「あら、越刃(こしば)さん、おはようございます」

エレベーターに乗る前に、同じ階の主婦に出会った。丁寧に頭を下げて、男は一階へ降りた。
マンションから駅までは、歩いて十五分の距離だった。
 通勤、通学していく人々が溢れかえっていた。時間を惜しむ人々は、誰もが逆に裏道を通って行く。人の多さでは、国道沿いのルートより、こっちの方が表通りのようでもある。はしゃぐ学生に、朝から疲れ顔で歩く中年のサラリーマンたち。皆が同じ方向へ向かって進んでいた。

「おはようございます」

 明るい声に振り向くと、隣に住む女子高校生だった。彼女が、奥さんたちが噂しているという、水月(みづき)という娘だった。スラリとした手足が印象的で、その瞳には意志の強さを伺わせた。加えて、アイドルっぽい可愛いらしさも持ち合わせていた。
 妻の言うように、引っ越してきた当初は、何かと彼女の家族とは交流があったが、最近は水月とはこうして通勤時に時々出会うことがあっても、彼女の両親とは会っていなかった。

「あれ? 今日は響と一緒に行かなかったんだ」

 娘よりも少し背の低い、たぶん百五十五、六センチくらいの少女は、爽やかな笑顔で答えた。

「響ちゃん、今日は朝から委員会があるとかって、昨夜電話した時に言ってました」

 そう言えば確か、風紀委員だった。風紀委員があんな短いスカートでいいのだろうか。

「その割に出るの遅かったな、あいつ」
「響ちゃん、遅刻魔やけん」
「やっぱり」

 その一言に少女が慌てた。

「あ、すみません。違うんです!」
「いや、いいよ。何となく、わかってたから」

 苦笑を優しい微笑に変えて、少女をなだめた。
 こうして話していると、とても良い娘だとしか思えない。
 実は妻に言われるより前に、彼女の噂は知っていた。マンションの出入り口で帰宅時に出会った二つ隣りに住む老婆に聞いたのである。
 だが、水月とはこうして会った時に話をするが、そんな、いわゆる不良めいたものを感じたことは一度も無い。響も彼女は大事な友人で、良い先輩だと常日頃から言っていた。
 それにそんな無責任な噂より、父親にとっては娘の遅刻癖の方がゆゆしき問題だった。
 少女は三十も半ばになる男の話を、嫌な顔一つせず聞いていた。また彼女との会話は、彼自身も娘とは違う楽しさを感じていた。

「響ちゃん、おじさんにワンピースを買って貰えるって、喜んでましたよ」
「え? 何で、そのことを」
「昨夜、嬉しそうに言ってました。娘との約束は守ってあげんと、嫌われますよ」

 しかし少女に合わせて笑いながらも越刃は、彼女の腰の辺りで揺れている物を何気に見て、僅かに眉をひそめた。
 それは周りを歩く、若いサラリーマンや数人の学生の腰にも同じような、三十センチ位の棒状の物がぶら下がっているのである。
 彼が毎朝、唯一、顔をしかめる光景だった。
 だが、男は心の内を口にしなかった。

「水月ちゃん。今日、部活はいいの?」

 彼女は剣術部だった。幼少の頃から続けているという事を娘から聞いたのもあり、同じように幼少から道場に通っていた男は、彼女に余計に親近感らしきものを抱いていた。

「今日は休みなんです。来週、大会があるのと、顧問の先生がなんか研修に行くとかって」

 若者達の腰にぶら下がっている棒状のモノは、剣である。
 昔からあったのだが、去年辺りから急に若者を中心に流行り出したモノで、柄を持って勢い良く振ると三段階に伸びて一振りとなる、伸縮する剣だった。元々は中国で造られた物だったが、最近では膨れ上がった人気に押されて、権利を取得した各企業により、国内でも作られるようになった品さえあるそうだ。
 朝食の時に流れていたテレビCMでの"キラ出し"がそれである。
 日本刀に比べれば、かなり切れ味や強度が落ちるが、なんと言っても携帯し易い事で人気を博していた。

「大会か」
「おじさんも昔は出たことがあるんですか?」
「まあ、昔、一回だけね」

 国内法では未成年者の帯刀は禁止されている。だが、剣術奨励のためとかで、未成年でも剣術部に所属して、筆記試験と簡単な審査を受けて認可されれば、帯刀剣許可証が交付されるのだ。ただ最近は、ファッションの一部として部に所属する、いわゆる幽霊部員も数多くなり、またそれに関連しての未成年者が起こす犯罪も増加しているといわれ、社会問題になっていた。
 こういった事に関して、何度となく野党などから帯刀法の見直しという声も上がるのだが、その度に討論自体はうやむやにされていた。"日本刀剣協会"の反対も勿論だが、加えて"大和神剣精神会"とかいう団体も圧力をかけていると週刊誌などは、もっぱら書き立てている。
 この"大和神剣精神会"というのは、帯刀法の見直しの話が出ると必ず名前が出てくるが、あまり一般には、名前以外の実態は知られていないという団体だった。"AFA(アメリカン・フロンティアーズ協会)"と強い繋がりがあるとか、ヨーロッパ、主にキリスト教圏で強い勢力を持つ"聖なる神騎士連盟" と密接だとか、ネットの中でも議論の対象となっていた。
 ただ、ほとんどの国民にとっては、空想好きの絵空事というのが大方の捉え方で、帯刀法の見直しは、議員たちが議論を空転させる時の手段くらいにしか考えていなかった。

「あの……響ちゃんは、もう部へ戻って来ないんですか?J
「うん。どうだろうね」

 彼女は自分の事のようにふさぎ込んでいた。それを見て父親も軽いため息をついた。
 父親がやっていたせいもあったろう。長女は小さい頃から父親と道場へ通い、同じ師匠から抜刀術を学んでいた。驚くべきなのは、それが彼女の才能なのか、師匠から教わる技を、水を吸収する真綿のように自分のものにしていったのである。あまりの急速に実力を上げていくその才能に、我が娘ながら嫉妬に似た感情さえ持ったこともある。いわゆる天才タイプだったのだろう。
 そして娘が中学に入学したのを機に、長年続けてきた道場通いを父親は止めてしまった。
 その後、長女は高校に入学し剣術部に入部したのだが、それが急に三ケ月前に辞めると言い出し、とっとと退部してしまったのである。
 何があったのか、はっきりとした理由はわからなかった。水月の話では顧問の先生と揉めたのが原田らしいのだが、それも彼女が直接見たものではなく後輩に聞いたものだった。
 しかし、そうした長女に父親は何も言わず、好きなようにさせた。妻は勿体無い、将来そのまま段位を取れば就職する時の幅も広がるのに、と文句を言っていたが、こんな世の中だからこそ、武術だけに全てを捧げるのは逆に愚かしい、というのが父親としての考えだった。
 それは自分がそうだったから余計に思ったのかも知れない。だから娘に辞めさせる理由が出来て、実は少しほっとしていた。
 水月の落胆は、何度か響と大会で試合をしたことがあり、その才能を惜しんでいるのだ。

「おはようございます」

 水月に勝るとも劣らない、明るい可愛らしい声に、二人は同時に振り向いた。
 愛らしい顔立ちの少女が笑顔のまま頭を下げて、傍らを駆け抜けて行った。

「おはよう」

 彼女は娘のクラスメートで、秋水(あきみ)という名だった。何度か家に遊びに来たこともある。駆ける姿はスポーツを感じさせる走り方だったが、娘や水月とは違って剣とは無縁の少女だった。
 しかしこうして見ると、娘の友人はみんなアイドルになれそうなくらい、可愛い少女が揃っていると思う。狙って友人になっている訳じゃないと思うが、思わず変に関心してしまう。
 駅に着いて水月が友人たちと合流するまで、男は彼女との短い時間を楽しんだ。
 少女と別れ、人の波に埋もれながら駅のホームに上がると、ちょうど電車が来るところだった。越刃は乗り込む人の波に、否応無くあっという間に飲み込まれた。

「あ、痛っ」

 駆け込み乗車の注意を促すアナウンスを尻目に、駅長に押されるとすぐ隣にいた若いビジネスマンの伸縮剣が太腿に当たった。小声で痛みを訴えたが、あっさり無視されて、さらに押し込まれた。
 毎朝、経験している痛みのような気がする。とっくに既視感なんか通り越していた。


 会社での越刃(こしば)に、父親としての顔は無かった。
 ディスプレイに表示されている企画書を見つめたまま、暮剣な眼差しで頭を抱えていた。上司に修正を指摘された箇所が、ことごとく彼のオリジナルのアイディアぱかりだったからだ。自宅に持ち帰ってまで煮詰めたものが、会議で発表する二時間前に訂正を命じられてしまった。 平社員から昇進しても、さらに上がいる。責任が増える分だけ、余計に面倒になったような気がする。
 彼が昇進を素直に喜べないのが、この状況のせいだった。

「どうした、越刃?」

 同期入社の鬼師(きし)が、隣の空いた椅子を持ってきて座った。この男は、一緒に東京から福岡支社に転勤になった、プライベートでも付き合いのある友人である。

「書類の書き直し」
「この前のか? そういうのは企画課の仕事だろ? お前、情報分析課の課長じゃないか」
「いいだろ、別に」

 越刃が勤めている会社は、インターネット関連の事業に去年から着手しているのだが、その一つとして掲示板サイトも運営していた。
 情報分析課というのは、その掲示板に書き込まれる、あらゆる情報を千差万別して統計化、商品の販売促進への利用、また、個人情報の流出と公序良俗に反する情報を規制する、自主規制という名目の下に、社の利益になりそうな情報を膨大な中から管理分析するための部署である。しかし社内では、あまり重要視されているとは言い難かった。
 名目通りの運営がなされるような仕事と捉えられていないらしい。
 社則に従い、いくつかの部署を転々として、ここには一年ほど前から所属しているが、最初に持っていた印象に反して、ここでの仕事を越刃はいつからか楽しむようになっていた。 様々な情報の動きを監視するというのは、想像以上に男をのめり込ませた。だから、こうして自分なりの企画を上司へ持ち込んでもいるのだ。

「越刃。お前さあ、ほどほどにしておいた方がいいかも知れないぜ。お前、知ってるか?」
「いきなり何だよ」

 鬼師は急に声をひそめた。

「また、希望退職者を募るらしいぜ」
「え? だって、半年前にもやっただろ。あれで一段落着いたって」
「今度の対象者は主に三十代だってよ。年末に合併するっていう噂があるの、知らないのか?」
「合併って? また、外資系か?」
「違うよ。ほら、去年くらいから経済ニュースとかでもやってただろ? 福岡県が近隣の県と共同で進めるとかいうプロジェクトの話」
「あ……ああ」

 それで思い出した。
 越刃はその噂を、掲示板への書き込みで知ったのである。自分の会社の噂を、書き込みから知るというのもおかしな話だが、先になってネットで調べたのだった。
 営業成績の優秀な同僚は、情報を得るのも素早かった。

「じゃ、合併話の裏には自治体が絡んでるのか?」
「さあ、どうだろうな」

 すると鬼師が意味ありげに、さらに顔を近づけてきた。


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