第三章 郷里

 孔由軍は連合軍解散の後、予州に向けて帰途に着いていた。
「結局、董卓を長安に逃がし、四百年の都を燃やしただけで終わったようだな…」
孔由は近くにいた武官に言った。
「はっ、予州に着かれましたらゆるりとお休み下さいませ」
「うむ…」
「それと殿」
「なんだ?」
「洛陽を出立したころからよからぬ噂が流れております」
「ほう、どんな噂だ」
「玄忠が予州を乗っ取るために着々と準備を始めているとか」
それを聞いた孔由は驚いた。
「そ、それは真か!?」
「はっ、すでに周愛が降伏した黄巾党を使って憔郡を制したとか」
「それが真ならば一大事ではないか!」
「御意、今すぐ手を打たないと手遅れになってしまいまする」
「うむ、すぐに玄忠を呼べ」
あれだけ信用しきっていた玄忠を孔由はたった一人の武官の讒言を聞き入れてしまったのである。孔由は心の中で玄忠に対する信頼が揺らぎ始めていた。理由は二つの出来事である。一つは孫堅に対する援軍、そしてもう一つは曹操の救出である。本来なら主を先に向かわせなければならないところを玄忠が独断で行ったのである。しかし、玄忠は独断で行っていたわけではなかった。戦嫌いの孔由が玄忠の進言を聞き入れようとしなかったため、単独で動かざる得なかったのである。けれども、孔由にしてみれば気にくわなかったのである。だから、武官の讒言を聞き入れる気になってしまった。讒言した武官は以前より玄忠と意見の対立が生じていた。そのことを根に持っていた武官は玄忠を追放、いや滅ぼそうと企んでいた。すぐに後軍を率いていた玄忠の許に孔由の使者がやってきた。
「玄忠殿、殿がお呼びにございます」
「殿が?」
「はっ、すぐにおいで下さいとのことです」
「わかった。すぐに行くと伝えてくれ」
「承知致しました」
兵はすぐに引き返して行った。横にいた圓範が口を開いた。
「何かあったのでしょうか?」
「うむ…」
そのとき、突風が吹いて旗持ちが持っていた「公玄忠」と記された旗の柄が折れてしまったのである。
「むっ!?」
玄忠は咄嗟に反応した。旗が折れるということは不吉を表していた。
「如何なさいました?」
「何かある…」
脳裏に嫌な予感がよぎった。
「圓範」
「はっ」
「今から殿の許に行くが一刻経っても来ぬ場合は手勢を率いて中軍の背後を襲え」
「構わないのですか?」
「うむ…。何もなければ良いのだが…」
そう言い残して玄忠は単身、中陣に乗り込んだ。
 中軍の兵は休憩していた。すでに陣幕も張られている。どうやら、今日の行軍はここで終わりだということを示しているかのように思えた。本陣の陣幕に到着すると武官が出迎えに来た。
「玄忠殿、殿がお待ちになっておられます」
「うむ、何かあったのかな?」
「いいえ、殿は宴を催したいと申されまして…」
「宴とな?」
「御意」
「ふむ…」
玄忠は訝しげながら陣幕の中に入った。入ると中は真っ暗だった。
「殿、玄忠、只今参上致しました」
そう呼びかけても中は静かだった。
「殿、何処におられまするか?」
それでも何の返事もなかった。そのとき、陣幕の外から煙が入ってくるのに気づいた。
「やはり罠であったか…」
玄忠は呟くと同時に陣幕の布をめくりあげた。直後に火矢が撃ち込まれた。
「ちっ」
玄忠は珍しく腰に剣を帯びていた。剣を抜き放つと火矢を打ち落としていく。
「打て打て打てぇぇぇーーーーー!!!」
武官の声が炎の向こうで響いていた。
「殿に仇なす逆賊ぞ!」
「あやつか…、許さぬ」
玄忠は近くにあった旗を手に持つと炎の払うかのように振り回した。そしてわずかな空間ができると陣幕の外に飛び出した。すでに無数の弓兵に囲まれていた。玄忠は紙一重で矢を避けると一人の弓兵を袈裟斬りに斬った。そして、その弓兵を盾にしながら飛来してくる矢を避けた。しかし、それには限界があった。
 中軍には四千もの兵がいた。これを突破するのは容易なことではなかった。ほとんど絶望に等しかった。
(もはやこれまでか…)
玄忠は盾にしていた弓兵の体を放り投げた。そこに武官が走り込んでくる。
「ふっははははは、観念したか逆賊よ」
「逆賊?、逆賊はお主じゃないのか?」
「何を言うか!」
「お前は以前より我に敵意を示していたことはすでに承知しておる。殿に讒言でもして我を討たせたかったのか!?」
「何を訳のわからぬことを申しておる。皆の者、やれ」
弓兵は構えた。
「お前の命運もこれまでだな。死するがいい」
「命運が尽きたのはお前のほうだ。我が何の策もなしにここに来たと思っておるのか?」
「なに!?」
その直後、後方から喚声があがった。
「な、何事か!」
兵が走り込んでくる。
「申し上げます、圓範が後軍を率いて来襲。不意を突かれた本軍は押されておりまする」
「おのれ…、玄忠…」
武官は腰に差していた刀を抜きはなった。玄忠も構えている。
「さっさと殺さぬからお前に隙が生まれるんだ」
玄忠は一気に間合いを詰めていた。そして、武官の剣が玄忠を捕らえた瞬間、その姿が眼中から消えてしまった。玄忠は刀を避けると武官の右肩を掴んで反転、後ろに回り込むと背中を斬りつけた。
「ば、馬鹿な…」
武官は一言漏らした後、絶命したのである。囲んでいた弓兵は主である武官が倒された直後に逃げ出してその姿は見えなかった。
「殿っ!」
「おう、ここだ。助かったぞ」
「中軍より火の手があがっていました故、すぐさま駆けつけた次第にございます」
「うむ、よくやってくれた。すぐにここを脱出するぞ」
「はっ」
玄忠は先陣を率いている孔由が軍勢を連れて舞い戻って来ることを恐れた。精鋭を率いている孔由が相手では農兵中心の後軍では勝てないと踏んだからである。すぐに兵をまとめると平興という土地にいた。そこで圓範に、
「安城にいる周愛にすぐに竹邑に引き上げるよう伝えよ。伝えたら宋県に向かえ」
「承知」
圓範は安城に向けて去った。玄忠は要害である竹邑に向けて出発した。農兵でも抜け出た者がいた。名は管越という。父は呪士だというが管越にはそんな興味はなく、もっぱら武芸に力を注いでいたようでかなりの武勇だった。その力量は圓範を越えていると見ていた。
「管越」
「はっ」
「この近くに宋県という小さな城がある。すでに廃城となって風化しているが交通の要衝だ。すぐに一軍を率いて押さえよ。ただし、旗は立てるな。敵が城門・城壁に近づいたときに矢を放て」
「はっ」
管越は一軍を率いて宋県に向かった。
「さて、ここからが戦いの始まりだな」
玄忠は遠くから見える軍馬をよそに兵たちを宋県に急がせた。

 中軍がほぼ全滅に近いことを知った孔由は側近の韓紹に命じて追うよう命じた。韓紹は孔由が予州に赴任すると同時に仕官したという。しかし、出自はまったく不明だった。そのため、武勇が優れていても優遇されなかったのである。
「玄忠殿を討てると思うか?」
隣にいた弟の韓融に言った。
「勝たねば我らの未来はありませぬ」
「いや、そういう意味ではない。玄忠殿は本当に反旗を翻したのかと申しておるのだ」
「確かに…、玄忠殿は前線で戦っておられました。それを知らぬ殿ではござらん」
「うむ」
「しかし、どんな理由があれど玄忠殿を討たねば我らはこの場にいることができぬ」
「そうだな」
韓兄弟は気を引き締めた。もう前は宋県の県城が見えていた。城門は閉じられているものの城壁に人の姿は見えなかった。
「あの城は黄巾党に街を壊されて以来、廃墟と化している。あそこを抜ければ竹邑までもうすぐだ」
韓紹が言うと韓融も頷いた。兵馬はゆっくりと県城に近づいた。ヒタヒタというわずかな音だけが地面に響いていた。韓紹は堀になっている川の前に着くと兵たちに門を開けるように命じた。すると、城壁の上から声が聞こえた。
「その必要はない、この城は我らが頂いた」
その声の主は管越だった。
「来るのが遅かったな」
韓紹は下唇を噛みしめた。
「くそっ!、かかれぇぇぇーーー!!!」
全軍に宋県を落とすように命じた。直後、韓紹軍の背後から喚声があがった。

 ワアアアアァァァァァァァァァァァァァァーーーーー!!!!!

「どうした!?」
韓紹が叫ぶと同時に城壁から無数の矢が浴びせられ、あっという間に兵馬を失っていく。どうやら、背後から襲ってきた軍勢は城の北西にある丘に潜んでいたと思われた。
「圓範、ここにあり」
槍を振りかざしながら韓紹軍を真っ二つにしていく。これを城壁の上から眺めていた管越は武者揮いをした。後ろにいた玄忠のほうを振り向くと、
「討って出よ」
と命じられ、すぐに駿馬にまたがって城門を開いた。
「参る」
管越もまた韓紹軍に向かって出陣したのである…。

 宋県の外ではおびただしい死体の山が築かれた。それでも戦はまだ終わっていなかった。圓範が韓融を見つけると勝負を挑んだ。韓融も勇の者である。直ぐさま、一騎打ちに応じた。双方の騎馬が重なりあった瞬間、韓融の首が飛んでいたのである。
「敵将・韓融討ち取ったっ!」
と勝ち名乗りを挙げた瞬間、脇から現れた韓紹に片腕をえぐられたのである。えぐられた直後、落馬したところを管越が駆けつけ、韓紹を引きつけている間に周りの兵に救われたのである。命は助かったが怪我は重いものだった。
「なんのこれしき…」
圓範は痛みを我慢して言い放つがすぐに気を失ってしまった。
「傷が深いな…、完治するまで時間がかかろう。圓範を竹邑に移せ」
「はっ」
管越が陣幕から外に走って行った。城の中は多数の陣幕で埋め尽くされていた。城には街がないのだ。完全な更地と化しているのである。管越と入れ替わりに物見に行っていた兵が入ってきた。
「おう、どうであった?」
「はっ、韓紹軍は北西の丘に陣を張り、持久戦の構えです」
「ふむ…、相分かった。休んで疲れを癒すがいい」
そう言うと兵は陣幕から出て行った。
「持久戦か…、そいつは違うな…。韓紹はおそらく援軍を待っているな…」
玄忠はそう呟くとすぐに行動に出たのである…。

「援軍はまだ来ぬのか」
韓紹は陣幕の中で苛々していた。その勢いで近くにあった机を蹴り飛ばした。
「一体、殿は何を考えておられるのだ!」
暗闇の陣幕には誰もいない。
「こうなったら…」
韓紹は混沌とした状況の中である決断をしていたのである。陣幕の外に出ると韓紹は唖然とした。自分の陣が炎上していた。闇夜が真っ赤に染まっている。
「こ、これは…」
そこに兵が走り込んでくる。
「申し上げます」
「何事か!?」
「はっ、背後より敵襲があり、火を放たれました」
「して敵は?」
「すでに引き上げておりまする」
「くそっ!」
韓紹はまた机を蹴り飛ばし、槍を掴むと単身宋県の城壁の前に来た。
「我は孔由軍総大将・韓紹である。公玄忠出会え!」
「何しに参った、山賊よ」
暗い城壁から玄忠の声が響いた。
「出て来い!」
「ふん、所詮、弱者の遠吠えよ」
玄忠は韓紹を挑発した。韓紹は頭に血がのぼり、
「おのれぇ、我を愚弄するとは許さぬ」
そう言い捨てると持っていた槍を玄忠めがけて投げてきた。槍は城壁の上まで届かず堀の中に落ちていった。
「韓紹、丸腰で何ができる?。見よ、お前の陣を」
韓紹軍の陣営は火が広がり手のつけられない状況になっていた。
「帰って孔由殿に伝えよ。讒言を信じる君は主としての器量非ず、とな」
「くっ…」
そう言われてしまっては韓紹は何も言えなくなってしまった。馬首をひるがえすと兵をまとめて退却してしまったのである…。

 韓紹が敗れたと聞くや、孔由は真っ青な表情になった。
「誰か玄忠を討てる者はおらぬのか?」
政務の間にいる武官たちは沈黙した。韓紹は孔由軍の中でも一、二を争う猛将だったのである。それが敗れたのだ。動揺より驚愕の気持ちのほうが武官たちに広がっていた。
「まったく不甲斐ない連中だ」
そこに一人の武官が恐る恐る声を発した。
「殿」
「何だ?、いい案が浮かんだのか?」
「殿が自ら兵を率いられる他には方法はないかと…」
そう言われると次は孔由が沈黙した。嫌な空間が政務の間に広がった。それに割って入る男が現れた。
「何者か?」
沈黙した空間に孔由の声が響き渡った。
「軍議の邪魔をして申し訳ござらん。それがし、陳宮と申す者。一計を授けようと思い参上致しました」
「戯けが!、己のような者が来る場所ではないわ。去れぃ」
「お静まりを。我が言を聞き入れてくれるならばこの戦を勝利に導きましょうぞ」
「ぬぅ…」
「どうか我が言を聞き入れてくれますよう」
「何が望みじゃ?」
孔由は何かあると睨んだ。
「望み?、望みなどございませぬ。あるとすれば城をもらいとうございます」
「城を?」
「はっ、小城でも構わないので治めてみたいのでございます」
「ふん、よかろう」
「はっ、有難き幸せ」
陳宮は一礼すると皆に聞こえるように声を張り上げて一計を授けたのである…。

 竹邑の近くにある居城、幾多の洞窟が伸びる自然の要塞には玄忠と管越がいた。圓範の容態はますます悪くなっていた。菌が傷に入り込み、近くの医者に見てもらったところ片腕を切り落とさなくてはならないという。
「殿、やむ得ませぬ」
「うむ、圓範を救うためじゃ」
玄忠と管越は無常な選択を迫られた。医者は二人の同意を得ると腐りかけていた右腕を切り落としたのである。そのときの圓範は絶叫をあげた。その声は城内に響き渡り、恐怖にかられる者や逃げ出す者が続出したものの、圓範の命は回復に向かっていた。
 翌朝、圓範は目を覚ました。痛みはまだ続いていたが強靭の体の持ち主である。脅威の回復力で復活してきたのである。政務の間では玄忠と管越が協議をしていた。実は報せが飛び込んでいたからだ。安城を探索していた物見の者が戻ったのだ。
「孔由は二軍にわけて出陣したという」
「しかも一万とは…」
管越はあまりの兵の多さに絶句した。しかし、玄忠は平然としていた。
「しかし…、あの孔由が兵を起こすとは考えられん」
「何故?」
「孔由は極度の戦嫌いの人間だ。周りがどんなに騒ごうとな。現に董卓追討の兵をあげたときも連合軍の中でほとんど兵を動かしていないのは孔由だけだ。だから今回の行動は逆におかしいと見なければならない」
「それに兵の強さにも格差がありますしね」
「うむ、万が一…」
「何がですか?」
「万が一、孔由に軍師となるべき人物が現れたとしたら今回の行動は頷ける」
「軍師ですか…」
管越は考えた。管越は父譲りの知略にも精通している。
「管越」
「はっ」
「すぐに宋県にいる兵を引き上げさせよ。嫌な予感がする」
「承知」
玄忠は打てる手を打っておこうと画策した。

 管越が宋県より味方を撤退させた直後に孔由軍は宋県に到着した。本陣を設けた陳宮は玄忠のすばやい動きに感服した。
「さすがは公玄忠よ、あの水関を落としただけのことはある」
「これから如何なされますか?」
武官が言う。
「あわてることはいらぬ。じっくり攻めましょう。こちらには時間がある」
そう言うと兵の一人を呼んだ。
「お呼びにございますか?」
「うむ、すぐに徐州の陶謙殿の許へ走り、黄巾党の残党が竹邑を拠としている。援軍を願いたいと伝えてくれ」
「承知致しました」
兵はすぐに本陣より出て行った。
「陶謙は必ず動くであろう。そうすれば我らの勝ちとなる」
そう言ってゆっくりと本陣より外に出た。外では兵たちが笑っていた。笑いながらも陳宮の姿を見ると気を引き締めるように表情がかわったのである。陳宮は孔由の軍師として迎えられると兵馬の訓練を一番最初に行った。それからすぐに安城と周辺の諸城を堅固にするように命じ、自身は宋県と竹邑の探索に集中していた。特に竹邑の探索は厳しかったようで行っても帰って来ない者が続出した。
「さすがは玄忠よ、我が行動が手に取るようにわかっているらしい。だが、我が名まではわかるまい」
そういうことを見越して命じる者は兵ではなく、陳宮の名が知られていないならず者を使った。そのため、玄忠は憶測だけでしか陳宮の存在を知ることができなかったのである。

 孔由軍が宋県に入ったという報せはすぐに入った。
「やはり来たか…」
「引き上げさせて正解でしたね」
「うむ」
「これから如何なさいます?」
「持久戦になればこちらが不利になる。知っていると思うが北はすでに抑えられている」
「ええ、まさか陶謙に援軍を求めるとは思いませんでしたが…」
以前、曹豹率いる陶謙軍に大勝して以来、兵を動かそうとしなかった。
「おそらく陶謙は兵を動かすことによって予州に拠点を築こうと企んだのであろう。でなければ兵を動かすなんてことはありえない」
現に陶謙はこの後、予州沛国(小沛)に勢力を広げている。
「だが動かぬであろう。前に大敗しているし、追討軍に加わったことで兵たちも疲労しているしな」
「ならば如何なされます?」
玄忠は紙に一文字書き記し、それを管越に示した。それは”奇”であった。そして、管越に耳打ちすると急いで政務の間より出て行った。実は耳打ちしたにはわけがある。すでに味方の中に孔由軍の密偵が潜んでいたからだ。城を空ければ乗っ取られるだろうからそれをさせまいとする玄忠の一手であった。
 管越が出ていくと玄忠もまた政務の間を出た。裏手に回る細道を通りぬけるとは急流が流れていた。
「周愛」
「おう、戦か?」
「ああ、宋県を落とされた」
「知っている。鮮やかな引き際だったな」
「ふん、言ってくれる」
「して、どうする?。圓範があの状態ではどうすることもできぬぞ」
「兵を三つにわける」
「三つに?」
「ああ」
「宋県を攻めるのか?」
「いや、逃げるのさ」
「逃げる?、どこへだ?」
「交州へ逃れる」
「交州だって!?、その前にやられてしまうぞ」
「やられないさ。耳を貸せ」
玄忠が耳打ちをすると周愛は複雑な表情をした。
「なんと無茶なことを考える」
「やってみなければわからんさ」
「失敗すれば死ぬぞ」
「いいや、死なない。我にはまだやることがあるんでな」
「まあ、指揮はお前に任せる。主はお前なのだから」
周愛はそう言い放つとゆっくり動いた。安城から引き上げるときに足を痛めたのだ。その後ろ姿を見ていた玄忠は周愛に別れを告げた。玄忠は死ぬ気だったのである。

 陳宮は翌朝、出陣する意志を固めた。すでに陶謙軍が北の街道を抑えたという報せがきていたからである。竹邑が天然の要害であることは誰もが知っていた。そのため、陳宮は持久戦を選んだのである。
「玄忠はもう風前の灯火。我がほうに勝利があるのは一目瞭然」
と勝利を確信していた。玄忠軍が目の前に現れるまでは…。
 その日の夜、やけに風が強かった。本陣の陣幕から出た陳宮は、
「こんな日に攻められでもしたら全滅するな。火の元には気をつけろ」
陳宮は叫んでいた。陳宮は念のために城壁にのぼった。この城は南側が堅固だがその他は容易に攻められる城だった。兵の数に差があっても火計を浴びられば一たまりもなかった。そのときである。火の手があがったのは。
「何事か!?」
陳宮は叫んでいた。兵が走ってくる。
「申し上げます、南側より火の手があがり兵たちは混乱しております」
「すぐに落ち着かせよ。火を消すんだ」
「はっ」
兵が走っていく。陳宮もまた戻ろうとしたとき周りに兵がいないことに気づいた。
「ま、まさか…」
そう思ったが最後、玄忠軍はすでに中に入り込んでいたのである。
「くそっ」
陳宮は本陣を置いている陣幕まで急いだ。そこにもすでに火の手が上がっていた。しかも、兵同士が戦っている。
「玄忠、やってくれおったな」
陳宮はわずかな油断をした。それは玄忠が攻めてこないという見込み違いであった。
「すぐに城内に逃れるぞ」
陳宮は混乱している兵たちをまとめると北門より脱出したのである。北より侵入されたとすればもう1つの安全圏である東方向に待ち伏せされている可能性が高い。そのため、北を選んだ。西側は三つの川が合流しているし、南は堀で退路を失われていた。火計の混乱と敵襲により数百の兵を失っていたものの10000もの大軍である。陳宮にしてみれば針に刺された程度でこれ以上の被害は未然に防ぐことができた。
 城内より脱出した陳宮は呆然となった。目の前には多くの篝火が焚かれ、暗闇の中にボォーと玄忠の姿が映し出されていた。
「待っていたぞ」
「ぬぅ、玄忠…」
陳宮の背後にある宋県は闇夜を紅く染めながら炎上していた。
「陳宮だったとは恐れ入る。曹操殿を見捨ててどこに行ったと思えばこんなところに現われるとは」
「見捨てたのではない。あの方には先が見えなかったからだ」
「いや、違うな。恐れたからであろう?」
「恐れる?、ふっははははは、何を申すかと思えばそんなくだらんことだったとは…」
陳宮の心は動揺していた。見抜かれたからではない。この先にあるものがわからなかったのである。それだけに玄忠と篝火は異様だった。
「どうした?、陳宮よ。せっかく手に入れた軍師を失ってしまうぞ。心してかかってこい」
玄忠がそう言い放つと陳宮の率いていた一軍が挑発に負けて攻撃を仕掛けてきたのである。

 ワアアアアアァァァァァァァァァァァァァァァァァーーーーー!!!!!

「ば、馬鹿よせっ!」
陳宮の声は喚声によって消されてしまった。それを待っていた玄忠は手を上げた。
「全軍、かかれぇぇぇ!!!」
暗闇から怒涛の如く、地響きが聞こえた。その音は天地をも揺るがす魑魅魍魎の類だったかもしれない。暗闇にまじって放たれた矢は次々と陳宮軍を崩していった。
「くっ、退けぇ、退くんだぁ!」
恐れをなした陳宮は全軍に退却を命じた。炎上した宋県の城の脇を通って平興まで退いた。それだけにこの周辺の地形は平地ばかりで陣を張るには不向きな場所だったのである。そのため、平興まで退く他なかったのである。これも玄忠軍の追撃を恐れてのことであった…。

 翌朝、陳宮軍は颯爽とした勢いで宋県に向かった。宋県には炎上して黒焦げになった城跡と東側にわずかに残った篝火の跡を見つけた。そして、もう一つの跡も見つけたのである。
「これは…」
陳宮は絶句した。そこにあったのは牛の蹄の跡だった。
「しまった…」
陳宮はすぐに敵軍の拠点である竹邑の谷に向かった。そこで見つけたものはもぬけの空となった洞窟だけであった。そこから遠く平行線に徐州の城がかすかに映ってたのである。
「逃げられてしまったか…。この分だともうすでに…」
陳宮は近くにあった棒を手にとって岩盤に投げた。カランッという音がして地面に叩き付けられた。すぐに陳宮は孔由の支配地域である汝南郡を中心に探したものの、結局、玄忠はおろかその軍勢の姿は見つけることができなかったのである。
 しかし、それは陳宮が見つけられなかっただけで玄忠の軍勢はまだ予州にいた。
「本当に行くのか?」
「ああ」
周愛が名残り惜しそうに玄忠を見ていた。
「お前も残るらしいな」
「ああ、ここは私の夢を求めた場所だ。そう簡単には離れられん」
「そうか、お前には来てもらいたいと思っていたんだが…」
「生きていればどこかで会えるさ」
「そうだな」
「それにお前を巻き込んだのは私のせいだ。今まで我らを引っ張ってくれたことは感謝してる」
感涙しそうになった玄忠は最後に棟梁としての威厳を残した。
「圓範」
「はっ」
「その命尽きるまで周愛を護り通せ」
「はっ、承知致しました」
「周愛」
「おう」
「予州はまた戦乱と化すだろうがいずれお前を導いてくれる群雄が現れよう。そのときまで決してその命を燃やさぬよう」
「群雄って誰だ?」
「さあな、ただ、お前の星が光輝いているんだよ」
「星?」
「そうだ」
玄忠は空を見ながら言った。周愛の運命を示す星は煌煌とその存在を示していた。ちなみに管越は玄忠に同行を願い出ていた。再三の断りに対してもその決意は強かった。そのため、玄忠は管越にその同行を許した。周愛も圓範も管越は農兵の一人だということしか認識していなかった。だから、管越を連れて行くと言った玄忠の申し出も難なく了承したのである。
「また会おうぞ」
玄忠はそう言うと友人二人と別れを告げて予州の地を去った…。

 今回の戦いで得たものは多かったが刺史・孔由は未だに玄忠を誅することに執念を燃やしていた。玄忠軍に逃げられてしまった陳宮もまた孔由の激怒を恐れて予州より去ったのである。立て続けに2人の軍師を失ったこと孔由はそれでも強気な姿勢を崩さなかった。自分を差し置いて勝手に軍勢を動かしたことよりも失墜した己の威厳を取り戻すべく玄忠の首を取ってやろうと懸命に探すが、かつて黄巾の乱においてその武勇が知られていた親玄忠の者たちが挙兵し、孔由軍やその支配地域を片っ端から攻めたのである。これにより安定していた予州は再び、戦乱の真っ只中に放り出されることになるのである。孔由はこの戦乱の中でその姿を完全に消してしまったという…。

 交州、その地は大陸の南方に位置しており「越」という異民族が大半を占めていた。それでも漢民族が支配権を持つことによって前漢・後漢を通じてその威厳を保つことができた。しかし、それも北方で起きている戦乱の影響によって維持しにくくなってきていた。
 交州の東方にある南海郡という広大な土地がある。その南海郡の東方に増城という呉に通じる街道を抑える要衝があった。その地を治めていたのが公伯錦であった。伯錦は交州で唯一、朝廷より将軍位を得ている名将であったが北方で黄巾の乱が起きると同時に治めていた領地を交州刺史・士燮に奪われてしまった。それ以後、伯錦は東方にある増城に追われてしまったのだがここで漢民族を刺激する事件を起こしてしまった。それは伯錦が交州の有力民族である越の昭王と結んでしまったのである。ただ結ぶだけならよかったが伯錦は昭王の妹を妻に迎えたのである。強制的にせよ主従関係にあった士燮はすぐに婚姻を解消するよう命じたが伯錦はそれに応じなかった。そのため、士燮はすぐさま軍勢を差し向けた。これに対し、今まで漢民族に強いられてきた越民族は一斉に蜂起し、伯錦に味方したのである。これにより士燮は見事に敗れ去った。そこで士燮は荊州の劉表に援軍を求めた。劉表は援軍に応じるかわりに見返りを求めたのである。素直に見かえりを渡しては今後に影響を及ぼすと判断した士燮は援軍としてやってきた劉表軍総大将である呉巨に蒼梧郡の太守に任じた。呉巨はこれを機に劉表から離れ独立してしまったのである。その上で士燮と結び、劉表に対する強化と交州安定に向けて伯錦に対する討伐軍を差し向けたのである。呉巨は越民族が脅威と感じると一つずつ村落を徹底的に潰しながら行軍したのである。こうなると結束を固めていた越軍は不利な立場に追い込まれ、伯錦にとってもこのままでは共倒れしかねない状況に追いこまれたのだった。
 玄忠が帰って来たのはそんな状態のときだった。揚州との国境近くを通りすぎたときだった。玄忠と共に同行してきた管越が声をあげた。
「殿、村が燃えておりまする」
そこに見えるのは軍勢に襲われている越民族の村落だった。
「管越、急ぐぞ」
そう言い放つと駿馬に鞭を打った。駿馬は勢い良く村落に向かって走り出したのである。玄忠は背中に弓矢を持っていた。少し高い丘から一人の兵長らしき人物の頭に矢を放ったのである。矢は見事に兵長の頭を貫いた。何が起きたかわからない軍勢は混乱した。それを落ち着かせようとする武官に向けて第二矢を放った。矢は見事に武官の喉を貫いた。喉を貫かれた武官は落馬してしまったのである。そこに管越が槍を奮って敵軍を真っ二つに割って入ったのである。それを見届けた村長は村民たちに反撃を命じ、見事撃退したのである。
 玄忠はゆっくりと村長に近づいた。
「大丈夫でござろうか?」
「わしは大事ない。助けて頂き感謝致しまする」
「いや、構わん」
「名を聞かせてもらえぬだろうか?」
村長は玄忠の顔を見た。
「増城の県令をしておる公伯錦の一子・玄忠にござる」
その名を聞いた村長は驚愕し一礼した。
「このような場所で昭王様の孫君にお会いできるとは!?」
「ほう、祖父を知っておられるのか?」
「それは無論にございまする。我らが今あるのは昭王様があってのこと」
「ならば漢民族ごときに屈するではない」
漢と越の血を持った男がそう言い放ったとき、村のあちこちで歓声があがったのは言うまでもない…。

 敗北を知った呉巨は激怒した。早速、二万もの軍勢を増城に向けて発したのである。これにより交州の戦いはさらに激化することになるのであった。そして、玄忠の戦いもまだまだ終わることはなかったのである…。


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