第七章 勢力拡大(後編)

 交州軍の主力が南越へ進攻していた頃、別命を受けた武将がいる。交州軍随一の武を誇る劉泰、その劉泰が一目置く猛将宗極の二人である。劉泰は揚州建安へ、宗極は荊州臨賀へそれぞれ出陣していた。
「南のほうはどうであろうか?」
劉泰は副将として新たに臣下となった姜子晋に問うた。姜子晋は大陸から海を望む大陸から来た異人だというが肌色、言葉は大陸の者と変わらない。出自のわからぬ者を登用して大丈夫なのか?っという不安が交州軍にはあったものの、姜子晋が持つ類稀な武芸は劉泰に劣らぬ武勇を誇り、知略は軍師王循が一目置くほどの人物であったため、参軍として劉泰の補佐を命じたのだ。
「殿が出陣しているのです。勝利は目に見えておることでしょう」
「うむ。そうよな」
「今はこれから始まる戦いに集中しなければなりませぬ」
劉泰が向かっているのはかつて玄忠と王循の出会いの地・東治であった。異民族の脅威から脱した東治であったが脅かされ続けてきた影響は大きく、この地に逗留していた商人たちの大半は北にある抹陵や呉郡へと拠を移していた。そのため、街は錆びれ、わずかに漁で生計を立てている者たちが細々と暮らすのみとなっていた。劉泰が東治に着いたのは交州を発って十日後のことだった。開け放たれた城門を潜ると閑散とした街がこれを迎える。
「随分と人気が…」
たしかになかった。姜子晋の言葉に頷く。劉泰は兵たちに休むよう伝達すると姜子晋と共に政庁に入った。すでにここを守るべき県令の姿はなく、荒れて朽ち果てた建物だけがそこにあった。ところどころ剥がれている石畳を通って中に入る。
「ふぅ…」
「こんなに荒れていたとは…」
溜め息をつく劉泰に絶句する姜子晋の姿があった。
「予想以上だな」
「ええ」
「これではここを拠点とするのは不可能ではないのか?」
「いえ、そうともいいきれません。たしかに今のままでは守り難しの状態ですが将来を考え、かつての栄華を取り戻すことができたならば東治は重要拠点になります」
「うむ、たしかに」
「そのためにはまず建安を落とすことをお勧めします。その上で西の盧陵にも勢力を広げ、地盤を固める必要があるかと思います」
「呉に対するためか?」
「その通りです」
「よし、すぐに動こう」
劉泰の決断は早かった。一部の兵だけを残すと破竹の勢いをもって建安を陥落させた。東治に着いてからわずか半日の速攻だった。勢いを得た劉泰はその城を姜子晋に任せて翌日盧陵に進軍し、空城同然の盧陵を落とした。この動きに呉では文武官が勢ぞろいしたのは言うまでもない。
「まさか南から敵が来るとはな」
呉主孫策が言う。
 孫策は江東を制した後、北の寿春を拠点を置くかつての主君袁術、西の荊州を拠点に長江に睨みを利かせる劉表と対立しながら多くの人材を集めていた。文官に目をやれば張昭、張紘を筆頭に虞翻、陸遜、顧雍など、武官に目をやれば父の代から仕えている程普、黄蓋を筆頭に呂蒙、甘寧、太史慈、周泰、蒋欽などが集まり、さらに智謀者には義弟周瑜、魯粛を迎え、呉は大国に発展した。
「北に袁術、西に劉表、さらに内を見ればまだ多くの反乱分子がいる。こんな状況で打開できる策はないものか?」
孫策が言う。これに猛将で名高い呂蒙が応じる。後に魯粛をも感服させるほどの大軍師となるがこのときはまだ勇猛果敢な将軍に過ぎなかった。
「攻めるべきでしょう。足元を見られては国内外に影響します」
「ふむ、たしかに…」
孫策は頷くが張昭が反論する。
「攻めるのは時期尚早かと存じます。未だ地盤は固まらず、中心となる城もなく、我らにあるのは北を守る長江のみ。これも水軍を手にされれば難なく突破されまする。今は守りに徹し、外敵から身を守る術が必要かと思います」
「ふむ、それも一理あるな」
武勇に優れた孫策自身も決めかねていた。攻めるか守るか…。その迷いを見透かしたかのように文官の列にいた魯粛が進み出る。魯粛は周瑜の推挙で登用されたがそれ以前は徐州でも名高い富豪であった。周瑜が行軍の最中、兵糧不足のため、援助を願ったところ、魯粛は一瞥しただけで蔵一つ分の米を分け与えたという。周瑜は魯粛に感服し、義兄孫策に魯粛を登用するよう進言し、今では重職の地位にあった。
「殿、柴桑にいる周瑜殿に意見を聞いてみては如何でしょうか?」
妥当な意見である。
「そうだな、それが一番かもしれぬ。陸遜」
「はっ」
文官の中で一番若い男が呼ばれた。これまた後々、大都督として活躍することになる陸遜である。
「柴桑に赴き、周瑜の意見を問え」
柴桑は荊州と揚州の国境にあり、呉の軍事拠点でもある。周瑜は劉表からの攻撃を防ぐため、ここに水軍の一大城塞を築いた。
「承知仕りました」
一礼すると政務の間より出ていく。
「陸遜が戻るまで打てる手は打っておくとしよう。叔父上」
「おう」
武官の列の一番前にいる叔父孫静に声をかける。孫静は父孫堅の弟に当たる。
「会稽の守りを固めるよう」
会稽は王朗の旧領である。
「承知致した」
「蒋欽、周泰、お前たちも行け」
「ははぁっ」
孫静は二人の将軍を連れて退室する。
「太史慈」
「はっ」
続けて名を呼ぶ。
「濡須の河口を抑えて盧江の劉勲に目を配れ」
「承知!」
かつて愚君と称された揚州刺史劉鷂の配下となっていたが孫策と一騎討ちの末、これに組みしたのである。
 盧江の地は柴桑と丹陽の間にあってこれまた要衝なのだが以前は袁術の領地であった。客分時代にこの地を治めていた陸康を孫策がこれを撃破したためである。しかし、その地も新たに朝廷より赴任した劉勲に奪われてしまった。激怒した袁術は孫策を使ってこれを打破しようとしたが時すでに遅し。孫策は自由人となって袁術の脅威となったため、盧江の主権問題は棚上げとされた。
「とりあえず、これでいいと思うが何か他にあるか?」
しかし、何の意見もなかったため、詮議はこれまでとなった。

 三日後、陸遜は盧江を迂回して南方の予章から柴桑に入った。四方を長江とその傍流に囲まれた天然の要衝は周瑜の思うがままに築かれた城でもあった。その中心の政庁に周瑜がいた。傍らには妻である小喬の姿もあった。小喬の姉は大喬といい、孫策の妻でもある。二人の父は喬玄で、兄は反董卓連合軍に参戦した喬瑁である。
「久しいな、陸遜」
「はい、ご無沙汰にしております」
「お前の智謀は私を越えるものがあろう。後の世には必要なる人材だ。体だけは十分に気をつけよ」
「ははぁ、有り難きお言葉」
陸遜は敬服する。
「ところで…」
「うむ、わかっている。南の脅威の件だな。すでに建安だけでなく盧陵も落ちたと聞く」
「北を警戒しすぎた結果でしょうか?」
北とは曹操のことである。孫策は父孫堅すら認めた曹操を脅威と感じ、密偵を放ち、その戦力を見極めようとしていた。
「いや、それはあるまい。今の曹操の力量は知れている。まだ雛に過ぎない」
「雛も成長すれば大人になりますよ」
「その時はその時だ」
その時とは後の赤壁の戦いのことである。しかし、この時点では誰もその史伝を知らない。
「で、話しはずれたが南の脅威だがもう手は打ってある。心配するなと孫策に伝えておいてくれ」
「承知仕りました」
陸遜は一礼する。
「すまぬな、私が行ければ良かったのだが…」
「いえ、構いませぬ。あまり無理はなされぬよう」
「承知しておる」
「では、これにて」
「うむ」
陸遜が去ると小喬が声をかけた。
「また、戦でございますか?」
「うむ、山越が暴れているらしい」
「まぁ…、それは大変…」
「小喬、案ずるでない。山越如きに遅れは取らぬわ」
「しかし、貴方に何かあれば…」
「はっはっはっ、大丈夫だ」
周瑜はすっと立ち上がった。冷や汗もかいていない。
「ごらんの通り」
「まぁ…、偽りでございましたの?」
「偽りではない。なれど、国の大事とあらば動かずにはいられまい」
そう言うと政庁を護る兵に文武官を集めるよう伝えた。諸将が続々と集まってくる。周瑜も帯刀して上座に鎮む。
「よくぞ集まってくれた。皆に集まってもらったのは他でもない。南より賊が侵入したとの報せが入って来た」
「賊ですと!?」
武官の徐盛が言う。
「うむ、近頃、交州を中心に勢力を広げていた公玄忠が建安・盧陵を落としたそうだ」
「何たること…。公玄忠とは何者ぞ!?」
同じく丁奉が言う。
「うむ、あまり聞かぬ名だが最近勢力を広げてきた若輩者だ。父は討匪将軍公玄と申し、愚かにも山越との共存とか申し、南海増城で挙兵した輩だ。玄忠はその長子に当たる」
「その者なれば某もよく存じています。なれど、遠く聞くところによりますと1年も満たぬ間に交州を治め、さらに南方を征したと聞く」
文官で陸遜の縁戚に当たる陸積が言うと広間は騒がしくなる。
「ふっ…」
周瑜は微笑した。誰かとよく似ていたからだ。
「静まられよ。今、呉を侵しているのは劉泰なる猪武者らしい。公玄忠が相手ならばまだわからぬところだが猪が相手であれば勝機も見えてくる。徐盛、丁奉!」
「はっ」
そこから周瑜の独壇場になっていく。次から次へと武将が呼ばれて去っていく。如何なる策も周瑜の前では通用しないように見えた。全ての策を言い渡すと周瑜は広間を出て水練場に行く。無数の船舶が並べられ、『呉』や『周』の軍旗が大きく風に揺られて靡かせている。
「この水軍が活躍する機会はまだのようだ」
草々たる水軍を前にした都督は大きく頷いた…。

 劉泰は呉に動きがあると確認するや、直ちに守りを固めるよう指示した。また、軍師王循から、
「呉には周瑜がおる。奴の動きには注意するよう」
と、厳命されていたので間者を放って柴桑の動きを注意深く見守った。それが功を奏したのか柴桑に動きがあった。徐盛・丁奉の両軍が一軍を率いて盧陵に向かっているという。
「彼らだけではあるまい。他に情報はないのか?」
「それだけです」
「ふむ…、父上、どう見ます?」
傍らにいる劉彭に聞く。
「わからぬ、周瑜なる人物がどのような者か知らぬが軍師が警戒するよう伝えている以上、何か罠があると見て良いだろう」
「わかりました。父上は城を固めていてくだされ。私は城を出て呉軍に当たります」
「わかった、気をつけよ」
「父上も」
劉泰は太守としての風格が見え隠れするような動きで五千の兵と共に颯爽と出て行った。両軍は盧陵の北にある巴丘という土地で対峙した。わずかばかりの集落があるだけで他には何もない。多少の森があるだけで視界には敵軍の動きは徐盛・丁奉軍だけだ。
「全軍、かかれぇぇぇぇぇ―――!!!」
劉泰が叫ぶと五千の兵が一斉に動き出す。
「来たぞ、我らも迎え撃つ。かかれぇぇぇ!!!」
徐盛の言葉に呉軍も攻撃を始める。丁度、中央で両軍は入り混じった。劉泰は槍を奮って呉軍を二つに割る。その武勇は呉軍の兵でさえ息を飲む奮迅さだった。最初こそ、劉泰を止めようと攻撃を加え続ける呉軍だったが今では逃げに徹している。劉泰は追撃を加えようとしたが思い留まった。全軍に待機を命じると、一時退却した。遠くの丘で様子を窺っていた周瑜は微笑する。
「ほう、猪武者だと思っていたが…。だが…、そのようなことは我の手のうちよ。狼煙を上げい」
「はっ」
兵が命じられて狼煙をあげる。それが伏兵に対する合図だった。退却する劉泰軍を包み込むようにして孫桓・潘璋軍が攻撃を加える。さらに、これに加えて一度は退却した徐盛・丁奉が挟み撃ちにした。
 ワアアアアアアアァァァァァァァァァァ―――――――――!!!!!
「やはり、罠を敷いていたか。皆の者、慌てることはない。潘璋のみに焦点を合わせて攻撃を加えよ。他は捨てておけ」
劉泰軍は死を省みず、潘璋軍へ突撃する。突如の反撃に潘璋は驚いた。兵たちは浮き足立ち、総崩れになる。孫桓が助けに入らなければ潘璋の命もなかったところだった。
「ほう、あの囲みを突破するか」
周瑜は戦いを楽しんでいた。
「しかし、逃げる城は残っているかな」
また微笑した。その指摘は外れていなかった。しかし、当たってもいなかった。城はまだ落ちていなかったからだ。劉泰が出陣した後、突如、沸き起こった呉軍に城を包囲されてしまったのだ。守る劉彭とて武の持ち主、攻めてくる呉軍を相手に懸命に戦っていた。
「一歩も通すでないぞ」
劉彭は鼓舞する姿勢を見せるが士気の低下は否めない。建安からの援軍を要請するため、使者を走らせたが音沙汰はない。呉軍に捕まったのであろう。ますます孤立していくことを悟った劉彭は覚悟を決めた。城壁から兵の動きを見つめる。南側が手薄に感じる。南に下れば交州にも早く着くことができる。なれど、手薄なところほど罠がある、というのが戦略の基本でもあった。そこで結構重厚な囲いをしている孫桓の陣に突撃することに決めた。西門近くに騎馬隊が集結する。奇しくも、父子とも同じような策を用いたのである。
「よいか!、我らが血路を開く!。各々、分散して交州もしくは建安に逃れよ!」
「おおっ!!!」
士気の低下は否めない。しかし、突破口を見つけるためにはこれしか方法はなかった。
「行くぞ!!、門を開けぇぇぇ!!!」
門が開かれると無数の敵兵がいた。劉彭の姿を見ると一瞬動きを止める。緊張感が一気に広がる。その一瞬を捉えて攻撃を仕掛ける。
「かかれぇぇぇぇぇ!!!」
 ワアアアアアアアァァァァァァァァァァァァ―――――――――!!!!!
劉彭は槍を奮いながら敵陣へ突入していく。玄忠の父、伯錦にその武勇を魅入られた男は死を省みず、呉軍の真っ只中へと躍り出る。次々と襲いかかる敵兵の返り血を浴びながら、攻撃方中枢にいる敵将董襲に迫る。
「その武勇、痛み入る。その勇みに応えよう」
と馬に跨ぐが近臣に止められた。
「殿、劉彭は死を覚悟しています。死を覚悟した者には勝てませぬ」
「う、うむ、弓隊構え!!、射よっっっ!!!」
本陣の前に弓を構えた兵から一斉放射が浴びせられる。矢の雨が劉彭軍を覆った。それは空が完全に翳るぐらいの多さであった。先頭を突っ切っていた劉彭の全身に矢が突き刺さった。
「がはっ!」
吐血する劉彭にまた兵が群がる。それでも、槍の動きを止めない。その奮迅に董襲軍は圧倒される。
「何て奴だ…、あれを受けて倒れぬとは…」
しかし、その指摘も時間の問題だった。兵たちは馬に焦点を合わせて槍を繰り出す。攻撃を受けた馬は脆い。脚を失った馬が前屈みになって倒れ込む。振り落とされた劉彭に向かって無数の槍が突き出された。
「ぐぅ…」
わずかばかりの声は怒声にかき消された…。将を失った劉彭軍は完全に戦意を失い、総崩れとなった。城は呉軍の手中に治められ、かろうじて血路を開いた者たちを追って呉軍が追撃していく。盧陵はわずか3日という短さで陥落した。落とすのも早ければ落ちるのも早かった。
 一方の劉泰は盧陵に戻るまでに城の陥落を知った。
「父上は?」
「残念ながら…」
兵の言葉に絶望と憔悴で満たされたかと思いきや、一気に怒りで全身の血が煮えたぎる。
「行くぞ!!、盧陵が落ちた今、我らには建安しかない」
哀しみに浸るならいつでもできるが味方を救うのは今しかない。その思いが劉泰の心を埋める。迫る呉軍に劉泰は父以上の武勇で建安への道を作る。そして、殿軍まで務めて呉軍の進攻を許さなかった。その姿を見た孫桓をはじめとする諸将は”鬼神”と恐れた。
「案ずるな、猪はただの猪ではなかっただけだ」
盧陵に入城した周瑜は郡内の残党を討つよう、新たに太守に任じた歩隲に命じた。歩隲は文官だが統治に優れ、知識も豊富という点を周瑜は気にいっていた。その上で周瑜は建安へと進軍、途中で蒋欽・周泰と合流する。先に建安へ進軍していた朱治が呂範を参謀として攻撃を加えていたのだが姜子晋の謀略の前に敗走していた。
「姜子晋とは何者か?」
陣幕に入った周瑜が問う。しかし、誰もその存在を知らなかった。
「ふむ…、まあ良いわ。所詮、我には勝てぬ。董襲」
「はっ」
董襲が前に出る。
「水軍を率いて東治を落とせ」
「はっ」
董襲が出ていくのを確かめもせずに次の人物を呼ぶ。
「蒋欽、周泰」
「はっ」
「各々一万の軍勢を率いて建安に向かえ。蒋欽は西、周泰は東に陣を敷け」
「はっ」
二人が出ていくと朱治と呂範が呼ばれる。
「貴君らは南城の守りを固めよ」
「はっ」
南城は建安の西に位置する臨川の主城で盧陵・予章へ続く要衝でもあった。
「次に孫桓」
「はっ」
「貴殿は迂回して敵の補給路である南平を落とすよう」
「承知致しました」
孫家の一員となった男が臣下の立場の周瑜に一礼する。それだけ、周瑜の力量は呉にとって無くてはならないものだった。
「潘璋」
「はっ」
「五千の兵を率いて先鋒を命じる」
「ははぁっ!」
潘璋の意気込みは強い。
「最後に徐盛と丁奉は我につけ」
「御意」
「よし!、建安を奪還するぞ!」
呉軍は本陣が敷かれた建安北部の呉興から出陣した。

 盧陵から無事に退却した劉泰に姜子晋が迎える。深い傷を一つも負っていなかった劉泰の姿に微笑する。これを見た劉泰も笑った。
「血まみれの姿に笑いで答えるとは」
「それだけ元気であれば十分でございます」
「呉軍を退けたそうだな」
「ええ、ですがまた来るでしょう。今度は本隊が」
「援軍は?」
「皆無です。しかし、ここは我が君を信じましょう」
「うむ、策はあるか?」
「今のところは一つだけ」
「どんな策だ?」
姜子晋は劉泰に耳打ちする。
「ふむ、なるほど。それにしても驚いたな、お主がそこの出身だったとは」
「良き策は最後まで取っておくことです」
「ははは、この戦、勝てるか?」
「勝てなくては意味がありません。敵が周瑜であったとしても」
「そうだな、盧陵の二の舞は踏むまい」
「劉彭殿は無念だったでございましょう」
「父上は戦場で散ったのだ。本望だったに違いない」
父のことは子がよく知っている。だからこそ、出た言葉だった。
「では、頼むぞ」
「御意」
建安は呉軍によって翻弄されまいと開戦の狼煙をあげた。

 劉泰が苦戦を強いられている頃、宗極軍は管越を副将に破竹の勢いで臨賀を陥落させ、桂陽を包囲していた。太守趙範は劉表の臣であったが武芸に優れているわけでもなく、謀略に優れているわけでもない。徳の人物なのだ。戦いになれば勝ち目はないと踏んでいた。そこで城を固めて籠城したのである。幾度の宗極軍の攻勢にも耐えていた。それだけ、民衆の趙範に対する忠誠は厚かった。
「管越、落ちそうか?」
「いや、どの門もなかなか落ちぬ」
「ふむ…、このままでは長沙から援軍が参ろう」
長沙には名将と名高い武将がいるとの情報を得ていた。
「それまでにこの城を落とさねば」
「誰ぞ、何か策はないか?」
その言葉に待ってましたと言わんばかりに一人の謀将が躍り出る。
「拙者に一計ありまする」
「おう、張解か」
嫡子である張豊が玄忠に登用された際、弟の張仁と共に仕えた。当初より宗極の参謀として行動する。
「幾度となく挑発を繰り返していますがまったく応じる気配はありません。ですが、付け入る隙はあるものです。趙範に属する武将の中に程勝なる人物がおります。彼の者、実は山賊崩れでして衝山の董豫とは義兄弟の間柄と聞きます。そこを攻めれば動かずにはおられないでしょう」
「そこを襲うわけか」
「御意」
「城門が開けばこちらの勝機です」
この言葉に宗極が動く。副将の管越に言う。
「よし、管越」
「はっ」
「五千の兵を与える故、衝山を攻めよ」
「はっ」
管越が陣幕から出ていく。
「私と張豊、張解は引き続き、桂陽を攻める。張仁は長沙との境まで展開して動きを警戒しろ」
「ははぁっ」
諸将が次の行動を起こす。一方の桂陽城では宗極軍の攻撃に備えて守りを固めていた。程勝は東の城壁から敵陣を見つめる。表情は焦っていた。長沙に早馬を出したにも関わらず、まったく兵を出す動きがなかったからだ。
「韓玄め、我らを見殺しにする気か」
荊南の要衝である長沙は初め黄忠が治めていたが今は韓玄が太守に就いている。前任の黄忠は知勇に優れた猛将だが今は韓玄の副将に甘んじていた。
「黄忠殿であれば…」
すぐにも兵を出しているだろうと悔やんでいた。
「程勝、悔やんでも仕方あるまい」
声をかけたのは陳応という武将だった。
「今はこの城を死守することに集中するのみ」
「御意」
「しかし、蓄えが豊富だが兵が足りぬ。どこまでもつか…」
懸念は全軍に広がりつつあった。そんなところに急報が舞い込む。
「衝山に兵を出したか…」
太守趙範が言う。
「おそらく、長沙の動きを警戒してのことでしょう」
武官の一人が言った直後に程勝が駆け付ける。
「殿!、お願いがございます!」
「何事か?」
「衝山の董豫は我が義弟にござりまする。どうか、援軍を!」
「ならぬ、今は宗極軍の攻撃を抑えるだけで精一杯だ。衝山に向かわせる余裕がない」
「ならば、我が手勢だけでも」
「お主の軍が抜ければ東が手薄になる。お前と董豫が義兄弟なのはよく存じておるが今は諦めろ」
「し、しかしっ!」
「くどい!、退がれ!」
「くっ…」
罵倒を浴びたものの、このまま引き下がれるはずがなかった。政庁から出るとすぐに手勢を集める。事情を把握していなかった鮑龍という武将が声をかける。
「如何した?」
「殿の命により偵察に参る」
「偵察?」
「先日までの攻撃が嘘のように今は敵の動きが静まり返っている。敵の動向を知るために手勢をもって調べに参る」
「なるほど、承知した。城門を開けい!」
鮑龍の命を受けた兵が城門を開いた。
「気をつけられよ」
「承知した」
程勝は颯爽と城外に出る。そして、方向をそのまま衝山に向けたのである。その事実を知った趙範と攻撃の機会を窺っていた宗極は悲喜の表情になった。動きを知った両軍が再び桂陽城を中心に攻防が始まる。ただでさえ、孤立無援なところに兵力を減らした趙範軍は程勝の離脱という災難を受けて士気は低下した。一方の宗極軍の士気は一気に高まり、怒涛の攻撃が続く。陥落は見えた…。

 趙範の急使を幾度となく受け入れた韓玄はようやく重い腰をあげた。しかし、援軍の将に命じられたのは黄忠ではなく、楊齢という武将であった。楊齢は韓玄配下でも黄忠に次ぐ勇の持ち主であったが宗極の噂を聞き及んでいたため、死を覚悟した。宗極はかつて王郎配下として名を馳せていた過去を持つ。会稽近くに出没した大規模な反乱に対し、単身で敵陣を突破し敵将を討ち取っている。
「殿、某だけでは宗極を討ち取るは不可能に等しく、ここは黄将軍の腕をもって一掃されることを願います」
まだ命が欲しい楊齢は主君に懇願した。実は黄忠と韓玄は仲が悪く、黄忠のような武勇もなければ知略もない韓玄にとって黄忠の存在は嫉妬させるには十分過ぎた。事あるごとに敬遠し、近頃では出仕してきても話しを交わすこともないという有様だった。この楊齢の発言に難色を示したものの、ここで断れば自らの威厳に関わると判断し、黄忠に出陣を許した。一万の兵を得た老将は一路桂陽に向かった。
 『黄忠動く』の報せはすぐに国境に陣を構えた張仁の元へ届けられた。
「やはり動いたか…。殿は戦を避けろと言われたが敵に背中を向けるは武人の恥。行くぞ」
張仁は武将としての心をもって黄忠軍に戦いを挑む。兵数からして戦いは一騎討ちで対する他はなかった。
「黄将軍は何処におわす!?」
「ここにおるぞ!」
共に馬上で叫ぶ。黄忠の白い髭が風で靡く。
「貴様が敵将か!?」
「如何にも。宗極が臣、張仁なるぞ」
「参れ」
軍勢から離れて双方の馬が勢いをもって攻撃を仕掛ける。一合、二合、三合…、刃が交わるたびに火花が散る。離れて見ている双方の軍勢の兵の目は明らかに悲喜の対称を見せていた。当然のことながら黄忠軍のほうが歓喜に満ち溢れている。張仁の腕では黄忠の器量に敵うはずもなかった。十合もしないうちに槍を弾かれて馬上から落とされた。
「所詮はこの程度か」
「くっ…」
張仁は槍を突きつかれて観念し、率いていた軍勢も降伏するか、逃げるかのどちらかを選んで散り散りになった。
「よし、このまま桂陽へ向かうぞ」
士気が高まった黄忠軍は一路桂陽へ向かった。
 桂陽城は必死の攻防にも関わらず、まだ落ちていなかった。程勝の手勢を失っただけでは士気は落ちることはない。民衆までが加勢し、宗極軍に甚大な被害を与えていた。
「ちっ…、まだ落ちぬのか」
宗極は苛立っていた。このままでは程勝をおびき出した意味がなかった。そこにさらなる予測が当たる。
「申し上げます!」
兵が駆け込んで来る。
「どうした?」
「長沙より黄忠が一万の兵を率いて出陣。途中、張仁軍を降伏させ、こちらに向かってきます」
「やはり来たか…。張仁の奴め、あれほど戦うなと申したものを…」
「血気に逸ったのでございましょう」
甥の張豊が冷静に言う。一族でこうも違うと宗極は苦笑せざる得ない。
「まあ良いわ、黄忠は私が引きうける。お前は引き続き、桂陽を攻めよ」
「御意」
張豊が一礼するのを確認した宗極は馬に跨ると一軍を率いて黄忠軍に向かった。しかし、一里もしないうちに敵軍が姿を現した。馬を止めた宗極は軍勢から離れて一歩前に出る。すると、敵軍からも武将が前に出る。白い髭が靡いていた。
「宗将軍か?」
「如何にも、宗秀安にござる」
秀安とは宗極の字である。
「まさか、お主が公玄忠に仕えていようとはな」
「時の流れにござる。黄将軍も変わりなく」
二人は知り合いらしい。
「できればお主とは戦いたくないのだが退けぬか?」
「退けませぬ。我が主命により、桂陽は頂く」
「仕方あるまい、行くぞ」
「おう!」
二つの馬が激突する。馬上での凄まじい攻防は見ている者を魅了させる。火花を散らす刃と刃は周りの空気を熱くした。一歩も退かない黄忠と宗極の戦いは全身から汗が飛び、馬が疲れ果てて地に落ちても続いた。どちらが勝ってもおかしくない戦いはどこまでも続くかと思われた。けれども、そこに時計の針を動かす者が現れた。宗極軍の後方を一軍が襲ったのである。指揮官の戦いぶりに目を奪われていた宗極軍は総崩れとなる。背後からということは桂陽攻略が失敗したことを示唆した。
「ここまでか」
宗極は呟くと退却を命じる。
「逃げるか?」
「逃げも戦略の一つにござる。決着は次回着けましょうぞ」
そう言うと味方から馬を得て奇襲を仕掛けてきた趙範軍を真っ二つにして血路を開く。その戦いぶりに黄忠は感動を覚えた。
「さすがよのぉ」
しばらくして、一騎討ちを邪魔した陳応が姿を現した。
「援軍は感謝するが敵軍は退却を始めた。我らもこれより追撃に参るが貴殿も参られるか?」
「残念ながら、主君はそこまで望んでおらぬ。ここは退かせてもらおう」
「承知した。では、御免」
宗極に突破された者の態度とは思えない程の傲慢ぶりに黄忠は苦笑せざる得なかった。
「よし、我らも引き揚げるぞ」
全軍に下知をすると一路長沙へと退却した。ただし、桂陽が混乱している間に荊南の主導権を握ろうとする韓玄によって桂陽北隣の湘東と衝山がある衝陽の二つの郡は落とされていたのは言うまでもない。

 時は遡って、管越は衝山を攻めていた。要衝であるにも関わらず、山賊に占拠を許していた太守はすでに及び腰で攻めることすらしなかったという。衝山を守る董豫はかつては黄忠に仕えていた。しかし、韓玄が太守となった後は野に下り、一族を集めて衝陽を襲うが失敗、やむなく衝山に籠もったのである。
「父上、宗極軍の一部がこちらに向かっているそうです」
「ほう…、宗極と申せば私もよく存じておる」
長子董覇の言葉に董豫が頷き、遠い目をする。
「黄忠に仕えていた際に義勇軍として黄巾党を一蹴する戦いぶりが目に焼きついておるわ」
「それ程の者とは…」
「できるなら敵には回したくはないのだが…」
「ならば降りますか?」
「降る?」
「ええ、宗極が仕える公玄忠は瞬く間に交州を制し、今は南のほうも抑えたと聞いております。このまま賊としての汚名を被るよりは名誉ある武将として名を馳せたほうがよろしいではありませんか」
「ふむ…、それも一理あるか」
「あとは義弟殿をどうするかですね」
「程勝のことを言っているのか?」
「御意、程勝殿は義を重んじる男でございます。我らが降ったとあれば黙っているはずはございませぬ」
「だろうな。だが、奴は我らの立場を利用して桂陽の趙範に仕官した経緯がある。今更、来たところで恩恵など無いさ」
程勝が仕官する際に董豫軍の内情を全て趙範に漏らした事で重用されたという。
「では、動きますか?」
「そうだな、董憧を使者に立て、臣従の意志を伝えよ」
「はっ」
董覇が去ると一息ついた。そして、呟く。
「手土産の一つぐらい持って行かないとな」

 管越は衝山の麓に到着したところで董豫の降伏を受け入れて衝山に入った。そこに程勝来援の報せが舞い込む。
「彼の者は某にお任せを」
董豫がそう言うと颯爽と出ていく。程勝の軍勢は衝山の麓近くに到着していた。
「董豫、無事か!?」
「ああ、何てことはない。それよりも何しに来た?」
「何しにって…、義兄を助けるのは弟の役目だ」
「役目ねぇ…、だが、その役目も不要になるときが来たようだ」
「それはどういうことだ?」
「我ら一族は宗極軍に降った」
「なっ!?、ば、馬鹿な…、お前ほどの男が何故…」
驚きの表情を見せる。
「嫌気が差したまでのこと。お前には関係のないことだ」
「お、お前という奴は…」
程勝が怒りに震えているのがわかった。
「ま、お前が趙範に漏らした情報のおかげで数百の兵が散った。その恨みは忘れていないがな」
「な…」
赤くなった表情がすぐに青くなる。
「し、知っていたのか?」
「当たり前だ。桂陽にも間者は送り込んである」
「ちっ…」
程勝は舌打ちすると突然馬首を翻して逃げようとする。
「当たったな、董覇!」
父の叫びに子が応じる。伏兵が退路を塞ぐ。
「逃がすと思うのか?、程勝」
「くっ…」
程勝は董覇に槍を繰り出すが簡単に弾かれる。
「お前では俺には勝てん」
ブスッという鈍い音が程勝の体が聞こえたと思った瞬間、その体は馬上から転落する。将を失った程勝軍は戦意を喪失し、降伏を余儀なくされた。
「欲に負けた者は所詮小者、お前を義弟にしたのは我が不覚なり」
程勝の死体を見つめながらまた呟いた…。

 宗極軍退却に桂陽の士気はさらに高まる。趙範は直ちに追撃の軍を発し、宗極軍を追い込もうとするが彼らは宗極、そして管越の武勇の存在を忘れていた。攻城戦では行われなかった悲劇がここより始まる。陳応は宗極に突破されたものの、すぐに隊形を立て戻して追撃を始める。桂陽中部にある臨武県まで到達した時、突如、四方より攻撃を受けた。退却をしていたはずの宗極軍に新手が登場したのだ。
「やはり、私が出向いてよかった」
姿を現したのは副軍師として玄忠に起用された嘉正である。嘉正は王循を師と仰ぎ、その智謀は交州随一と噂される程の人材だった。その噂を聞いた王循が嘉正を説得して副軍師として迎えたのだ。王循が南征のため、嘉正が北征の軍師として番禺を守っていたのだ。味方の窮地を聞いた嘉正は子嘉真を建安に、自らは桂陽に向かった。そして、情勢を聞くや否やすぐに策を講じたのである。
「嘉正、遅いぞ」
「何を言う?、これでも急いできたほうだ。さあ、反撃だ」
嘉正は笑いながら罠にかかった鼠を見つめる。囲まれた陳応は血路を開くため、一角を集中的に攻撃する。しかし、その攻撃を見越していた嘉正は幾重の伏兵により、陳応を捕らえた。さらに、第二軍として鮑龍が駆けつけるが突然現れた援軍に勝ち目はないと判断し、桂陽へ逃げ帰った。陳応の身柄はすぐに取引の材料にされ、桂陽南部の曲江県を得た。そして、和を結ぶことに成功する。趙範としても忠臣を失うことは痛手と感じ、さらにいつまでも宗極に執着するわけにはいかなかった。韓玄の動きが活発になってきたからだ。荊南に勢力を築く者としては由々しき事態となるのは明白でもあった。故に宗極軍からの和はあり難いものでもあった。嘉正は韓玄の動きも自らの策略の一因として取り込んだのである。

 一方、呉の猛攻を凌いでいた建安の劉泰は城壁から敵陣を見つめる。そこに至るまでには幾多の死体で覆われていた。全て呉軍の兵だ。味方の死体は城壁の上に存在する。
「夜襲に警戒しろ、あの周瑜のことだ。何を考えているかわからん」
配下に命を下す。建安東部の要衝東治がすでに陥落したことを知らされていた。これで退路を失ったことになる。しかし、まだ諦めていなかった。姜子晋の策に賭けたのである。
「頼むぞ、お前の策がこの建安の命運を左右する」
「劉泰殿」
「おう、御車蘭殿」
御車蘭もまた劉泰配下の武官として戦列に加わっていた。
「放っていた間者からは全て応答なし」
「殺されたようだな」
「どうする?」
「これ以上、同じことをしても同じだろうな。だったら、向こうの仕掛けを待とう」
「承知した」
劉泰の言葉に頷いた。
 周瑜は建安の北にある建平県に本陣を定めた。
「間者を全て殺したのは失策であったな」
先鋒を務める潘璋に言う。
「こちらに取り込むことができれば内応も考えたがまあ良いわ。普通に攻めてもあの固さでは落ちぬだろう。しばらく様子を見る」
この行動が劉泰に勝機を与えたに等しかった。
 数日後、会稽を守る孫静から急報が舞い込む。
「何!?、敵が会稽を襲っただと!?」
さすがの周瑜も驚いた。
「数千もの船団が会稽をはじめ、沿岸の主要都市を攻めております。抹陵からの援軍だけでは凌ぎ切れませぬ。至急、援軍を…」
「むむむ…、あと一歩というところで…」
周瑜が悔しさを滲み出す。しかし、すぐに冷静な表情に変わると策を配下に授ける。まさかの事態に対処できなければ今度は呉が滅びかねないからだ。
「敵の出所はわからぬ以上、無謀な攻撃を避けねばならん。孫桓、蒋欽、周泰は三万の兵で劉泰軍の攻撃を食い止めろ。奴らにはこれだけの兵を突破することは敵わぬはず。良いか、こちらから討って出てはならぬ。それだけは肝に命じよ」
そう指示すると自らは呉の窮地を救うために会稽に向かったのである。周瑜退却の報せはすぐに建安に入る。
「姜子晋が我らを救ったぞ!、今こそ勝機、討って出る!!」
劉泰は全軍に命じると呉の本陣がある建平県に攻撃を仕掛けた。怒りに勝る劉泰軍に呉軍は数でこれを押しとどめる。そればかりか、反撃に転じたことで立場は逆転した。
「瀕死の劉泰に何ができる。討って出るぞ」
総大将の孫桓の言葉にざわめきが起きる。
「お待ちあれ!、都督は討って出ぬよう言われた。その言葉に反するのか?」
周泰が言うと孫桓は勢いを止める。
「う、うむ…」
せっかくの勝機を逃す機会を失う発言に困惑しながらも今まで数ある戦いに参戦してきた都督の言葉に従わずにいられなかった。しかし、その意志は呉軍の兵卒までは届かず、士気は一気に低下する。それを見て取った劉泰軍は少数ながら三方から攻撃を仕掛ける。それでも、一歩も退かない呉軍はさすがと言えた。その動きを遠くから見守る人物がいた。
「周瑜の言葉を信じすぎたために退路を失うか、それでもよかろう」
副軍師嘉正の命により、道中で馬を三頭も潰した結果、ようやく建安に辿り着いた嘉真の姿があった。全身汗まみれになった嘉真はすぐに秘策を披露する。それは誰もが考えなかった策でもあった。建安から上げられた狼煙は双方に伝わる。
「あれは………?」
劉泰は馬上でそれを見つめる。率いていた誰もがその術を知らなかった。
「建安で何が…」
その答えはすぐに見つかった。呉軍の補給路となっていた要衝呉興に突如敵軍が現れ、これを制圧したのである。城壁に掲げられた旗印には華嘉とあった。華嘉はかつて呉興の役人として呉軍に仕えていたのだが嘉真の誘いに応じ、退路を封じたのである。次いで動いたのが東治だった。南方の東安県令として呉、そして、玄忠に仕えていた翫邑が嘉真の命により、東治を急襲したのだ。海上より謎の船団に攻撃を受けていた呉軍は挟撃される形となり壊滅したのである。
 退路を失った呉軍に新手が攻撃を仕掛ける。劉泰軍の攻撃を難なく凌いでいた呉軍は新手の出現に驚きを隠せず、敗北を悟った。なぜなら、その軍勢は呉軍の数より勝っていたのだから。建安郡においてその勢力を持っていた越族が呼応したのだ。以前より、説得を続けていた嘉真の功が奏した結果となったのだ。嘉真の智謀は父をも凌ぐとも噂されるほどで今回の建安維持は劉泰の存在は影を潜め、姜子晋と嘉真の秘策が勝利の一因となった。孫桓らはこれ以上の留まりは無意味と判断し、盧陵へ退却した。その退却の手際は立派なもので劉泰、御車蘭等の猛攻を完全に抑え込んだのである。それでも、手痛い打撃を受けたのは双方同じで海上で展開していた船団も呉軍の動きが揚州北部に集中した事を知ると早々に退却した。呉の水軍の強さは大陸一ということは誰もが周知の上だと言うことだろうか。建安に戻った劉泰は2人の英雄に会った。
「よくぞ、持ち応えられた」
「嘉真、お主か…」
「うむ、窮地を聞いて駆けつけたのだ。劉彭殿には惜しいことをした」
「………」
「しかし、お主がここを持ち応えたことで建安は平定できた。あの周瑜相手によくぞ」
嘉真は周瑜の智謀の大きさをよく知っている。それだけに感涙さえ覚えた。
「いや、今回は某だけではありませぬ。姜子晋の策がなければ我らの命も尽きていたでしょう」
自らの副将に賛辞を送る。
「たしかに、あれは一体どこの…」
「あの船団はここより東の大陸、こちらでは夷州と呼ばれるようですが…、その地方を治めているのは我が父姜子雄にございます。父上が独自に築きあげていた水軍の出陣を乞うたのです」
「なるほど、それで…」
嘉真はようやく合点した。そこに姜子雄が配下を連れてやって来た。
「漢王朝より夷州刺史を拝命しております姜子雄にござる。呉軍とは我らにとっても敵対関係、これ以上の横暴は見ておられぬと判断し、参戦致した次第」
「あの水軍が無ければ呉軍も退かなかったことでしょう。感謝致しまする」
劉泰は謝意を述べた。この後、姜子雄は夷州刺史として玄忠に仕えることになる。

 翌年、玄忠は南方の戦いを制して番禺に帰還した。そして、劉泰を征東都督・建安太守に封じ、宗極を征北都督・臨賀太守に封じた。また、今回の遠征で功があった者たちもそれぞれ校尉に列した。これにより、辺境と詠われた交州は南方の要衝としてその存在が浮き彫りとなり、かつて支配を試みようとした有力者たちにその名を知らしめることになるのである…。


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