第一章 黄巾の乱
一世紀後半から四百年に渡って大陸を支配してきた漢王朝は衰退の道を歩んでいた。帝位にある霊帝は周りを囲む宦官らに翻弄され、忠臣は国より去った。これにより政治は乱れに乱れ、民は蜂起し、ある組織を結成した。それが「黄巾党」である。黄巾党は漢の全域に広がり、それに従う民たちは全員、頭に黄色の布を結って世のために戦った。
黄巾党は張角、張宝、張梁の三兄弟を筆頭に程遠志、何儀らの頭目たちがこれを支えていた。これに対し、宦官は各地を治める州牧や太守に鎮圧をするよう命じたが戦いは一進一退で勝敗は決することがなかった。
そんな状況の中、激戦地の予州西部ではなく東部はまだ平穏だった。派遣された官軍は徐州の陶謙ぐらいだった。憔(しょう)郡にある虹県という小さな城があった。城はすでに廃墟と化し、街を守っていた城壁は徹底的に破壊し尽くされていた。ここで黄巾党と官軍の戦いがあったらしい。この城を治めていた県令はすでに逃げ出していた。民もすでにこの地を去り、無人の城がポツンと置かれているだけになっていた。
「ここもか…」
馬に乗りながら一人の青年がやって来た。まだ何とか原形を保っていた城門を潜った。その直後、槍や剣を持った兵士に囲まれた。
「ここを通りたくば有り金を置いていってもらおう」
頭に黄色の布を結っていた。
「嫌だと言ったら?」
「そのときは命を取るまでのこと」
「ふん、墜ちたものだな。太平道とやらも…」
「出すのか出さないのかどっちだ?」
「嫌だね」
「だったら死ねぇ!」
兵士の一人が槍を突きだした。男は馬の腹を蹴って囲みを突破した。驚いた兵たちは後ろを追いかけてくるが馬と人の足では勝てそうになかった。
街の中は完全な廃墟だった。家は破壊され、原形を保っていた家も中は略奪され何も残っていなかった。政庁と思われる建物に近づいた。丁度、城の中心にある建物である。何人もの兵士が政庁を守っていた。
「何者かっ!」
槍を突きだして男を止めた。
「ここが周愛殿が住まう場所か?」
「如何にもそうだが」
「我は公玄忠と申す者、周愛殿の願いを聞き入れ参上致した」
「願いだと!?」
「如何にも、お取り次ぎを願いたい」
「しばし待たれよ」
一人の兵が政庁の中へ走っていく。丁度、そのとき、後ろの通りから無数の兵が走っていた。血相をかえている。
「探せ!、探し出すんだっ!」
叫びながら走っている。玄忠は門のそばに立っている兵に、
「何かあったみたいだな」
「ええ、そのようです」
「聞いてみたほうがいいんじゃないのか?」
「え、ええ、しかし、私はここを護る役目があります」
「役目も大事だと思うがもし何者かが攻めてきたらどうするんです?。それこそ、役目の大事じゃないのですか?」
「攻める?、誰が攻めてくるんです?」
「この地は徐州に接しています。さすれば誰かということはわかるでしょう?」
「と、陶謙かっ!?」
兵は血相をかえて政庁内に走っていった。
「いけないなぁ、これぐらいの虚言で騙されるようでは」
玄忠はゆっくりとその場から姿を消した。
政庁の中には政務の間がある。本来なら県令がその座にいなければならないところだが県令はすでにいない。かわりに座っているのが張梁配下の周愛だった。周愛は元は朝廷に仕えていたが宦官に対する賄賂を拒絶したためにその地位を追われてしまったのである。
「おう、やっと来たか」
「では、棟梁のお知り合いで?」
「ああ、昔からのな」
そこに兵士が走ってきた。
「何事か?」
「申し上げます、城中で兵たちが騒いでおります」
「敵襲か?」
「いえ、わかりませぬ」
「すぐに確認致せ」
「その必要はない」
周愛と兵二人は入り口のほうを見た。
「あっ!、お前、待っていろと言ったのに…」
「馬鹿者、客人に失礼だろうが」
どうやら、先に来ていた者は伍長級の者らしい。
「えっ?」
進言していた兵がきょとんとしている。
「久しぶりだな」
「おお、玄忠ではないか。父君は元気にしておられるか?」
「元気過ぎるぐらいだ」
玄忠は苦笑した。
「あはははは、その分じゃまだ郷里に帰らなくてもいいな」
「どういう意味だ?」
「お前に頼みがあってな」
「だから、こうして来てやったのではないか」
「実はな、お前にここの主になってもらいたいのだ」
「なにぃ!?、お主、本気で言っているのか?」
玄忠は突然の申し出に驚いた。
「無論」
「一体、どういうことなんだ?」
「何も聞かずに承知してくれんかね?」
「そいつは無理な話だ。それに配下の者たちが納得するかどうか…」
「そのことなら心配いらぬ。私が何とか致そう」
もう周愛の頭の中では玄忠が主となっていた。しかし、玄忠から見ればはた迷惑な話である。
「今すぐに代われば配下の者たちの中で必ずやもめ事が起きる。今はそんな時期ではない、それよりもお前、ここを何とかしなければ攻められたらあっという間に敗れるぞ」
「うむ、それはお前の専門だから呼んだんだ」
「専門でもないがな」
玄忠は苦笑した。周愛と一緒にいる兵たちの様子を見ると全員平然としていた。この分だと玄忠が黄巾党の仲間入りするのは時間の問題だと思われた。
「で、やってくれんかね?」
周愛はどうしても引き受けて欲しいようだ。何かあると睨んだ玄忠は快く引き受けることにした。こうして、一介の放浪者が突然、黄巾党の棟梁になってしまったのである。
その頃、予州の隣に勢力を持つ徐州の陶謙は文武官を集めて黄巾党対策を練っていた。徐州きっての豪族である陳珪が進み出る。
「殿、徐州領内における黄巾党の大半は鎮圧できましたがまだ国境と接している予州の虹県には黄巾党が残っておりまする。これを早々に討伐することが我らの役目と存じますが」
「うむ、曹豹」
「はっ」
曹豹が前に出て一礼する。曹豹は武官の中でも陶謙に対する忠誠が強かった。
「五千の兵を率いて討伐してまいれ」
「ははっ!」
曹豹はゆっくりと政務の間より去った。
主となってしまった玄忠は副頭目に周愛を置き、県尉(治安隊長)に周観を選んだ。周観は周愛の従弟に当たり、元は汝南のある県を治めていたが朝廷への賄賂を拒絶したため官を捨て野に下っていたのだ。もちろん、玄忠とも面識があった。
「周愛、すぐに木を集めよ」
「木?、柵でも作るのか?」
「そうだ、城壁は役割を果たしておらぬ。そこで柵で応急処置をする。急げ」
「おう」
周愛は走って政庁から出て行った。
「次に周観」
「おう、なんなりと」
「お主には敵が攻めてきたときに備えて城門の内側に堀を作れ」
「内側に?」
「そうだ、柵を乗り越えられたときに備えるのだ」
「承知した」
周観も周愛と同じように政庁から走って行った。しかし、それだけでは到底防ぐことは不可能だった。それ故、玄忠は別のことを考えていた。それは『火計』である。火計を使って敵を倒そうと言うのだ。それにはまずは味方を騙さなくてはいけなかった。周愛の配下の者を信じなくてはいけないがこの中に内通者がいると確信していた。
「圓範」
「はっ」
圓範は周愛に命じられて玄忠を警護している若者である。
「頼みがある」
「何でございりましょうか」
「この城に火薬は残っているか?」
「それは無論のことにございます。政庁に置かれています」
「それを四つの門に仕掛けよ」
「仕掛けるのでございますか?」
「うむ、このままでは大軍は防げぬ。そこで一計を案じた。お前に協力してもらいたい」
「はっ、承知致しました」
「ただし、誰にも気づかれてはならぬ」
「えっ?」
「味方に内通者がおる」
「それは真にござりますか?」
「うむ、圓範、お前に聞くがもし目の前に金があったらどうする?」
「もらいます」
「まあ、それが普通よなぁ。では、それには持ち主がおればどうする?」
「さわりません。さわらずに帰ります」
圓範はきっぱりと言った。玄忠は圓範が義に厚い男だと感じていた。
「しかし、中にはそれができぬ者が多くいる。つまり、金を受け取るかわりに敵に内通するというものだ」
「まことにおるのでございましょうや?」
「おる、私の目から見れば周観あたりが怪しい」
「しゅ、周観様が?」
「うむ、今まで敵に攻められた際、周観はどこにいた?」
「えっ?」
圓範は黄巾党に加わってから日が浅いようだが何回か戦に遭遇していた。
「そういえば幾度か姿が見えなくなったことがございます」
「そのとき、おそらく敗走したであろう?」
「ええ、しました。勝ち戦はいつも周愛様が単独で攻められたときだけです」
「なるほど、今、我が軍はどれほどの兵がいる?」
「約五百人ほどです。最初は二千ばかりいましたが…」
「討ち死したのか?」
「いいえ、援軍に向かったのです」
「頴川(えいせん)にか?」
「そのとおりにございます」
予州東部にある頴川は要衝中の要衝である。後に曹操が許昌に都を築くがその許昌があるのも頴川なのである。そして、漢の都・洛陽とは目と鼻の先であった。
「圓範、火薬を仕掛け終わったら四つの門を護る隊長を呼べ」
「はっ」
圓範は走って政務の間を去った。
曹豹軍は翌朝、徐州城を出発した。そして、一日もかからぬうちに支城の下丕城に入った。この城は四方を堀に囲まれた堅城でもある。ここを守っているのは文官の孫乾であった。
「おお、曹豹殿、お疲れにござる」
「此度、殿より五千の兵を預かり黄巾党討伐に参りました」
「うむ、聞いております。敵の情報を得ておられまするか?」
「いや、まだでござる。それ故、ここで待っているのでございます」
「待っているとな?」
「こういうときに備えて敵に内通する者を作っておきました故」
「ほう、さすがは曹豹殿、手の打ちようが早いこと」
「さすればしばし時間の猶予を」
「それは構わぬ」
孫乾はゆるりとするよう曹豹をいたわった。
早朝、玄忠の許に報せが飛び込んできた。
「申し上げます、陶謙軍五千、昨日徐州を出立致しました」
「やはり来たか」
政務の間には圓範だけしかいない。
「今はどこにおる?」
「はっ、下丕にて駐留しておる模様」
「うむ、あいわかった。引き続き、見張れ」
「はっ」
報せにやってきた兵はまた元の道を走っていく。
「圓範、周愛を呼んできてくれ」
「承知致しました」
圓範も走っていく。
しばらくして周愛が圓範を伴ってやって来た。
「敵が来るそうだな」
「ああ、兵力は五千だ。すでに手は打ってあるがお前は知っていたのであろう?」
「何をだ?」
「味方に内通者がいることに」
「ああ、知っていたが誰が内通しているのかはわからなかった」
「ほう、お主の身近な人物がそうだ」
「身近な…って、まさか…」
周愛は誰かすぐにわかった。
「そう、そのまさかだ。ただし、まだ斬るなよ、泳がせる」
玄忠はニヤッとした表情をした。
「ほう、守りを固めていると申すか?」
「はっ」
内通者からの使いが曹豹の許にやってきていた。
「壊れた壁と壁の間に柵を築き、その内側に堀を築いています」
「うむ、兵は五百と申したな?」
「はっ」
「よしっ!、全軍に号令をかけいっ!」
曹豹は勝利を確信して座を辞した。このとき、側にいた孫乾は嫌な予感を感じていたのである。
虹県の柵と空堀が完成したとき、城門の上にある櫓で見張りに立っていた兵が声をあげた。
「敵襲、敵襲!」
「来たか…」
南の門を指揮していた隊長の文宣なる男が呟いた。
「よしっ、すぐに配置につけぃ」
そこへ周観がやってきた。
「兵が少なくないか?」
「ええ、他の部署の応援に行っているんですよ」
「ならばすぐに呼び寄せい。このままでは攻め落とされるぞ」
「承知」
文宣は走って行った。それを見た周観は部下に命じて櫓にいた兵を殺したのである。
「よし、門を開け」
こうして敵を簡単に導いてしまったのである。白旗を確認した曹豹はゆっくりと虹県へ突撃を命じた。5000の兵は怒号をあげながら城に向かって走って来たのである…。
駆ける足音が聞こえた。馬に乗った男が二人待っていた。
「殿、敵は城に入った模様です」
「そうか、して、周観は?」
「曹豹に召し抱えられました」
「ふん、やはりな」
「さて、本当にうまく行くのか?」
横にいる周愛が言う。
「ああ、あと一刻もしないうちに攻撃を仕掛ける」
玄忠は遠くのほうから暗雲が流れてくるのを崖の上から見ていたのである。
その夜、城の周りはかなりの強風が吹いていた。政庁から外を眺めていた曹豹は、
「今日は嵐になりそうだな。火の元には気をつけよ。それで他に何かあったか?」
「いえ、特にありません」
「それにしてもおかしなものよのぉ」
曹豹が側近に言った。
「何がでございます」
「周観が内応したときには誰も姿を現さなかったのだから」
「ええ、本来なら誰か残っているものですが…」
「うむ、本当に不思議なことがあるものだ。それで見つけることはできたか?」
「いいえ、残念ながら。やはり、この夜では難しいかと」
「うむ…」
曹豹はゆっくりと座主に戻ろうとしたとき大きな爆発音が聞こえた。
「何事かっ!」
あわてて兵士が走ってくる。
「申し上げます、四つの門が炎上しております」
「何だと!?」
「それに風に煽られて火の粉が家・屋敷にも飛び散り、街の中が火の海にございまする」
「ぬぬぬ」
曹豹はうなった。
「誰もいなかったのはこのためか…、すぐに門を開き脱出せよ」
「それができませぬ」
「なぜだ?」
「敵に囲まれております」
「なっ!?」
曹豹は驚きの表情になった。政庁から見えるのは闇ではなく炎だったのである。
四方の門が炎上する前、玄忠は同じ予州に勢力を持っている劉辟と襲都に援軍を要請していたのである。両名はすぐに二千の兵で駆けつけて来たが周愛が頭目の地位を捨てたことに驚いた様子だった。しかし、城壁の上に陶謙の旗印を確認すると気を引き締めていた。
「まあ良いわ、お主が決めたことだ。我らは何も申さぬ。公玄忠とやらのお手並みを拝見するとしようか」
劉辟の言葉に襲都が頷いた。三人は一緒に玄忠の陣屋に入ってきた。
「殿、劉辟殿と襲都殿をお連れしました」
「おおお、よくぞ来られました。公玄忠と申します。この戦、お二人の力が必要故、来られなかったらどうしようかと思っていたところでござる」
「ほう、御身が公玄忠殿か、周愛より話は聞いておる。宴は戦を終わってからに致そう」
誰も宴と申していないのに劉辟は先手を打ったかのように自信ありげに言った。
「ははは、そうでございますな。では、早速、策を申します」
ここから虹県の戦いが始まるのである。
玄忠は劉辟のほうを向き、
「まず、劉辟殿」
「おう」
「一千の自軍を率いて東門の外に展開し、城門が炎上するのと同時に柵を乗り越えようとする者が現れると思われるのでこれを弓にて倒して頂きたい」
「門のほうは大丈夫なのか?」
「ご安心を、火薬にて完全に崩壊するよう仕掛けております」
「承知した」
劉辟が出ていく。次に襲都を見た。
「次に襲都殿」
「おう」
「同じく一千の兵を率いて南門の外に展開し、劉辟殿と同じように敵を倒してください」
「承知」
襲都も頷き、出ていった。
「さて周愛」
「うむ」
「全軍を率いて北門に展開せよ」
「おう」
「その上で行く手に油を撒き、火を放て」
「逃げ道を塞ぐのか?」
「いや、四方を防ぐことはいらぬ。無闇に人を殺すことは祖(張角)が許さぬであろう」
「わかった。で、西はどうする?、もう兵がないぞ」
「西は私が行く」
「大丈夫か?」
「曹豹如き何とかなる」
「ならばこれ以上言わぬが…」
周愛も陣屋を出て行った。
「圓範」
「はっ」
「我らも行くぞ」
「二騎で大丈夫にございまするか?」
「己の力を信じよ」
そう言って玄忠は圓範を伴って陣屋を出たのである。
「合図を」
西門が眺められる平野にいた。圓範が闇夜の天空に向かって火矢を放った。火矢は空高くのぼっていく。その直後、西門が火の手をあげて炎上したのである。
「圓範、猛将ぶりを発揮せよ」
「はっ」
槍をかざして圓範はゆっくりと玄忠の前に出た。二人とも馬にまたがっていた。
ワァァァァァーーーーーーーー!!!
城の内外で声があがった。
「始まったか…」
圓範はこのとき大軍で来られることを危惧していた。仮にも相手は五千である。援軍を得たとしても合わせて二千五百、勝てるはずがないと踏んでいた。それなのに玄忠が平然としていることに対して不安を覚えた。
そのとき、西門脇の柵を越えてくる兵たちを確認した。
「殿、来ましたぞ」
「まだまだ引きつけよ」
西門に来る兵の数が増してきた。逃げ道を見つけたのだ。徐々に逃げてくる敵との差が縮まっていく。
「よしっ!、空に向けて火矢を放て」
圓範は言われるがまま天空に一陣の矢を放った。その瞬間、怒号が湧き起こった。二人の後ろ斜めにある丘から多数の騎兵が出現したのである。
「圓範、かかれっ!」
「おう」
圓範は多数の騎兵と共に敵軍へと攻めかかっていったのであった…。
完全崩壊した虹県の城を眺められる本陣にある人物を迎えていた。本来なら頴川で戦っているはずの人物である。
「将軍、まさかこのような地に来られるとは…」
「うむ、頴川のほうは兄者が指揮を取っておられる」
将軍こと張梁が口を開いた。
「ここにおる周愛とは旧知の仲でな、その周愛が以前より会わせたい男がいると言っていたがお主のことか?」
「はっ」
玄忠は膝をついて敬礼の証を立てている。
「名は何と申す」
「姓は公、名は陽、字は玄忠と申しまする」
「うむ、此度の戦、見事である。さらに周愛より頭目の座をお主に譲ると申し立てがあった。そこでお主を予州憔郡における都督に任ずる」
「と、都督にですか?」
「うむ、対陶謙の司令官として今後の活躍を祈る」
「ははっ、有り難き幸せに存じまする」
こうして成り行きに身を任せていた玄忠は頭目を通り越して都督にまでなってしまったのである。
翌朝、頴川にいる張角から使者がやってきた。戦況が悪いらしい。張梁はただちに兵をまとめると、
「玄忠、お前には三千の兵を預けておく。存分に暴れるがよい」
そう言うと張梁は本陣の陣屋を出て行った。劉辟、襲都も続く。
「都督とはすごい地位まで来たものだ…」
一番驚いていたのは玄忠ではなく周愛だった。
「ああ、本当にこれで良いものか…」
「お前は運に恵まれている。これからは都督として我らの上に立ってくれ」
「ああ、承知した」
玄忠は廃墟となった虹県を見回った後、圓範に拠点となるような場所を探すように命じた。
「敵に攻められにくく守りやすいほうがいい。そして、水が豊富な場所を探せ」
「はっ」
「冬までに頼むぞ。あの城はもはや使い物にならぬ」
「承知」
圓範は馬にまたがると陣から颯爽と走り去って行った。
「そんな都合の良い場所があるのか?」
「ああ、ここに来る前に見つけたんだが場所を忘れてしまってな。それで圓範に確認させに行かせたんだ。直に帰ってくるであろう」
本当にすぐに帰ってきた。わずか三日である。聞くと場所はここより北西にある竹邑(ちくゆう)県の側にある谷だという。玄忠は三千の兵を三軍にわけて谷に向かわせた。その谷は三つの川が交わる丘陵にあった。天然の要害である。幾多にも洞窟が伸び、いざ中に入ってみると中は結構暖かく広かった。
「これは良い。まさかこれほどとは…」
「これなら冬も越せよう」
「ああ」
玄忠は早速、入り口となる丘陵の麓に土塁、そしてその上に柵を築かせた後、川より水を引いて堀とした。内側には物見櫓を建てて敵に警戒できる態勢を整えると洞窟の中を整備した。冬はもうすぐ違う形でやって来るのである…。
黄巾党と官軍の戦いは一進一退だった。二人の男が現れるまでは。一人の男は二人の巨人を従えていた。名は劉備、中山靖王・劉勝の末裔だという。持っている剣は正しく漢王朝に伝わっていた宝剣の1つだった。従っている巨人の名は関羽、張飛という。黄巾党の雄・程遠志とケ茂を一撃で討ち果たしたという。さらに青州では五万の大軍を相手に戦況を優勢に進め、頴川で官軍を率いていた廬植の下で張角の弟・張宝を討ったという。
もう一人の男は曹操という。宦官の父を持ちながら北都尉として朝廷の取り締まりを徹底的に行い、勢力を広げていた宦官を恐れさせたという。その功で騎都尉に昇格し、軍勢を率いて黄巾党討伐軍に参加したのである。
劉備は敵軍が雑草の伸びた草原に陣を張っているのを確認するや火計をもってこれを攻略し、曹操は「黒き騎士」を率いて皇甫嵩の参謀として張梁軍を攻勢していた。そんな頴川に衝撃が走った。張角の死である。これが双方に報されると官軍は総攻撃をかけた。祖を失った黄巾党は烏合の衆と化し、今までの緊迫した戦況が嘘のように消えていくのである。前線を指揮していた張梁は追い込まれつつある状況になっていったのである…。
張角死す、この報せは玄忠の許にも届けられた。周愛を始めとする頭目たちに動揺が広がった。しかし、唯一、玄忠だけは冷静を保っていた。
「周愛、これからが正念場ぞ。動揺している暇はない」
「何を申す?、祖が死んだのだぞ」
「わかっておるから言っておるのだ」
「何をだ?」
「官軍に機会を与えてしまったことにだ」
その瞬間、周愛の表情から動揺が消えた。
「まさか…」
「そのまさかだ。連中は総攻撃をかけるであろう。そうなると訓練を積んでいる官軍には勝ち目がない」
「で、では…、殿は…」
殿とは張梁のことを言っているのだ。
「窮地に追い込まれるであろう」
玄忠の決断は早かった。すぐに兵をまとめると頴川へと出発したのである。
「周愛、お前はここに残り、陶謙の動きを見張れ」
「いや、我も向かおう」
「ならぬ、これは都督としての我の命ぞ。それにまだ憎き男も討たねばならないのだろう?」
「憎き男…」
周観のことである。
「良いか、お前はここに残り、もし私が帰らぬときはお前が棟梁となりて皆をまとめよ。良いな」
「…承知した」
玄忠は圓範を伴って三千の軍勢を率いて出陣した。
戦況は至って最悪だった。黄巾党の大半は討ち取られるか、捕らえられるか、四散してしまい、張角の跡を継いだ張梁に残された選択はほとんどなかった。
「将軍、宛城に逃れませい」
側近の趙忠が言った。しかし、その声は張梁の耳には届いていなかった。
「将軍!」
「ええい、うるさい、もはや終わったことなのだ」
そう言い返したのである。その言葉を聞いた趙忠は生き残るために一軍を率いて荊州北部にある宛城に移った。残された張梁は死ぬか生きるかの道だけしか残されていないことに気づいた。そして、意を決したとき張梁の耳に聞き覚えのある声が響いた。
「殿、まだ戦は終わっておらぬ。弱気になられるのはまだ早い」
その声に張梁は我に返った。見上げると馬上にあった玄忠がそこにいたのである。
「都督、公玄忠、三千の軍勢を率いて推参」
「おおお、玄忠ではないか」
「さあ、ここはもう落ちまする。再起を図るためまずは我が陣へ」
しかし、張梁が発した言葉は驚くべきものだった。
「いや、我はここに残る」
「何故にございますか?」
「ここには兄者が眠っておる。兄者のためにも最後まで戦う所存じゃ」
玄忠はこの言葉に共感した。
「殿…」
「行くがいい、行って新たな太平の道を作ってくれ」
「承知致しました」
玄忠は馬をひるがえした。その玄忠は涙で濡れていたという…。
張梁は降伏した。そして、降伏した翌日に自害して果てたという。また宛城に逃れていた趙忠らも朱儁、劉備ら率いる官軍の攻撃にあい、その命を落とした。黄巾党を率いた張兄弟は漢王朝の衰退という道を作ったものの、目指した太平の道は夢として終わってしまったのである…。
一方、玄忠は血路を開いて半数近い兵を失ったものの辛くも突破し、拠点である谷に到着していた。追ってくる官軍の姿はどこにもなかった。玄忠は圓範を始めとする兵たちを休めるよう促し、自分は洞窟内にある陣屋に入った。玄忠は多くの返り血を浴びていた。その姿を見て驚くかと思いきや、周愛もまた血塗れになっていた。別に命を落としたわけではなかった。ここでも戦があったのである。
「おう、帰ってきたか」
「どうした?、何があったんだ?」
「陶謙軍が攻めてきたんだ」
「なに!?」
驚きの声をあげる。
「官軍に呼応してのことだな?」
「ああ、その通りだ。率いてきたのは誰だと思う?」
「曹豹か?」
「いや、周観だ」
「それはまことか!?」
「ああ、あれを見よ」
周愛は顎で示した。そこにあったのは討ち取られた周観の首だったのである。
「やっと討ち果たせた」
「ああ、よくぞやった」
「それでそっちはどうだった?」
「殿は降伏なされた。行ったときには覚悟を決めていたようだ」
「止められなかったのか?」
「ああ、すまぬ…」
玄忠は周愛に詫びた。このとき、まだ張梁の死は報されていなかった。
「これで終わったな」
「いや、これからだ」
「これから?」
「ああ、これからもっと世は荒れるだろう。そのときこそ、祖が広めようとしていた太平の道が認められるときだろう」
玄忠は太平道がどんなものか知らなかった。知らなかったが周愛を説得するためについた嘘である。
「うむ、そうだな。これからもよろしく頼むぞ」
周愛は玄忠の肩を叩いたのである。
黄巾の乱は終わった。しかし、戦乱はますます厳しいものになった。まず、大将軍の地位にあった何進が宦官の手によって殺害されるとこれに怒った渤海太守の袁紹、曹操らが総攻撃をかけて宦官の大半を殺害してしまったのである。
さらに騒ぎはこれで収まらなかった。何進が死ぬ前に威厳を発揮しようと各地の武将たちを呼んだ。その中の一人、西の辺境を治める涼州刺史の董卓が大軍を率いて乗り込んできたのだ。そのため、恐れをなした多くの武将たちが洛陽から去る中、一大事件が勃発した。
それは霊帝の跡を受けて皇帝の地位についた少帝と母で何進の妹である皇后を殺害し、かわりに少帝の弟である陳留王劉協を帝位につかせたのである。これにより董卓は権力を牛耳ってしまった。
それに対抗したのが丁原である。丁原は養子の呂布に董卓の陣を襲わせたのである。多くの兵を失った董卓は一計を案じ、赤兎馬を餌に呂布を登用し、丁原を討たせてしまった。これ以後、董卓に逆らう者はほとんどいなく、最後の抵抗者であった曹操も暗殺に失敗し、郷里である陳留へと引き上げてしまった。これにより董卓の横暴が激化していくのである…。
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