「越刃。実はな、俺」
わざとらしく辺りを見まわす。そんな事をしなくても、地味な外見の越刃と違って、鬼師はいるだけで派手な男である。どうしても居場所を相手にわからせてしまう。無駄な行為だ。
「東京で知り合った、ほら、竹下さん、あの人の紹介で、昨夜ある人と会ったんだよ」
「なに、お前……辞める気なのか?」
「まだ決まったわけじゃないんだよ。でもな、そんな噂が出るようじゃ、次のステップを考えておいた方がいいだろ? って話さ」
そう言いながら越刃の肩をポンポンと叩いた。
「やばくないのか?」
「大丈夫だよ。東京に居た頃にも会ったことがあるんだよ、実は」
つまり転勤になる時から考えていた訳だ。
この友人の嫌いな所を上げるとしたら、こういう内緒での準備万端なところであり、それを決まりかけの段階で自慢するように話すところだ。
「ただで、はないんだろう?」
これは、揉め事は勘弁してくれよ、という意味を含んだ言葉だった。
だが顔をしかめる越刃に対して、鬼師は明るい笑みをしてみせた。
「鬼師。お前、わかってる?」
「それより。お前の方こそ大丈夫なのか?」
「何が?」
「だってお前、あのおっさんに嫌われてるだろ。だからお前の企画、通らないんだぜ」
「マジ? ……もしかして、イジメ?」
二人の男が見合わせて笑うと、話題の人にジロリと睨まれた。
「お、やべ……なあ越刃、さっきの話もあるし、今夜は飲みに行かないか?」
「悪い。今夜は下の娘の誕生日で」
「ああ、そうか。百合ちゃんか。この前チラッと見かけたけど、ずいぶん大人になったよなJ
「手を出すなよ」
「子供じゃないか。俺はどっちかと言うと、百合ちゃんよりも、響ちゃんとか美紗さんかな」
「親であり夫である男の前で、そんな事言うか、普通?」
「ところで、響ちゃんはホントに芸能界入りしないのか?」
「は? 何の話? しないよ」
「隠すなよ。だって、先週スカウトされたんだろ? 電話した時に聞いたぜ」
「お前……」
まったく、開いた口がふさがらない、とはこのことだ。
「別にいいだろ、電話くらい。大体、恵まれてるぜ。あんな可愛い奥さんに二人の娘が居て」
鬼師も結婚していたのだが、去年の夏ごろに離婚していた。
あまり深く事情を聞かなかったので、その辺の詳しい流れは知らないが、福岡に来る前は二、三度、家族ぐるみで遊びに行ったりした事もあった。転勤してから会わなくなったから、その頃から夫婦仲が悪くなっていたのかも知れない。
「マジでお前のことを紹介しとこうか? 俺の紹介だったら、手続き無しでいけると思うぜ。事務や営業職じゃなくたって、お前ほどの剣の腕を持ってたら」
「いや、別にいいよ……それに剣術はやめたし」
「ふぅん。ま、やっぱりそう言うと思ったよ。お前は俺と違って、家族思いだもんな。まあ、それに新しいトコでうまくやっていけるとは限らないし」
と不意に軽やかな音楽が聞こえて来た。昔、流行ったヒーロー物の主題歌だ。
それは鬼師のポケットから発されていた。素早くケイタイを取り出し、流れるように通話ボタンを押した。
「あっ、どうも。先日はありがとうございました」
電話の相手と話しながら、鬼師は右手だけで挨拶して立ち去った。
微笑を返す越刃は、鬼師のケイタイのストラップで揺れている銀色の十字架に、ふと目を奪われた。
最近、クロスが流行っているとか、下の娘に聞いたことがある。
つねに流行などにも気を配り続ける、そんなところが若い女子社員の受けの良さになっているのだろう。鬼師はバツイチになったが、案外、再び訪れた独身生活を満喫しているのかも知れない。
人は誰でも何らかの才能を持っている。それが個性と呼ばれるのだ。
以前、長女にそんな事を偉そうに、親父の受け売りを語った事があるが、鬼師の個性になっているのは、様々な情報に気を配り、人との交渉に長けている、といった才能なんだなと、企画書の新しいアイディアが出ない頭で勝手に想像した。
時計を見ると八時を過ぎていた。すっかり暗くなってしまった。
早く帰るつもりだったが、上司から追加の仕事を言い渡されてしまい、こんな時間になったのだ。やっぱり鬼師の言った通り、自分はリストラ候補でイジメを受けてるのだろうか。
我が家のマンションが見えてきた時、もう一度、時間を確認した。
また、百合に文句を言われる。下の娘は長女以上に、誰に似たのか、とてもロが達者なタイプだった。父親は責められるのを恐れて、さらに歩を早めた。
「あら、越刃(こしば)さん。こんばんは」
マンションの出入り口で知り合いの奥さんに出会った。子供が同じ学校に通っていて、水月(みづき)に関する噂を聞いた老婆の娘である。似たもの親子だった。
「今、帰りよっと? 大変やね」
今夜は軽く会釈だけして、そそくさとその場を立ち去り、真っ直ぐ我が家へと向かった。
玄関のドアを開けた途端に、駆けて来た百合に責められるシーンを想像しながら、エレベーターを降りて、足早に我が家の前に着いた。
インターフォンを押す前に、何気なくノブを捻ると、ドアの鍵は開いていた。
「何だ、無用心だな。美紗の奴、また掛け忘れたな」
そう独り言を言いながら鉄製の扉をすっと開けた。
「ただいまぁ」
家の中からは物音一つ聞こえてこなかった。鍵を掛ける甲高い金属音が妙に響いた。
「おいっ、誰もいないのか?」
居間への扉は閉まっていた。細かい模様が刻まれたガラスの向こうは見えなかった。
「いやあ、さあ。ちょっと、追加の仕事で遅くなって」
家族に聞こえるように言い訳しながら、居間までの短い距離を進んだ。しかし家族からの返事は、相変わらず返ってこなかった。
「おい、居ないのか?」
静。
動かない空気。
まるで無人を思わせる静寂だった。
「まったく、一体、何やってんだ? 俺を驚かしてどうするんだ。百合の誕生日だろ」
何を言っても独り言になった。
居間の扉へは、たった四歩の距離である。問いかける父親の声が聞こえない筈がない。
やがて閉め切られた扉の前に立った瞬間、日常的ではない空気を感じて男は眉を寄せた。
心の中がざわざわとしてきた。
気づかなかった自分と、嫌な予感で少しイライラした。
不安定になっていく心を懸命に静めながら、ノブに手を掛けると、一気に開けた。
激しい空気の動きで、別の部屋のドアが音を立てた。
だが、すぐに訪れる無音状態。
そこには一切の音が無かった。
現実感の消失。
越刃はそのままで動きを止めていた。
男の中から現実感が急速に喪失していく。
現実のものではない、としか認識出来ない光景だった。
コレは、テレビの中でしかあり得ないものだ。
茫然としたまま、ただ視線だけを動かした。
今夜の誕生パーティの主役が、足元に寝ていた。
次女の百合は、床にうつ伏せになっていた。
父親には、娘が何をしているのか理解できなかった。
「おい、百合」
そんな風に声をかけようとした。しかし実際は言葉にさえならず、ただ呻いただけだった。
拒否しても、目からの情報が現実を叩きつけてくる。脳はその認識情報をまともに処理し切れなかった。
視界のほとんどを、ただ一つの色が占めていた。
赤。
鮮やかな赤ではない。
吐き気よりも、ひどい眩暈を起こす、脳が嫌悪する赤。
もっとも見たくない赤だった。
撒き散らされた百合の血は、天井の色を変えて、粘っこい滴りを所々、床に落としていた。白いクリームのバースディケーキは無残にひしゃげ、テーブルの下の血溜まりの中にあった。
時間の経過と共に現実が露わになっていく。
父親は、娘を助け起こそうとしゃがみかけて、急に止めた。
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