沖縄青年同盟関係文書(抄録)
●沖縄青年同盟規約前文(草案)
●国会内決起斗争戦土からのアッピール
●沖縄青年同盟編集『沖縄解放への道』(1972年5月13日発行)より
1・はじめに
2・第五報告「沖縄人民の権力樹立に向けての展望――主体の確立と沖縄解放闘争の位置――」<目次>
3・同<序>
4・同<第三章 沖縄人民の権力をうちたてよ−沖縄解放権力の過渡的性格と展望−>
沖縄青年同盟規約前文(草案)
全ての沖縄人は団結し、決起せよ!!
我々は支配者によって、抹殺された沖縄=琉球史の中から、日本への統合の真の姿を明らかにしなければならない。日本帝国主義の形成と「発展」は、沖縄の徹底した植民地的搾取・収奪と暴力的皇皇民化政策により、「富国強兵」の基礎を与えられた。そして沖縄は「そてつ地獄」と呼ばれる飢餓社会に構造化させられ、社会的人間的発展のための一切の物質的精神的再生産の基盤を奪われ、沖縄人は「琉球人(リキジン)」として最下層に陥し込められた。
長い抑圧の歴史の中で奪われた沖縄人としての誇りを、自らを解放する闘う主体を確立することにより取り戻すなかから、我々は沖縄解放闘争に決起していく。階級支配の社会での同化政策は、その本質において、差別政策をたくみに強化するものである。社会的存在関係の非和解性の中で、同化=差別と斗うことなしには差別抑圧された者の、人間の尊厳の回復はかちとれない。我々は日本国民たることを拒否し、自らを沖縄人と呼ぶ。
米帝国主義の沖縄支配は沖縄人民の生活を根底から破壊した。沖縄の日本への統合は、沖縄人民の一切の権利、経済生活、文化、共同体を破壊する以外の何ものももたらさない。日本帝国主義による沖縄の全社会的再編=破壊、・抑圧を粉砕し抜く斗いの中から、沖縄人民の自己解放の運動と組織を形成し、沖縄人としての誇りを克ちとり、階級的自覚を促し、団結を固めなければならない。日米帝国主義と対決するその政治的に武装された団結を、生産点、・生活点からの組織化で固め、権力斗争を担う強力な戦斗態勢を日常的に構築していかなければならない。今後も続く米軍支配と日本軍による沖縄人民の再度の支配を絶対に許してはならない。今後も続く米軍支配と日本軍による沖縄人民の再度の支配を絶対に許してはならない。日米軍隊解体、軍事基地解放の闘いの勝利は、沖縄解放の最も根本的課題である。これは、軍隊・基地が、階級支配の物理力の根幹であるばかりでなく、沖縄女性の数分の一を占める「売春婦」の示すように、今日の沖縄の全てが軍隊・基地と結ばれているからである。
我々の闘いは社会的・経済的事情から沖縄を離れることを強制され、日本で働き生活する沖縄人、又は南米や世界で働き生活する沖縄人との固い団結で闘われる。
特に「本土」集団就職者として劣悪な条件、不当な差別の下で働く沖縄人労働者の権利を守る闘いは、重要である。この闘いは、部落差別と闘う非差別部落大衆の自主的な解放闘争と連帯し、日本帝国主義の凶暴な抑圧・差別攻撃に抗して闘う在日アジア人民と連帯し、人民の分断支配、差別を撤廃していく闘いと連帯して闘われる。
沖縄の現実は帝国主義矛盾の集中的表現である。それは、我々沖縄人民が世界労働者階級人民と真に連帯して帝国主義権力を打倒するその<カナメ>に位置していることを意味する。沖縄人民の自己解放のための、沖縄人民の権力は、帝国主義打倒に向けての、日本労働者階級人民との固い結合を軸に、アジア・世界人民との共同の闘いで、守られ発展させられる。この沖縄解放の道は人間が資本から商品として扱われ、帝国主義者から手段として存在させられる、現代社会を、廃絶する闘いの重要な環である。
沖青同の同盟員は、自分の持てる力のすべてを尽して、この誇りある沖縄解放闘争の先頭にたって闘い抜く。
沖縄人民の権力を樹立せよ!!
国会内決起斗争戦土からのアッピール
七一年十月十九日、衆議院本会議場……「内閣総理大臣佐藤栄作君」と、船田中議長に呼ばれた佐藤は、所信表明なるものを始めた。佐藤の演説が核心の沖縄問題に入った、その時、爆竹が鳴りひびき、我々三人は断固たる闘争を貫徹した。
我々の国会内決起は、「沖縄処分国会粉砕!」「沖縄返還協定粉砕!」を闘う、現地沖縄人民と固く連帯する闘いであり、日本国家に、沖縄を処分することを許さないとする沖縄人として、人間として、当然の権利を行使したのである。それはまた、未だ日本に、「日本国憲法法」に対する幻想を捨てきれずにいる沖縄人に、そして議会制民主主義という美名のもと、神聖な国会と信じて疑わぬ日本人にその沖縄国会の欺瞞性と犯罪性を暴露した闘いでもあった。我々のこのような正当かつ必然的な闘いを、国家権力とマスコミは、一体となって歪曲することに狂奔した。しかし、我々の闘いが、真の沖縄の闘いである以上、そして、沖縄問題のブルジョア的解決が不可能であるということを、自ら一つ一つ実証している今日、我々の正当性は、明確である。
七一年十一月十日の「沖縄全島ゼネスト」と、戦闘的デモンストレーションは、沖縄人民の三百六十余年にわたる、たまりにたまった怒りの大爆発であり、日本国家への挑戦状の突き付けであった。佐藤自民党政府は、そのような雄叫びを一切無視し、あるいは恐怖し、「返還協定」を強行採決、それも抜き打ちというおまけつきの超ハレンチ劇を演じたのである。一九六〇年以来、立法院等の諸団体が要求しつづけた国政参加を、「憲法上疑義がある」とし、首をたてに振らなかった政府が六九年「日米共同声明」発表後手のヒラをかえすように国政参加を認めた。「日米共同声明」と、そこで合意された「七二年沖縄返還」によって、日米両帝国主義の沖縄・日本を含めた、アジア支配の再編強化として打ち出されたものとして把えたとき、沖縄の国政参加がまさしく、支配者の道具としてあり、人民弾圧手段として行使されたのは明確である。
沖縄は、その歴史が示すように、その人民の意志は一切無視されつづけ、日本国家の「道具」としてのみあった。つまり、日本という国家を生かすため、沖縄は、沖縄人民は、圧殺されつづけられているのである。そうであるから、国会での強行採決は、沖縄人なら誰しも予想しえたことである。しかしそれは、決して支配者の言うがままになるという事ではない。沖縄人民は、嘆き悲しみ、そしてあきらめたりなどはしない。支配者の反人民的、反革命的対応には、それを拒否し、粉砕するしかないことをハッキリと確認している。沖縄は、第二次帝国主義戦争後の混雑期の中で、沖縄人民の意志に関係なく、日本政府によって全く一方的に、日本の「領土」と、日本「国民」と規定されたうえで、講和条約により、アメリカ帝国主義に売り渡された。
その後沖縄は、米軍政支配のもと、全ての基本的人権を略奪され、屈辱的な生活を強いられた。その悪辣なる米軍独裁から解放を望む沖縄人民にとって、沖縄教職員会を中心とした復帰論者達の宣伝した「平和憲法のある日本国家」は、確かに、ユートピア的存在としてあった。復帰論者達は、沖縄の苦痛・苦悩は、日本(デッチアゲ的に、ユートピア化された)に復帰することにより解決されるので、何が何んでも復帰することが先決だとし、沖縄の闘う全てのエネルギーを、日本復帰運動に集約していった。しかし七二年返還が近づくにつれ、「祖国」日本が帝国主義然としたその真姿をあらわにしている今日(つまり、返還は、帝国主義の攻撃としてあるが故に、沖縄人の意志は一切無視されているという現実)、我々沖縄人は、「復帰運動」がブルジョアジーにいともたやすく、足元をすくわれ、日米両帝国主義同盟再線の補完物となっている現実を、痛苦にとらえかえきねばならない。それにはまず、復帰運動の中ではすべて切り捨てられてきた、日本によって作られた三百六十余年にわたる抑圧史を、すんだ両目でハッキリと見なおさなければならない。
一六〇九年、薩摩が武力でもって琉球王国を支配下におき、二百年以上にわたり、琉球の貿易の利潤を横領しつづけた。
一八七二年九月、明治天皇の「藩王御請」により琉球藩とし、日本属領の歴史が始まった。そして、一八七九年三月には、武力を背景に、「琉球処分」を強行、明治政府は沖縄の「廃藩置県」を実施したにもかかわらず、翌年の一八八〇年には、宮古島・八重山両先島を日清修好条約の改約(清国と欧米諸国間に、締結された修好条約に比べて不利な点が多く、これを欧米なみにしてもらおうというもの)を条件として、清国に譲渡するという交渉を、沖縄人民には一言もなく、秘密裡に進めるという全く反人民的なことを策していた。(この交渉は、中国の国内問題等でウヤムヤになったが……)
政府は「琉球処分」後、沖縄人民の要求には一切答えず、旧慣墨守たる政策を取りつづけた。土地整理や地方制度の改革を、意義的におくらせ、重税でしばり、さらに、商品消費市場としてしぼり上げるという、二重の収奪を強いたのである。その結果が大正末期から、昭和初期に沖縄を襲った「ソテツ地獄」である。野生の有毒植物「ソテツ」に食を求めても、先活苦は悪化するばかりで、やむなくわが子を、「遊女」か「潜水漁夫」に売らざるをえないという、全くの生き地獄が展開されたのである。
そのような瀕死の沖縄に対し、日本政府は、税の負担を軽くするのではなく、より以上の容赦のない収奪政策でのぞんだ。面積・人口等、沖縄に類似する宮崎県に比べて実に六倍という、途方もない税金を取りたてたのである。処分後、ほとんどのものは旧来のままであった中で、権力維持の条件である。司法・教育制度等はいち速く改革された。独裁的な司法体制を強行実施することにより沖縄支配不動のものとしていったのである。教育政策においては、初等教育のみに熱心で、児玉校長の英語廃止提案等にみられるように、沖縄人には高等教育は受けさせまいとし、さらに、沖縄文化を抹殺せんと、「方言撲滅運動」を強制的に展開させた。つまり、政府の意図したものは、天皇の「忠良なる巨民」作りであり、日本人との同化と差別を強要する以外のなにものでもなかったのである。それがあの、第二次帝国主義戦争において、「日本防衛の強要」となり、沖縄総体を絶滅寸前にまで、おいやったのである。その沖縄戦では、米軍のみならず「皇兵」と称する(旧)日本軍によって集団自決を強いられ、自らの壕を追い出され、敵弾のえじきとなった沖縄人非戦闘員、その数は実に、十五万人以上にのぼる。
「近代的日本」として、自らを発展さすための手段とした明治政府の「琉球処分」。第二次帝国主義戦争においては、沖縄を破壊することにより「日本防衛を強要」し、戦後はその沖縄をさらに犠牲にすることにより、自らの独立を獲得した。つまり日本政府は、沖縄人民を無視することにより、自らは生きのび、「民主主義」と「平和」の中でブタのように肥え太り、日本帝国主義により、現在なされんとしている「沖縄返還」もまた、日米共同の反革命前線基地作りであると同時に、沖縄人民と日本人民との政治的・社会的差別の強要でしかない。つまり、日本への統合は又しても、アジア人民殺戮と、沖縄人民の死への強要以外の何ものでもない。〔現在進行している、返還の内実については、「『沖縄返還』の本質と沖縄の現状」(第四報告)を見よ!!〕
沖縄の日本への統合で日本政府が意図するものが明確な今日、その「返還」そのものを、拒否し、粉砕しなければならない。「返・奪還」に未だ固執している人々は、沖縄の諸矛盾は、日本に復帰したあかつきに、日本国民と、共に解決するのだと言いつづけている。このように、日本に復帰してから、日本国民として、日本解放闘争をになっていくという理論には、沖縄の抑圧史、返還の内実が、一切無視されている。この復帰運動のもつ、「日本志向のナショナリズムを、思想的に超克しない限り、(沖縄の闘いの発展性はない。なぜなら)、それは、沖縄人が日本人といささかの差別もない、同質の国民としての、資格付与を願う、心情でしかないからである。」(『反国家の兇区』)
今後の沖縄人民の闘いは、日本への同情心に訴えるような請願行動であってはならず、日米両帝国主義との対決であり、帝国主義解体まで永続的に続けられねばならない。それなくして、真のアジア人民との連帯はありえないし、沖縄解放も実現しえない。それは、長い抑圧の歴史の中で、奪われた沖縄人としての誇りを取り戻すなかから、自己解放を克ち取り、世界的視野にたち、自らを、アジア解放戦士と位置ずけ、帝国主義打倒へ向けて日本労働者人民との固い結合を軸に、アジアの、さらには、万国のプロレタリアートとの連帯を克ちとるということだ。
現在の、沖縄人民の闘いは、破産した復帰運動と同質のものではなく、日米帝国主義打倒への闘いとして、ハッキリ表出してきている。
コザ暴動こそが、日米両帝国主義総体への返逆の、ノロシであった。又、全軍労の闘いも、基地解体と、解雇撤回という矛盾に苦悩しつつも、あくまで、沖縄解放を志向し、世界最強といわれる米帝国主義軍隊を相手に、さらには日本帝国主義策動に対して、がん強に、そしてねばり強く、繰り返されている。
このような闘いに、固く連帯する、我々の正当かつ必然的な闘いに、権力は全く不当にも、建造物侵入、威力業務妨害という名目で起訴した。我々は、このようなチョロクサイ権力の攻撃に屈服などはしない。沖縄が悪いのではなく、沖縄処分国会に象徴されるように、沖縄には、ブルジョア法すらもかなぐり捨て、一八七二年以来百年間一貫して、沖縄人民には有無を言わさず差別抑圧を続けている日本が悪いのであり、そういう大形を許す日本人が悪いのである。それと闘うのは、沖縄人として、生きるための必須条件である。あくまで支配者が、琉球処分を強行せんとするなら、それ担当のことをする迄である。これ又、必然的なことである。
我々三人は、裁かれるために、法廷に立っているのではなく、国家権力との対決のためにいるのだということを、全ての人民に、ハッキリと断言する。
沖縄解放への道/1972年5月13日/沖縄青年同盟
はじめに
いま、われら沖縄人は、かつて経験したこともないような歴史的転換期にさしかかっている。
一九七二年五月十五日・・・・・・大和(ヤマトゥ)の汚れ切った手によって、再び沖縄が隷属と忍従を強いられ、新たな「屈辱の歴史」がはじめられようとする時、まさにその時こそ、暴虐と圧政の歴史をかいくぐって育くまれた焼けつくような情熱と鉄のように堅い意志をもって、われらは沖縄解放闘争の新たな歴史へ向かって出発してゆかなければならない。
わが沖縄の兄弟たち!! われらは固く結びつき、この終りなき闘いに誇りをもって旅立とう!!
* * *
本論文集は、沖青同理論合宿の報告論文とこの間の闘いの報告とを収録したものである。合宿報告論文は次のようになっている。
第一報告 「沖縄と日本――沖縄の歴史T」(琉球史の発生−琉球王国−薩摩侵略−「琉球処分」−戦前)
第二報告 「復帰運動の総括――沖縄の歴史U」(戦後)
第三報告 「沖縄労働者・農民の位置――沖縄出稼ぎ労働者・農民の歴史と現実」
第四報告 「『沖縄返還』の本質と沖縄の現状」
第五報告 「沖縄人民の権力樹立に向けての展望――主体の確立と沖縄解放闘争の位置」
第六報告 「沖縄青年運動史――沖青同の位置と課題」
このうち第一、二、六報告は未完のため、本論文集に収録できなかった。改めて発表する機会を得たいと思う。
「富村さんを日本国家権力に裁かせるな」は、日本への同化を拒否し沖縄人としての闘いの原点を突きつけた富村順一氏の決起の意義とその裁判闘争への呼びかけ文であり、「国会決起闘争の歴史的意義」は、七一年十月「琉球処分」国会の冒頭、佐藤の所信表明演説中に国会内で決起し、現在裁判闘争を闘い抜いている三戦士の一人の陳述である。在日沖縄人の闘いの烽火であり、その展望を切り開いたこの二つの決起の意義を、しっかりととらえてほしいと思う。
全ての同志・兄弟諸君が、積極的な意見と建設的批判を寄せてくれるよう期待します。
・第五報告・<目次>
序
第一章 日本国家への統合と対決する沖縄解放闘争の主体を形成せよ
(一)沖縄人として日本国家と対決せよ
(二)沖縄の異質性を突き出し、日本同化と対決せよ
(1) 沖縄人にとっての「国家」
(2) 苛酷な差別・抑圧の歴史、体験
(3) 天皇制と沖縄共同体
(4) 日本との関係における民族問題
第二章 日米帝国主義の沖縄支配の構造と反帝国際主義
(一)沖縄アジア情勢と日米帝の返還合意
(二)沖縄支配の権力規定
(1) 国家権力とブルジョア独裁
(2) 戦後米帝の軍事支配
(3) 国家統合と国家支配
(4) 沖縄の権力規定=打倒対象
(注)「沖縄ブルジョアジー」なるものの問題
(5) 権力国家論の欠落=階級的視点抜きの復帰主義者の破産とその反動性/国政参加への埋没と闘争・団結の破壊
(6) 平和産業論による沖縄プロレタリアートの解体と沖縄の社会的再編=破壊への「左」からの協力加担
(三)アジア人民・日本・アメリカ人民との連帯・共同闘争で日米帝国主義を打倒せよ!
(1) アジア解放戦争の進撃に呼応せよ
(2) 日本・アメリカ人民との連帯
第三章 沖縄人民の権力をうちたてよ
−−沖縄解放権力の過渡的性格と展望−−
(一)「ユーガワイ」(世替り)を人民の力で社会変革に転化せよ
(二)沖縄人民権力の性格と樹立に向けての課題
(1)人民の武装
(2)統一戦線−自然発生性と階級形成
(3)党
(4)生産−生活−闘争をつらぬく機関(委員会)を社会の単位とすること
(5)世界性−国家消滅の問題
第四章 当面する課題と闘争 組織戦術
スローガン
・第五報告・序
「さまよえる琉球人」の小説中の差別的内容を捉えて旧沖縄青年同盟は大正十五年三月二十日広津和郎への抗議を提出する緊急動議を満場一致可決した。
「…今日、本県は経済破綻の底にこの世乍らの地獄の憂き目を苦験してゐるのは、丁度足下の筆で形容するロシア帝国時代の『農民』そのままであります。全く彼の炭坑さえこれに比較せば極楽であります。真実に何も誇張した言い方でもありません。それで仕事なし。勢ひ職を求めて、止むを得ずも県外に労働すべく、故郷を遠く去って、『さまよえる琉球人』にならなければなりません。然るに従来所謂『内地』に於いて県人は『リキジン』と罵られ,若しくは『豚児』と嘲られ、劣等民族・未開人種として、一種の差別視され、虐待、冷遇、酷使の経験事実に、余り多く際会した程であります…。
本同盟は産業青年の同盟であります。我々は無資産で無能力、働らかねば生命をつなぐことは出来ません。いつ我々も県外に職を求めて赴かぬとも限りません。然らばこの問題は県民大衆一般的の問題であると共に、やがて我々自身を脅威する重大問題であります。」
ソテツ地獄と呼ばれた飢ガ社会と差別下の戦前の沖縄社会で、(旧)沖青同腹底からの怒りで抗議し、権力と斗い抜いた。日本帝国主義はこの(旧)沖青同や生進的労働者人民の日本国家に対する斗い、侵略戦争反対の果敢な斗い(社会主義運動)を、強権的の圧殺しつつ、沖縄決戦へとひきずり込み、日本軍の手榴弾で、日本刀で、天皇の名による命令で、沖縄人口の三分の一を殺していった。
今再び、わが沖縄は、日本帝国主義のアジア侵略反革命の拠点として、この日本国家へ統合されんとしている。日帝の狂暴な牙は既に自衛官の上陸を進行させつつ、(日本)軍用地を強奪し、政治的思想的な系列化(系統的支配)を推めている。一方ブルジョアの貧欲な野望は、多くを基地に奪われやせ細ったこの沖縄から、更に骨の髄までしぼり取ろうとしている。沖縄の土地という土地は買い荒されている。二百社を越す日本資本の進出は、沖縄の隅々まで資本の論理による分解と疎外をもたらす。
今や沖縄そのもの、沖縄人そのものが絶滅されんとしている。かくして日本国民・日本帝国主義は、「沖縄問題は終った」として〈無視しつつ〉殺していく。さまよえる琉球人≠ニしていま沖縄人は、南米移民へと流れていき或いは日本集団就職でこの沖縄問題(解決)の年七二年に約十万人が日本へ流れてくるだろうといわれている。この沖縄からひねりだされた十万人は日本で最下層の社会的位置、流動的労働力として移動し又は沈澱しつつ、日本人の具体的直接的な今後更に拡大するとみられる沖縄差別を浴びるだろう。
ここに我々は、沖縄「県民」としてよりよき日本人(国民)になることを拒否し沖縄人として団結し決起する。よりよき日本人又は日本国家が沖縄を解放してくれるだろう幻想をきっとぱり断たねばならない。我々が日本の労働者人民に期待することは我々への同情や、沖縄を解放(奪還)してやろうという傲慢さではなく、我々と共に斗い抜こうということである。
今こそ最も核心的問題が問われている。沖縄闘争≠ニは何なのか?我々にとって沖縄闘争とは沖縄人の解放以外のものではあり得ない。沖縄人抜きの沖縄闘争とは無意味であり、空虚である。安保破棄や「世界革命」の手段として沖縄基地撤去が必要ならば、メースBやB52積載の核を爆発させればよかろう。これは一定の組織力で軍事技術的に不可能なことではなく、こうして核爆発で沖縄基地は一瞬にして沖縄人と共に撤去されて沖縄問題は「解決」するであろう。この沖縄闘争戦術は一見極端な例にみえるかもしれないが、我々の眼からは、既成の沖縄闘争論なるものは結局これと同質のものでしかなかった。我々は自分の力で組織をつくり、斗いの展望を示し、斗いを遂行していく、沖縄解放の理論を斗いを発展させるのは沖縄人である。この論文は沖縄人が団結し、勝利を確信し、斗いの展望を明らかにするための一提起である。多くの同志諸君からの批判と意見を期待する。
・第五報告・第三章 沖縄人民の権力をうちたてよ
−−沖縄解放権力の過渡的性格と展望−−
(一)「ユーガワイ」(世替り)を人民の力で社会変革に転化せよ
いま沖縄は「ユーガワイ」(世替り)のただ中にある。
「唐の世」から「大和の世」そして「アメリカユー」へと世替りを受けてきた沖縄は再びヤマトウのユーと替わろうとしている。これまでのすべての世替りがそうであったように、いますすむヤマトウへの世替りも沖縄民衆にとって、重くるしい不安と一層ひどくなる生活苦をもって迫ってくる。ユーガワイとは社会改良、生活の発展ではなく、支配者の交替と統治機構の変化であり、より一層の沖縄の破壊をもたらした。新たなユーガワイの度に、ミルクユー(幸福の世)を幻想してきた民衆はその夢もさめやらぬうちに現実のドン底につき落されてきた。だがいまつきすすむユーガワイはその幻想、甘いミルクユーへの期待をも抱かせない程に、さめた現実として進行している。常に沖縄民衆の意志とは無関係に行なわれる。このユーガワイの歴史を断て。支配者の都合で勝手に行なわれる沖縄の再編を粉砕し、我々の力、沖縄人の力で真の世替り=社会変革をおし進めミルクユーを建設しなければならない。幻想さえも与えずに進行する日帝によるこの世替りこそは沖縄人に自己解放の道を示すものとなっている。いまこそ空虚な惨めな帰属論争をのりこえて、沖縄人民の権力をうちたてよ。
沖縄人ならば、誰でも一度は沖縄の自立のことについて考える。しかし、次の瞬間にはおエライ人(賢い人達)から、それは全く不可能な〈夢〉であることを教えられ、納得して(させられて)しまった。沖縄人の最も本来的、自然的な〈夢〉をこの賢い人達が、軽く一蹴して冷笑する理由はただ一つである。それは沖縄人が日本民族であるとか、ないとかいう問題ではない。一部知識層、支配層を除いて、沖縄の民衆、そして我々にとって沖縄人が日本民族であるかどうかはたいして大きな問題ではない。「ムヌキイシドワーウシュウ」如何にして食っていくかである。賢い人達には長く虐げられてきた沖縄人が自立できるとは夢にも考えられないことである。もともと少ない土地を食いつなぐためにあるわずかの耕地、それを食いつぶして全島をはりめぐらす気の遠くなるような巨大な軍事基地。カマとヌンチャクしか与えられてない沖縄人民の前に立ちふさがる完璧に武装した軍隊。そして借金以外のものをもたない沖縄の労働者・農民・「売春婦」に対して莫大な富と技術と土地をもって登場する日本資本。云々……。世界に君臨しているアメリカ、アジアを掌中に収めようとする日本、このまえにある長い被抑圧の沖縄。
賢い人達にとってはこのちっぽけで虫ケラの如き存在の沖縄人が一人前の〈夢〉をみることそのものが、ふとどきで、哀れで、あさましくおろかにみえるのである。結局ちっぽけな沖縄人にとって〈賢い〉やり方はアメリカがいつの日か基地を撤去するのをひたすらに待ちわびることか。そして日本国家(国民)が沖縄「県民」を豊かに暮していけるようにしてくれるだろうことを期待しつつ、泣きの涙で請願や抗議を繰り返していくことであろう。賢い人達にとってさらにホントのことを言うなら「基地のない平和で豊かな復帰(又は奪還)」も全く同じ理由から沖縄人にとってはただの願望であり、沖縄人民の力で斗い取ることができるスローガンでは全くなく、単なる選挙文句かセクト即制「暴動」のための空気入れスローガンでしかない。結局、賢い人達の結論は「沖縄人民にとって、自己解放斗争という立場そのものが誤っており、日本国民(人民)が民主連合政府(又はニッテイダトウ)をなすまで待つか、その一部(支部)として協力してくれ」ということである。賢い人達の目からみれば、沖縄人は借金だらけの貧農として、低賃金労働者として(米軍、自衛隊)基地労働者として、「売春婦」としてサービス業者として、土地を失った浮遊民として一切の自己解放のそして生きる展望と誇りを失ない、権利、団結を失ない、借金と涙に包まれて生き、そして死ぬしかないであろう。沖縄人民の長期にわたる苦しみと斗いの結果得たのはただ一つ、日本国民(国籍)という屈辱の称号だけであるのか。
沖縄人民には手がつけられない相手である帝国主義を、沖縄斗争を手段とする日本人が倒すまで沖縄人はせいぜい日本人並の権利を要求する運動でもしておれという意味である。結局、賢い人達にとって沖縄斗争の本質は日本人並運動、「革命」的表現を使うなら特殊な国内階級斗争である。
米軍支配の中でなお存在してきたわずかばかりの土地と、美しい風土、斗いとってきた権利、若干の産業がいま破壊されんとしている。自衛隊の土地強奪、工場、観光、投機、別荘用と余すところなく買い荒らされる土地、美しい空と海をこわす公害、二百余の企業の侵出による支配、労働者農民層の解体と新たな資本の下への秩序づけ、政治的思想的攻撃……。長い歴史の中でボロボロに弄ばれ、食いつぶされてきた沖縄をさらにいま日帝がその最後の骨の髄までしゃぶり荒らそうとしている。沖縄人を沖縄の地から、南米へ日本へとはじきだそうとしている。この沖縄の屍のうえに日米「共同」反革命の要塞を築こうとしている。屈従の民なる沖縄の歴史に終止符をうたなければならない。今こそ全ての沖縄人は団結して決起せよ。
我々は沖縄人であることを誇りにおもい、沖縄の歴史的使命をはっきりとつかむことができる。それ故我々は理屈(ブルジョア的常識)抜きに確信する。中国人民は勝った。ベトナム人民は勝っている。インドシナ人民は勝ちつつある。沖縄人民も絶対に勝つ。軍隊を解体する。基地を解放する。日米資本の富を奪取し搾取収奪者を倒す。一切の土地と生産手段を取りもどす。我々は日本に調子を合せて待つことはできない。虫けらのように扱かわれ、一人前に自分を主張できなかった沖縄人が、自分を解放する斗いに決起したのである。この斗いは我々の条件が不利にみえればみえる程、我々に正義と使命と情熱を与えるのである。賢い人達から権威づけられ、これまで一般に信じられてきた常識(ブルジョア的偏見)はクズカゴにすてたほうがよい。我々に必要なのは、勝利への確信(誇り)、斗いの展望(理論)、沖縄人の固い団結(戦斗組織)である。努力すれば沖縄解放斗争に必要なこの三つの力は作ることができる。不屈に斗いぬけばアジア人民との国境を越えた共同斗争で日米帝を追いつめることができる。帝国主義者の見かけだけの強大さをみて自信をなくし、労働者人民の真の力をしらずに絶望してしまった賢い人達には人民の解放戦争の核心問題がわからない。
強大な日帝に統合されてしまったことで、沖縄解放斗争から逃亡し、沖縄問題を一県民の権利を守る国内改良斗争におし込める復帰奪還派の諸君は日本主義の立場から沖縄人民の自己解放斗争へ敵対している。復帰主義の思想はブルジョア思想そのものである。長い抑圧の歴史で「遅れた沖縄」は「進んだ日本」と一体化されなければ解放されないのか。何故、アジアではなく日本とだけ結合しなければならないのか?日本統合によって、日本人教育を受け、日本資本の下で近代的労務管理を受け、沖縄の全てが日本国家意志で再編され、沖縄人意識と共同体、団結を失ない、バラバラにされた一個人(労働力)として分割支配される、この過程を経ることなしに新たな沖縄の未来は生まれないのか?こういった日本型近代主義思想と対決しなくてはならない。
全軍労スト、二度にわたるゼネストは日本型の「階級的理論的深化」によってかちとられたのか?日本型に分解されたところで党派ごとにまとめられた「階級的自覚」ではなしに沖縄人としての思想と団結である。この斗いに復帰協ダラ幹が「本土復帰」のコロモをかぶせようとも多くの斗う労働者人民の思想と意識の基盤は日本主義などでは決してなく、沖縄人としての思想(価値観)という(言わされている)部分が少なくないことは客観的事実であるが、すでに大きく動きだした新たな潮流こそが基本的な本流になることは、日本との直渉的接触が増していく歴史の中で明らかにされるだろう。この大きな流れこそは日帝の国家統合を粉砕し、日米帝の沖縄支配を根底からゆるがす斗いを担う歴史的必然性をもつ本流である。日本型に分割されたブルジョア的個人=県民という過程を沖縄人が通ることなしに、沖縄が新たな団結と共同体をもってすすむ道がこの本流の中にある。
それを思想的実践的に明らかにするのが〈沖縄人民の権力を〉である。
(二)沖縄人民権力の性格と樹立に向けての課題
沖縄人民の長い苦しみと斗いの中で探求し模索されてきた問題、自己解放に向けての最も基本的な命題を〈沖縄人民の権力を!!〉として提起しなければならない。戦後、沖縄民衆の頭上をおおった復帰運動は、「戦後の終り」、日米共同声明(六九年)で政治生命を絶たれ、それ以後の七二年までの三年間過渡期としての返還過程は、日帝の統合の推進、復帰運動の終焉、返還粉砕派の抬頭と苦斗、復帰不安から復帰不満へと全ての面で沖縄のユーガワイを生みだした。この過程を返還粉砕斗争として斗いぬいてきた我我は、復帰期日が五月十五日と決った段階で「いよいよ本格的な沖縄解放斗争が始まる」という固い決意と展望を自分のものにしている。日本国家への統合=返還粉砕・日米軍隊解体・基地解放の斗いを〈沖縄人民の権力樹立〉へと導き斗うこと。
沖縄解放の道を明らかにする最も基本的視点が沖縄人民の権力である。沖縄人民権力樹立の斗いは、今日の全軍労斗争を始めとする諸斗争や日本−世界の沖縄人民の斗いの骨組みであり、現実的具体的獲得課題であり、そして諸斗争を結びつけ最後的勝利へとさし示すものである。この間の復帰運動はそれ自身の戦斗性を発揮して米軍支配に一定の制約をもうけ、その範囲で若干の権利を斗いとってきたが、その構造において根本的限界をもっていたこと。今その構造の突破なくしては一歩も前進しないばかりか、既得権さえも奪われる破目にあること。このことの核心的問題こそが階級的視点と呼ばれているもの即ち権力問題である。
沖縄解放斗争にとっての現在的かつ基本的行動課題である沖縄人民の権力とは何か。そのことを明らかにするまえに、まず言葉の問題から説明せざるをえない。日本語そのものがそうなのか、左翼運動用語がそうなのか知らないが、我々が自分の思想、政治的内容を表現するのに言葉の選択に多くのムダな時間と労力を費やさねばならない。
いくつにも分裂した党派の使う〈党派性をあらわす言葉〉は極少数の活動家にしか意味がわからない隠語となってしまっている。「日帝打倒」や「世界革命」「ソビエト」「軍事」「地区」という〈単語〉にまで党派性がしみつき、気楽に使うこともできないのである。このことは政治宣伝煽動上も理論的深化のための論争上も、共同斗争のための意志一致の為にも多くの損害を与えている。レーニン=ボルシエビキは政治宣伝と煽動を区別し政治−組織戦術を展開する。だが日本左翼においては日共はプロ独という概念、理論まで否定して右翼化するし、一方では自党派にしかわからない特殊な内容をこめた「革命」用語で大衆煽動をなそうとするのである。我々は大衆煽動上も、政治宣伝−理論上も同一の意味をこめて〈沖縄人民の権力を〉と叫ぶ。
帝国主義支配の鎖を断ち、労働者人民が自らを階級として表現し、そして人間として解放していくところの基盤である「人民の権力」は、独自の特殊的歴史的規定をもった過渡的なものである。各国の解放斗争のなかで構築され形態的に異なり過渡的性格を有する「人民の権力」を貫ぬく普遍的本質的条件をみなければならない。マルクス主義の概念でいえば「資本主義から社会主義へと至る過渡的プロ独『国家』を構成する基本的条件」といえるだろう。だがこう表現すると解放斗争のそれ自身のダイナミズムと「人民の権力」の性格を結びつけて明らかにしにくくなるし、プロ独「国家」や世界革命の一般的原理から自国の階級斗争の形態まで規定しようとする日本型左翼の、転倒した論理(レーニン主義方法論の否定)に陥りやすくなる。
それ故、「人民の権力」を貫ぬく基本的な五つの条件を述べながら、沖縄人民権力の性格と特殊的位置等々を展開していくことにする。人民権力を貫ぬく五つの基本的条件というのは第一に「人民の武装」、第二に統一戦線すなわち自然発生性と階級形成、第三に党、第四は生産−生活−おける利益をそのまま階級の利益、人民の利益として主張し行動するものであり、これを貫徹するのは階級的結合による生産−斗争である。したがってブルジョア社会で分割された「私」=国民として、抽象的な「公」の政治に参加するのではない。
日本の「公」の利益と沖縄人民の利益は非和解的に対立している。我々は一般的な国民として日本の政治に参加するのではなく、沖縄人民の利益を守るものとして、日本の政治−経済と対立して生産−斗争を貫ぬかねばならない。これは理念の問題ではなく現実的な問題である。沖縄の農民は極度の貧困におとしこめられ、食うにも事欠き、やむなく日本資本(又は自衛隊)に土地をタダに近い額(三平方メートル当りハイライト一個分!!)で売っている。海を観光資本に奪われた。空を公害石油資本に奪われつつある。日本政府と日本資本は、合法的に、沖縄に「進出」し、沖縄そのものを買いとった。だが沖縄人民は日本(支配)の論理に従う必要は全くない。日本の法と政治は日本(支配者)のものであり、沖縄は沖縄の論理でやるのみである。沖縄人民は自分の利益を日本国民の一員としてブルジョア「政治」のなかで主張するのではなく、自分の生産−斗争を主張し貫徹していくのである。
中国人民は革命の勝利によって「満州」鉄道や日本の資本を没収した。だが在中国の日本人民のものは日本敗戦後も衣類の一つも一円も奪ったりはしなかった。インドシナ人民は解放戦争が勝利すれば日米帝の全ての資本を没収して、人民の発展に使うだろう。沖縄人民も、土地を奪い返し、資本を奪取し、水資源を手に入れなければならない。これまでの沖縄論議は現在社会関係を前提としたものであったため一切展望もなく、日本に同化すれば抑圧差別がなくなるかのように幻想したり、又は精神主義的に「沖縄だってがんばれば」と個人的努力の問題になってしまっていた。現実の社会関係(支配の論理)を前提にすれば、民主連合政府ができても沖縄人は結局日本国民の一人として支配され続けながら、若干の主張が(単なる意見として)許される程度でしかない。
沖縄人民の権力は、日本(支配)の論理を否定した生産−生活の場における沖縄人民の利益の主張と斗いに基づくものである。人民は抽象的理論に基づいて斗うわけではない。食いながら、そして食っていくために斗うのである。したがって沖縄解放斗争の展望は一般的人類解放のイメージを明らかにするものでなく、何よりもまず沖縄人民が食っていけることを明らかにしなければならない。
このこともやはり現存の支配関係を前提として生産力を発展(結局資本の強大化)させればよいというハレンチな「平和」産業論ではなく、食うためにも斗うという展望を示すものでなければならない。沖縄の農業の発展のためには「農民」の連合が必要であること、工業労働者との結合が必要であること、広大な土地を奪い返すこと、急場しのぎの換金作物ではなく、計画的な自活的農業政策が必要なこと、大巾な貯水カンガイ施設が必要なこと等々……を繰り返し明らかにし理解させなければならない。これを帝国主義の支配下でも部分的(又は一時的)にではあれ、実現してその展望を実感させなければならないのである。労働者の場合はもっと直接的である。商品経済下で「プロレタリア的工場」を生産管理することは不可能である。したがってより科学的理論的かつ実践的に現実の矛盾と、その解決の方向を明らかにし、拠点を拡大し団結を強大化することでしか展望は実感し得ない。
だがブルジョア的社会関係・国際関係を前提にするのではなく、沖縄人民の権力にとって、アジア特に中国と結びつくことの意味は大きいことを明らかにしなければならない。我々は支配(者)の論理を一切否定して、支配階級から全てのものを奪い取る。そして人民の利益はお互いの発展のために共有する。尖閣列島は歴史的にみて、中国−沖縄人民の共有であった。人民の権力は、支配の論理である「所有権」争いを否定するものである。尖閣列島の巨大な油田は中国−沖縄人民の発展のために開発されねばならない。日帝による米帝と結託した略奪は、ますます沖縄人民を抑圧する日本資本と日本国家を太らすだけであり、沖縄人民にも中国人民にも敵対していることを明らかにし、人民の共同使用の問題を明らかにしなければならない。ある一定の限界内ではあれ、西表の森林、銅山の巨大な資源、亜熱帯気候を利用した養殖や農漁業等、地理的位置を利用した仲介工業貿易地域論等、帝国主義の論理を越えて、人民の側からの経済的な展望(「食っていくための」)を提起する必要もある。日帝のアジア侵略・反革命にのった日本国民(沖縄県民)としてアジア人民と接触するのではなく、日帝と対決粉砕する沖縄人民として、アジア人民との結合を深め、沖縄解放の課題を示す必要がある。このことが、沖縄人民の権力を生産−生活−斗争をつらぬくアジア人民との結合を導き沖縄解放の世界史的展望を示すものとなる。
闘争をつらぬく権力の単位の形成、第五 世界性と国家消滅の問題である。
(1)人民の武装
抑圧された人民が自らを開放するには自らが武装するしかない。人民の武装した力で支配階級の権力を倒さない限り、現代社会の矛盾は解決されない。労働者階級は自らの権利を守るために、団結してストライキを行なうが、長期化すると食えなくなるので生産管理して自分で生産物(資本主義社会では「商品」)をつくる。だが支配階級は<所有権>に基づき機動隊を導入して弾圧する。人民が自分の権利を主張すると最後的には資本家の私兵や軍隊から弾圧される。これは日常我々がよくみる簡単な事実であるが極めて本質的問題である。
支配階級と人民の闘いの最終的な決着がつくのは人民の武装が支配者を打ち倒すときである。そうであるならば、現在の秩序(階級支配)を前提としての改良主義運動ではなく、人民の解放をめざす闘いのすべては、一点「人民の武装」へと集中しなければならない。人民に絶えず武装の問題を提起し、人民の武装に向けて全ての努力がはらわれないならば、解放闘争はその前提において敗北しているのである。全ての勝利した革命・解放闘争はいくつかの軍事的敗北を含みながらも、人民の武装の強大化を通してのみ勝っている。全ての敗北した革命は日常的な人民の武装の努力を放棄し、ある日突然決起しようとするか、又は様々な口実をもうけて人民の武装に全く反対するかである。これは階級斗争の歴史の絶対的真実である。この点だけをみても社共の人民への裏切りは許せないものがある。
したがって沖縄解放闘争の現在的課題は、沖縄人民の武装でブルジョアジーを鎮圧し帝国主義から守る体制をもつことである。沖縄解放闘争の現在的課題は人民の武装にとって、人民の問題を提起することなくして、日米帝国主義と対決し、粉砕することはできないことは言うまでもない。
人民の武装ということが現在的課題であるということはすぐ今、ストライキやデモに武器をもつとか、基地への物理的対決、攻撃をなすということではない。また大衆が立ちあがる状況にないから代行主義的に一セクトが人民軍を名のって武器をもって権力に無謀な決死攻撃をなせば自然に人民が武装するという問題でもない。人民の武装はあくまでも権力を倒すためのみなされるのであって、一般的なフンサイ闘争や、権力の末端へのケチツケ的な「打撃」は人民の武装とは無縁である。このような戦術技術の問題と、人民の武装という問題が混同されて、極左戦術や原則的合法主義(右翼日和見)に陥いる。
圧倒的な人民を武装させるための課題は、人民の武装を支える拠点の形成が第一である。拠点とはいわゆる<解放区>的な地理的空間だけを言うのではない。住民地区、農村、都市スラム、工場、学園、又は軍隊内から政府機構内まで敵の支配圏を食い破った人民の支配する機構である。拠点としては人民の武装を支える、人材、食料、武器、衣料、住居等を生み出す所である。拠点は権力の介入の不可能な地区であることが望ましいが、表面上権力の支配している地区でもかまわないし、又は権力機構の内部にあってもよい。拠点の形成の条件に規定されて、武装した人民の結合の形態と戦闘の型が決められる。敵権力の強大さや社会的又は国際的状況に応じて戦闘の強弱が決められる。戦闘は敵へのみかけ上の「打撃」でなく、長期にみて、より人民の武装を強大化し、より敵の武装を弱体化させるためになされる事が原則である。
武器を含んだ敵との直接的武装対決で重要なことは軍事訓練(個人又は集団の精神的物質的)や優秀な武器の調達である。だが多くの場合、勝敗を決するのは武装対決にいたる条件であり、これは限られた戦士を如何なる条件で配置するかという問題である。ここに人民の武装のもつ圧倒的な優位性がなければ勝てない。何故なら人民の軍隊は最後の勝利が近ずく直前までは敵の軍隊に較べて、兵士、訓練、武器、食料等全ての物質的面で貧弱なものである。人民の武装は一時的なものを除いては非合法、非公然である。だが人民にとっては正当、公然である。即ち「人民の大海を泳ぐ魚」でなければならない。七十年十二月CIA報告は南ベトナムの軍・政府機構に三万三千人のコミュニストが入りこんでいると述べ、解放戦線へのスパイは一人も入りこめないことを告白している。人民は米帝とカイライの悪事を監視している。
人民の武装の問題は人民の思想的武装が前提である。「全人民は武装せよ」と号令をかけることはやさしいが、武装に至る訓練と拠点の形成は困難である。この拠点の拡大こそが人民の権力の基礎となる。武装の準備は非合法、非公然の闘いのつみかさねの中でのみなされる。我々は今、直接武器をもって戦闘しようとは思わない。まだ拠点が不十分にしか形成されていないからである。しかし我々は、一定の枠内で非合法闘争をなすことで人民に政治的煽動と武装の問題を訴えることができる。非合法、非公然闘争の訓練をなすことができるし、なさねばならない。10・21直前10・19の政治的「軍事」的緊張の中で、沖青同の三名の同志は、国会周辺の幾重もの厳重な警戒網を突破して衆院本会議場、佐藤の眼の前で「ビラ、たれ幕連発式爆竹多数をもちこみ、爆発させ」(ブル新)たのである。だが権力は逮捕以後二ヵ月以上も(勾留理由開示裁判で三同志が名前を明らかにするまでは)三名の名前さえしることはできなかったのである。
非合法・非公然活動を支えるのは技術と訓練だけではなく、人民の海でなければならない。権力の不法不当な弾圧から人民を守るのは地下へと逃亡することだけでなく、全ての人民の監視と抗議である。人民の監視で権力を政治的に縛るのは極めて重要な闘いである。アナーキストやテロリストでない者にとって、武装の原則は<人民の中から人民の中へ>である。
沖縄解放闘争の軍事的問題は、沖縄の諸条件、人口、地理、社会構成、基地、軍隊の構成、主体の力量等が考慮されなければならない。純粋軍事技術的にみた場合、多くの条件は圧倒的に不利である。だが社会的位置からみた場合、沖縄で本格的抵抗闘争が起ることは日米帝に大きな打撃である。また、アジアのカナメ基地の沖縄が脅やかされることは沖縄の基地の機能からみて、アジア特に東南アジアでの軍事的死活を決する問題になるのである。その他の諸条件を考慮に入れるならば沖縄解放闘争の形態はイメージされるだろう。大きな軍隊規模での実体的センメツや基地の大規模な物理的破壊は困難である。だが沖縄の治安が安定して維持できないことは沖縄基地のカナメの役割からして墓穴をほる大問題となる。アジア人民の闘いに呼応した長期的にわたるカクラン戦の貫徹は沖縄支配を、アジア支配を混乱させ消耗させる。黒人と叛軍兵士の叛乱はその効果を数倍もたかめる。長期にわたる不屈の闘いで混乱し、消耗した日米帝軍隊が沖縄から撤去するか、残って崩壊するのか、それは帝国主義者が決める問題である。帝国主義者の戦争が公然正規軍を主とする地方又は国を占拠するのをめざした闘いに対して、人民の戦争は、長期にわたる「攻勢の戦略」の戦争である。帝国主義者は単に帝国主義間戦争に備えてのみならず、人民の解放闘争に備えて反革命の膨大な軍事力を常備している。又、巨大な反革命の機構は人民の全てが武装して一斉蜂起の準備をなすまで待ってくれない。人民の武装は絶えず芽のうちからつみとろうとする。それ故人民の武装は絶えず闘いながら人民の武装を強めることをめざし、たたかいながら敵軍をカク乱させ支配力を弱め、消耗させ、力関係を変えていくことである。軍事的にみて不利な条件のもとで世界情勢、政治情勢一般論から導かれた「危機」論で○○決戦をなすのは、おろかである。軍事的に絶えず攻勢をかけ、思想的組織的にも人民をうち固め拠点を拡大していくことである。「攻勢の戦略」に基づいた力関係の変化をつくりだすことである。巨大な日米軍を相手に決戦を叫ぶのは日本型精神主義者である。だが巨大な日米軍と闘って勝てると信じるのは精神主義者でなく、真の人民の力を知っている科学的社会主義者である。
カナメ石たる沖縄基地は、沖縄基地の巨大さとその重要さ故に、大きくない力でも効果的な打撃を与え機能を混乱させることができるのである。日米軍の撤去又は解体をつくりだす、この沖縄人民の武装は人民の権力の物理力の根幹となる。
(2)統一戦線−自然発生性と階級形成
支配者の抑圧に抗する闘い、時には支配者を脅やかす闘いが、全て階級的自覚にめざめた個人の参加で闘われるわけではない。革命の勝利にとっては、圧倒的な人民が解放の道を自覚的に認識することが必要である。だが全ての人民が高い程度に於ける認識をなしてはじめて革命が勝利するわけでもなく、またその時まで勝利を無理にのばす必要もない。階級社会において純粋に「革命的な人間」はいないし、ましてや共産主義的人間というのは一つの言葉の矛盾でもある。人民の力で支配階級を打倒し、社会的変革をなす。その根拠としくみを認識すること、つまり階級的視点を身につけることは闘いを勝利に導く鍵である。
ところが階級社会・資本主義社会では、現存社会関係・人間の関係が資本主義の論理・秩序の中でブルジョア的に分解された「私」人と、「私」人として物化されて結びつけられているので、階級的団結が直接的に自然発生的に生まれてくるとは限らない。したがって、人民の全く正当な怒りや闘い、その自然発生性のもつ必然性を階級的視点と団結へと自覚させ、階級的闘いへと高めることがなされなければならない。これが学習と宣伝や闘争を通じて絶えずなされなければならない。資本主義社会から社会主義社会への社会変革=権力転覆は自然になされるのではなく、人民の階級形成ということを経なければならない。
階級形成は階級的な意識(社会観・闘争論)の形成と、人間の結合の変革(=団結)を階級的組織(生産=闘争組織)の形成としてなされる。もちろん階級形成は千変万化する資本主義の中でこの矛盾から隔離されて純粋培養的、モデルづくり的につくられ、同心円的に拡大されるものではない。資本主義社会の矛盾とその止揚の方向を現実の生活と闘いから明らかにし、現実的に闘い、そして解決能力をもつ組織へと絶えず発展していくことを通してなされる。この展開を保障していくのが統一戦線である。諸階層人民の諸々の権利のための闘争を結集し、支配階級に打撃を集 中させ、労働者階級を軸とする団結を固め闘いぬくことで、矛盾の止揚の道(思想的・実践的)を明らかにさせていくのが統一戦線である。革命に向けて全員が同一の要求と組織をもつわけでなく、またある者によって、革命がなされ(た後で)別のものを解放するのでもない。様々な人民を解放闘争に参加させ、階級形成をなすもの、これが統一戦線である。
資本主義を打倒するのは本質的にプロレタリア革命である。人間の生命活動の表現であり保障である労働が、疎外される社会、人間労働を労働力商品の消費過程としてなすことを通して価値=剰余価値が生産されること、資本のこの再生産の契機が資本主義社会の動力の源であること、この資本のダイナミズムを通じて、基本的な社会=人間関係(商品=物化された関係)が構成されること。この資本主義の矛盾を止揚するのは、資本の論理に基づかない人間の自覚的な結合、すなわち生産手段を奪取した全ての労働者の団結である。それ故プロレタリア解放の事業は本質的に人間解放の課題である。ところで純化された資本主義社会は存在しない。労働者階級の団結と闘いは単一の階級としての形態をとることはできない。
「人民の権力」にとっての統一戦線の歴史的社会的基盤はここに発生する。
世界史的に遅れて生みだされた資本主義である日本帝国主義の形成過程に暴力的に組み込まれ収奪された沖縄は、帝国主義特に日帝の原蓄過程の構造との関係で日本の資本主義形成に「参加」することなく基本的に非資本主義的生産関係を多く残存させてきた。戦後の米軍支配下での階級分化、そして現在の日本資本の進出による社会の解体は極めて奇形的な構造でなされている。これが日本とは異質の沖縄労働者人民の団結と闘いの基盤をかたちづくる。沖縄に「第二次産業」の労働者が極めて少ないというのみでなく革命前ロシアのような大企業もなく、ほとんど零細企業であることは沖縄の解放闘争と人民の権力の在り方、形態を大きく規定する。すなわち統一戦線の問題が重要な問題となる。
沖縄の多くの労働者は必ずしも「純労働者」であるわけではない。別の言葉でいえば沖縄の多くの農民は「純農民」であるわけではない。沖縄労働者数のうち、官公労・沖教組・全軍労が異常に高い割合をしめており、復帰前にはこの層は沖縄で比較的「安定」していた層であり、建設・製造等いわゆる生産部門は絶対的相対的にも少なかった。だが復帰はこの沖縄の社会構成をさらに破壊しながら進んでいる。一層多くの農民が土地からはじきだされ(正確に言えば土地を奪われ)「労働者」として農村から追い出された(特に先島における悲惨をみよ。)だが「都市」は、労働者の「都市」ではない。沖縄では都市と農村、労働者と農民の区別は困難である。下層労働者はそのまま貧農である。労働者の利益と農民の利益は沖縄人民の利益としてそのまま結びついている。全軍労のストライキが沖縄人民にとって直接的に大きく影響を与えているのは、基地の地理的な広さだけでなく、また基地への打撃の大きさが「革命的」であったからばかりでなく、全軍労働者の沖縄社会構成の重要さが大きな要因である。沖縄ゼネストは沖縄人民の革命的理論が高まったからでもなく労働者階級の階級的自覚が高まったこと一般で可能だったわけでもない。
沖縄にはマルクス主義文献は極めて少ない。沖縄の全軍労ストを支え、ゼネストを貫徹した力、それは労働者階級一般の団結ではなく、労働者・農漁民・住民・小商人をつらぬいた、つまり、沖縄人民の利益を守る闘い、沖縄人の意識、共同体がその闘を支える深く強い基盤である。沖縄解放闘争の主体形成にとって重要な基盤であり、そのこと自身が強力な〈階級性〉を与える。この闘の内実にダラ幹が「本土復帰」の衣をかぶせても、ダラ幹の頭の通り人民が、復帰主義者として闘ったわけでは決してない。復帰主義(日本人)の下半身に階級性という上半身をつければそれで革命的に日帝打倒ができると考えることほど、沖縄について、沖縄人民について、沖縄人民の闘について無知で誤ったものはない。我々は架空のプロレタリアなるものをデッチあげて革命のプログラムを考えるわけにはゆかない。理論や「闘争」であるべき「労働者」が形成されるわけではなく、現実の社会構成から出発して、人民の解放の根拠を明らかにしていかねばならない。労働者政府や労農自治政府等のスローガンにすでにセクトの特殊な意味がこめられているからではなく、我々は「沖縄人民の権力」の方がより正しく内容を表現していると考えるからこの言葉を使わねばならない。沖縄人民の団結は村々を貫ぬく連合、地区から労働者を貫ぬく沖縄人民の団結である。
復帰協は分解されて再編されなければならない。復帰協は権力闘争を斗う統一戦線ではない。だが復帰協を形成した構成要素(政党を除く)大衆団体は一般的に復帰主義の理念に基づいて形成されたわけでは決してなく、沖縄社会構成の中から各々の権利を闘いとるために必然的に生みだされ闘いぬいてきたのであり、復帰協というブルジョア的統一戦線を形づくったものである。それ故、各階層、各戦線の利益を守り、沖縄人民の利益を守る統一戦線・権力闘争を担う統一戦線へと生み直さなければならない。沖縄においては、産別反戦と地区反戦、農村地区の青年団の結合の問題は、労と農の実体的分離の不明確さもあって、より直接的なものである。統一戦線の問題は本質的にその形成の契機からして組織の共同で一つの闘争を闘うことに限られるものではなく、各課題の闘争の統一をなすものでなければならない。人民の権力が社会的解決能力をもつのはこの統一戦線の問題となる。統一戦線の軸は歴史的な階級、社会を結合させる最も組織性を与えられた階級、現代社会の基本矛盾を止揚する側にある階級、すなわち労働者階級である。
(3)党
支配階級は特殊に訓練された弾圧機構、人材をもち、絶えず人民の闘いと組織をカイメツさせようとする。支配階級は支配者の利益になることを全国民の利益であると、たくみに宣伝するお抱えの政治、経済、思想の学者をもって人民を眠りこませようとするか、又は人民を分断させる。支配階級は秩序の中に全ての人民をはめこみ、階級的な結合を阻み、人民の武装を解除するか、又は分散させ、多くの決起を無力化しようとする。又支配階級は国際的に結びついて人民を抑圧している。
人民はこれらと対抗するには人民の側に、支配秩序から一定「自由」に活動でき特殊な結合をもった集団組織を必要とする。この組織は一階層や一地区の利益のためにだけでなく、全人民の利益のために理論と闘いと諸組織を指導し、担っていく、支配階級のものより以上に特殊に訓練され、集中された部分である。
戦争を世界史からなくすのは人民の戦争である。政治をなくすのは人民の政治である。
−以下略−
(4)生産−生活−闘争をつらぬく機関(委員会)を社会の単位とすること
人民は自らを解放するのに、古い社会機構・制度・人間の結合様式をもってすることはできない。人民の権利と自由を抑圧する社会機構を食い破る闘いは現在的な闘争の推進でなされるのであり、この長期にわたる闘争を支える人民の意識・団結・「組織」が新たな社会の共同体の基礎をつくる。人民の権力から社会主義へ至る社会の形態は革命家の頭の中でつくりだされたものが物質化するものではない。現実の社会の再生産構造と闘争の中での主体の形成に規定されたものとして生みだされてくる。したがって労働者人民は絶えず自らの生産点−生活点で、支配を打ち破り、帝国主義の支配力を弱め、人民の権力の基礎をうちかためていかねばならない。
現代社会は一方で富と権力と法を自由に自分のものにする支配階級と、この支配者と支配体制に従属することでしか食っていけない圧倒的な労働者人民をつくりだしている。
この現実の不平等を前提にして、自由があるといわれている。工場の全員(労働者も社長も含めて)の多数決で首切り反対や賃上げが決っても、社長はそれを守らないし、実力で貫徹すれば機動隊が導入されるだろう。階級社会の中でどんなに自由や平等や多数決の原理が叫ばれても、もともとそれは不自由と不平等と少数者の利益を前提にしたその枠の中のものでしかない。
この不当な社会と闘うことをとおして、人民を解放する社会の基礎はつくられる。したがって、それは一般的に政治的な平等の権利を与えて選挙された民主連合政府(ブルジョア的機構)が上から人民を解放するという構造ではない。人民が自らの生産を、生活を、教育を、文化表現法を自分のものに取り戻す中で主体的に社会を創造するものである。ブルジョア社会では、現実の不平等を前提として、分割された一個人として政治に参加させられる。だが人民の権力は産別、地区労働者委員会、農民委員会、地区委員会、婦人委員会等々をもって構成されるのであり、ここではすでに抽象的な全国民の「政治」ではなく、人民の利益が問題になるのであるから、ブルジョア社会の「政治」と「経済」の分離は止揚される。
長期にわたる解放闘争はこの生産−生活−闘争をつらぬく拠点の形成で支えられ発展する。原理的には「コミューン」「ソヴィエト」「レーテ」等と呼ばれているものであり、社会の単位と国家機構の結びつきとしては、資本主義の矛盾を止揚する社会体制の基本的なしくみである。中国やインドシナにおいては解放戦争を主な要因として〈移動する人民の武装部隊〉が重要な位置にあるが、基本的には生産−生活−闘争をつらぬく拠点(解放区)が人民権力の基礎である。ブルジョア政府にかわる革命政府とか労農政府とかが基本的な問題なのではない。労働者人民の〇〇政府とか××政府にについての形態論議は解放闘争と人民の権力について分離した思考法であり、現実の闘争を導く理論ではなく観念的なセクト的、又は評論家的解釈論議になりやすい。
「公」の利益を守ると称して〈政治〉がなされるのは現実社会で「私」が対立しているからである。階級的利益の対立を「公」の立場(すなわち支配的階級の立場)で「調整」して矛盾の調和をはかろうとするのがブルジョア社会の政治である。つまり資本の論理、支配階級の論理を貫徹させながらその矛盾を調整したり、暴力で突破せんとするものである。だが労働者人民の政治は、生産−生活の場における利益をそのまま階級の利益、人民の利益として主張し行動するものであり、これを貫徹するには階級的結合によるによる生産−闘争である。したがってブルジョア社会で分割された「私」=国民として、抽象的な「公」の政治に参加するのではない。
日本の「公」の利益と沖縄人民の利益は非和解的に対立している。我々は一般的な国民として日本の政治に参加するのではなく、沖縄人民の利益を守るものとして、日本の政治−経済と対立して生産−闘争を貫ぬかねばならない。これは理念の問題ではなく現実的な問題である。沖縄の農民は極度の貧困におとしこめられ、食うにも事欠き、やむなく日本資本(又は自衛隊)に土地をタダに近い額(三平方メートル当りハイライト一個分!!)で売っている。海を観光資本に奪われた。空を公害石油資本に奪われつつある。日本政府と日本資本は、合法的に、沖縄に、「進出」し、沖縄そのものを買いとった。だが沖縄人民は日本(支配)の論理に従う必要は全くない。日本の法と政治は日本(支配者)のものであり、沖縄は沖縄の論理でやるのみである。沖縄人民は自分の利益を日本国民の一員としてブルジョア「政治」のなかで主張するのではなく、自分の生産−闘争を主張し貫徹していくのである。
中国人民は革命の勝利によって「満州」鉄道や日本の資本を没収した。だが在中国の日本人民のものは日本敗戦後も衣類の一つも一円も奪ったりはしなかった。インドシナ人民は解放戦争が権利すれば日米帝の全ての資本を没収して、人民の発展に使うだろう。沖縄人民も、土地を奪い返し、資本を奪取し、水資源を手に入れなければならない。これまでの沖縄論議は現在の社会関係を前提としたものであったため一切展望もなく、日本に同化すれば抑圧差別がなくなるかのように幻想したり、又は精神主義的に「沖縄だってがんばれば」と個人的努力の問題になってしまっていた。現実の社会関係(支配の論理)を前提にすれば、民主連合政府ができても沖縄人は結局日本国民の一人として支配され続けながら、若干の主張が(単なる意見として)許される程度でしかない。
沖縄人民の権力は、日本(支配)の論理を否定した生産−生活の場における沖縄人民の利益の主張と斗いに基づくものである。人民は抽象的理論に基づいて斗うわけではない。食いながら、そして食っていくために斗うのである。したがって沖縄解放闘争の展望は一般的人類解放のイメージを明らかにするものでなく、何よりもまず沖縄人民が食っていけることを明らかにしなければならない。
このこともやはり現存の支配関係を前提として生産力を発展(結局資本の強大化)させればよいというハレンチな「平和」産業論ではなく、食うためにも斗うという展望を示すものでなければならない。沖縄の農業の発展のためには「農民」の連合が必要であること、工業労働者との結合が必要であること、広大な土地を奪い返すこと、急場しのぎの換金作物ではなく、計画的な自活的農業政策が必要なこと、大巾な貯水カンガイ施設が必要なこと等々……を繰り返し明らかにし理解させなければならない。これを帝国主義の支配下でも部分的(又は一時的)にではあれ、実現してその展望を実感させなければならないのである。労働者の場合はもっと直接的である。商品経済下で「プロレタリア的工場」を生産管理することは不可能である。したがって科学的理論的かつ実践的に現実の矛盾と、その解決の方向を明らかにし、拠点を拡大し団結を強大化することでしか展望は実感し得ない。
だがブルジョア的社会関係、国際関係を前提にするのではなく、沖縄人民の権力にとって、アジア特に中国と結びつくことを明らかにしなければならない。我々は支配(者)の論理を一切否定して、支配階級から全てのものを奪い取る。そして自民の利益はお互いの発展のために共有する。尖閣列島は歴史的にみて、中国−沖縄人民の共有であった。人民の権力は、支配の論理である「所有権」争いを否定するものである。尖閣列島の巨大な油田は中国−沖縄人民の発展のために開発されねばならない。日帝による米帝と結託した略奪は、ますます沖縄人民を抑圧する日本資本と日本国家を太らすだけであり、沖縄人民にも中国人民にも敵対していることを明らかにし、人民の共同使用の問題を明らかにしなければならない。ある一定の限界内ではあれ、西表の森林、銅山の巨大資源、亜熱帯気候を利用した養殖や農漁業等、地理的位置を利用した仲介工業貿易地域論等、帝国主義の論理を越えて、人民の側からの経済的な展望(「食っていくための」)を提起する必要もある。日帝のアジア侵略・反革命にのった日本国民(沖縄県民)としてアジア人民と接触するのではなく、日帝と対決粉砕する沖縄人民として、アジア人民との結合を深め、沖縄解放の課題を示す必要がある。このことが、沖縄人民の権力を生産−生活−闘争をつらぬくアジア人民との結合を導き沖縄解放の世界史展望を示すものとなる。
(5)世界性−国家消滅の問題
沖縄人に国家はなかった。沖縄人に国家はない。沖縄人は日本民族ではない。中国民族でもない。ベトナム民族でもない。また沖縄は単一の民族と呼べるものを形成しているわけでもない。日本国民でなく、日本民族でもなく沖縄民族なるものもない。だが沖縄の歴史と社会の構成は、我々をはっきりと沖縄人であることを認めさせる。沖縄が日本に対してアメリカに対して、アジアに対して向きあうのは沖縄人としてである。沖縄人は、沖縄人が沖縄民族だからではなく、帝国主義の支配に都合がよいから「沖縄人」であることを強制される。帝国主義にとって沖縄人が日本民族であるとか、ないとかいうのが問題ではなく、戦前・戦後・現在を通じて「沖縄人」でなければならなかったのである。そして我々は日本人でない。したがって沖縄人が日本民族の一員になろうとするとか、沖縄民族なるものをつくりあげようとするのは無意味である。我々は沖縄人として斗い、沖縄人として解放される。
沖縄の矛盾は民族性の喪失に起因するのではない。古典的な(ブルジョア的)民族国家の形成は現代社会では何の進歩も意味しないというだけでなく、そもそも戦後の米日帝のアジア支配は民族国家樹立の要求と斗争が一民族の民族国家形成の問題としては集約し得ないことを示している。中国革命、インドシナ革命戦争も、人民の権力樹立を通した民族的権利の奪還防衛であって、古典的(ブルジョア的)民族国家形成が無意味で不可能な世界史的位置にあるところの解放のあり方である。沖縄の歴史的・世界的位置の場合にとってはなおさらである。
しかしこのことは、被抑圧人民が自己の人民権力樹立を経ることなしに、一足飛びに世界プロレタリア人民の立場の獲得、又は世界革命の一部を担うものとしての自己解放斗争の推進をなすということではない。自己解放斗争と人民の権力の特殊性を特殊性として位置づけること、その特殊性の貫徹を普遍性へと貫ぬく構造を明らかにすること。即ち解放斗争と人民権力の国際的な労働者階級人民との結びつきを明らかにし、人民権力自身の内的な自己止揚性(権力=国家の消滅)の論理を「人民権力−世界革命の権力」として具体的かつ論理的に把握しなければならない。
沖縄解放斗争とは沖縄人民権力樹立の問題である。これは沖縄人民の事業である。だが沖縄人民の権力樹立は民族国家形成ではない。日米帝の間にあって一国的閉鎖的な沖縄単一国家としては沖縄解放の権力はたてられない。それ故「沖縄独立」というスローガンは思想的にも実践的にも意味をなさない。沖縄人民が自分の力で生産−生活−斗争を自分のものとして担うこと、すなわち権力をうちたてること、このことは国境線を設けて外界から隔離してなされるのではない。沖縄人民が独自の権力をめざす解放斗争は日帝打倒の日本人民の斗いと不可分に結びつく。我々は沖縄人民権力樹立を通してなされるところの「本土−沖縄を貫ぬくプロ独」に反対ではない。だが沖縄人民権力を日本プロ独の一環としてだけ位置づける斗いと理論をはっきり批判する。日本の国家、国境線の「内側」の問題に沖縄が位置付けられた時から展望はワイ小になっていく。中国−インドシナ−アジアの人民権力と結びついたところの沖縄解放斗争、沖縄人民権力樹立としてはじめて意味をもつ。これは原則論ではなく具体的現在的問題である。
我々が一般的目標又は理論的自己確認として日帝打倒や世界革命を言うのでないとすれば沖縄解放斗争と人民の権力を考える際、極めて具体的問題として中国−アジアが問題となる。沖縄の与那国島と台湾本島間の距離はわずかであり晴天にはすぐ眼の前に見えるのである。
尖閣列島は中国人民のものであり、沖縄人民のものである。沖縄解放斗争は沖縄独立運動でもなく、日本プロ独のための運動でもない。沖縄人民の解放であり、それ故アジア−世界人民との連帯である。
ブルジョアジーの権力=国家は人民の権力によって〈廃絶〉される。だが人民の権力はそれ自身、自分を〈消滅〉させていくところの「権力」である。「政治」と「経済」の分離を止揚するところの社会体制、すなわち「全」と、「個」の分裂を止揚する社会である。それは世界的規模でのみ達成され得る。資本と反革命が世界中を貫ぬいて、帝国主義者の下にひきよせている現代世界の根本的転覆、これは世界性の問題である。
沖縄解放斗争と沖縄人民の権力はこの中にある。
全ての沖縄人は団結して決起せよ!!
沖縄人民の権力を樹立せよ!!
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