
一人の男が船長に近づいてきた。腰に鈴をぶら下げている。
「しかしなぁ…」
「俺もいるから安心しろ」
そう安心させた。玄忠は男に話しかけた。
「御身、名は?」
「甘寧と申す者。義あって李充に力を貸している者にござる」
「公玄忠にござる。よろしく頼む」
二人は同時に頷いた。そして、笑った。

 早朝、海上は霧に覆われていた。遥か南の孤島も同じだった。誰もこの島の名前なんて知らない。ただ知っているのは全莫という男が治めているというだけである。
「すごい霧だな…」
物見にいた男が言った。
「用心には怠るな」
上役の男が言った。
「誰が攻めてくるんです?」
「用心には用心を重ねてだな…」
「しかし、ここは三重の守りを張り巡らせているのでしょう?。いくらこんな霧でも…」
そのとき霧の中から無数の火矢が飛来してきたのである。
「なっ!?、敵襲!、敵襲!」
物見の男は火矢を見て叫んだ。しかし、飛んできたのは火矢だけではなかった。
「なんだあれは…」
見た限り小さな壷である。ちょうど頭の大きさぐらいあった。
「みんな伏せろ!」
その言葉が響いた瞬間、各所から火の手があがった。そして太鼓の音が響き渡る。島の中央にある城から見ていた全莫は全軍に出陣を命じた。兵たちは喚声をあげながら船に乗り込んでいく。その様子を船上で眺めていた玄忠は甘寧に、
「討って出よ」
「おう!」
甘寧は単身、乗り込んでいく。他の者は火矢と壷を砦に投げ続けた。
「あんな大軍に攻められたらひとたまりもない」
船長はおびえている。
「安心致せ、連中の船は鎖でつながれておる。一つでも崩れれば諸刃の剣、混乱している今こそ攻めの時期」
そう言って激を飛ばした。
 もう一つの船上、李充は王循と共に五十の船団を組して陣をとっていた。
「敵が出てきたぞ!」
物見の兵が声を発した。それを聞いた李充は王循を見た。王循は頷くと目の前にいる2人の兵に指示した。二人とも太鼓を持っていた。
「右翼、動け」
太鼓が三回ずつテンポよく鳴らされる。サザー…という波音と共に十五の船が動いた。続いて、
「左翼、展開せよ」
また太鼓が鳴らされる。次は二回ずつだった。左翼十五艘が動き出す。王循の意思のままに船が自由自在に動いていく様を見て李充は驚きを隠せずにいた。
「あとは…」
上空を見上げた。そう風である。玄忠は敵を混乱させるために油の入った壷に縄を結んで敵陣へ投げ入れた。しかし、まだとっておきのものを隠していた。それは風が吹かねば効かない代物だった。2人が望む風が来なくてはこの戦いは勝てなかった。
 全莫が兵が乗り込むのを待っていられなかった。目の前に敵の船団があるのを確認していたからである。このときには北側の霧は晴れつつあった。出陣を命じようとする全莫を側近が止める。
「お待ち下さい、まだ兵が乗り込んでおりませぬ」
「ほうっておけ」
「しかし…」
そこから先の言葉はなかった。首を一閃されたのだ。
「文句がある奴はいるかっ!」
誰もいるはずがない。
「出陣致せ!」
この出陣が命取りになるとは全莫自身さえわからなかったのである。

 霧が徐々に晴れていく。晴れていくと同時に双方の船団が姿を現していった。全莫の船団を見た李充は武者揮いをした。
「さすが全莫…、これだけの船団を集めるとは…」
目に飛びこんできた船団の数は二百。李充軍の四倍もあった。
「安心めされい、この戦、勝てる」
王循は李充の心配事を一蹴した。そして、指差しながら、
「戦は数では勝てないということを奴らの脳裏に焼き付けてやるのです」
その証拠は次の瞬間、やって来た。強い北風が吹いたのである。しかも、海流の影響で東から西の方向にかけて波が揺らめいた。
「放てぇぇぇーーー!!!」
王循が叫んだ。そして、左翼右翼の太鼓が響き渡った。これと同時に玄忠の目も輝いた。
「行けるぞ!」
こちらは南からの風が吹いたのである。つまり、南北からの風が島を中心にして二分する状態になった。
「我らの勝利は見えたぞ。放てぇぇぇーーー!!!」
これには全莫が焦りの表情を見せた。
「な、なんだこれは!?」
この風は数百年に一度吹くと言われる幻の風である。一度、浮き足立った兵たちを元に戻すことは不可能だ。二人の軍師は一斉に火薬と油の入った壷を全莫軍全体に投げ入れた。一種の爆弾である。壷には縄が取り付けられていた。その先には火がついていた。壷が割れた瞬間、縄についた火が油と火薬に引火して爆発させる代物だった。これにより全莫軍の船団と砦は風の影響もあって炎に包まれたのである。全莫軍は連環により鎖で結ばれて逃げ場はなかった。大半の兵が海に転落するか、炎に包まれて絶命する姿が次々と見られたのである。
「くっ…」
全莫は負けを確信した。
「もはやこれまでか…」
そう呟いて自害して果てたのである。総崩れとなった全莫軍はすでに烏合の衆に近かった。単身、城に乗り込んだ甘寧が討った兵の数は五十を越えた。返り血を浴びても小さな傷でさえ負っていなかったのである。
「すごい猛将だな」
玄忠は感服したという。
「どうだ、我と来ぬか?」
誘ってみたものの甘寧は頑なに固辞した。そして、玄忠もその心の意思の強さに登用を諦めざる得なかった。この二人が次に会うのは敵味方に分かれたときだ。甘寧はこの後、劉表配下の黄祖に仕えた後、孫堅の次子・孫権に仕えることになる。

「さて、玄忠殿、俺はどうすればいい?」
李充が言った。
「俺の主はあんただ。どこに行けばいい?」
「今、朱崖は無人同様になっているはずだ。今、攻めれば跡形もなく落ちるであろう」
「そこをくれると言うのか?」
「ああ、被害は最小限に抑えきれるはずだ」
「敵は本当にいないのか?」
「ああ、ほとんどが蒼梧に集結しているからな」
「わかった。あんたはどうする?」
「このまま、陸路で戻る」
「了解した」
李充は玄忠と王循を港に下ろすと出陣を命じた。全莫との戦いでほとんど被害を受けなかった船団はゆっくりと東治を出発した。これとほぼ同時に商人たちは呉へ移住することになる。商都の称号は孫堅の長子・孫策が建てる建業へと受け継げられることになる。
「玄忠」
「何だ?」
「俺も交州に行こう」
「良いのか?」
「構わぬ、天下というものを見たくなった」
「嘘つけ、どうせ暇なんだろ?」
「そう見えるか?」
「さあな」
二人は顔を見合わせると笑い声をあげた。そこへ王循の屋敷にいた童子が走ってきた。
「父上、大変です」
「どうした?、翼よ」
童子の名は王翼と言い、王循の子だ。
「街の外で戦が起きています」
「ほう、誰と誰が戦っているのだ?」
「それが…」
「どうした?」
「一手は王朗の軍勢なのですが…」
「何かあったのか?」
「一騎なのです」
「一騎?」
「はい、王朗の軍勢と戦っているのはたった一騎の武将なのです」
王翼の言葉に二人はまた顔を見合わせた。
「名はわかっておるか?」
「いえ、わかりませぬ」
「ふむ…、どうする?」
「決まってるだろ」
玄忠はゆっくりと馬に跨った。
「助けるのさ」
「ふん、そうだな。翼、我らも行くぞ」
「はい」
馬に跨った三人はゆっくりと東治の街を後にした。

「なぜ殺れぬ!?」
張豊は叫んだ。
「たった一人ではないか!?」
目の前にいる武将に手を焼いていた。武将は返り血を浴びながらも凄まじい槍さばきで次々と敵を倒し続けている。武将は張豊の姿を見つけた。
「張豊!、貴様の命もらい受ける」
「ふん、できるかな?」
張豊に今までの動揺がなかった。
「しまった!」
空から無数の矢が降ってきたのである。五体に矢が次々と突き刺さる。武将の体からは血が吹き出し始めた。
「くっ…」
「ふははははは、もはやこれまでだな。宗極よ」
張豊は勝利を確信したかのように甲高く笑った。宗極はすでに落馬していた。していたというより馬が降ってきた矢によって殺されたからだ。張豊は槍を構えた。
「さらばだ!」
張豊は槍を繰り出した。宗極は持っていた槍でこれをかわす。かわしながら張豊の馬の脚を斬った。それでも不利な状況は続いた。張豊の軍勢が次々と攻撃を加えてくる。これに耐え切れるはずがない。もはやこれまでかと観念したとき奇跡が起きた。一陣の矢が張豊の脳天に突き刺さったのである。
「ぐわぁ…」
張豊は何が起きたかもわからずにゆっくりと後方に倒れた。続いて地響きが起きた。蹄の音である。宗極を殺そうとしていた兵たちの動きが止まった。宗極も困惑している。
「何が起きたのだ…」
視線がぐるぐる回る。その視線がある一点で止まった。馬に跨っている二人を見つけたのである。
「あれは…」
そこに声が響いた。
「公玄忠、ここにありっ!」
張豊の兵たちがざわめく。その隙を突いて宗極が敵の馬を奪い、血路を開いたのである。
 玄忠と王循は急いで宗極に近づいた。
「大丈夫か?」
「ああ…」
言葉が途切れ途切れになっている。王循が近づいた。傷は深そうだった。
「王循、ここから砦までは近い。そこに運ぼう」
「砦?、そんなものがあったのか?」
「ああ」
玄忠は笑っていた。その笑顔が宗極の記憶に刻まれることはなかった。気絶してしまったのである。

「う、うう…」
宗極のまぶたがゆっくりと開いた。白い布が見えた。
「ここは…」
体を起こそうとすると強い激痛が走った。
「ぐっ…」
「まだ寝ていたほうがいいよ」
薬を持った童子が宗極に言った。
「ここは…どこなんだ…」
「ここは交州との境にある砦だよ。殿が建安攻めのために造り上げたんだ」
「殿?」
「玄忠様だよ、僕の名は王翼。あなたの看護を担当している」
「公玄忠…」
宗極は玄忠の顔を思い出した。
「公玄忠とは一体何者なんだ…」
「知らないのかい?、玄忠様は父上と一緒に全莫を滅ぼしたんだよ」
宗極は記憶の中から全莫の名を見つけ出した。商船を襲う異民族の棟梁の名だ。かつて会稽の港も襲われたことがあったからだ。
「あの全莫を…」
「そうそう、あの父上も惚れ込んでしまったってわけ」
「では…、張豊を射たのも…」
「殿がやったことだよ」
王翼は陽気に答えた。
「あの距離から射たのか…」
宗極は玄忠の弓矢の凄さを知った。しかし、この後、それだけではなかったことを思い知らされることになる。

 怪我が癒えた宗極は改めて玄忠に謁見した。玄忠の横には王循がいた。
「我を助けて頂き感謝致します」
「うむ、大事ないか?」
「はっ」
「御身に聞きたい事があるのだが…」
宗極はそれが何かすぐにわかった。
「構いませぬ、何なりと」
「何故、味方であるはずの張豊に追われていたのだ?」
「それは主君の秘密を知ってしまった故…」
「秘密とな!?」
「はい、主君・王朗は永壽党(えいじゅとう)の参謀だったからです」
「何と!?」
王循が声をあげた。玄忠が王循に問う。
「何者なんだ?」
「永壽党とは先の皇帝を殺した暗殺集団です」
「殺した?、病死ではなく?」
「はい、霊帝は朝廷と敵対していた董卓に依頼された永壽党の手によって殺されたのです」
その頃、玄忠は黄巾党の一人として予州で暴れまわっていたときだった。
「つまり、董卓は黄巾の乱が起きている頃から権威を奪い取ろうと画策していたというわけだな」
「如何にも」
王循が答える。
「ならば董卓は永壽党を知っているのか?」
「知っているのは存在だけでしょう。存在だけであればどの群雄にも接点があります」
「その一角が王朗だと言うのだな?」
「はい」
玄忠の言葉に宗極が頷く。
「王朗は私に無実の罪を着せ、妻子を殺しました。従弟の宗膳も重傷で今は力の及ばない場所にいます」
「それで張豊が王朗の命でお主を追ってきたというわけだな」
「御意」
「ふむ…、王朗は何かを守りたかったのではないのか?」
「そうです」
「それは何か?」
「秘薬です」
「秘薬?」
「長寿丹と呼ばれる秘薬です」
「ほう」
「それがどのような効果があるのかはわかりませんが王朗はそれを守ろうとしたのでしょう」
「なるほど…」
玄忠は少し黙った後、声を発した。
「それで御身はこれからどうする?」
「…わかりませぬ」
「ならば我と来ぬか?」
「しかし、それでは…」
「構わぬ、張豊の首を捕ったのは我だ。それに狙われるのは慣れている」
玄忠とて何事もなく戦乱に身を投じたわけではない。これまでに幾度も命を狙われているのである。
「それに永壽党なる凶賊が真にいるのであれば殲滅せねばならぬ」
宗極には玄忠の強い意思が見えた。
「宗極よ」
「はっ」
「これからどのような事態が待ちうけているかもわからぬ。今、我が軍勢は蒼梧に展開している。もし、これに敗れれば我が意思も潰える。我に力を貸してもらえぬだろうか?」
宗極の答えは一つだった。
「それは無論のこと。この宗極、命にかえても玄忠様の命を護りまする」
「頼むぞ」
宗極はゆっくりとした動作で平伏したのである…。

 蒼梧では緊迫した情勢が続いていた。玄忠が王循、宗極、そして王翼を伴って帰還した直後、父・伯錦が急病により床に臥せてしまったのである。玄忠は父が眠る寝所に入った。
「玄忠よ…」
声はもう生気を失いつつあった。
「必ずや、我が一族を聖地に導け…」
「はっ」
玄忠は平伏した。それを見届けるようにして伯錦はこの世を去った。死去の報せは隠されることはなかった。それが玄忠の意思なのだ。そして、死した伯錦の意思でもあった。諸将や越族、兵たちには衝撃が走ったもののさしたる動揺が広がらなかった。むしろ、士気がさらに盛んになったのである。
 玄忠は伯錦の跡を継ぎ、南海太守としてその座に鎮座した。鎮座したといっても内政は楊臣に一任したのである。あれだけ敵対していたのだから任された楊臣のほうが驚きを隠せなかった。
「それがしに内政を…」
「そうだ、引き続き長史として内政を頼むぞ」
これには地盤の安定という大役を任されたのと同じだった。楊臣は平伏した。
「はっ、必ずや、反乱なき政治に導きましょうぞ」
そう言い放った。この後、楊臣は生涯、内政に身を投じることになるのである。
 また、武官のほうも改革を行った。軍師に王循を迎え、副軍師・行軍護尉に楊丁を、番禺の治安を担当する都尉には管越を選んだ。校尉には劉泰、宗極、劉彭などの武官たち、その他にも越族にも南海郡の地盤を築くために高地位を与えている。要衝・増城には祖父・越昭を配し、番禺の前衛に当たる四会県の県令に蒼梧の越族・玉蒙、北の中宿に越昭の子・越翔を任じた。この配置は不満があればいつでも番禺を攻めても良いという玄忠の心のあらわれだったのである。そして、呉巨より寝返ったケ武は引き続き高涼太守として玄忠の補佐に当たり、東治の戦いにて全莫の船団を打ち破った李充は水軍都督として以後、子・李豊と共に交州の海を護ることになる。
 一方、玄忠討伐の連合軍を指揮する呉巨は各地の兵を蒼梧の郡都・広信に集結させていた。伯錦の死に対しては歓喜の声をあげたが玄忠のすばやい行動に対しては脅威と感じた。総勢二十万の軍勢が玄忠の首を狙っているのである…。


続きを読む(第六章)

戻る