第四章 民族共有

 南海郡増城、交州の州都・番禺より東に行ったところにある交通の要衝で、周りは森林と幾つもの河川に囲まれた静かなところだった。伯錦が赴任してきてから早三年が経とうとしていた。士燮が伯錦を一気に攻められない理由は越民族の蜂起だけではなかった。伯錦には楊丁という知略に満ちた勇将がいた。その勇将がいるおかげで一気に攻め落とせずにいたのである。
 楊丁はまだ二十二、三の若者で父は楊臣といい文官として政務を担当している。以前、番禺にて飢饉があったときも増城ではその影響を受けることなく、安定した政治が確立していた。士燮は何から何まで嫉妬心を燃やし、伯錦を苦しめつづけていた。それでも伯錦は執拗に士燮に対しての反旗をしつづけていたのである。玄忠が舞い戻ったのはそんな頃のことだった。
 城外に柵と堀が設けられていた。兵たちが必死に動き回っている。増城は安定しているといっても小城である。大軍で攻められればあっという間に落ちるのは目に見えていた。そのための防衛策だろうか。玄忠と管越が近づくと数人の兵が槍を構えて駆け寄ってきた。
「何人(なんびと)か!?」
「それがしは旅の者にござる。何か物々しい雰囲気があったのですがここを通らねば呉に向かうことができなかったため、致し方なく城のほうへ参りました」
兵たちが話し合いをしている。
「士燮の間者ではあるまいな」
玄忠は苦笑した。不躾に質問をぶつけたところで例え本物の間者だとしても名乗るはずがない。
「お戯れを。士燮は越民族の敵にございます」
「ふん、まあいい。通るがいい」
玄忠は兵たちに一礼して通りすぎようとした。しかし、馬に跨った武将がそれを止めた。玄忠もその武将を見ていた。
「お主ら、それでも我が軍の兵か?、まんまと騙されおって」
武将は兵たちを一喝した。兵たちは顔をひきしめる。
「おいおい、私は嘘は申しておらぬぞ。少しは入っておる」
玄忠がそう言うと武将は槍を構えた。
「黄巾党の残党がここで何をしておる」
「無論、この城を頂くために参上致した」
その言葉には嘘偽りはなかった。父から受け継ぐために戻ってきたのだから。武将は槍を構えた。玄忠と同行を共にしてきた管越も槍を構え、威嚇する。
「管越、気をつけよ。その者の名は楊丁と申し、父の代より仕えている猛将ぞ。武勇に優れ、智謀にも長けている。しかし、伯錦の一子にはまだ一度も勝ったことがないのだ」
「は!?」
この言葉に管越と周りを囲む兵たちが呆然としていた。
「こいつには弱点があるんだよ。その決定的な弱点のために一度も勝ったことがないのさ。そうだろ?、楊丁」
「ちっ、何のことがわからぬな」
槍を構えて動じようとしない。
「なら、教えてやるとするか。皆のもの、よく見ておくがいい。楊丁の無様な姿を」
そう言って玄忠は馬に結び付けてあった布に手を入れた。袋の中では何かがモゾモゾと動いていた。
「楊丁、覚悟しろよ」
その直後、楊丁の額に冷や汗が流れ落ちていた。
「どうした、怖いのか?」
「そ、そんな馬鹿なはずがないではないかっ!」
威厳もかけらもなくなっている。
「じゃあ、良いのだな、それっ」
と勢い良く布から楊丁に向かって投げた。それを見た楊丁はあわてるように馬から飛び降りた。しかし、よくみるとそれは縄の切れ端だった。
「わっはははははははは、情けない奴め」
「お、脅かすなっ!」
本気で怒っていた。が、玄忠も管越も兵たちも爆笑していたのである。その姿を城門の櫓から見ていた1人の若者がいた。名は劉泰といい、玄忠の親友だった。その視線を感じた玄忠が顔を見上げるとその姿はどこにもなかった。玄忠は管越を伴って城内に入った。楊丁は引き続き砦造りに専念していた。城内の街はにぎわっていた。玄忠の顔を知っている者は近寄って一礼している。知らぬ者は何事かといった表情で遠巻きに玄忠の姿を見ていた。
「先ほどの人物、誰でしょうか?」
玄忠の横で馬から下りて歩いていた管越が言った。
「さあな、まあ、いずれ会えるであろう。まずは政庁に行かなくては」
そう言って二人はゆっくりと政庁に足を向けたのである…。

「申し上げます」
「如何した?」
番禺の政庁にある政務の間、文武官が集まっていろいろな協議を行っている中、一人の兵が入ってきて一礼した。
「はっ、公玄忠が帰郷した由」
「何だと!?」
士燮は勢い良く立ちあがった。
「それは真か!?」
「はっ、先の越民族の反撃にもどうやら公玄忠が関わっている由にございまする」
横で聞いていた呉巨配下の武将・ケ武は口を開いた。
「士燮殿、玄忠は表出っていませんが水関を破った張本人と聞いております。それが帰ってきたとあれば士気は盛んのはず。早く手を打たないと取り返しのつかないことになります」
「うむ、士統、御車蘭、琴章」
「はっ」
三人がそれぞれ両手を合わせて一礼する。
「それぞれ三万の軍勢を率いて伯錦と玄忠の首を持って参れ」
「ははっ」
三人が政務の間を出ていくとケ武が口を開いた。
「一気に越も含めて攻め落としたほうがよろしいかと存ずる。ここは我が軍も加わりましょう」
「いや、案ずることはありませぬ。彼の三人は我が軍においても勇の者。必ずや、彼らの首を持って参りましょう」
そう言って士燮はケ武の言葉を退けた。士燮の心にはもし呉巨の軍勢に先を越されたら南海における地位は呉巨に傾いてしまう恐れを危惧していたからである。

 日もゆっくりと西に傾きかけていた。玄忠は政庁で父である伯錦に謁見していた。
「公玄忠、ただいま戻って参りました」
「おう、やっと帰ってきたか」
「はっ、水関にて会われた以来にございます」
「諸国はどうであった?」
「荒れておりまする。特に朝廷はすでに董卓の手の内かと思われます」
「うむ、でなければ追討軍など必要なかったことであろうに」
「これも群雄たちの過信故に」
「過信か…、おもしろいことを言いよる。しかし、今、この交州で起きておることは知っているか?」
「無論」
「で、これも過信なのか?」
「士燮の過信でございましょう。それと父上の勇み足もあったかと」
「勇み足とな!?」
「御意」
勇み足という言葉を聞いた楊臣が声をあげた。
「玄忠殿、いくら嫡子と申されても言葉が過ぎまするぞ」
「ならば聞こう。今、越民族はどうなっておるか知っておるか?」
「それは無論のこと。殿との血縁により関係は強化された。平穏を願っているからこそ殿は自ら進んで越という未開の地に踏み入れられたことを感服して…」
「そのようなことを聞いているのではないっ!」
玄忠は声を張り上げて続きを遮った。
「真の共有を狙うなら越民族の協力ばかり頼らず、護るという言葉も必要ではないのか?」
「………」
「御身にそれができるかっ!?」
文官である以上、武官と同じようなことをせよと申してもそれは酷なことだったがそれをわかっているからこそ玄忠はそう言い放った。
「父上、勇み足と申しましたのは時期が早すぎたと思われます」
「うむ、たしかに一理ある。しかし、昭王の力は我らの力ともなる。これも戦略の一つと心得ておる」
「それで納得致しますかな?」
「どういうことだ?」
「士燮は攻め方を少しずつですがかえてきております。本来ならば増城を攻められば終わりなのです。しかし、今は面倒な戦略を使って越民族の村落を一つずつ滅ぼしていっておりまする」
「うむ、それは知っておる」
「昭王は父上に近づきたかったからでしょうが他の者の心も同じとは限りませぬ。いずれ、昭王より離反する者も出てくるはずです。それだけは食い止めねばなりませぬ」
「うむ…」
そこに兵が走ってきた。
「申し上げますっ!」
「如何した?」
「はっ、呉巨の軍勢がこちらに向かって進軍しております」
「数は?」
「九万!」
「な、九万となっ!?」
「はっ」
「すぐに皆を集めいっ!」
伯錦はそう叫ぶと一刻もしないうちに文武官が集まってきた。玄忠、管越もこれに加わった。
「敵は軍勢を三つにわけて進撃しているという。皆、良き案はないか?」
その言葉に楊丁が進み出た。
「敵が三軍で来た以上、こちらも兵を三つにわけるべきにございます」
「それはならぬ。たしかに兵をわければ対抗できましょうがそれは同等であればの話にございます」
楊丁の父である楊臣が反論した。楊丁は玄忠の顔を見た。その視線を感じた玄忠は声を発した。
「父上、此度の戦、それがしに任せてもらえませんでしょうか?」
「お前が出ると申すか?」
「はっ」
「勝算は?」
「ほとんどございませぬ」
「ないと申すか!?」
「だが負けない自信もございます」
「ふむ…」
伯錦には水関での戦いぶりを思い起こしていた。
「よし、わかった。指揮はお前に任せよう」
「有難き幸せにございます」
伯錦に一礼すると文武官の表情を見た。皆、一様である。
「楊丁、今、この城に兵は如何ほどおるか?」
「ざっと三千」
「わかった。まずは二つの軍勢を迎え撃とう」
「残り一つはどうする?」
「安心するがいい。手は打ってある。まずは楊丁」
「おう」
「一千の軍勢を率いて琴章の軍勢を迎え撃て。わずかばかり戦ったら引き上げよ、そして味方の伏兵が攻撃を仕掛けたら反撃せよ」
「承知」
「次に劉泰」
「おう」
久しぶりに会った親友の名を呼ぶと待ってましたと言わんばかりに意気揚揚と応じる。
「お前にはちと暴れてもらうことになるぞ」
「おう、なんなりと」
「お前には士統を迎え撃ってもらう。三万という大軍とは申せ、狭い街道を通っていると聞く。お前は単身、商関に向かい、西門にある橋にてこれを迎え撃て」
「一人でか!?」
「そうだ、一番危険な橋を渡ることになるが…」
「承知」
玄忠の強い意思を感じ取った親友は頷いた。
「狭い橋ゆえ、一度には来れまい。存分に暴れよ」
「おう」
「次に劉彭殿」
玄忠は劉泰の父・劉彭に声をかけた。
「御身には五百の兵を率いて商関北西の崖に伏せよ。その際、ありったけの矢を持っていけ。それと兵に指示して油も用意するように」
「油?」
「ああ、街道を塞ぐ。事前に油を流し、中軍が迫ったら火を放て。敵が混乱したら矢を放って劉泰を援護致せ」
「承知」
火計を行えというのが玄忠の策だった。これだけで士統の軍勢を防げると踏んでいた。
「さて、管越」
「はっ」
「一千の兵を二手にわけて南海道の両脇に伏せよ。琴章の先陣、中軍をやり過ごし、後方の輸送隊を攻撃し荷駄を焼き払え。その上で後方より中軍を突け。ただし、雑魚は構うな。目指すは琴章の首のみ」
「ははっ」
命じられた武官たちが続々と政務の間を出て行った。
「さて、父上」
「うむ」
「父上には楊臣殿とこの城を固めておいてくだされ」
「それは良いが…お前はどうする?」
「命を賭してきます」
「どういうことだ!?」
「それは結果を見てからということにしておきましょう」
そう言って玄忠もまた政務の間より出て行ったのである…。

 士塋軍は街道を士統が進み、北方の間道を御車蘭、南方の沿岸沿いを荷駄隊を率いて琴章が進んでいた。御車蘭には弟がいる。名を御車尚といい、士燮の伯錦に対する政策に反発の意をあらわにしていた。兄に近づいて言う。
「兄者、この際です。降りましょう」
「何を言うか、臆したか?」
「臆しているのは兄者のほうです。我らは元々、伯錦様の配下だったのです」
「なれば尚更降れぬ」
「では、兄者は越民族とも戦いなされると申されるのか?」
「………」
「御車家は越の出、それを高く登用してくれたのが伯錦様です。恩を仇で返すのはやめたほうがよろしいのでは?」
「尚、味方の士気に関わる。過去のことは忘れよ」
「忘れられませぬ。それにまもなく玄忠殿がここに来られます」
「何だと!?」
その言葉に御車蘭は驚いた。
「それは真か!?」
「御意」
「お前は降る気なのか?」
「無論」
「………」
御車蘭は考えていた。率いる三万の軍勢の大半は越民族出身であるということを知っていた。内心、同族同士の戦いを避けたいとも思っていたが主命には逆らえなかった。それでも越民族の長である昭王とは刃を交えたいとは思わなかった。
「会われますか?」
御車尚の言葉が兄の心を揺るがせた。
「…会おう」
「全軍、野営を張る。陣を築け!」
御車尚は勝ったと思った。全軍に下知して陣を築いた。その夜半、単身、馬に跨った男が現れた。門を固めていた御車尚が柵の内側からその姿を確認すると中に導き入れた。
「懐かしゅうございます」
「御車尚、五年ぶりだな」
「はっ、兄者がお待ちにございます」
「うむ」
玄忠は颯爽と馬から下りると本陣の陣幕に入った。中は薄暗かったが正面に御車蘭が待っていた。
「玄忠殿、お久しゅうございます」
「まことに」
玄忠は白い歯を見せながら笑った。
「諸国はどうでした?」
「乱世だよ、朝廷は董卓に牛耳られ、袁紹・曹操らは己の利益を優先させ、韓馥・孔由らは政治には無関心で己の嗜好に専念しておる。陶謙・劉璋らは保身に徹している」
「名を馳せるとすれば誰になりますかな?」
「我と申したいところですが今は無理ですね。河北では曹操が伸びてくるでしょう。それ以外はなんとも言えませぬ」
「過信しておらぬようだな」
「過信すれば己を滅ぼすだけ」
「では、他におらぬと?」
「要注意と見るならば劉備玄徳ですな」
「ほう」
御車蘭は初めて聞く名に耳を傾けていた。
「関羽・張飛の化け物を率いておる徳の人物ですな」
「化け物ときたか…」
「ええ、あの分だとさらに徳の力を発揮してまだまだ猛将が増えてくるだろう」
「御身はその中に身を投じようとしているのか?」
「身を投じなくては交州という国はますます荒れよう」
「ふむ…、たしかに…」
「それに劉表がこの地を狙っていることは知っていると思うが奴の頭脳も少しは狂ってきている」
「狂う?」
「そうだ、その原因が呉巨の独立だ」
「なるほど…」
「それともう一つある。孫堅を敵に回してしまったことだ」
「江東の虎か」
「うむ、孫堅がいる限り、劉表はこちらに手が伸ばすことはできぬ。士燮と呉巨は手を結んでいるがその力は交州では一握りに過ぎぬ。御車蘭よ、視野を広くしてみよ。越民族の聖地にも行けるかもしれぬぞ」
玄忠は先の先まで読んで御車蘭を説得し続けた結果、味方に引き入れることに成功した。
「我らは何をすればいい?」
「士統の退路を断って欲しい」
「それは良いが…」
「案ずるな、去る者は追わずだ。士統の首があれば良い。あとは琴章一人と荷駄隊を崩せばこの戦は勝てる」
「承知した」
玄忠は勝利を確信し、御車蘭の陣を後にしたのである…。

 翌朝、士統軍は狭い街道に入った。
「右の崖からの転落に気をつけよ」
士統は右側に広がる崖を見た。崖の下には生い茂った深い森林が広がっていた。しかし、士統は左側の崖上には何の警戒をしていなかった。
「まもなく商関だな。そこを抜ければ増城か…」
士統は遠くに見える増城の翳りを見つめていた。そのときである。狭い街道を一人の兵が走ってきた。
「申し上げます」
「如何した?」
「先陣がこの先にある橋にて敵とぶつかりました」
「おう、ひねり潰せ」
「それが…」
兵が躊躇した。
「如何した?」
「一人の武将に遮られて進めませぬ」
「何だと!?、たった一騎で何ができる!。踏み潰せ」
士統は楽観していた。
 その頃、商関手前にある橋では士統の兵たちが恐怖を覚えていた。相手は一人だけしかいない、しかし、その一人はただの人間ではなかった。猛者である。近づく者は死体となって帰ってきていた。
「士塋の軍勢とはその程度のものか!」
「くっ…」
士統の先陣を率いていた安瑞は一騎打ちを挑んだ。
「我と勝負致せ」
「おう!」
返り血を浴びた武将こと劉泰はゆっくりと前に出てきた。槍を構えている。安瑞は槍を繰り出した。しかし、その槍はいとも簡単に払いのけられ、気づいたときには安瑞の首は宙を舞っていたのである。それを見た先陣は総崩れとなり、商関の守備兵たちの士気はもとより崖上に待機していた者たちの士気も盛んになった。
「さすがは我が子よ、我らも動くぞ」
劉泰の勇猛ぶりを褒め称えた劉彭はあらかじめ撒いておいた油が気化する前に火を放ったのである。その直後、凄まじい勢いで火は広がり中軍を包み込んだ。
「申し上げます」
「如何した?」
「前方で火が燃えています」
「すぐに消せ」
そう士統が命じた直後、無数の矢が空から降ってきて次々と兵を倒していった。
「退けぇ、退くんだぁ!」
狭い街道のため、身動きがとれず兵たちは混乱に陥った。しかも、後方にも火の手が上がったのである。完全に孤立した士統は思い切って右下の森林の中に飛び込んだのである。それを見た兵たちが次々と飛び降りていく。
「なんて連中だ…、あの崖を飛ぶか…」
崖上から指揮していた劉彭は唖然としていた。しかし、三十米もある高さから飛んだのである。無事で済むはずもなく、大半の者が怪我を負い、森林に棲む獣たちに襲われてその命を落とした。
 一方、楊丁は琴章軍を迎え撃っていた。
「ふん、笑止」
琴章は楊丁軍のあまりの少なさに笑い飛ばし、総攻撃をかけた。幾ばくかも戦わないうちに楊丁軍は退却した。先陣は楊丁を追いかけて敵陣深くに入り、琴章もその勢いで奥へ奥へ進んでいく。大きく引き離された後方に荷駄隊はゆっくりゆっくり行軍していた。それを見た管越は左右から包み込むようにして荷駄隊を襲った。火矢は次々に荷駄に射ち込まれていく。その炎は先に進んでいた琴章にも見えた。荷駄隊が襲われたと知った琴章はすぐさま馬をひるがえして戻ってきたが今度は己を護る歩兵から引き離された。護衛する数騎だけで戻った頃には荷駄は完全に炎上していたのである。
「くっ、己か!」
管越の姿を見た琴章は槍をふりがさして襲いかかった。しかし、三合も交わさぬうちに琴章の首は討たれてしまったのである。それを見ていた琴章軍は総崩れとなり、退却する途中で御車蘭軍の裏切りを思い知ることになる。番禺に戻れたのはわずか二千あまりという少なさだった。九万という大軍を失った士燮は愕然とした。
「玄忠とは何者ぞ…」
士燮は恐怖したという。その姿を見たケ武は不利な展開に、
(もはや士燮には力はなくなった…)
そう思い、兵を引き上げてしまったのである。この行為は士燮を疑心暗鬼に陥らせるには十分だった。周りの者の中にも玄忠に付こうとする者が現れはじめていた。

 あまりの大勝に伯錦は歓喜した。武将たちが悠々と城に戻ってきた。御車蘭もまた降伏を許されて諸将の末席に加わった。玄忠は死した双方の兵を弔うことを忘れなかった。管越・劉泰に命じて死した兵たちの大半を集めると一個の塔を建ててそこに弔いの儀を行った。御車蘭の降伏によって兵力が増えたことに伴い、街道を整備して上で劉泰に御車蘭、楊丁に御車尚、管越に劉彭をつけて三路の街道を抑えさせた。番禺に攻める準備は整ったかに見えたがまだ玄忠の心の中には不安があった。
「父上、番禺を攻めるのはしばしお待ちを」
「何故?」
「昭王の許に行ってこようかと思います」
「わかった、越の協力なくしては交州統一は望めぬ」
「では御免」
玄忠は単身、昭王が治める北東の地にある龍川(りゅうせん)に向かった。ここにもかつては県城が設けられていたが今はその存在もなく、瓦礫すらどこにもなかった。ただあるのは雑草と生い茂った森林だけだった。その森林に分け入ったところに昭王の城があった。城といっても周りを柵で囲んだ村落である。門のところで数人の越族が槍を構えていた。
「何者か?」
「公玄忠と申す者、昭王にお目通りを願いたく参上致した」
玄忠の姿を見た兵の一人が昭王の住む館に走っていく。それを馬上で眺めながら城の様子を見ていた。
(和やかなものだ…)
とっさにそう思った。さきほどの兵が戻ってきた。
「参られよ、昭王様がお会いになられまする」
「うむ」
玄忠は馬から下りると兵の後ろに従った。越族の者たちが玄忠の姿を見つめていた。その視線の大半が「誰だろう」という目をしていた。玄忠が昭王の孫であるという認識は薄そうに見えた。
 昭王の館は城の中心にあった。木で囲われた小さな館だがそれだけで長という地位は確保しているかのように思えた。門を潜るとすぐに館の入り口があった。二人の兵が入り口を護っている。玄忠とは目も合わそうとしなかった。そんな様子に玄忠は一抹の不安を感じた。
(何かある…)
中に入ると王座のところに男が鎮座していた。玄忠は一礼するが目の前にいた男は昭王ではなかった。
「公伯錦が一子・玄忠と申しまする。見たところ、昭王様の姿が見えぬようにございますが…」
「うむ、昭王は今、病に臥せっておられる」
白髪まじりの男が言った。
「なんと!?、病とな!?」
「うむ、それ故、会うことはできぬ」
「左様か…、それは残念にござる」
玄忠はゆっくりと立ち上がった。
「また来られよ、その時は会えるであろう…」
玄忠がその続きを言った。
「あの世でな」
その瞬間、玄忠が投げた匕首(ひしゅ)が男の喉に突き刺さっていたのである。苦悶の声を聞いた兵が走りこんできた。玄忠は構える瞬間も与えないまま間合いを詰めると一人の片腕を斬り落とした。何が起きたかわかっていないもう一人の兵の脇腹を貫いた。静寂を取り戻した館内には三人の死体が残されたのである。玄忠は奥の寝所に入ると以前来たときのことを思い出しながら昭王が幽閉されていると思われる場所を探した。もし、外に出されているならば村落の者たちに感づかれているはずだった。その様子がないことを見ると中に隠されていると確信していた。この館には謁見の間と寝所、それに厨房があった。厨房に向かうと何人かの料理人が働いていたが玄忠の姿を気にすることもなく動いていた。玄忠は厨房の一角にある積み上げられた石を押すと壁が動いた。そこを入ると土牢があることを知っていた。人の気配が中からしていた。
「殺せっ!」
という威勢の良い女の声が響いていた。
「ふん、昭王と何の縁もない女を殺しても何の得にもならぬわ」
男の声が聞こえる。
「本当にそう思っておるのか?」
玄忠が前に出る。
「何者だっ!?」
「玄忠っ!」
女性が叫んだ。その瞬間、男の腕が飛んでいた。胴体から切り離された腕と血を見て他の者は逃げるように走り去った。
「大丈夫か?、伯よ」
「ええ、久しぶりですね」
「ああ、いつ以来かな?」
「感慨に耽っている場合ではありませんよ」
「うむ、昭王は?」
「博羅(はくら)です」
「遠いな…」
博羅は増城の南東にあった。
「ならばあれを使いましょう」
「それよりもその姿何とかならないのか?」
伯は全裸に近い格好をしていた。体の至る所に傷が浮かび上がっていた。伯は玄忠の言葉を無視して土牢から外に出て行った。
「あいかわらずだな…」
頭をかきながら玄忠も外に出た。男の軍勢が館を包囲していた。
「今度は数で来たか…」
「いつでも構わない」
伯は白い軽鎧に身を包んでいた。
「早いな」
「囲まれているので?」
「ああ、あれは?」
「ここに」
伯は白い鳩を持っていた。
「よし」
玄忠は小さな紙に一言書き記した。『博羅を攻めよ』と。それを鳩の足に結びつけると、
「博羅南方の陣へ」
そう呟くと空高く飛び立ったのである。
「敵が展開しているのですか?」
「囲まれている」
「どうなさいます?」
「腕は落ちてないな?」
「当然です」
「よし、行くぞ」
二人は館から討って出たのである。

 博羅南方、管越は玄忠の命により一万の軍勢を率いて砦を築いていた。本陣の陣幕には管越と劉彭がいた。そこに兵が入ってきた。
「申し上げます」
「如何した?」
「鳩が舞い降りてきました」
「それがどうしたというのだ!?」
「それが…」
兵は鳩を劉彭に渡した。劉彭は鳩の足に何か結んであるのに気づいた。
「なにかあるぞ」
劉彭はそれを解いて開いてみた。そこには一言、

『博羅を攻めよ』

とだけ記されていた。
「どういうことだ?」
「これは…」
「博羅は越族の支配地域だ。それを攻めよとは一体…」
「殿の字だ」
「えっ?」
「玄忠様の字だ」
管越の主君は伯錦ではない。玄忠が主君なのだ。
「わかるのか?」
「ああ、わかる。何度か見たことがある」
「まことか!?」
「間違いない、殿は博羅を攻めよと言われている」
「しかし…、博羅は…」
「劉彭殿、博羅で何かあったと見るべきでしょう」
「それでは殿の…、いや、大殿の命に従うべきだ」
劉彭の主君は伯錦なのだ。
「一刻を争っているのです。攻めましょう」
「よし、いいだろう。もし、違った場合、即刻御身の首をはねる」
そう言い捨てると劉彭は陣幕から出て行った。管越は鳩を抱えながら、
「本当に大丈夫だろうな?」
と問い掛けたのである。

 玄忠は館にあった弓矢で門の上で弓を構えていた兵に対して確実に矢を放っていく。援護を失った敵に対して伯こと越伯が斬りこんでいく。それを交互に行うと徐々に敵兵が崩れていく。
「くそっ!、たった二人に何をしているっ!」
館を囲んでいた兵を指揮している越磑は兵たちに叫んだ。越磑の姿を見た玄忠は、
「越磑、御身が反乱を起こしていたとはな」
「ちっ、貴様が来なければ成功していたものを…」
「あきらめろ、今頃、昭王は我が軍によって救い出されておるわ」
「くそっ!、者ども、二人をやれぃ!」
越磑は配下の兵に下知したが押されていた。昭王派の越族が越磑の兵に攻撃をし始めたのだ。
 ウワアアアァァァァァァァァァァァァァーーーーー!!!!!
剣と剣が交じりあい、矢が飛びあった。そして、喚声が歓声にかわるときその勝利は決した。
「くっ、もはやこれまでか…」
越磑は自らの首に剣を刺してその命を絶ったのである。
「勝ったな」
「ええ、二人で勝てるとは思いませんでした」
返り血の浴びた越伯がそう言ったのである。
「もう向こうでも勝負を決している頃だろう」
「信用なさっているのですね」
「管越ならやってくれる」
その言葉通り、管越軍一万は博羅に総攻撃をかけた。わずか数百の兵しか駐屯させていなかった越族たちは右往左往していた。
「さて、これからどうする?」
「探すんだ。それを」
管越は劉彭の問いに答えた。
「呆れたね」
「我の首をはねるのはそれを見つけてからでも遅くはあるまい」
「ふん、なら徹底的に探してやるさ」
「その意気だ」
管越は年上の劉彭に対してニヤッと笑った。
 それからまもなくして目的のものは見つかった。博羅城政庁内の奥にいたのである。
「助かったぞ」
「玄忠様の命により参上致しました」
管越は平伏した。
「おう、玄忠が帰ってきたのか」
「はっ」
「玄忠に伝えよ、我は無事だと」
「承知」
管越はゆっくりと幽閉されていた昭王こと越昭とともに博羅より増城に向かったのである。賭けに負けた劉彭はそのまま博羅に残った。

 越磑による反乱はあっという間に終わった。越磑を使って越昭を陥れ、越族を牛耳ろうと企んでいた士燮はさらに悲壮な表情になったという。これに対し、伯錦の陣営は歓喜に満ちた。玄忠はこの功により軍師として全軍の指揮を正式に任され、越昭救出に一役買った管越は別部司馬に任じられた。また、越磑の軍勢に対して単身乗り込んだ越伯に対しても女性ながら感服させるとして車前校尉として武官の末席に加えられると同時に玄忠の妻として正式に迎えられた。越伯は昭王の実の娘ではない。以前、交州に栄えた一族の娘だったのだが滅亡と同時に養女にしたのだ。それ以後、誰に教わるでもなく越伯は越族一の武勇を誇るまでに成長し、知略は玄忠を師とした。そのため、伯錦の軍門では智将としても名を馳せることになる。けれども、これにより玄忠と越伯との婚姻は民族共有の第一歩を築くことになるのである…。


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