五、不穏な静寂

 早朝、まだ夜の余韻を残している頃、表門を望む玄関のところに東城寺がいた。玄十郎が記憶しているところでは靴なんてものは履かない。大半が草履を履いている。草履や裸足のほうが技を放つときに鋭さを増すからである。東城寺も草履の紐をしっかり結ぶと立ちあがった。左手には刀が握られていた。東城寺家に伝わる秘刀「金剛丸」である。
「行くのか?」
玄十郎が声をかけた。
「ああ」
東城寺は振り向かずに答えた。
「政信は本山にはいないらしい」
「わかっている。いるとすれば母定流のところだ」
「今、母定村には100を超す弟子どもが集まっているそうだ」
「それがどうした?」
「死ぬ気か?」
「死なないさ、あの御方を止めるまでは」
「そうか…」
「それよりも…」
「ん?」
東城寺はゆっくりと振りかえった。
「お前も行く気か?」
「当たり前だ、1人だけ行かす馬鹿がおるか」
玄十郎も黒装束に身を包んで手甲を着けている。左手には袋に入った愛刀「成松」を持っていた。
「お前も相当な馬鹿だな」
「ふん、お互い様だ」
2人は豪快に笑った。そして、しばらく笑った後、真顔になる。
「母定流は幾天神段流にとっては長年の敵。いずれは相まみえる運命にあった。それが早くなったか遅くなったかの違いだけだ」
「まあな、それは我とて同じこと」
「さて行くか」
「ああ、ここは良いのか?」
「構わないさ、留守番のほうが強いかもな」
「おいおい」
「余計な心配はせずに今は敵のことを考えよ」
「それは無論のこと」
2人はゆっくりと表門から出て行った。それを見守るように道場の2階の窓の隙間から別の2人が見守っていた。
「大丈夫でしょうか?」
「安心致せ、あの2人が暴れれば多少の剣士など雑魚に等しい」
「多少って…」
直子は苦笑した。
「ただ問題は政信の行方が知れないということじゃ」
「行方不明なんですか?」
「うむ…、どこにいるかさっぱりわからんのじゃ。影たちも必死に動いてくれておるんじゃが…」
「秀勝様って…」
「ん?」
「一体、何者なんです?」
「ただの爺じゃ」
秀勝は禿げ上がった頭を撫でた。
「どう考えてもそうは見えないんですけどぉ…」
「わはははは、若いのぉ。さて、わしらはわしらで留守を任されたんじゃ。2人がいないことを見計らって連中が襲ってこないとも限らん。気を引き締めてやるぞ」
「それは当然のことです」
そう言いながら2人はゆっくりと母屋のほうへ足を向けた。

 幾天神段流と最も親交の厚い無限一刀流、東北では金剛流の勢いに蹴落とされた格好になっているが京都の一刀流の流れを組む由緒正しき流派であると同時に母定流の師にも当たる。母定流の本来の名前は「陸奥直伝母定一刀流」なのだ。最近の母定流の動きには無限流の名代で南東吾の父でもある東馬が常に監視していた。もちろん、何度も幾天流を襲ったということも知っていたが今回の東城寺と玄十郎の動きには焦りを隠せなかった。母屋の一室に我が子を呼んだ。
「お呼びですか?」
東吾は門弟を相手に練習をしていたらしく羽織袴姿でやってきた。しかし、汗は一向に掻いていなかった。
「うむ、実は母定流のことじゃ」
「何かあったのでございますか?」
「お前も知っていよう、幾度に渡り連中が幾天流を襲ったということを」
「それはよく存じております。父上が何度も母定流当代に苦言を漏らされたことか…」
「その苦言は効果があったと思うか?」
「それは…」
「あるわけがない。奴は所詮、今の当代の操り人形でしかなかったのだから」
「えっ?」
「昨年、あそこの当代がかわったのじゃ。それからかな、過激な方向に進んでしまったのは…」
「では金剛流と結んだのも…」
「そやつじゃ」
「何者なんですか?」
「以前は最高師範代として当代を支えていた曾我親時(ちかとき)という男じゃ」
その名前を聞いた途端、東吾に緊張が走った。
「曾我といえば確か同門の北房啓一郎を半殺しにした上、姿を消したあの…」
「そうじゃ。北房は今ではここの師範にまでなった男じゃが力量は東吾、お前と同格じゃ。それがいとも簡単に倒されたんだ。曾我の強さは計り知れない」
「しかし、このまま放っておくことはできません」
「そのことでお前を呼んだんだ。実はな、幾天神段流の若き宗家と金剛流剣術の神鬼が手を結んで今朝、母定流道場がある母定村に向かったらしい」
「若き宗家…、”真十郎”ですか?」
「そうじゃ、幾天流の荒行と呼ばれる破強巡り、一門の当代と戦う覇行を突破し、最後に宗家を倒したそうじゃ」
「あの宗家をですか?」
「そうじゃ、今は名代として鹿児島のほうで修行中らしい」
「まだ強くなる気のようですね」
「うむ、本当の化け物になる気でいるようだわい」
東吾は笑っていたが東馬は真剣だった。この言葉がいずれ幾天神段流にとって大きな意味をもってくることなど誰も知る由がなかった。
「ま、それはさておき、今は母定流のことじゃ。あの2人が動いたということは曾我の耳に入っているようじゃ。すでに200人近い門弟を村に集結させているらしい」
「もう止められませんね」
東吾の顔から笑いが消えた。
「うむ、我らも止めるつもりはない。止めればこの無限一刀流も同じ命運を辿ることになるだろう」
「滅ぶと言われますか?」
「そうだ」
「まさかそこまでは…」
東吾は疑ったが東馬は真剣だった。
「あの2人の力を侮るな、誰かあるかっ!」
誰に呼びかけるということもなく東馬は叫んだ。すぐに障子が開く。1人の若い剣士が姿を現した。
「すぐに北房を呼んで参れ」
「承知仕りました」
再び障子が閉まる。
「北房を呼んでどうなさるおつもりですか?」
「お前と一緒に母定村に行ってもらう」
「ではあの2人と共に戦えと?」
「いや、そうではない。連中がどこから攻めるのかはわしにもわからんがお前が倒す相手は曽我1人だけだ」
「なるほど、雑魚はあの2人に任せろということですな」
「そうじゃ」
そのとき障子の向こうから声が聞こえた。低い声だ。
「お呼びにございますか?」
「おう入れ」
「失礼致します」
障子が開いた。そこには顔に斜め傷を持った男が現れた。男が中に入ると障子は再び閉じられる。
「お前に行ってもらいたいところがある」
「どこにございまするか?」
「母定村じゃ」
「母定一刀流がある?」
「そうじゃ、お前は曾我のことを覚えているか?」
北房の目つきが鋭くなった。
「それは無論のこと、思い出すたびにこの傷が疼きます」
「倒してみたいと思わないか?」
目つきがさらに鋭くなる。
「かなえられるなら…」
「うむ、曾我は母定流を乗っ取り今や当代と名乗っている。良いか、これよりあの村にて戦いが起きるだろう。おそらく一両日中には」
「戦いとは誰かが攻めるのでございまするか?」
「そうじゃ、お前は東吾と共に母定村に行き、見事、曾我を討ち果たして来い。ただし、戦いには加わるな。あくまでも曾我を討つことが本来の目的だからな」
「承知仕りました」
北房は唇を歪めた。曾我を討つ機会を得た獣のようだった。

 鹿児島市郊外にある薩州幾天流道場、練武衆と呼ばれる集団の集まりがこの道場の特徴だ。練武衆は個々に違った能力を持ち、それぞれがかなりの強さを誇る。それを育てたのが当代でもある藤堂義親だ。ある一室にて藤堂と名代金子玄十郎が会っていた。
「ほう、やっと動きますか」
「そうらしい。随分と時間をかけたもんだ」
「まさか金剛流が母定流と手を組むとは思いませんでしたが」
「うむ、金剛政信は2つの顔を持っている男だな。今は裏の顔が前面に出ている」
「勝てますでしょうか?」
「勝てねば今ごろ死んでいる頃だ」
「はっはっはっ、本当に恐ろしい御方だ」
藤堂は笑ってはいるが本当に怖いと思っていた。
「これからどうなされます?」
「どうもしない」
「動かれないと?」
「そうだ、母定流も金剛流も幾天神段流にとっては大きな敵に違いない。それを倒さねば伝説なんて当の昔に消えてしまっているわ」
「ここからが当代としての見せ場というところですね」
「うむ、それにあいつには奥の手があるしな」
「奥の手?」
「ああ、おそらくこの奥の手を使えるのはこの世に5人とおるまい」
「それはどのような技で?」
「奥の手というのは最後の最後まで明かさぬものだ」
名代は笑いながらそう言った。
「しかし、問題もある」
「問題?」
「金剛政信が何を企んでいるかということだ」
「それは金剛流の奥義ではないのですか?」
「それもあるだろうがもっと別のこともあるような気がする」
「別のこと…」
藤堂の脳裏には嫌な予感がひしめいていたのである。先程まで晴れていた空が急に暗雲をたち込ませてどしゃぶりの雨が屋根瓦を打ち続けていた…。

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