一、関八州就任

 将軍家斉の世。江戸府内外には盗賊が溢れ、取締りをする役人にも不正や悪党が蔓延っていた。老中に就任したばかりの白河藩主松平定信は本来の役目を忘れてしまった火付盗賊改方に御先手組から長谷川平蔵宣以を置いた。旗本でありながら、実直な人物で一刀流の使い手としても知られていた。平蔵は役目を頂戴したその日に若年寄京極備前守より尋ねられた。
「府内はお前に任せるが盗賊はそれだけでは収まらぬ」
「御意。府外も取り締まらねば江戸は何も変わりませぬ」
「うむ、その通りだ。そこでお前に問う」
「はっ」
「関八州総裁に適している人物はおるか?」
「恐れながら…」
「構わぬ。意見を聞くまでだ」
「では、私の知るところでは一人だけおりまする」
「誰か?」
「はっ、それは…」
平蔵はその人物の名をあげた。

 武州西江藩。武州大館藩の内藩で山と農地が多く点在する。城はなく、陣屋が福笠寺という街道から外れた山麓の寺に置かれている。住職はすでになく、墓地は荒果て放置されていたのを藩主が貰い受けて陣屋にしたのだ。家臣は少ないが石高は一万二千石もあるため、十分な捨て扶持と言えた。
「殿!」
陣屋の奥にある寺の本殿で寝そべっていた藩主を守役で藩の家老を務める大熊与兵衛が声をかける。
「うん?」
「寝てばかりではいけませぬ。少しは藩内を見廻ってください」
「その必要なし」
ごろんと寝返りを打つ藩主に与兵衛は嘆いた。
「兄上様から頂いたこの藩にもっと力を入れられると思いきや、毎日毎日寝てばかり。これでは亡くなった先代に申し訳が立ちませぬ」
「やれやれ…」
藩主が起き上がり、座りなおす。
「与兵衛、お前はそれしか言うことがないのか」
「私も言いたくて言ってるわけじゃ…」
与兵衛の言葉を遮るように家臣が入ってくる。
「申し上げます!」
「如何した?」
「幕府より使者が参っております」
「幕府から?」
「はっ」
二人は顔を見合わせた。こんな内藩に幕府の使者が来るなど有り得なかったからだ。
「ふむ…。使者は誰か?」
「はっ、長谷川平蔵宣以と申しております」
「"鬼徹"が?」
藩主が口を開く。
「先頃、火付盗賊改方長官を拝命したと聞いております」
「ほう、あの悪党がな。よし、会おう」
「はっ」
家臣が下がる前に藩主がドタドタと使者が待つ部屋に向かった。普通なら正装をするのだがこの男にはその観点がないようだ。与兵衛も気が気ではない。
「平蔵、待たせた」
「来たか」
「一瞥以来、久しぶりだな」
「まったくだ」
平蔵も堅苦しい格好が嫌のようで胡坐をかいている。
「使者がそんな姿で良いものか?」
「構わぬ。誰も見ておらん」
「よっこらっしょ」
刀を脇に置いて平蔵の前に座る。
「皆は達者か?」
「ああ」
「火付盗賊改方長官になったそうだな」
「うむ」
「江戸は荒れているのか?」
「悲惨なものだ」
「そうか…。で、ここに来たのは?」
「お前に頼みがあってきた」
「ほう、家斉の命か?」
将軍を呼び捨てにすることは有り得ないことであった。
「上様を呼び捨てにするな」
「構わぬ。奴とは昔なじみだ」
「昔なじみとて江戸城ではそんな態度は取るなよ」
「しないさ……って……江戸城?」
「そうだ。お前に上意が下った」
「何もしてねえぜ?」
「昔のお前なら大事だが今回は違う」
「では何だ?」
「お前に関八州総裁を任せたいそうだ」
「は?、俺にか?」
「そうだ、御老中が推挙なされたらしい」
「面倒な役を押し付けてきやがる。大体、藩主の俺にそんな役目など務まると思うてか」
「務まる務まらないは関係ない。これが上意だということだ」
臣下にとって上意に逆らうことは獄門に等しい。
「上意とは大袈裟だが何かあったのか?」
「それは上様に聞いてくれ」
「あの男の考えることだ。きっと何かあるのだろう」
「行ってくれるか?」
「やむえん。一両日中には江戸に向かうと伝えてくれ」
「わかった」
平蔵を前にして藩主はすっと立ち上がり、部屋を出てどこかに去った…。

 江戸城大広間。上座に小姓を両脇に従えた徳川家斉が鎮座している。
「久しいな。長誠」
「はっ、上様もお変わりなく」
長誠と呼ばれた武士がきちんとした身なりで平伏している。
「此度の上意、真意は如何に?」
「真意?、お前が気にすることはない。引き受けてくれような?」
「上様の命とあらば身命に賭けても」
「うむ、それでこそ我が旧友よ。長誠、江戸に屋敷を構えることを許そう。足らぬものがあれば言ってくれ」
「では、早速ですが…」
長誠は旧友に願い出た。

 長誠の本名は松平忠左衛門長誠という。武州大館藩主松平元長の弟で藩内に一万二千石の捨て扶持を与えられている。藩内は比較的豊かで元々郡役所が置かれていたが今はそれもなく、長誠が陣屋を構えてからは直々に政務を執り行っている。長誠は一度出奔している。父家長と諍いを起こし、家を飛び出したのだ。諸国を漫遊した後、帰郷した。その際、咎めを受けることはなかったが二度と大館藩に関わることは許されず、内藩主として早々に追いやられてしまったのだ。それでも、長誠は気にすることもなく、得意とする剣術に没頭しては御前試合で良き成績を残している。この翌年、長誠は旗本綾部玄部の娘お盛を妻に迎えた。お盛は勝気な性格で剣術も一刀流目録の腕前をもっていたが長誠に挑み、敗れたことが親戚に恥だと責められ、失意に陥ったところを長誠が妻にと綾部家に願い出た。当初は格式が違うとの理由で拒否していたが長誠の熱心な説得でお盛はめでたく長誠の正室として嫁いだ。二人の仲は良好だがそれ以上に剣術の師弟関係でもあった。長誠が諸国を漫遊していた時に江戸より追放されていた元公儀目付金子左近将監頼綱と出会ったのである。頼綱の剣捌きに魅せられた長誠はすぐに頼綱に弟子入りを志願し、わずか三年という短い期間で一子相伝の幾天神段流の奥義を会得することを許されたのだ。戦国時代から続いているこの流派を受け継いだ長誠が故郷へ戻ったのはそれからすぐのことだったという。お盛もまた長誠の剣技を盗もうと躍起になり、弟子入りを志願し、今に至っている。
長誠が藩主としてより関八州に任じられたことに戸惑いを隠せなかった。本来は藩主がやるべき役職ではない。なのに何故?という気持ちが前に出ていた。
「本当に受け入れたので?」
お盛は気になって仕方がないといった表情をしている。
「上意故な」
「それだけですか?」
じっと見つめる。
「反対なのか?」
「はい」
はっきりと言う。
「何故?」
「真意が見えませぬ」
「真意というより、信念だな。武士としての」
「信念…」
「そうだ。家斉が上に立とうが立つまいがどうでも良い。だが、横行する賊どもに好きな事をさせては武士の面目は丸つぶれだ。これは意地でもある」
「ならば、その意地を見せて頂きたい!」
すっと立ち上がって障子を開いた。片手にはいつの間にか木刀を握っている。
「私と手合わせ願いたい」
中庭に立っていきり立つ。
「やれやれ」
長誠もまた木刀を手にしていた。夫婦で師弟関係でもある二人が中庭で向かい合う。中段構えのお盛に対し、長誠は下段の構えというより片手で木刀を持ち、刃を下に向けたまま、立っているという感じだ。
「これは…」
お盛はすぐに解った。長誠が何を仕掛けてくるのかを。しかし、そう判断するが長誠は一向に動こうとしない。殺気だけが周りを包んでいる。まったく微動だにしない二人だが初太刀で決まると判断し、長誠もお盛が予想していた流牙散布八連を繰り出そうと考えていた。流牙散布八連は多人数を相手にする技で一瞬のうちに八人を一刀のもとに倒すというものだが初太刀を振り落とされたら一気に詰められて終わりになる諸刃の技でもあった。それでも今の構えを崩さなかったのはお盛の対する誠意であった。この構えで繰り出させる技は少ない。返し技を受けないためにはそれよりも速く動かねばならないが。長誠の思惑は別のところにあった。長誠の体がゆらゆらと動く。これは神速を帯びる時にできる幻影だ。
(来る!)
お盛は長誠の一手前に仕掛けていた。一気に間合いを詰めた。返し技には最高の出来である。初太刀を上から弾くと一気に長誠の顎へ刃を向ける。そして、寸前のところで止まった。
「さすがだな」
「試したのですね?」
「わかるか」
「わかりますとも。何年の付き合いだと思うのですか」
「では、私の意図もわかるか?」
「ええ…」
簡単な話だった。長誠にとって自分の身は自分で守るのが通例だがいざというときに背中を守ってもらう人物が必要だった。それに白羽の矢を立てたのがお盛だった。お盛は長誠の門弟としてはすでに免許皆伝級で表極意まで許しを得ていた。長誠にとってこれほど強い味方はない。
「素直ではないですね」
「お互いにな」
中庭に面した廊下に座り、与兵衛も加わって今後のことを決めた。

 江戸城大広間。家斉を前にして二人の武士が平伏している。一人は初老の人物ですでにわかっていたかのように納得した顔をし、一人は四十代半ばで驚きの顔を隠せない。
「上様の命とあらば致し方ありませぬが直参を捨てよとはあまりにも酷」
「それは重々承知しておる。お主は神君家康公より続く家柄。本家もまた大名として長きに渡って幕府を支えてくれている。それはよく存じておる。しかし、此度のことは私からの頼みだ。承知してやってくれ」
「…ははっ」
二人は大広間を後にする。家斉はため息をついた。
「酷な命であったか?」
脇にいる松平定信に言う。
「でしょうな。ですが無役の旗本にしておくにはもったいない人物。活躍の場を広げてやるのも上様の役目かと」
「左様か。後は長誠に任せるか」
「御意」
定信は平伏した。

 数日後、江戸郊外に修築された屋敷がある。連日、大工や職人が出入りし、朽ち果てていた屋敷を蘇らせた。門扉の横の柱に檜の板に書家に書かせた『西江藩江戸屋敷』という板が打ち付けられた。家斉が長誠に拝領した屋敷である。内藩としては珍しい江戸での屋敷だが国許と江戸の両方を管理するのは今の人材では困難を極めた。ましてや、役職が役職なだけに今回、家斉から下された二人の人物の起用は長誠にとって願ったりかなったりだった。屋敷か完成して数日後、その二人がやってきた。
 一人は二百石の旗本で長誠の妻・お盛の父である綾部玄部である。家斉から直々に命を受けた時はすでに覚悟を決めていたのか、納得した様子で長誠の面前にいた。もう一人は同じく五百石の旗本で脇坂政綱という。播磨竜野藩を治める脇坂家の傍系で家康の代から続く由緒正しき家柄だがここ最近は寄合(無役)という肩身の狭い思いをしている一方で算盤に通じ、武士には珍しく商業を得意とする分野に長けていた。
「よくぞ、おいで下さった」
二人を歓迎した長誠であったがすぐに本題に入る。
「無理な命を受けてくださって感謝致す。本来であればこのような場にいることはないと思いますがこれも縁。よろしくお頼み申す」
丁寧な礼儀に政綱は少し驚いた。低身低頭の長誠の人柄を誤解していた。憤りだけでここに来た自分が恥ずかしく感じたのだ。
「何故?」
「ん?」
「何故、貴殿は私を家臣にしたい?」
政綱は唐突に自分の思いをぶつけた。
「国許を守るため」
「国許を?」
「そうだ、私の家臣は四百に満たない。身内ですら見捨てられた土地に仕えたいと思う者は数少ない。田畑は荒れ果て、城下には盗賊が蔓延る。今の世を象徴している正にそれこそが我が領地でもある」
「で、何故私に?」
「貴殿は算盤に通じ、商業に優れ、剣術よりも政治を好むと聞く。そんな人物が寄合で燻らせるのは惜しい。どうであろう?、脇坂本家の許しが必要なのであればお伺いを立て、しかるべき時に…」
「いや、そこまでする必要はない。上意であるならば本家が何を申したところで文句は言えぬ。貴殿は私を結構買っておるようだがそれは筋違いというもの。私にはそのような力はございませぬ」
「謙遜はされぬな。噂だけではこのような起用は致さぬ。貴殿にも直参という格式がある。上様に対して忠誠心がなくば戸惑いなんて感じられないだろう。だが…」
長誠は政綱に向き直る。
「貴殿には国家老としてお願いしたい」
「え?」
「国家老として藩主不在の西江藩を託したい」
「私が…国家老…」
内藩の国家老とて石高は今までの何倍にもなる。しかも、上意で直参の格式はすでに抹消されている。後には引けない身分であるには違いない。受ける受けないは本人の決断だが政綱にとっては迷いの中にあった。今までの暮らしを捨てる覚悟はまだ政綱には無かった。
「しばし…」
「ん?」
「しばし考えさせてはくれぬだろうか?」
「構わぬ。こちらは急がぬがお役目のために江戸を離れなければならぬ」
「お役目?」
「聞いてないのか?。先日、上様より関八州を命じられた」
「何と!?、藩主でありながら幕閣の一人となるとは」
政綱は驚きを隠せない。
「故に役目柄、江戸を離れる多くなる。国許となれば尚更だ」
「それゆえの我らか…」
「如何にも」
長誠の表情は至って冷静であった。政綱の心中は一つとなる。
「長誠殿。私は貴殿を誤解していたようだ」
「誤解?」
「いや、理由は聞かれるな。己の恥を晒したくない」
「ははは、聞かぬよ。国家老の件、引き受けてくれると判断して良いか?」
「御意」
政綱は深々と平伏した。臣下の礼を取ることで主従関係が成立した。隣にいた綾部玄部はニコリと笑う。
「長誠殿、髄分と成長なされたものだ」
「義父上…」
褒め言葉と受け取り、感動したつもりなのだが玄部にとっては情けない表情の長誠が目に入ったらしい。
「そんな辛気臭い顔をするな。さて、わしの役目もあるんだろう?」
「ああ、義父上には江戸家老としてこの屋敷をお願いしたい」
「この屋敷を?」
「はい、江戸に精通している義父上にしかできない役目です」
「うむ、久しぶりに娘とゆっくりできそうだな」
「いえ、お盛も我が臣下である以上、休むなどと許されませぬ」
「何と!?」
玄部はこの言葉に驚いたがそこは義父としての器が気持ちを落ち着かせる。
「女に何ができようか?」
「女とて剣術は我が右に出るものはおりませぬ。すでにお盛は免許皆伝の域に達し、私の後を継ぐのはお盛しかおりませぬ」
玄部はすでに長誠の流派が何であるか承知している。一子相伝であれば自然と継ぐのはお盛となろうが継ぐのは男子のみと思っていたのだ。それを伝えると長誠はやんわりと否定する。
「家督であれば男子でしょうが流派の伝承は何も男でなくてはならないというわけではござらぬ」
長誠はすっと立ち上がり、背後の上座にあった桐の箱を持ち出す。それは玄部たちの面前に置き、紐を解いて箱を開けた。
「これは?」
中には幾重にも巻かれた巻物が入っていた。それを取り出して広げた。
「我が流派の系図です」
初代金子宗康から始まり長誠までの師弟を親子のように記した系図があった。連なった名前の中には玄部たちが知っている名前もあるが女の名前もあった。初代宗康の孫がそうである。彼女は祖父から剣を継ぎ、奥義を我が子に宿していた。
「なるほど、よくわかった。しかし、お主が師と仰いだのが金子左近将監頼綱であったとはのぉ…」
「………」
長誠は師の最後の姿を脳裏に焼き付けている。師が惨殺された最後の姿を…。そして、憎き男の顔もそこにあった。目を瞑り、そして開く。
「師が残したものを絶やしては我が名折れ。先の江戸城において関八州の役目とて今の世を嘆いてのもの。これをやらねば武士の名折れ。格式だけを重んじ本来の役目を忘れた武士が多いが今一度、原点に戻って建て直しと参ろうではないか。政綱殿」
「はっ」
「国家老として国許をお願いしたい儀が一つ。そして、今一つお願いしたい儀がござる」
「はっ、何なりと」
「此度より、関八州仕置改役に属する者たちを一新する。今あるのは前任であった田村隆斉殿の息がかかった者たちばかり。田村殿は若年寄になられたばかりだが関八州まで持って行かれては我らに動く術はない。そこで我が松平家、貴殿の脇坂家、義父上の綾部家より選りすぐりの者を集めてもらいたい」
「選んだものを与力となる仕置改役にすると言うことか」
「左様、よろしく頼み申す」
「承知致した」
そう言うと政綱は共に連れてきていた馬澤伝十郎に何か命じていた。馬澤は小野派一刀流の免許皆伝と聞いている。彼も選別されるだろうか。
「さて、わしはどうする?」
「義父上、砲術の腕は?」
砲術とは大筒のことを指すが戦国の世において砲術は鉄砲のことであった。
「火縄の扱いなら任せい」
綾部家は代々、武州綾部流砲術の当主として受け継いでいた。当然、玄部もそれを伝承している。
「火縄は関八州の役目上、表立って使えぬがいざと言う時の切り札になる」
「うむ、手入れは怠らぬようにしておこう」
「何丁程ありますか?」
「三十だな」
「それだけあれば十分でござろう」
「うむ」
「後は幕府との調整、府内における探索は義父上にお任せ致す」
「承知した。これより忙しくなるな」
「ええ」
「まずはどこから行く?」
「それは…」
長誠はゆっくりとした口調で言い放った。

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