一、二振りの刀

 真十郎と直子が出発したのは翌朝のことであった。まだ、太陽の光も見えない早朝のことである。ようやく、新聞配達のおっちゃんが乗るカブがエンジンを温めながら走っている頃合いだった。
「さて、行くか…」
真十郎と直子が持っていくのは旅費と2本の刀のみ。真十郎が持つ「成松」と直子が持つ「鶴松」である。2本とも玄十郎の所有であったが真十郎は金剛杯前に、直子は今回の旅の餞別としてもらったのである。玄十郎にはあと先祖より伝わる「龍虎」と呼ばれる名刀があった。直弟子の真十郎でさえ見たことがない。

 成松と鶴松の2本の刀の由来は400年前にまでさかのぼる。豊臣秀吉が相模の北条氏政をうち破り、天下統一を果たした後のことである。大坂の地にあった一向宗の本拠地でもある本願寺の跡地に壮大な城を築いた。それは日本全国に豊臣の名を示すには十分の城であった。秀吉は悪運には恵まれていたものの、ただ1つ、恵まれないものがあった。それは後継者である。後継者のために正妻の他にも側室を山ほど置いたにも関わらず、生まれたのはわずかに2人だけであった。1人は成松と言い、もう1人は鶴松と言う。成松が生まれた時、秀吉は我が子の成長と豊臣の名を末代にまで続かせる象徴として一部の大名の間でその名が知られていた刀鍛冶師・坂本四郎左衛門を捜すことに成功し、刀を造らせた。しかし、造っている肯定のときに成松は短い生涯を終えてしまった。秀吉は悲しみに暮れ、四郎左衛門に刀の破棄を命じたが己の技術と経験を認めていた四郎左衛門にとってはこの命令は従えないものだった。そこで別の偽刀を秀吉の前で破棄し、本物は自らの故郷である近江・坂本の地に隠してしまったのである。坂本の地はかつて明智光秀が治めていた土地でもある。
 成松の死後、悲しみに明け暮れていた秀吉は子作りは諦めかけていた。しかし、ここで歓喜の知らせを受けることになった。側室として迎えていた淀(織田信長の娘・お市の方と北近江の雄・浅井長政との子)が男子を生んだという知らせが参った。後の秀頼である。秀吉の溺愛ぶりは最高潮になった。秀吉は今度こそという意気込みで四郎左衛門にもう一振り造るよう命じた。命じられた四郎左衛門は秀吉の我が儘な振る舞いに憤りを感じたのは当然のことであった。しかし、命は命である。従わねば一族もろとも消されてしまう可能性があった。自分1人であれば決して応じることのないが一族の繁栄と親友との約束を守るため、もう一振り造ったのである。それが鶴松の刀であった。鶴松は完成と同時に上納されるはずだった。しかし、またしてもそれは果たすことができなかったのである。それは秀吉の死だった。それと同時に徳川政権が完成するまでの混乱期に入ることを意味していた。四郎左衛門はこの刀の事実が権力を強めていた淀君や石田三成に知られていないことを知った。どうやら、秀吉はこのことを秘密にしていたようである。喜ばせようと考えていたのかどうかはわからないがそれでもまたしても四郎左衛門の二振りの刀は世に出ることはなくなってしまった。さらに関ヶ原の戦いにより石田三成率いる豊臣恩顧の西軍は徳川家康という大きな魔物に敗れてしまい、大坂の地は大混乱に陥ってしまった。つまり、豊臣の権威は地に落ち、徳川という新しい光が差し込んで来ていたのである。
「まもなく、ここも戦場となるであろう…」
四郎左衛門は12年間暮らした大坂の地を離れ、故郷である坂本まで一族と共に引き上げたのである。坂本の地に移ってから豊臣という後ろ盾を失った一族は衰退という道を辿ることになった。四郎左衛門の腕を認めてくれる親友が訪れるまで。
 翌年、坂本の地に1人の人物が訪れた。時代の変遷期ということもあって本来なら訪れることのない人物がここにやってきたのである。鍬や鉈を造って生計を立てていた四郎左衛門はその人物の姿を見て大いに驚いた。大坂から坂本へ来てたった1年の間に一族の大半は四郎左衛門のもとを離れた。4人いた子供のうち、残っていたのは末子だけだった。
「お、お主…」
「久しぶりですな」
「まだ生きておったのか…。たしか、2年前に…」
「このわしがそう簡単には死なぬ。我が子の考えそうなことは全て私の手の内にある」
「さすがは我が親友よ」
四郎左衛門から久しぶりに笑顔が漏れた。
「今日はお主に頼みがあって来た」
「頼み?」
「ああ、わしのところに来てくれぬか?」
「同情ならお断りじゃぞ」
「誰が同情なんぞするかい。お主の腕を買いたい」
「しかし、お主、領地より追放されたのであろう?」
「追放したと思っているのは彼奴とその周りにいる悪党だけさ」
「悪党とは恐れ入る。仮にもお主に仕えていた者たちだろうに」
「いいや、悪党で十分。わしの恐ろしさを知らないらしいからな」
「たしかにな、かの武田信玄でさえお主の策には恐れたというからのぉ」
「まだ覚えていたのか?。もう過去のことだ」
「あの時代が一番良かったかのぉ。お主、豊臣の世はいつまで続くと思う?」
「もって15年だな」
「15年とな?」
「ああ、石田三成が勢力を失い、豊臣恩顧の福島正則や加藤清正らが加増されたとは言え、大坂の地より離れているんだ。後は恩顧の武将たちを伊賀者を使って暗殺してしまえば豊臣の勢力なんてすぐになくなるのは明白」
「そう言い切れるかな?」
「言い切れるさ、ただし、逆転もありうる」
「ほう」
「家康の暗殺さ」
「お主…」
「わしは豊臣でも徳川でもどちらが上に立とうが構わない。しかし、天下を目指した者としてはこのまま引き下がるわけにもいくまい」
「暗殺する気なのか?」
「無理だな、家康には幾重にも張り巡らされた結界がある。それを突破するのは至難の技」
「だろうな」
「だが、それをやろうとしている人物なら知っているがな」
「ほう」
「まあ、そのようなことは起こってみなければわからぬことだがな」
その人物は坂本家の前に広がる田畑を見ていた。
「これを見ていたら戦なんざ忘れてしまう気がするのぉ」
「今はどこに?」
「右近のところだ」
「ああ、弟殿か…」
「そうだ、彼の地で息子どもの争いを見物しておる」
「わははははは、お主らしいのぉ。ならば、行くかの」
「もういいのか?」
「構わぬ、ここにはわしとこいつの他には誰にもおらぬ。知行は高いぞ」
「五百でどうだ?」
「五百か…。まあ、よかろう」
「本当にいいのか?」
「安いと思わんさ、何せ、お主が主になるのだからのぉ。金子玄十郎宗康殿」
「今は出家して宗安と名のっている」
「ならば宗安殿、参りましょうか」
遠州の地にて領地を後世まで守り抜いた金子宗康と織豊時代を生き抜いた鍛冶師・坂本四郎左衛門はゆっくりとした足取りで近江・坂本を捨て、遠州・犬居に移った。で、この2人の関係と二振りの刀が関係あるかというと「金子玄十郎」という名の通り、この金子宗康、実は諸国を漫遊していた幾天神段流の一条刀斎の最後の弟子とも言われるのだ。江戸幕末まで幾天神段流の系統は2派あった。一方は京、そしてもう一方は遠州なのだ。この当時は一子相伝が主流で宗康は孫娘に技を伝授している。このとき、四郎左衛門は宗康に二振りの刀を渡していた。宗康はこれを家宝とはせずに流派の宝としてこれを大事に保管させた。これを持つことが許されるのは当主のみという定め書を残して。
 右近の系統はこの後、遠州の地を離れ、西国に渡ったという。一方、京の系統はそのまま京都の地に根強く残ったものの、幕末の動乱の中で衰退という道を辿っていったのである…。

「これから行く京都の三条は一応、先々代の門弟らしいが本来は京都幾天流の宗家でもある。奥義伝承が自分にされなかったことにかなりの憤りを感じているらしい。まあ、恨みみたいなものだな。今回の破強巡りには強い警戒心を抱くだろう。もしかしたら、全員で攻めかかってくるかもしれん。その時は容赦するな」
真十郎は1つ年下の直子に強い意志で伝えた。直子も遠州直伝幾天神段流の教えを組んでいるのである。これぐらいの覚悟がないと後々やっていけないと真十郎は見ていた。真十郎の口調はよくころころ変わることで知られている。直子はわずかに頷くと、
「な〜に、そんなに緊張することはないさ。気ままに行こうよ」
明るい表情で言った。
「直子、京都は初めてか?」
「うん、修学旅行に行く前に連れ去られたから」
直子が笑いながら言った。真十郎は苦笑しながら、
「おいおい、連れ去られたはないだろう」
「拉致されたって言ったほうがいいかしら?」
「勘弁して下さい」
そう言うと直子は爆笑していた。この2人の出会いについてはおいおい語るとしよう。
「でも、私、真十郎さんと出会って良かったなぁって思います」
直子は真十郎のことを「師匠」と呼ぶことは滅多にない。というよりも真十郎がそう呼ばれるのを嫌っているからである。理由は堅い表現だかららしい。
「ん?、なんで?」
「内緒」
「おいおい」
直子は笑っていた。真十郎も笑いながらも、この破強巡りが無事に終わることを願っていたのである。

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