百合の頭の中が剥き出しになっていた。
 その倒れた姿から、彼女が逃げようとしていた事が伺われた。
 先月、一緒に買いに行ったスカートがボロボロになっていた。広げられた両足と下半身が晒され、背中には数条もの刀傷が走っていた。
 それらの現実を目にしてもまだ理解できなかったし、それより彼は立っているだけで精一杯だった。状況認識するより、受け入れられない事実との葛藤を繰り返していた。
 どうしていいか分からず、部屋の中を見渡した。
 扉の傍にある電話は、下の台ごと破壊されていた。一目で剣によるものだと分かったが、恐るべき剣技といえた。
 別の方向へ意識を向けようとしても無駄だった。いっそ意識を失った方が、どんなにか楽だったろう。だが出来なかった。
 鮮明でいようとする意思に反して、越刃の体は耐え切れず、壁に寄り掛かってしまった。
 呼吸を乱しながらも懸命に体を起こそうとした時、思わぬヌルッとした気味の悪い感触に、恐る恐る自分の手を見下ろした。

「あ……ああ、あああ……」

 ようやく声が出た。
 彼の左手には髪の毛が粘液と共に付着していた。
 それは、額から上を斬り飛ばされた百合のものだった。振り向いて見ると、壁には娘の髪の毛と一緒に、頭の中身の一部がへばり付いていた。
 吐き気を催す。
 だが吐けない。胃の辺りがひくひくと痙攣した。腹の中が波打つ。それがとても苦しい。
 必死で堪えながらも、父親としては他の家族を探さなければならなかった。
 そんな責任感からか、男の両足は、フラフラとした足取りでも居間を出た。
 誰の無事を先に、という考えはなかった。
 無意識に長女の部長へ向かった。
 途中、バランスを崩し、再び壁に手をつこうとしたが、さっきのことを思い出して咄嗟に手を止めた。だがバランスを崩してしまい転んでしまった。男は、そのままでさらに這い進んだ。
 部屋のドアは開け広げてあった。
『入る時にはノックして』と娘はいつも言っていた。
 揺れ動く意識と戦いながら、何とか立ち上がった父親は意を決して部屋を覗き込んだ。

「……あ、ああ」

 部屋は荒れ放題になっていた。
 ベッドは誰かに蹴られたように斜めになり、かけてあった制服も乱暴に床に投げ捨てられていた。争ったというより、一方的に荒らした感じだ。
 閉められた洋服ダンスの扉に、刀によると思われる傷痕が一文字に走っていた。だが、その隙間から見える中は真っ暗だった。
 それだけで室内に血痕は見当たらなかった。
 手足がガクガクと震えた。懸命に呼吸を激しく繰り返す。

「ああ……」

 しかし長女の姿がどこにも無い。逆にその事に激しく動揺した。悲惨な想像が頭の中を巡る。
 その時、どこかから、何かが動く音が聞こえた。
 緊張の中、家の主は耳を済ました。
 もう一度、聞こえた。
 物音は確かに夫婦の寝室の方からだった。
 まだ生きている誰かが居る。その希望が彼の気持ちをはやらせた。
 動転した男は一度見た居間に戻ったりしながらも、慌てて夫婦の寝室に飛び込んだ。
 そこには愛する妻が、青ざめた顔でベッドに横たわっていた。
 上半身が晒されているという部分を除けば、いつもの彼女に見えた。下半身には丁寧に毛布が掛けられている。
 露わになっている妻の肌を見て、別の心配が湧き上がったが、今は生きているという嬉しさだけに気持ちを集中させた。

「美沙っ!」

 妻の元に駆け寄ったが、夫は触れるのを一瞬ためらってしまった。
 すると彼女が大きく呼吸をして苦痛に顔を歪めた。
 夫は泣きそうになるくらい安堵した。
 妻はまだ生きていたのだ。
 
「美沙ぁ!」

 顔に手を伸ばすと彼女はピクリと反応した。
 空ろな瞳がゆっくりと開いた。夫はどんな顔をしていいかわからなかった。もしかしたら彼女以上に青ざめていたかも知れない。

「……あな、た」

 彼女は弱々しい声を発した。

「大丈夫か、美沙?」

 我ながらバカな質問をした。愛する妻は答えようと笑おうとした。だが頬の筋肉を動かすことが出来ないようだった。
 夫は、そっと毛布に触れて、隠された禁断の世界を覗き見た。
 呼吸が止まり掛けた。彼の中から再び言葉が失われた。
 毛布の下は地獄だった。
 特に下腹部の損傷は凄惨を極めていた。
 儚くも希望を求めようと胸に抱いていた光が、その地獄にごっそりと食われ、絶望の中へ飲み込まれた。
 彼女が強姦されたかも、というのはベッドに寝かされているのを見た瞬間に予想した。
 だが美沙は、その後に侵入者たちの残酷な遊び道具となったらしい。身体機能を奪い切るほど、彼女の体は弄ばれた上に、股間から臍の上まで切り裂かれて中身が内圧で飛び出してしまっていた。
 気を失わない自分が不思議だった。
 妻が、どうしてこんな状態で生きているのか不思議だった。
 今だシーツに広がっていく血。もう手のつけようが無かった。美沙は人としては死んでいた。
 闇が視界の周囲から男を覆い尽くしていく。そこには、ひたすらに絶望のみしかなかった。
 きっと毛布を掛けたのは、彼女の事を思っての行為ではなかったに違いない。見た者を驚愕させるための残虐な演出だろう。
 妻はまだ笑おうと努力していた。
 彼女のその行為が、夫に激しい嗚咽を漏れさせた。溢れる涙で、きちんと妻を見る事が出来ない。
 そんな彼を気遣っているのか、すっかり色が変わった唇を僅かに動かそうとした。
 命懸けの行為だったろう。だが夫に、それを止めされることは出来なかった。

「‥…あ、あ、あ、な……がぁっ!」

 『あなた』と言おうとしたのだろう。
 しかし言葉の代わりに、ロから激しく血を吹き出した。夫の顔に妻の吐いた血が飛び散った。

「……美沙?」

 最後まで夫を気遣ってくれた、優しい女だった。
 生きていたのも、夫に会いたいという一心からだったに違いない。
 そして妻としての美沙も死んだ。
 男の心が急速に裂け始めた。

「み……あ、ああっ……み……」

 壊れる。
 激しく頭の中が鳴動する。
 壊れる。
 様々な言葉と、とても狂おしい感情が駆け巡り、何ひとつとして形を成さない。
 壊れる。
 それは世界を拒否する行為だった。
 壊れていく。

「あ、ああ、あああ……」

 男は両手で力一杯髪ををかきむしり、体を大きく震わせた。
 悲しみが原因で、死ぬかと思われるほどの苦しさだった。
 そんな壊れていくのを意識の一部が押し止めている。体だけが悶える。目を開けているのに何も見えない。
 視界が消失していく。
 狂うことが出来ない。
 脳のどこかが狂うのを許さず、男に現実を見ろと強制している。状況は理解できているが、それを受け入れられない。
 身悶え、激しく頭に爪を立てた。痛みはまるで感じなかった。

「あ、あ、ああ……」

 彼は懸命に何か言おうとした。何でも良かった。どんな言葉でも良かった。何か言葉を発しないと、人で無くなるような気がした。
 口を大きく開けて天井を仰いだ。それは何かを訴えるような姿にも見えた。
 身体の奥から、あらん限りの想いを込めた音が、ようやく外界へ飛び出した。

「ああっ、ああっ、あああぁぁぁっー」

 聞く者の心を鷲掴みにして握り潰すほどの、悲哀と悲痛と苦悶の入り混じった叫びだった。


 どのくらいの時間が経過したか、今の男には理解できなくなっていた。
 物事を理解する能力が著しく低下していた。
 ふらふらと居間へ戻ると足が何かを蹴った。彼のカバンだった。
 視線が宙をさ迷い、おぼつかない足取りのまま、玄関へ向かった所で、力無く座り込んだ。
 彼の意識は、彼の望んだ通り壊れていた。
 扉の向こうで、多くの人間が騒いでいるのも気にならなかった。
 それから十数分後にドアのカギが開く音がして、数人の警官が足早に彼の家に押し寄せて来た。
 さきほどの男の叫び声を聞きつけた近所の人が通報したと後で説明された。


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