無常の剣
空が赤い、真っ赤に染まっていた。
それは夕焼けではない、炎だ。何もかもを焼き尽くす熱き炎の姿だ。燃やしているのは空だけではない。その下にある森も燃やし続けていた。
「くっ…」
1人の女が体を引きずりながら外に出てきた。女が出てきた屋敷も炎上していた。女の右眼は大量の血を流しながら…、いや、眼だけではない。腕も足もかなりの血を流していた。
「や、柳生め…」
声にならない掠れた声で女は呟いた。その呟きを聞くかのように無数の気配が女を囲んだ。
「ほう、まだ生き残っていたか…」
忍び装束に身を包んだ男が言った。
「お、おのれ…」
「憎いか?、ならば憎むが良い。そして、己の定められた運命も恨むがいい。天蓋の者よ」
「こ、殺せ…」
「それを望むなら死するがいい」
そう言って刀を抜くと苦しみもないまま、女の心の臓へと刀は吸い込まれたのである。
四国、土佐国東部にある小さな漁村に柳生新十郎利勝はいた。べつに用事があるわけでもなくただただ逗留しているだけののんびりと体を休めていたところにまたもや事件に巻き込まれるなど利勝にとっては思いにもよらぬことだった。
海が広がる白い砂浜を若い女性が走っていた。誰かから逃げているのだ。数人の浪人たちが女性を追いかけていた。どのみち追いつかれるのは時間の問題だろう。その浪人の後ろに目をやると土佐藩の藩士らしい侍もいた。浪人たちはあの侍に雇われているのだろう。
「きゃあ!」
女性が砂に足を取られて転ぶ。そこに浪人たちが追いついた。
「二階堂様にケガを負わせるとはとんでもない女だな」
1人の浪人が言う。
「ち、違います!。私はただ…」
「黙れ!、問答無用じゃ!」
その浪人は刀を抜いた。刃が女性の喉元に近づける。
「おい、女性相手に刀とは物騒ではござらんか」
利勝は見るに見かねて女性を助けることにした。
「何者か!?」
「ただの浪人にて」
「ならば下がっておれ。お主には関係のないこと」
「下がるのはそちらでござろう」
「何だと!?」
「お主らの雇い主はあそこにいる武家の者と見た。違うか?」
「そうだと言えば如何する?、土下座では済まされぬぞ」
「そのようなことする気もなし」
「ならば死ねぇ!」
浪人が刀を振り上げて利勝に斬りかかった。しかし、初太刀をかわすと腹に蹴りを入れた。
「そのような腕では我は殺れぬぞ」
「むむむ…」
勢いで後方に飛ばされた浪人は唸った。引き下がるつもりはないらしい。
「どけ、俺がやろう」
浪人の1人が利勝の前へ出て柄に手をかける。
「引き下がれない訳でもあるのか?」
「それもあるが敵である御身に語るつもりはない」
その浪人は片目を失っていた。できるっ!と悟ったとき初太刀が放たれていた。利勝は後方に下がって刀を抜いた。無形の位である。柳生新陰流における極意中の極意、見た目は自然体でも一太刀浴びせればそれは全て己に返ってくる死の結界である。
「柳生新陰流か!」
「初見で申し訳ないが刀を抜けばそれは我が敵、逃げることもかなわぬ」
「名を聞こう」
「村上新十郎利勝。御身は?」
利勝はあえて村上姓を名乗った。村上姓は養父・村上義勝の家である。幼い頃に養子にやられたのだ。
「雲西兵左衛門」
「参る!」
「おう!」
2人の殺気が周りを取り巻いた。浪人たちは体を震わせて2人の異様な姿を恐れた。そこに先ほどの侍が近づいてきた。
「何をしておるか!」
威厳たっぷりに言い放った。
「に、二階堂様…」
最初に利勝を斬ろうとした男が二階堂を見た。
「早く、その女を連れて参れ!。その女は藩の書物を盗んだのだ」
二階堂の突然の邪魔に2人の殺気は消えうせた。
「ちっ、とんだ邪魔が入った」
「そのようだな」
「雲西、そいつを早く殺らないか!?」
「やめだ、やる気が失せた」
そう言うと雲西はその場から去った。
「変わった奴もいるものだな。さて、二階堂とか申したな、女性1人にこのような振る舞い許される行為ではないな」
「黙れ!」
二階堂は刀を抜いた。
「やめておけ、藩の名に傷がつくぞ」
利勝は退くように促した。二階堂は先ほどの殺気を知らない。知っている浪人はすでにこの場から消えている。
「二階堂とか申したな?。何ゆえ、執拗に追いかける?」
「藩のため」
「土佐藩のためか…」
利勝は何かを思い出したかのような表情になった。
「長宗我部一族か?」
「如何にも」
「ならばこの娘は…」
「盛親の娘だ」
二階堂は女を見ながら言った。
「なるほど…、盛親の娘を人質にとって土佐にいる国人衆を封じ込めようという策か」
「それ以上語る必要はない」
「ならば土佐を潰したいらしいな」
「何だと?」
「公儀が黙っているとでも思っているのか?」
「公儀が?」
「藩主山内一豊殿は外様だ。公儀が一番潰したがっているのは外様大名だ。そのために周りには譜代大名を配し、攻める準備を整えているのだから。今は退け、そして、藩主に伝えよ。この娘は柳生の者が預かると」
二階堂は冷静さを取り戻したかのように刀を納めた。
「よかろう、御身を信じよう。確かに殿に申し上げる」
そう言ってその場から去った。
「さて…」
と、振り返ったら女性の姿はどこにもなかった。
「気配をまったく感じさせないとは…」
利勝は長宗我部の娘と称する女性に感服せざる得なかった。
利勝が漁村に戻ると中年の女が出てきた。利勝が逗留する民家の持ち主だった。
「あれまぁ、すごいねぇ」
「いえいえ」
「娘さんどこかに行ってしまうしねぇ」
「どこに行ったかわかりますか?」
「砂浜をまっすぐ走って行ったよ」
「まっすぐ行くとどこに出ますか?」
「お城があった場所に出ます」
「お城?」
「ええ、前のお殿様が最後の抵抗をするとかで築いたんですがその前に戦が終わってしまったんです」
「それで廃城になったわけか…」
「いいえ、山内のお殿様の配下の方々がいるらしいですよ」
「ほう」
利勝は砂浜を見ながら女性のことを思っていた。
高知城、土佐藩の中枢を担う重要拠点である。藩主は山内一豊、20万余石を領する外様大名で旧国主・長宗我部一族やそれに仕えていた国人衆の抵抗に手を焼いていた。しかも、山内家に忠誠を誓っているのは高知を除けば本山、安芸などの小領主に過ぎなかった。鉄砲頭の任にあった本山辰豊は配下である二階堂晴義から事情を聞いていた。
「ほう、柳生とな…」
辰豊の表情にわずかに焦りの色が見えた。柳生但馬守は将軍・秀忠の側近だからだ。
「このことは殿には申し上げるな」
「はっ」
「で、奴らはどこに向かった?」
「鬼岩谷城にござりまする」
「鬼岩谷か…」
土佐と阿波の国境にある廃城だ。廃城とはいえ曲輪は残っている。しかも、この城は天然の要塞で地形はかなり入り組んでいる。戦いになれば双方に死傷者が出るであろう。
「如何なされますか?」
「わしに考えがある。しばし待て」
「はっ」
二階堂は部屋から出た。辰豊は悩んだ。
「柳生が絡んできたか…、公儀の可能性もあるということか…」
国内の紛争が公儀に知れれば御家断絶の危機もあった。そこに、
「申し上げます」
「何事か?」
「殿がお見えになられました」
「なっ!?」
障子が開かれ、主君・山内一豊が姿を見せた。辰豊はあわてて頭を下げる。
「よい、辰豊」
「はっ…」
上座に座る。
「辰豊、最近、お主の周りが騒がしいようだが何かあったのか?」
「はっ、長宗我部の残党どもが鬼岩谷に入ったとのこと」
「うむ、それはすでに肥前から聞いている」
「肥前守様から?」
「そうだ」
辰豊は唖然とした。内密にしようとしていたことも悉く一豊にはバレていたのである。しかも、敵対関係にある松山肥前守景義に知られる存在になっていたとは思いもよらなかった。
(殺す…)
辰豊の憎しみは長宗我部よりも松山肥前守に向けられた。殺意も含めて…。
「すでに仏殿には兵を配している故、直に捕まるであろうが公儀の者がこの地に入ったと聞く。心当たりはないか?」
「公儀が…」
そのとき辰豊は二階堂が話していた砂浜であった武士のことを思い出したが何も言わなかった。
「わかりかねます」
「そうか…」
一豊はそう呟くと中庭を見た。大きな池が見えている。草木は丁寧に整備されてきちんと整えられている。庭師の仕事によるものだろうか。
「辰豊よ」
「はっ」
「そう固くなるな、お前は何故、長宗我部が憎い?」
「祖父の仇にて」
「祖父と申したか、父の仇ではないのだな」
「同じことにござりまする」
本山一族と長宗我部一族は戦国の世を通じて敵対関係にあったが辰豊の父の代に城は奪われ、一族・郎党は離散した。辰豊のときに復興したが以前のような勢力はなく、ただの一家臣として屈する他なかった。辰豊は国人衆ではいち早く山内一豊に近づいて長宗我部に対する急先鋒となったのだ。今では鉄砲組を統べる棟梁となっている。
「ならば攻めるか?」
「な、なんと!?」
「長宗我部の残党を一掃するかと申したのだ」
「そ、それは無論にござりまする」
辰豊は歓喜に満ち溢れた。一族の仇というより憎悪の奥底に沈んでいた戦うということの喜びをここに得たのだ。
「ならばお主の好きにするがよい」
「ははっ」
辰豊は平伏して部屋を出た。残された一豊は笑った。
「愚かなものよ、所詮、負け犬は負け犬でしかない」
一豊は全ての責任を辰豊に負わせたのだ。勝てればよし、負けたとしても責任は辰豊に腹を切らせば済む。一豊は冷酷な運命を辰豊に背負わせたのだった。
利勝は鬼岩谷に向かうため漁村から海沿いを東向いて歩いた。二階堂との諍いからわずか1日の行動である。利勝は土佐で何かが起きると見ていた。剣に迷いがなくとも人生には必ずや迷いが生じる。それは誰もが同じであると利勝は信じていた。半日、海沿いを歩き、近くの漁村に宿を求めた。
「お侍様、どちらからおいでなすった?」
宿の主人が言う。
「尾張です」
「ほう、尾張とはこれまた遠いところから」
「旅をするのが好きでしてな」
「そうかそうか」
主人はゆっくりと頷いた。利勝は少し気になることがあるので聞いてみることにした。
「この地もまだまだ平穏とはいかぬようだな」
「ええ、ええ、天下分け目の戦以降、ますます荒れてきましたわい。昔のほうが良かった」
「弾圧とかあるのか?」
「ありますとも、特に本山辰豊は…」
「本山と申せば土佐の名家ではないか」
「それも巨君には勝てないのでござりましょう。今では言われるがままですわ」
巨君とは山内一豊のことだ。
「しかし、本山と長宗我部とは長年の敵対関係、そこへもってきて山内という新国主がいる、か…」
「まぁ、日本という国が二分している以上、どこの国も同じにござりましょう」
二分しているとは徳川と豊臣の二大勢力があるということだ。いざとなれば関ヶ原を制した徳川は脆くも崩れ去るであろう。
「ところで鬼岩谷へはどう行けばよろしいかの?」
「鬼岩谷…ですか?」
利勝は主人の表情に緊張が走ったことを見逃さなかった。
「知らぬか?」
「ええ、存じ上げません」
「そうか…、ならやむ得んか…」
利勝は部屋の真ん中でゴロンと横になった。主人が部屋を出ると隣の部屋に続く障子が開いた。まったく気配を感じさせなかった。天井をじっと見つめていた利勝に声が響く。
「鬼岩谷へ行かれますか?」
姿を現したのは男だった。男の声には聞き覚えがあった。その声に顔を向けるとそこにあったのは懐かしい顔だった。
「おう、お主は…」
「ご無沙汰しております」
「忠親殿ではござらんか」
顔を金子藩馬奉行、曾我忠親の姿がそこにあった。
「声が聞こえましたのでもしやと思い来てみました」
「御身も土佐に?」
「里帰りにござります」
利勝は以前、忠親に会ったときに「生まれは別」という言葉を思い出した。
「生まれは土佐であったか」
「はい」
「生まれてすぐに父とは別れました。乳母に連れられて遠州に落ち延びたところを殿に助けられたのでございます」
「ほう、ならば曾我という姓は…」
「殿より頂いた姓にござります」
利勝はわずかに頷いた。忠親を取り巻く何かが見え隠れしているように思えた。それは忠親に関係なく事が進んでいるように感じた。利勝は不意に人の気配が感じなくなったことに気づいた。利勝は刀を手にした。
「忠親殿」
「はい」
「しばし荒れるやもしれぬ」
「ええ、そのようですね」
忠親もいつのまにか刀を手にしていた。
「俺はどうやら公儀と間違われているらしい」
「姓が姓ですからね」
「ああ、但馬の仲間と思われているようだ」
利勝の本名は”柳生”なのだ。そして、但馬とは幕府総目付・柳生但馬守宗矩のことだ。宗矩は裏柳生を使って各地に散らばる諸大名の動きを監視している。利勝はわずかに障子を開いて外の様子を見た。長槍を持った兵が周りを囲んでいる。
「さて、どうする?」
「血路を開くしか方法はないように思いますが…」
「しかし、数が違いすぎる」
中には鉄砲を持った兵もいた。
「戦でもする気ですかね?」
「さあな、向こうの出方を待つか…」
「出方など待っておっては何もできぬぞ!」
声が反対側の廊下から響いた。利勝はその声にも聞き覚えがあった。
「まったく入ってくるときはいつも急な奴ばかりだな」
利勝はそう言って苦笑した。姿を現したのは雲西兵左衛門だった。
「久しいな」
「まったくだ」
雲西が笑うと利勝も笑った。忠親は雲西に会ったことがないので2人の笑顔にきょとんとしていた。
「一体何者なんだ?、お前は…」
「何者だと思う?」
利勝はしばらくの間、雲西を見つめた。そして、苦笑した。
「まさかと思っていたがあなただったとは…さすが裏柳生よ」
「なぜわかった?」
「幼き頃によく見せてもらった尾張柳生直伝の喧嘩殺法だったからな」
「ふふふ、よくぞ我が変装を見破った」
雲西は顎下から皮膚をめくるようにして変装した顔を取り除いた。そこにあったのは鋭い視線を持ち、信念を曲げない心を満たして凛とした態度が印象的の男だった。
「忠親殿、この戦、勝てますぞ」
利勝はニヤッと笑った。
「雲西が入ってからすでに半刻か…」
二階堂晴義は宿屋の主人の密告を受けて30もの兵を派遣したのだ。しばらくして裏手から喚声があがった。
「何事か!?」
その叫びに与力が近寄る。
「申し上げます、裏手にて2人の侍が捕り方に襲いかかりました!」
「ふん、たかが2人で何ができる。お前達も裏手に回れ」
表に出張っていた兵が二階堂の命令で裏手に回った。
「公儀だろうが何だろうが土佐藩は潰させぬ」
「往生際の悪い奴だな」
そう言って利勝が二階堂の前に現れた。
「また会ったな」
「なっ!?、ば、馬鹿な!?、か、かかれ!」
二階堂は側に居た与力に命じて利勝を取り押さえようとしたが簡単に気絶させられてしまった。
「残念だったな、まさかここの主人がお前の仲間だったとは迂闊だったがお前を捕らえておけば万一にときにも対処できよう」
「ふ、ふざけるな!」
「ふざけてなんかいないさ、お前はもはや袋の鼠だということがまだ気づかぬのか」
「何だと!?」
二階堂は初めて気づいた。裏手に向かった兵が全滅していたことに…。2人の侍が二階堂を囲んだ。そのうちの1人が雲西だった。
「き、貴様ぁ…、裏切る気か!?」
「裏切るも何も最初から仲間になった覚えは無い」
「くっ…」
「お前には聞きたいことがある。ここにお前を派遣したのは誰か?」
「答えるとでも思ったのか!?」
「ぜひ聞かせて欲しいな、公儀に捕らえられたお前などもはや土佐藩にとっては捨て犬同然、諦めるが良い」
「………」
二階堂は愕然とした姿を馬上でしたのである。
二階堂が利勝たちに捕らえられた時、一軍が鬼岩谷目掛けて進軍していた。率いるのは本山辰豊だった。率いる兵は3000人でそのうちの500人は鉄砲隊で構成されていた。
「ふふふ、奴らもこれで終わりよ」
要塞と言われた鬼岩谷だが辰豊には勝機があった。道はますます険しくなり、周りも光が入らない森林が目立つようになった。足を踏み外せば崖からまっ逆さまという状態だったがここを越えれば高原に出た。鬼岩平である。唯一広がる高原に辰豊は陣を敷いた。そして、斥候を辺りに散らばせた。鬼岩平から城は視界に入っていた。目の前の山の頂上にそれはそびえていたのだ。廃城になったとはいえ天守は山内一豊の命令でそのままにされていた。そこで辰豊にある疑問が浮かび上がった。
「ここには綱家殿の軍勢が控えていたはずだが…」
ここは百々(さざ)綱家の知行地でもあった。出陣した辰豊に応じて兵を出していたはずなのだが綱家の軍勢はどこにも見当たらなかった。
「まさか、臆して逃げたか………?」
辰豊は子・辰長に問うた。
「綱家はまだ来ぬのか!?」
「はっ、未だ姿を見せてはおりませぬ」
「むむむ…、綱家め…」
実は綱家は主君の命で城から出張っていなかったのだ。一豊の脚本通りに事が進んでいることに辰豊はまだ気づいていなかった。陣を敷く準備に取りかかっていたときに正面から軍勢が見えた。
「申し上げます!」
本陣の前衛を護る鉄砲隊より早馬が来た。
「如何した?」
「正面より軍勢です。長宗我部の残党と思われます!」
「数は?」
「3千程と思われます!」
「相分かった」
「御免!」
鎧を着た兵が陣を出ていく。
「長宗我部など恐れるに足らず!」
そう吐き捨てて陣を後にした。
「しまった!、遅かったか…」
兵庫助は呆然とした。利勝、忠親が後ろに従っている。目の前の平原では長宗我部と山内軍の軍勢が激突していた。
「あれを止めることはもはや不可能…」
「兄上、ただ黙って見ている訳にもいきませぬ。鬼岩谷へ急ぎましょう」
「うむ…」
3人は重い足取りで鬼岩谷に向かった。
鬼岩谷は険しい渓谷に囲まれており、谷を二つに割るかのように急な渓流が流れていた。高いところに架っていた吊り橋を渡ると岩の上に城門らしいものを見つけた。兵はいないようでただ開け放たれているに過ぎなかった。中は入り組んだ造りになっており、所々、突き出た岩がよく目立った。攻めにくく守り易い地形になっており、要害と言われても頷けられる話しだった。さらに奥に行くと本丸があった。本丸には天守台らしい土台があったが何の建物もなかった。しかし、古い屋敷らしいものがそこにあった。
「あそこか…」
そう兵庫助が呟いたときどっと涌き出るかのように兵が3人を囲んだ。皆、鎧に身を包んでいた。
「やはり現れたか…、幕府の犬め!」
屋敷の中から女性が現れた。利勝は砂浜で二階堂に襲われていた女性を思い出した。そして、利勝を煙にまくほどの手練であることにも…。
「女よ、お前とは砂浜で会って以来だな」
「ふん、あのときの侍か!?」
まるで男の口調だった。
「お前こそ幕府の犬ではないのか?」
そう兵庫助が言ったとき女性はわずかだが焦りの表情を見せた。
「やはりな」
周りを囲んでいる兵らには動揺は見られない。仲間なのだろう。
「2つの勢力を激突させて共倒れさせる…。御家断絶をさせるにはもってこいの理由だな」
「おのれ…、何者か!?。我らの邪魔を致すと為にならんぞ!」
「ならば我らと殺ると申すのだな!?」
凄まじい殺気が3人を包んだ。この殺気には周りを囲む兵らに恐怖を与えた。くの一は咄嗟に身構えた。
「来るがいい、己らの愚行が身をもって償うがいい」
殺気は鬼気と化して死の世界へと導き始めたのである…。
ワアアアアアアアアアァァァァァァァァァァァァ―――――――――!!!!!
喚声と悲鳴が一緒になって2つの軍勢が重なり合う。馬上にて指揮していた辰豊は苛立ちを見せた。
「まだ終わらぬのか…」
「父上、戦はまだ始まったばかりにござりまする」
「う、うむ…」
子・辰長に指摘されて辰豊は冷静になるどころかさらに動揺した。嫌な胸騒ぎが辰豊にしていたのだ。
「父上、先ほどから如何なされたのです?」
「嫌な胸騒ぎがするのだ」
「胸騒ぎ?」
「そうだ」
この言葉に辰長は強い衝撃を受けた。なぜなら、辰豊の胸騒ぎはよく当たるからだ。
「父上、まさか…」
「この戦、我らの負けだ」
いきなりの言葉に辰長だけではなく、周りにいる近習たちにも衝撃を与えたのだ。そんなときだった。数千の軍勢が2つの勢力を囲んだ。
「な!?」
辰長は絶句した。旗印を見るとそれは山内家のものだった。
「父上…」
「予感は当たったな」
あの胸騒ぎは山内一豊の脚本だった。有力国人衆の本山家と前国主の長宗我部家の残党を滅することこそが一豊が位置付けた脚本だった。
「逆賊は真下におるぞ!、全軍かかれぇぇぇぇぇ――――――…」
馬上にて一豊は采配を奮おうとした瞬間だった。一発の弾丸が一豊が着けていた兜に命中したのだ。
「ぐわっ!?」
一瞬、落馬しそうになるところを百々綱家に助けられた。遠眼鏡で覗いてみると向かいの山に旗印が見えた。
「あ、あれは…」
そこにあったのは徳川の旗印だった。さらに丘のほうを見ると本陣を構えた徳川家康の鎧に身を包んだ者が近習に囲まれて馬上にいた。
「な、なぜ家康公がここに…」
絶句する一豊に追い討ちをかける一言があった。
「申し上げます!、背後の山に本多忠勝、加藤清正の軍勢が現れました!」
「な、何だと!?」
「ものすごい旗印にござりまする」
「どういうことだ…」
一豊は冷静さを失った。自らの脚本が破られたのだ。綱家が叫ぶ。
「おそらく家康は我らも滅ぼす腹でござりましょう。ここは高知に撤退する他ございませぬ」
「………やむえん!、退けぇ!、退却だぁ!!!」
一豊は全軍に退却を命じた。軍勢が退く様子を辰豊は呆然として見つめていた。
「土佐は山内一豊が治めるのは確実、しかも見よ、右翼、左翼を占めていた軍勢、さらに鉄砲隊までもが退却を始めている。そして、向こうも見よ、長宗我部の半数も最初に見た山内勢を見て腰を抜かし逃げ始め、指揮していた者たちでは止めることができずにおる」
その言葉に辰豊は男を見つめた。
「一体、我はどうすれば…」
「この地より去る他には方法はございませぬ」
「しかし、そのような簡単なことを…」
「安心めされるが良い。我らが何とか致そう。それまで身を隠していなさるが良い」
そう言って男は辰豊の前から消え去った。
一方、長宗我部の残党を指揮していた武将は呆然としていた。目の前にいる男が何者であるかすでに知っていたかのように…。
「土佐はもはや我らの手には戻らぬ、無謀な犬死など元親公は望んでなどいないはず。見事、この地より落ち延びよ」
「しかし…、我らには土佐より他の国に行く方法がありませぬ」
四国は日本から分離された孤島である。
「ツテなど必要ない、時期が来ればいずれ行くことができよう。それまで身を隠しておるが良い」
「ははぁっっっ!!!」
武将は馬上から地面に下りて平伏した…。
高知城、一豊は鬼岩谷から急いで引き上げてくると城の奥に篭もった。高知城は慶長6年に築城されたもので築城の指揮は百々綱家だった。その綱家が駆け込んできた。
「申し上げます!、幕府からの使者が…」
「とうとう来たか…」
一豊は落胆したかのような絶望感に満たされた。
謁見の間、天守最上階に使者は待っていた。戸の向こうからは城の中だけでなく城下町や土佐の国が一望できた。正面には海も見える。
「土佐藩主、山内一豊にござる」
一豊は使者に平伏する。
「拙者、尾張藩剣術指南役、柳生兵庫助利厳と申す」
その言葉に一豊はきょとんとした表情になった。
「今、何と申された?」
「名をお聞き頂けなかったか?」
「い、いえ、名よりも………今、尾張と申されたので?」
「如何にも、幕府の使者と勘違いなされたのではあるまいな?」
「そ、そのようなことは…」
一豊は咄嗟に見せた焦りをあわてて隠そうとする。
「いや、構わぬ。公儀がこの地に入ったのは真なのだから」
「へ?」
「鬼岩谷での奇行、もう少し止めるのが遅かったらあらゆる理由をつけられて潰されているところでしたぞ」
「き、奇行と申されるか?」
「如何にも」
兵庫助の冷静な表情に一豊は苛立ちを隠せずにいた。
「お主は一体、何を申したいのだ!?」
「まだおわかりにならぬか?」
「わからぬ!」
兵庫助は溜め息をつきながら言いはなった。
「ならば言おう。一豊殿、先日、幕府の使者と名乗る者が現れませなんだか?」
「来た、先月な」
先月、上意として江戸より使者が参ったのだ。早々に長宗我部の残党を平定するようにというのが一豊に下された命だった。一豊はそれを実行したに過ぎなかったのだ。
「しかし、御身はある思いつきもあった。それは国人衆に対する抑えつけだ。それに目をつけたのが本山一族、そうだな?」
「如何にも」
「それが裏目に出たのだ」
「裏目とな!?」
「そうだ、幕府はそこに目をつけたのだ」
「し、しかし、この策は漏れてはおらぬはず…」
「まだわからぬか、公儀がこの地に入り込んでいると申したではないか。柳生但馬が総目付として各地の諸侯の動向を窺っている。いずれ豊臣方との戦も始まろう。それに対する抑えを彼らはしているのだ」
「ということは今回の一件も…」
「そう、貴君が余計なことをせずとも鬼岩谷では自然崩壊がなされるはずだった」
「自然崩壊とは?」
「長宗我部の残党の大半は大坂や京に潜伏していることがわかった。ここに残っている者たちもいずれは向こうに行くはずだった。それをさせずに土佐を内から崩そうと1人の忍びを送り込んだ。名はお珠という」
「お、お珠だと!?」
声をあげたのは脇に控えていた綱家だった。
「知っておるのか?」
主君の言葉に綱家が言う。
「はっ、長宗我部盛親の娘にござりまする。今回の鬼岩谷の……ま、まさか…」
「そう、あの者は今回の鬼岩谷での影の立役者になりかけた者」
「………」
「本当のお珠は京におることがすでにわかっている。鬼岩谷で軍勢が集まっていると我の主君の許に報せがあった」
兵庫助はその報せを受けて変装術によりこの地に駆けつけたのだ。
「主君とは義直殿では…。まだ幼い義直殿がそのようなことを言うはずがない!」
一豊はまだ疑心暗鬼の状態だった。「主君より報せを受けた」という言葉に一豊は何か思いついたかのように声を荒げた。
「別に義直殿が主君だとは誰も言っておらぬ」
「何!?」
「我の主君は大御所ただ1人」
「大御所だと!?」
大御所とは秀忠の後見として君臨する徳川家康その人のことであった。兵庫助は家康に乞われて尾張藩剣術指南役に抜擢されたのだ。そして、尾張柳生の祖として新陰流宗家を守り続けている。
「ならば大御所は…」
「御身を守るために我を遣わしたのだ。秀忠の横暴も止めるのも含めてな」
「上様の?」
「そうだ、秀忠は柳生但馬を使って政権を豊臣から徳川へ引き込もうとしておられる。大御所は豊臣家を守るために豊臣恩顧の武将たちを影から支えておられるのだ。我がここに遣わされたのもその1つ」
「大御所は戦をされるおつもりですか?」
兵庫助はそれには答えなかった。兵庫助にもそれはわからなかったのである。家康がどう動こうと影としてそれに従う腹だった。
「我は一体如何すればよろしいのだろうか…」
「いずれ一揆が起きよう。そのときに残党の何人かはその中に加わるよう仕向けておく。御身は彼らを捕らえることができれば後は刻が道を教えてくれるだろう」
「一揆が真に起こるのでございまするか?」
「起こる。必ずや」
兵庫助はそう言いきった。
この後、土佐で大規模な一揆が起きた。有名な浦戸一揆である。一豊は兵庫助より言われた言葉を思い出し、一揆に煽動していた長宗我部の残党を捕らえこれを斬首、さらし首とした。一豊は鬼岩谷での戦いを教訓にして土佐藩を成立させていったのである…。
遠州金子藩、御家騒動も一件落着し、平穏な日々が続いていた。藩主義康は父の後見を得て藩政改革に取り組み、財政難の危機を脱した。
馬奉行から軍目付に昇格した曾我忠親は土佐より連れてきた本山辰豊、辰長父子の起用を進言し、これを了承された。辰豊がかわって馬奉行となり、辰長は馬廻り組として金子藩士となる。
そして、忠親に説得された長宗我部の残党の何人かは主君盛親の意志に従うべく京に向かった。利勝がその先導を務め、京に赴いた。そして、利勝や家臣たちの言葉に動かされた盛親の意志は強く、この後、大坂城へ参陣し、徳川勢と壮絶な戦いを繰り広げることになる。
ある国の橋の上で2人は別れを告げていた。
「兄上、またお会いする日があるでしょうか?」
利勝が言う。
「さあな、お前はどこに参る?」
「わかりませぬ。とりあえず行きたいところへ」
「大坂には行かぬのか?」
「行っても仕方ありませぬ、勝ち負けは見えておる故」
「なるほど…」
兵庫助は頷いた。
「一つ聞きたいことがある」
「何でしょう?」
利勝が聞き返す。
「あの曾我忠親なる者、何者か?」
「兄上が察している通りにござりまする」
「なるほどな」
「彼の者の本名は長宗我部忠親、若くして死した盛親殿の兄、信親殿の御子にごさる」
「ならば元親の嫡孫ということだな」
「そうですね、幼いときに乳母に連れられて遠州に来たと聞いております」
「宗安殿に聞いたのか?」
「御意」
「なるほどな」
兵庫助はまた頷いた。
「一族が生と死を求めて二つに割れたとあれば四国を統一なされた元親殿はどのように感じられるだろうな。この世とは無常なり」
「無常なくしてこの世は成立致しません」
「まあな」
兵庫助は利勝の言葉を聞いて苦笑せざる得なかった。
そして、2人は別れを告げるときが来た。
「今度会うときは敵同士かもしれません」
利勝が言うと兵庫助も言う。
「それが我らの定めであれば仕方なきこと。私は東に向かう」
「ならば某は西にて」
そう言って2人の足はゆっくりと橋から離れて行った。お互い背を向けたまま…。
涼しい風がゆっくりと南から北へと流れて行くのを感じた2人であった…。
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