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中村丈夫『80年代の沖縄と島嶼住民の自決権』
山崎カヲル「国内植民地概念について」

中村丈夫『80年代の沖縄と島嶼住民の自決権』

『沖縄自立への挑戦』(社会思想社1982)所収



沖縄のアイデンティティー

 本来ならば、本夕は平恒次先生とともに西野照太郎先生の御講演をいただく予定でありました。御承知かと思いますが、西野先生は1972年、沖縄のいわゆる「返還」にあたって、沖縄が本土の1県に等しい行政的地位に「復帰」することは、「選択された一つの途であって、必然的な運命ではない」ということを強調された方であります。そして、「沖縄島民にその意志さえあれば、政治的な独立を選びうる可能性がかつてあったのだ」として、少なくとも、その「行使しうるはずであった自治権や、これからも主張しうるはずである自治権」を示唆されました(「国際環境からみた沖縄復帰――島嶼住民の自決権と自治権」)。私は当時、この論文に非常な感銘をうけ、それはいまなお、私が沖縄を考える原点となっております。その西野先生が御所要のため本夕那覇におみえになれなくなったので、急拠、私が拙い話を申し上げるはめになったわけです。
 私も「返還」当時は、たまたまイタリアの南北問題に関心をもっていたこともあって、沖縄にはせめてシチリアやサルデーニャという島嶼の「特別州」に匹敵する地位が承認されなくては申し訳ない、という意見を述べたことがあります。だが、いまになってみると、それはいわば上から観たヤマトンチュウの浅い考えでした。10年の沖縄と日本の歩みのなかで、さまざまな視点から沖縄の自立論が主張されるようになり、私自身もこの3年ほど那覇での自立経済シンポジウムに参加するなかで、特に日本の強烈なナショナリズムの反省を迫られました。私は目下、労働問題を多少研究していますが、労働の解放という視点を深めれば深めるほど、突き当たるのは、企業次元の日本的経営から明治国家以来の世界に比類のない民族国家的統合力に至る、集合体帰属の根強さであります。それは現に労線統一というかたちで、企業次元の「労資共同体」が国家機関に準ずる制度化を施されて、擬似的な「民族共同体」に昇華する右傾化の道を保障しております。それを阻む力は、経済主義的な労働組合運動自体のなかからは、容易には出てまいりません。単一民族国家の神話や幻想が、どうしても打破されなくてはならないと思います。沖縄の自決と自立の問題は、日本の労働者こそがまさに自分の問題として取り組まねばならない、と確信するようになりました。
 その点で、私は最近読ませていただいた大田昌秀先生の『沖縄人とは何か』という本からも非常な感銘を受けました。大田先生は、沖縄人としてのアイデンティティーは「究極的には世界・人類に普遍性をもちうる人間的アイデンティティーの形成・確立」でなくてはならない、と主張されております。それはなによりもまず、ヤマトンチュウの心底に突き刺さる言葉です。私は到底そこまでは至りえてはいないと自責しておりますが、与えられました題目について、私なりの意見を若干述べさせていただきます。

経済危機と沖縄(略)

世界再分割戦と沖縄(略)

沖縄の民族形成

 大変荒っぽく、80年代情勢を展望する視点についてお話しました。ある程度予測がつくことは、80年代、特にその後半のいわば「乱世」には、もはやこれまでの東西対抗や南北対抗を基軸として世界構造をとらえることは可能ではない、資本主義も、既成社会主義も、第三世界も、それぞれ矛盾と分化が急速に進行し、米・ソの世界的ヘゲモニーの凋落のもとで、国際的な反動勢力、いわば民族国家主義的大国主義と国際的な変革勢力との対立軸が形成される、ということです。そして、さきほど平先生は「世界の紛争のあるところに必ず民族問題がある」と言われましたが、大国民族主義と正面から対決する民族主義、いわば民族主義を変革する民族主義、世界に向かって開かれた民族的アイデンティフィケーションこそが、民族プロレタリアートたることを超えた労働者の国際連帯とともに、世界変革の主体となるだろうと思われます。
 では民族とはなんだ、お前は沖縄問題を民族問題と考えているようだが、その内容はどうなんだ、とみなさんは心のなかでつぶやいておられると思います。本夕は急いで一言だけ語らせていただきたいのですが、第1に、いま民族問題と言われるものの様相は、かつての帝国主義が資源を独占して植民地の経済発展を圧殺したり、安い労働力を搾取して高い利潤をむさぼるといった古典的な方式とは異なります。いわゆるネオ・コロニアリズムは、勢力圏に一定の経済成長なり社会開発なりをもたらしつつ、いわば「低開発の発展」、「ゆたかな低開発」のもとで、もっとも有効に従属させ、周辺化、系列化する方式をとっております。そのほうが、当該の民族を、あるいはもっと一般化していえば地域の共同体的人間集団を骨の髄まで侵蝕し、破壊しているのです。
 第2に、民族問題は、もはや民族概念の定義から出発して論じうるような静態的なものではなくなっている、とみなくてはなりません。古来から存続しているものが時に応じて姿を現わすのではなく、その都度の社会的あるいは権力的な関係の変動のなかで、民族問題も民族も再構成される、ということです。たとえば、資本主義的生産関係の拡大、資本主義の空間構造の再編成のなかで、過疎化、格差拡大などからアイデンティティーが問われ、自覚されてくる。ブルトン人もコルシカ人も、スロヴァック人もそうでした。
 民族の自立から自決への動きが世界の大勢となっているのは、資本主義も既成社会主義も発展性を失って行き詰まり、第三世界の民族ブルジョアジーといわれた周辺的な資本家や知識人も反動化する、という情勢を反映しています。そうなると、第三に、民族問題の解決は、国連憲章に保障されたような民族自決権の実現で完結するのではなく、資本主義も既成社会主義も超える社会変革――それは各民族独自の、あるいはそれこそ本来の社会主義、人間共同体を再生する社会主義でしょう――に至らざるをえない、ということになります。
 ここでは、あの有名なスターリンの民族定義をつつきまわす気はありません。スターリンは、言語、テリトリー、経済生活、文化の4つの要素の共通性にもとづく共同体として民族を規定したのですが、それは俗流社会学の見本のような静態的、形式的なものでした。ちなみに沖縄人は、この4つの基準からしても十分に民族であるということは大いに可能なのですが、問題の本質はそんなところにはない。世界構造の変動から、または世界変革の主体形成から生きた民族問題を考えようとすれば、私は、民族の定義などは一度思いきって政治的にくくって、「世界的にはプロレタリア的な地位に置かれ、反資本主義的な抵抗や自立を志向する、非階級的ないし超階級的な社会集団」とでもさしあたり考えておけばよいのではないか、とさえ考えています。そのうえで、そういう社会集団を根源的に成立させるものとして、言語や文化やメンタリティーの問題を詳細に位置付ければよい(たとえば、岩波の『日本語講座』は、ウチナーグチとの差は、ドイツ語とオランダ語との差、スペイン語とイタリア語との差よりも大きい、と認めています)。要は、世界的な反動とたたかうために、古い共同体が新しい利害や意識の連帯をつうじて抵抗共同体に転生し、再建されることです。それにもとづく民族概念の拡張はまた、生産手段の非私有化とか経済の計画化とかいった手段の目的化の逆立ちではなく、労働の主体的な自己決定にもとづく新しい人間共同体、真の人間的自由を中心とする社会主義概念の変革とも結びつく、と考えているわけです。
 だいぶ抽象的になりましたが、沖縄人は長い、複雑な過程を経て、日本民族の一隅に強制「復帰」させられた10年のひずみ、矛盾のなかから、次第に日本の資本と権力に対し抵抗を開始してきている。
 この事実を、思想的、政治的に直視すれば、それは、単に社会的マイノリティーの自己主張ではなく、沖縄民族の形成過程ではないか、というのが私の考えです。

島嶼の原生的自治権

 与えられた題目の後半に移りましょう。ここで島嶼ということにひきつけて沖縄を考えてみたいのは、私のいう民族問題でも島嶼型は、諸民族が混在、錯綜する内陸型とは、著しく位相がちがう、と思ったからです。冒頭に御紹介した論文のなかで、西野照太郎先生は、沖縄がいわばオリジナル(原生的)な自治ないし自決権をもつ根拠について、それは、「沖縄が島嶼だからであり、本土と陸続きの特定の地区とは、社会経済的にはもちろん、政治的にもまったく条件がちがってくる」と断じておられます。最近、沖縄のなかから現実に「特別自治権」を要求する声が上がったことは、沖縄のこの島嶼性と無関係ではない、と思わざるをえません。
 もちろん「自治」とは、資本主義国家にあっては、アングロサクソン系の「人民自治」の場合でも、ヨーロッパ大陸系の「団体自治」の場合でも、直接には地方行政上の問題であり、国内の少数民族の政治上の「自決」を意味しません。そういう自治は「分権」と同一視されがちですが、この概念は統治構造と行政構造とのそれぞれについて用いられています。前者は主として単一国構成原理と連邦国構成原理との対抗として、いま言った自治の概念とは領域を異にし、自治すなわち分権というのは、もっぱら行政構造の内面的特質にかかっています(吉富重夫『地方自治の理念と構造』)。しかし、アメリカや西ドイツのように、憲法上連邦国であっても、独占資本と官僚制の一元的支配は、行政的自治さえも実質上は空文化させているのが常です。逆に、下からの徹底的な自治と分権の要求は、そのリージョナリズム(地域自立)が民族的少数派の自決運動に結びつくときには、国家の構成原理をも変更させる積極的な質を帯びることができます。その意味で、通常の自治権を超える「特別自治権」とは、出発点は行政上のそれであっても、下から全人民的、民族的に運用されれば、政治的な民族自決権にまで発展せざるをえない、と私は考えます。もちろん、上から技術的に運用されれば、ただの中央集権の合理化でしかないでしょう。だから、「特別自治権」とは、中間的、過渡的な、いわばアンビヴァレント(両面価値的)な概念です。注釈めきましたが、その点をまず考えておく必要があるでしょう。
 問題は、政治的民主主義が一応でも制度化している国家では、島嶼は一般に高度の行政的自治を許容されていることです。イギリスのマン島、チャンネル諸島、デンマークのフェレエルネ諸島、イタリアのシチリア島、サルデーニャ島などがそうです。また、イギリスは第2次大戦後、インド洋ではモルジブ、モーリシアス、カリブ海ではジャマイカ、トリニダド・トバゴ、バルバドス、南太平洋ではナウル、西サモア、トンガ、フィジーなどの諸島に対し、むしろ独立国家の地位を次々に保障しました。こういった特別自治権や政治的自決権は、その島嶼の経済発展の程度とは一義的な関連はなく、場合によっては民族的種差とも無縁です。つまり島嶼を本土に画一化、同化できない根拠は、何よりもまず、歴史的、風土的に形成された島嶼人民の独自の集団意識と抵抗運動に求められなくてはなりません。その反面、イギリスのように、あえて本土に統合しない理由として、島嶼の孤立的位置や経済的低開発性を本土のシステムから外しておいて、巧みに支配するという側面も見失われてはならないでしょうが(たとえばフィジーがそうです)。
 島嶼の自立に対する例外は、官治的中央集権主義の強いフランスと日本です。といっても、フランスは、「海外県」および「海外領」政策を固持し、いたるところで島嶼人民の抵抗を招いてきましたが、ミッテラン社会党政権の地方分権化政策以来、ようやく国内化政策を修正せざるをえなくなっています。ひとり日本だけが、その多民族国家性を頑として認めず、沖縄の原生的自立性をすら破壊する社会経済構造の畸型化を強行してきたのは、御承知のとおりです。時代錯誤もいいところです。

島嶼の経済的自立

 島嶼の自決は、経済的自立、特に特定の資源賦存(たとえばナウルの燐鉱、ニューカレドニアのニッケル鉱、ジャマイカのボーキサイト、トリニダド・トバゴの油田など)なしには困難とみられがちです。
 もちろん、行政的自治ないし政治的自決が、そのインフラストラクチュア(基礎構造)、その経済的自己発展力に支えられれば、結構このうえありません。だが、経済的自立の指標が抽象的な量的指数・係数にではなく、本質的には、統一的経済体の構造的変化の達成度(有機的な部門構成、部門間の相互依存性、均衡的な部門・地域生産性、公正な社会的分配など)に求められるべきことは、すでに近代経済学でも確認されているところであります(たとえば、W・G・デマス『小国における開発の経済学』)。この自己発展力の構造化、発展軌道の有機性、均衡性は、マルクス経済学的には、S・アミンの四部門モデルでの「中心的・自立的サブシステム」、すなわち大衆消費財部門と基礎的生産手段部門にもとづく拡大再生産軌道の設定として提起されました。小国特に島嶼にあっては、どれほど小さい規模、低いテンポではあれ、固有の経済発展軌道を自主的に見出すことが基軸となります。島嶼の自治ないし自決を、その物質的根底にまでわたって保障しようとすれば、そのための障害を排除する上部構造的条件の確立が、先決とならざるをえません。
 デマスは、「規模の経済」が支配する現状では、小国には大陸の大国並みの均衡的経済発展の方式は適用されず、構造的変化を経たとしても、対外的依存関係からして発展のモーメンタム(運動量)は小国自身によっては完全には決定できない、と言っています。これは新古典派的およびケインズ主義的モデルの限界があり、小国では「経済的リージョナリズム」が主要な手段となります。輸入の削減、輸出の促進、国内市場の開発・調整、完全雇用などの計画的達成のためには、経済の公開性を犠牲にしなくてはならず、むしろ経済の内部的統合を強化しなくてはならない、とされます。依拠しうる小国の利点――「規模の経済」以下の不利を償う――は、小まわりの利く柔軟な経済政策や特産的専門化の可能性に加えて、特に固有の潜在的な社会的凝集力である、と彼は言うのです。S・クズネッツも、この凝集力を動員しうる点で、小国は大国よりも現実的共同性をもつ、と論じています(「小国の経済成長」)。その効果は、経済的には外からの衝撃に直面しての弾力性であり、社会的には階級間・地域間の分配の公平性です。デマスは小国に最適な新しい理論的アプローチの必要を唱え、それをカリブ海諸島国向けの経済計画の作成に具体化しようとしました。だが、結局は開発戦略の出発点を加工鉱業特産物の輸出と農業構造の調整に頼り、カリブ広域の経済協力・共同市場化――それは旧宗主国がイギリス、オランダ、アメリカ、フランスと分岐しているため容易ではない――に将来の展望を求め、開発経済学の限界を露呈してしまいました。
 アミンが「中心−周辺」の従属構造の抜本的転換の大前提を、「資本主義的世界経済体系からの離脱」と極言したのは、なにも世界市場との絶対的断絶による自給自足を目指したのではなく、この飛躍的転換を実現させる「自己中枢的・自己運動的」な経済発展政策の主体と体系の確立を表現したものと言えましょう。問題は、労働生産物を自己処理する新しい共同体構造、生産と消費、農・漁業と工業とを有機的に直結する分節的構造の創出でなくてはならないでしょう。

島嶼の政治的自決

 このように、小国特に島嶼の場合、経済すなわち構造の自立は、政治すなわち上部構造のそれとまさに不可分、共軛的であり、むしろ多くの場合、経済的従属下の「低開発の発展」を打破する、政治的自決をめざす抵抗運動が、内発的な経済発展を主導するのです。島嶼性とは、第1に、資本主義の所産にほかならない本土への政治的・経済的・文化的な依存性、従属性や、伝統的社会の残存からくる近代化の不足を指します。しかし、第2には、島嶼社会の内部的凝集力、緊密性、共同性を忘れてはならないでしょう。この共同性は、ある意味では、伝統的共同体がどの程度残っているかということには、かかわりがありません。そこに根があるのは当然ですが、絶えず外に対して自らの共同社会を再構成してゆくコンパクトな内発力が、むしろ重要でしょう。それに、第三には、島嶼の最大の無形財産である位置的枢要性です。第2、第3の性格が具体的な主体的条件に支えられた場合には、ときには早咲きの発展によって島嶼の本土支配すらが可能にされました。(古代のクレタ、中世のヴェネツィア、近代のマンハッタン島、コペンハーゲンなどがそうです――藪内芳彦『島――その社会地理』)。
 視座の転換が必要です。もし、島嶼の政治的・経済的な自立を目指す新しい視点から、島嶼的な共同性の動員と、外からの帝国主義的な資源地理的、兵要地理的な位置利用の逆転とが保障されるならば、過去における小国的、島嶼的なマイナスは、将来のまさに「洋々」たる発展の陰画的表現にすぎない、とも考えられます。たとえば、アイスランドは、1944年にデンマークから完全独立するや、沿岸の外国人漁業を禁止し、イギリスに対する3次の「タラ戦争」を遂行するとともに、第2撃核兵力に対する哨戒センターたる空軍基地に対するNATO脱退のバーゲニング・パワーを行使しました(保守政府と人民戦線政府との適時交替の戦術もあったようです)。結果は、漁業専管水域200カイリへの世界的拡大を先導し、世界最高水準の一人当たり国民所得を誇っています。
 このような島嶼の経済的自立についての即自的アンビヴァレンス(両面価値性)は、同時に、島嶼の政治的自決についての対自的アンビヴァレンスでもあります。政治的独立がただちに自立的経済発展を実現しえないことは、植民地制度が形式的にはほとんど消滅した現在でも、多国籍企業なネオ・コロニアリズム的統合(資源・労働力の共同管理、周辺資本主義の下請け的国際系列化など)にみるとおりです。といっても、資本主義が長期の下降波の過程にある現局面では、最低の上部構造的自決の支持なしには、構造の発展はとても望めません。逆に、当然ながら、経済的自立をめざす運動と主体なしには、行政的自治権の拡充すらもありえません。この相補的さらには相即的な関連は、さしあたり、島嶼の本土に対する画一化、同化への抵抗の一歩に集約されなくてはならないでしょう。
 すなわち、行政的な「特別自治権」は、それを追求し運用する運動と主体のあり方によって、政治的自決に連動、膚接するものともなりうるし、また、政治的自決、内発的経済発展とは万里の長城をもって隔てられる中央集権支配の「合理的」再編形態ともなりうるという、アンビヴァレントな概念です。
 沖縄の場合、「復帰」時に出されたいくつかの特別自治体案は、当初の発想からは円環的発展を遂げざるをえないでしょう。たとえば、対日本の格差是正、従属解消などの平等の要求を達成するにとどまらず、対東・東南アジア、対太平洋諸島の枠組みにおいて、オープン・システム的な新しい構想力に貫かれなくてはならないでしょう。その点で、沖縄にとっては最低ともいうべき要求である「特別自治権」のあり方を、一例として、シチリア、サルデーニャというイタリアの島嶼特別州について参照してみましょう。

シチリア、サルデーニャの例

 イタリアの戦後憲法は、資本主義的な工業や農業の発展した北部と、半封建的農業、労働力移出に依存する南・島部との国内植民地的関係を反映した、伝統的な「南部主義」などのリージョナリズムの圧力によって、第116条に次のように定めました。「シチリア、サルデーニャ、トレンティーノ・アルト・アディージェ、フリウリ−ヴェネツィア・ジューリアおよびヴァッレ・ダオスタには、憲法的法律をもって採択された特別憲章にしたがって、自治の特別な形態および条件が帰属される。」この5州に共通なのは、辺境地域であることであり、シチリアとサルデーニャは島嶼州として社会経済的振興が主問題であるとともに、シチリアには分離主義の伝統があり、また、第2次大戦末にまずこの島を「解放」した連合軍の軍政下に約半年間、のちのイタリア「州国家」の原型となった高度の自治の経験がありました。サルデーニャの自治と分権の要求もシチリアに近く、北部の3州では、ドイツ語、スロヴェニア語の「言語的少数派」問題が特徴でした。だが、シチリアとサルデーニャとの間には、たとえば前者は地中海の交差点的位置、良港など交通が便利で、農業には絶対的なまでの過剰人口を潜在させ――それが対アメリカ移民の源泉です――、後者は島内外の孤立性に悩み、マラリア、栄養失調による人口の停滞ないし減少を続けてきた、などという差異がありました。州の特別憲章についても、シチリアはローマに対しより自立的で、州議会は独自の名称(アッセンブレーア)をもち、そこで選出された州首席はイタリア中央政府において閣僚の地位を与えられ、州政府は税制、農地改革などでかなり大幅な立法権、行政権を行使しているのに対し、サルデーニャは普通州並みの地方自治権・分権に自己限定する傾向をみせてきました。
 これら2つの島嶼州では、本土系列諸政党のほかに、地域人民政党(シチリア・キリスト教社会連合USCS、サルデーニャ行動党PSA)が一時は進出しました。特にシチリアでは、本土との格差是正、反北部独占資本、地場中小企業擁護を主張して、保守党のキリスト教民主党からUSCSを分離させたS・ミラッツォは、社・共から右翼までの支持のもとに1958年以降3たび州首席に就任し、州の経済計画、特に本土大資本の進出に有利な工業化計画の変更に努めました。さらに1961年には、社会党のS・コラッロを主席に、短命ながら純左派の地方政府すら出現したのです。だが、大資本や中央政府の強力な介入、移民の大量流出にみられるような地域経済の解体の進行、社会党の分裂などの悪条件は、州開発公社の創設以下の「再生計画」を棚上げにさせました(その間に州鉱業公社の設置、農産物の生産割当の変更、交通機関の市有化などの措置が州議会によってとられましたが)。疲弊した農・牧業中心のサルデーニャでは、戦後の帰還兵や知識人の運動からサンディカリズムの傾向の濃いPSAが再現し、徹底的な地方分権と生産協同組合による経済再建とを主張し、自治主義の強い影響を残して、50年代に本土系列諸政党に分解しました。特別州憲章のもとに、「サルデーニャの社会経済的再生特別計画」が決定され、1962年には国の法律化となったが、中央の介入と州政府の反動化によって実効をあげえなかった、と言われています。
 一般にシチリア、サルデーニャで経済発展や社会改革の計画が官製化され、骨抜きされたのは、第一に、政府の南部開発委員会や国家資本、つまり、南部金庫とその傘下の諸公社が中心となって、独占資本のための地域開発が進められ、労働者・農民組織、地元資本はもとより、州諸機関は従属的地位に甘んじなくてはならなかったためです。イタリア民族国家の統一堅持、イタリア資本主義の危機に対する挙国一致的救済の路線が、反本土すなわち反独占闘争の衰退を招いたこと、によるためとみられます。共産党のいう「小ブルジョア的基盤に立つ伝統的自治勢力と階級運動の組織勢力との結合」は、単なる民主化、近代化の方向での州権運動によっては実現されず、工業化するほど拡大する地域格差、深化する経済危機に対抗する島嶼人民の運動は、いまでは全島的抵抗なしには、そして、行政的自治権拡大よりも国家構造の連邦化、EC全域の低開発地帯との連帯なしには達成されえないところに来ている、と私は考えます。シチリア、サルデーニャの経験は、行政的特別自治権が形式的に運用された場合、すなわち、現実の大衆的要求にもとづいて抵抗闘争をつうじ政治的に運用されなかった場合の超えがたい限界を示していると言えましょう(C・パラッツォーリ『イタリアの島嶼的環境』、ジョゼッペ・レスティーフォ『シチリアにおける低開発と人民闘争』、G・モーリ編『南部自治主義――イデオロギー、政策、制度』、拙稿「自治体改革のイタリア的展開」などを参照)。

沖縄自立・自決の方向

 沖縄は、「封建的自治」を抹消した「琉球処分」以降、「旧慣温存」から「土地整理」へ、そして畸型的な資本主義化を経て、ようやく大正デモクラシー期に地方自治制と参政権の「特例」撤廃が行われるまで、約半世紀の間、まさに負の意味と方向での「特別県」でした。単に形式的自治にとどまらない民族的な差別と同化の天皇制国家支配は、かの沖縄戦と強制分離をもたらしました。アメリカ帝国主義の軍事植民地化、「布告・布令政治」は、それでも、いわば「半独立国」下に経済的自立と政治的自決への一定の胎動を生み出していた、と思われます。だが、約4分の1世紀の米軍支配からの沖縄「返還」の実体は、再起した日本帝国主義への強制併合にほかなりません。一連の「復帰特別措置」の主軸は、公用地暫定使用法に典型的にしめされるように、沖縄人民の同意をまったく無視、圧殺した日本の国家緊急権の先取り的発動と考えざるをえないのです。日本民族国家の本格的な帝国主義的膨張が、日韓条約に続いて沖縄「復帰」をバネとしたのに軌を一にして、このドサクサ的な、じつは計画的な非常大権行使は、その後、「有事立法」キャンペーンなど「法治国家」を超えた「緊急国家」(小林直樹『国家緊急権』)を日本自体に現出させつつあります。現に「復帰特別措置」は、いったい沖縄人に相談して決めたのですか? 一度として憲法にも定めている住民投票が沖縄で施行されたことがありますか? さらに、「復帰」10年は、本土独占資本の圧倒的浸透によって、軍事植民地に加えて、戦前とは異なる周辺資本主義的な近代的国内植民地を重合させました。その意味では、伝来の負の「特別県」的性格は、沖縄から払拭されてはいないと言うべきでしょう。
 「特別自治権」とは、すでに再三述べましたように、基本的には地方自治、行政分権の次元にあり、地域の自立要求特に民族的マイノリティーの政治的自決要求を、それこそ政治的に回避しつつ統合するための緩衝措置なのです。場合によっては、没落帝国主義国たるイギリスにみるように、帝国主義的統合総体の危機は、「独立」許容すらもネオ・コロニアリズムの政治技術たらしめています。問題はかかって、何人も首肯せざるをえない経済的自立と行政的自治を現実に要求する運動とイデオロギーの質にあります。沖縄の場合、農・漁・畜産業、工業、交通の全面にわたって経済的、生産的な自立の諸構想が噴出し、現行地方自治権の内容自体が根本的に問われていることは、すでに日本の資本主義と民族国家に対する抵抗である、と私は考えたいのです。
 沖縄が、本来もっている共同性を母体として、新しい共同社会、民族社会の形成を目指し、経済的自立と、それと表裏一体となす政治的自決との方向に踏み出すならば、そのキー・ストーンたる位置は、日本の変革、さらにはアジア・太平洋の諸社会の変革のそれとなる可能性を秘めていることは明らかです。そのうえで、もし沖縄が日本と一定の関係をもつとするならば、それは平等な立場からの連邦というかたちしかありえないでしょう。1億人対100万人という問題ではありません。根底的には人間と人間とのかかわり方の質の問題です。そのような日本と沖縄の明日のために力を尽したいと念願して、私の拙い話を終らせていただきます。

山崎カヲル「国内植民地概念について」

『インパクション−特集・独立をめざす国内植民地・沖縄』第17号(1982.4)所収


 メヒコ南部のチアパス州高原地帯には、一般に高地マヤ語族と呼ばれる人々が住んでいる。筆者はこの高原を二度訪れる機会を持ったが、そのたびにスペイン語がほとんど通じないシナカンタン、チャムラ、テネハパといった貧しい村々と、高原の中軸をなすラディーノ(都市の白人とメスティソ)の都市サン・クリストーバル・デ・ラス・カサスとの対照性に心うたれた。メキシコ・シティーからチアパスの州都トゥストラ・グティエレスへ、そこから山間の都市サン・クリストーバル、そして高地マヤ語を話す人々の村へという行程はそのまま、周辺部社会内部での中枢部から最周辺部への旅なのである。村人たちは19世紀末にラディーノ支配に対して蜂起した経験を持ち(「カースト戦争」)、今日でも経済的収奪と地方ボス支配に苦しんでいる。彼らと人種的には共通しているグアテマラのマヤ族たち(カクチケル、キチェ等の諸部族)は、今ゲリラとして厳しい内戦を戦っているが、チアパスの農民は少くとも表面的には静かに、抑圧・搾取・差別を耐えつづけているのである。
 チアパスの話は、筆者の単なる懐古趣味から持ち出したわけではない。この高原の人々こそ、本稿のテーマである国内植民地という概念を生み出させた源泉のひとつなのである。この概念は、アイルランドに、プエルト・リコに、南アフリカに、そして沖縄に適用範囲を拡げられて、それぞれに重要な成果を挙げているが、その提唱者のひとり、メヒコの農村社会学者であるロドルフォ・スタベンアヘンは、チアパス州の原住民研究のなかで、おそらくは初めてこの言葉を使用する。
 「19世紀後半の資本主義経済の拡張は、経済的自由主義というイデオロギーとともに、原住民とラディーノとのエスニックな関係の質を、再度変換する。この段階は、植民地主義の第二段階であって、それを国内植民地主義と呼ぼう。伝統的共同体に住む原住民たちは、自分たちがまたしても被植民者という役割をになっていることに気づいた。彼らは土地を失い、『異国人』のための労働を強制され、自分たちの意志に反して新しい貨幣経済に統合され、新しい形態での政治的支配に屈したのである。この場合、植民者の社会はメヒコの国民社会そのものであって、後者は自らの国内諸地域にしだいに支配を拡げつつあった。今や、共同体を離れた個々の原住民だけが国民社会に統合されるのではなく、原住民共同体そのものが集団として、拡張しつづける地域経済システムにしだいに統合される。国民社会がその支配を拡張するに応じて、また資本主義経済が地域を支配するに応じて、植民者と被植民者、ラディーノと原住民との関係は、階級関係へと変換されてゆく。」
(1)
 エスニック
(2)な関係が支配・搾取関係と重合する場合一般が国内植民地を成立させるのではなく、資本制経済関係の形成・発展に伴なって、エスニックな支配・搾取関係が資本主義的に変換される時、それを国内植民地主義と呼ぶのが、スタベンアヘンの立場である。このことについての検討はのちに譲ることにしたい。
 この20年ほどのあいだに、いわゆる第三世界の研究は方法論的に大きく変った。スタベンアヘンやアンドレ・グンデル・フランク、ブラジルのドス・サントスやルイ・マウロ・マリーニに代表される従属理論(新従属理論)、ピエール=フィリップ・レーやジョン・テイラーたちが開拓しつつある生産様式節合論等々、さまざまに革新的なパラダイムが提案され、魅力的な問題群を形成している。日本でも彼らやサミール・アミンの仕事が紹介されつつあり、今後もしかしたら(というのは筆者は日本アカデミズムの偏狭さに多く期待しないからであるが)その方向で研究が優位を占めるようになるかも知れない。しかしながら、こうしたいろいろなパラダイムや概念装置は、日本を舞台にした実証で裏打ちされないなら、所詮はただの珍奇な輸入品に終ってしまうであろう。国内植民地という概念は幸いにして、沖縄の人々によって積極的に取り上げられ、その視点からするいくつかの興味深い分析を生み出している。
(3)筆者にはその内容を評価する力はないが、国内植民地主義の発生の地のひとつ、ラテンアメリカの研究に従事するものとして、この概念を検討することで、沖縄の自立を目指して闘っている人々との有益な対話の糸口が開けたらと、願っている。
 もっとも、国内植民地についての全面的展開のための時間的余裕が今のところないので、本稿では国内植民地概念についての内容的整理と、この概念に対する多少とも強力な批判の問題性とを紹介して、国内植民地主義に関する近年の議論の方向性を探ることにとどめたい。

国内植民地−−概念としての

 国内植民地という用語は実のところ必ずしも厳密な規定を与えられてはいない。中村丈夫氏は「国内植民地論(レジュメ、)」において、それを広義の植民地概念に包括されるものとして、「一般的には、形式上本国の平等な構成部分でありながら、実質的には特殊な質をもつ搾取、収奪、抑圧、疎外のもとにおかれた従属地域を指す」
(4)と定義され、そこにおける民族問題と地域格差とが果たす役割に著目している。ここでは、資本主義国内部において、資本蓄積の進行に対してある特定の地域が果す特殊な役割が民族問題との関連で問題とされている。こうした地域問題は、マルクスによるアイルランド、グラムシによるイタリア南部についての言及を引くまでもなく、資本主義発達史のなかで再三提起されてきたことは、改めて述べる必要もないであろう。しかしながら、この問題が国内植民地という用語で再解釈されるようになったのは、ある新しい問題転換と深く結びついている。そのことから、話しを始めたい。
 この概念は、少くともラテンアメリカにおいては、二重社会論という従来からのプロブレマティークへの批判から生まれている。この二重社会論は、ファーニヴァルやブーケといったオランダの研究者によって、旧蘭領インドシナ(現インドネシア)の社会研究が提示し、その後アーサー・ルウィスたちの手で、低発展社会一般の分析にまで拡張されている。それが近代化論の支柱となったこと、また二重社会論のマルクス主義的ヴァリアントが二段階革命論(民族民主革命→社会主義革命)であったことも、周知の事実である。
(5)つまり、スタベンハーゲン、フランク、フリオ・コトレル、パブロ・ゴンサーレス・カサノバたちは、近代化論と二段階革命論とへの徹底した批判(やがて従属理論と呼ばれることになる)を通じて、国内植民地概念に到達したわけである。この意味で、この概念は従属理論というプロブレマティークと不可分であり、したがって多少論点を先取しておくと、後者と長所・短所を共有しているのである。
 それではそもそも、国内植民地主義とはいかなる内容を持った概念なのであろうか。このことについては、デール・ジョンスン
(6)がもっとも立ち入った展開をしていると思われるので、いささか長文になるが、彼の主張を以下に訳出しておきたい。
 「国内植民地という概念は、何人かのラテンアメリカ知識人の著作と、米国での黒人解放運動という、二つの独立した源泉に、その主たる起源を持っている。経済的に言うなら、国内植民地は、メトロポリス的中枢部市場への第一次産品を生産し、メトロポリス的中枢部が支配する企業向けの安価な労働源をなし、および(あるいは)中枢部の製品・サーヴィスの市場となるような住民として概念化しえよう。被植民者は支配的社会の政治的・文化的等の諸制度への参加から排除されているか、差別的参加を耐えさせられる。国内植民地とは、人種的、言語的および(あるいは)顕著な文化的差異にも基礎を置き、また同様に社会階級上の差異にも基礎を置いた、社会内部での社会を構成している。それは、メトロポリスの支配階級や支配的諸制度による、政治的・行政的コントロールに下属している。このように規定される国内植民地は、エスニックな面ないし文化的な面で二重ないし多重な諸社会において、地域を基盤にしたり、人種ないし文化を基盤にしたりして存在しうる。」
 ついでジョンスンは、「地域的国内植民地」と「人種および文化を基盤にした国内植民地」とを区別したうえで詳述する。
 前者はブラジルの北東部、ペルーの高原地帯、米国のアパラチア地帯や南部農村地帯、イタリアの南部等であって、その共通特徴は「都市的・メトロポリス的中枢部との関連で、国内植民地として機能する低発展地域」だということである。後者は米国の黒人、チカーノ(米国系メヒコ人)、プエルト・リコ人、南アフリカの黒人、フランス系カナダ人、北アイルランドのカトリック派等を含み、また先進諸国におけるいわゆるマージナル(周縁的)な社会階層といくつかの共通特徴を持っている。
 この後者のケースは、はじめロバート・ブローナーが米国黒人の社会的位置をも国内植民地概念で説明しようとしたことから、理論に繰り入れられた。ジョンスンの議論からは少し横道にそれるが、後者のような社会集団をも国内植民地主義支配と結びつけようとするなら、国内植民地の「地域性」の問題を実は検討の対象にしなければならない。それは瑣末なことではなく、すでに本誌で以前に取り上げておいたように、
(7)「民族」概念そのものと深く関係しているのである。既論文で扱ったように、オットー・バウアーたちオーストリア・マルクス主義者を除けば、カウツキー以来のマルクス主義は、民族の定義を地域的居住と言語との差異に力点を置いて行なってきた。したがって、この定義によれば、プエルト・リコに住みスペイン語を話すプエルト・リコ人は民族たりうるが、ニューヨークに住んで英語を話す黒人は、もはや民族という資格を持ちえなくなる。こうしたカウツキー的定義の暴力性は、在日朝鮮人の問題にそれを適用してみれば明らかであろう。国内植民地についての議論は、民族という言葉の使用を回避して、「エスニック」な集団という曖昧な規定を使うが、ブローナーが「地域性」を疑問視したとき、彼は意図せずに、カウツキー対バウアーの論争にかかわることになったと言える。「エスニック」な集団という用語変更は、民族概念にまとわりゆく困難を廃棄することはできない。国内植民地と民族概念とは、対になった問題なのである。ブローナーやジョンスンは「地域性」を越えた国内植民地規定を提示することで、その対象を拡張したが、それが植民地主義そのものを理論的に曖昧としてしまうことについては、のちに触れることにする。
 さて、ジョンスンの記述(地域的国内植民地に関係した)に戻ろう。
 「国内植民地とは、経済的現象である。経済システムの運行は植民地を生み出し、後者は一国のメトロポリス(低発展諸国のケースでは、さらに国際的メトロポリス)に対して衛星部として機能する。植民地大衆は、自らの生計維持のため生産し、またメトロポリスへ第一次産品を輸出する。この輸出にさいしては、彼らは生産物価値のきわめてわずかな部分を、賃銀ないし賃銀財として受け取ることになる。衛星部における経済活動からの利潤はメトロポリスに移転するか、主として第一次産品生産に再投資される。制度的に言うと、衛星部で生み出される富の領有は、土地所有者(しばしば不在地主)や鉱山所有者からメトロポリス的中枢部(一国的ないし国際的)への資本移転を通じて直接的になされるか、衛星部の生産物とメトロポリスの生産物との交易条件を通じたりして間接的になされる。自生的・非寡頭階級的ブルジョアジーによる資本蓄積は、ほとんど機会にめぐまれない。
 同時に、経済システムは衛星部において、硬直的で分極化した社会構造を生み出す。そこでは、第一次産品生産手段の所有者、商人階級、および(あるいは)金融階級は、全国的階級構造の上位ランクに統合される。植民地における支配階級は、全国的諸制度や階級構造に参加する特権を味わえるが、他方で植民地大衆は、メトロポリス社会の諸階級のあいだで分配される利潤への参加に対しては、周縁化されてしまう。……
 こうした状況においては、変化は例え経済成長や構造転換を含んでいても、発展的な変化ではない。経済変化過程は、植民地化過程の継続、さらに時には尖鋭化を意味する。衛星部のビジネス階級は、一年のほとんどを大都市ですごす不在所有者となり、その投資をしだいに拡張・多様化する。市場販売の恒常的合理化はメトロポリスの商人に、供給・価格についてのより大きな支配を与える。衛星部における信用市場は消滅するか、全国銀行に奪い取られる。階級構造は、寡頭支配階級と大衆という二分法を骨化させる。フランクが『低発展の発展』と呼んだ過程が生じる。」
 以上のようなジョンスンの展開からも分るように、国内植民地概念は、世界的規模での中枢部・周辺部関係を、一国の先進地域と後進地域との関係へと転用することで成立している。フランクの言う「低発展の発展」の国内版が、国内植民地主義なのである。

H・ウォルプの批判

 国内植民地主義は、この概念が登場して以来、さまざまな地域に当てはめられてきた。例えば、マイケル・ヘクター『国内植民地主義』(1975年)という、そのものズバリのタイトルの本を書いて、そのなかで16世紀から現在までのアイルランドを分析している(彼は国内植民地主義を「文化的にことなる諸集団の中枢部による政治的統合」と呼んで、ジョンスンとは違って、まず政治的現象だと把握している
(8))。
 しかしながら、国内植民地概念に対するもっとも鋭い批判は、南アフリカに関して行なわれたのである。近年、南アフリカについてのわれわれの認識を一変させるほどの労作をつぎつぎと送り出しているハロルド・ウォルプは、この概念を正面切って問題にし、今日の第三世界論における二つの潮流の存在とそれとを結びつけた。それゆえにウォルプの論文
(9)は、今後の議論にとって決定的な重要性を持っている。
 南アフリカが多民族社会であることは、言うまでもないであろう。アパルトヘイト体制のもとで、南ア住民は公式には、白人、カラード、黒人、アジア人という4つのカテゴリーに区分され、なかんずく人口の70パーセントを占める黒人人口が、ヨハネスブルクにおいても、鉱山やホームランドにおいても、厳しい抑圧と搾取にさらされている事実は、日本でもすでに知られていよう。南アの黒人はジョンスンによって、「人種および文化を基盤にした国内植民地」の一例とされている。
 南アの白人政権は、四つの人種カテゴリーの設定によって、自社会が「多人種」的であることを公然と認めているが、では反アパルトヘイト派の方はどうであろうか。同党の機関誌『アフリカン・コミュニスト』は1976年から77年にかけて、この「多人種」的な社会がはたして単一民族をなしているかどうかについて、いくつかの対立する見解を掲載している。参加者のひとりペン・モラポ
(10)によれば、単一民族説(「経済的相互関係で統一され、アパルトヘイト体制の人種主義政策で分裂させられた単一民族」)、二民族説(「同一の地域内で肩をならべて生活している抑圧民族と被抑圧民族」)それに多民族説(最大限で一一の民族)の三つのテーゼが存在すると言う。モラポ自身は、多民族説を共通の敵との闘争にとって障害をなすとして、また単一民族説を「われわれの社会の植民地的性質と、われわれの解放闘争の民族的性格とを曖昧にする」として拒け、二民族テーゼに賛成している。彼の民族概念は明確とは言いがたいし、彼の立場が南ア共産党の主流ではないようであるが、この二民族テーゼが、民族的支配と階級的搾取との重合を説くものである以上、国内植民地主義論ときわめて近しいことは見て取れよう。
 この論争は、ウォルプの文字通り衝激的な論文「南アフリカにおける資本主義と低廉労働力」の発表(1972年
(11))よりあとに行なわれているが、南ア共産党の路線への批判者であるウォルプには一言の言及もない。しかしながら、南ア資本主義、人種主義イデオロギー、国内植民地論等についての彼の貢献は、もし南ア共産党が対話を受け入れながら、新しい展望を開く可能性を持っている(もっとも、先のモラポ論文への教条的反論(12)に見られるように、ほとんど期待できるものではないが)。
 ウォルプは1975年に発表された論文「国内植民地主義の理論――南アフリカのケース」において、主として南ア共産党の主張(しかし南アにだけ限定されるものではない)を相手にして、国内植民地論の理論的諸前提を明らかにしようとする。以下で、その大略を見ておきたい。
 彼はカサノバ、ブローナー、ジョンスンたちの規定を引きながら、南ア共産党の基本路線が、「非白人系南アフリカ」に冠しては、国内植民地主義を採用していることを示す(南ア共産党自身は国内植民地主義という言葉を使っていない)。
 同党の『南アフリカの自由への道』という文献では、つぎのように言われている。「新しいタイプの植民地主義が発展した。そこでは、抑圧者たる白人民族が、被抑圧人民出身と同一の地域を占拠し、後者と並んで生活している。……非白人系南アフリカは白人系南アフリカ自体の植民地なのである。」
 ウォルプは同党の主張や、前に掲げた人々の仕事を分析して、第一に、階級的な支配・搾取システムとの関連が明らかでないこと、第二に、国内的植民地での搾取と階級的搾取との差異が奈辺にあるかが明らかでないこと、の二点を指摘する。彼が強調するのは、国内植民地論が、「搾取」や「支配」の一般的存在を述べながらも、それが記述的レヴェルにとどまっており、「民族」間の支配・搾取と階級間のそれとの差異を明確にしていないということである。特に重大なのは、被抑圧「民族」内部における階級構造と「民族」的支配・搾取構造との節合が具体的に分析されることがない点である。抑圧・被抑圧「民族」の内的階級分化を一方で認めながら、同時に「民族」間の搾取・抑圧を強調することで、他方では特に被抑圧「民族」を同質的なものとして扱おうとする傾向が、国内植民地主義論には常につきまとう。
 ウォルプによると、国内植民地主義論は、二重(多重)社会論と似かよった「概念的枠組み」を持っている。本稿の初めに指摘したように、国内植民地概念を支える理論的枠組みである従属理論は本来、二重社会論への批判として登場したはずであったが、ウォルプは従属理論による批判が不充分だと主張する。二重社会論はもっともプリミティヴな形では、一国家内部での二つの集団ないし制度の共存しか記述しないが、そのより進んだ形態では、両者の対立・葛藤、さらには支配=被支配の関係までを自分の対象に含みこむのであり、後者の場合、その理論的構造は従属理論ときわめて類似していると言ってよい。もし、二重社会論を徹底的に乗り越えようと思うなら、それが内在している盲点、すなわち階級関係の無視ないし軽視にこそ、批判が集中されなければならない。ところが、「国内植民地主義論は、階級関係と人種的、民族的等々の関係との連関を説明しえない。この結果、後者の関係はふたたび、自律的で階級関係から分離されたものとして扱われるようになる。」
 このようなウォルプの主張を、古典的教条主義だとして葬り去るのは誤りである。彼が示したのは、現在の「第三世界」研究における二つの潮流のあいだでの対立なのである。1960年代に「第三世界」の社会編制体(その主要な形態を周辺部資本主義と呼んでおく)の分析に関して、フランクやスタベンアヘンたちによって加工された従属理論が巨大な前進をマークしたことは、いくら強調してもしすぎることはない。しかしながら、フランクに対するエルネスト・ラクラウの批判は、社会編制体や生産様式といった一連の概念を論争のなかに持ちこんだ。ラクラウの批判そのものは、今日では歴史的価値しか持たないが、それによって、同じく60年代に活発化した史的唯物論の再構築の試み(主にフランスでルイ・アルテュセール、E・バリバール、シャルル・ベトレーム、クロード・メイヤスーたちが行なった)と「第三世界」分析と結びつく道が開かれたことが重要である。その結果、中枢部と周辺部との関係に力点を置く理論と、周辺部内部での階級関係の分析を重視し、この階級関係が帝国主義支配とどのように結びついているかを考察する理論(生産様式節合論)とのあいだに、はっきりとした対立が生じている。
 近年のA・G・フランクの仕事
(14)や、サミール・アミンのそれは、前者に基本的には立ちながら、後者を取り入れようという、悪く言えば折衷的なものであり、後者の立場は、メイヤスー、ピエール=フィリップ・レー、ジョン・テイラー、ジョエル・カーンたちが押し進めている。(15)ウォルプも後者に属しているのである。一言で言うなら、前者は階級支配と民族支配との存在を共に認め、両者の関連を探ろうとするのに対し、後者は階級支配の基本性を前提にして、民族支配なるものの政治的・イデオロギー的・経済的機能をそれによって説明しようとする。サミール・アミンとクロード・メイヤスーの対立(16)は、このことに基づいているのである。国内植民地概念を使用するとき、以上のような理論的対立に留意することが必要である。
 では、ウォルプはアパルトヘイト体制下での「人種的」分断を、どのように説明するのであろうか。
 まず彼は、シャルル・ベトレームにならって、搾取とは生産関係(剰余労働生産と、一階級によるその領有)であるとし、したがって、A・エマニュエル(さらにアミン)のように、一国による他国の「搾取」という考えを拒否する。このことは国内植民地主義に関しても同様であって、一国内でのある民族(ないしエスニック集団)による他民族(他のエスニック集団)への支配が、生産関係を基盤としているか否かが問われなければならない。厳密な意味での搾取が支配的民族と被支配的民族とのあいだで成り立つためには、両者があるひとつの生産様式(この場合には資本制生産様式)の構成要素となっていなければならない。例えば南アのケースにおいて、白人層が資本家をなし、非白人層が賃労働者階級をなしているなら、その場合には階級的搾取と民族的搾取とは同一となろう。しかしながら、特に南アのリザーヴ地域においては、黒人は非資本制農業を営なんでおり、そこでは土地は共同体が所有し、労働は親族を基盤にした社会単位でなされ、生産物はプールされたのち、主に親族規則にしたがって再分配される。土地が個人的保有にゆだねられている場合でも、そこでの労働は親族関係と無縁に行なわれていない。つまり、そこには資本制生産様式は存在していないのである。南ア経済全体において、資本制生産様式が支配していることは確かであるが、それが専一的に全社会に貫徹しているわけではなく、非資本制生産様式と並行し、後者を下属・節合させている。このような諸生産様式の節合は、生産関係の次元においてでなく、流通過程の次元において行われる
(17)。それゆえに、流通過程をも含めた社会的再生産の全過程を検討することが、問題となるのである。
 資本制生産様式は一般には、下属させた非資本制諸生産様式を解体させるが、周辺部資本主義の最大の特徴のひとつは、この解体が同時に保存傾向と拮坑することである。南アフリカもその例に漏れず、資本蓄積は非資本制経済の制限つき保存を伴なう。こうした保存は、アフリカ「部族」社会を分離・保護・支配しながら再生産するためのイデオロギー装置を必要とする。「強調しなければならないのは、イデオロギー的強調は常に必然的に、『人種的』『部族的』ないし『民族的』要素に置かれることがある。というのは、維持され支配されるものが『部族的』性質を持っているからである。」こうした保存は、労働力の再生産費用の多くを資本制生産様式の枠外で負担させることで、安価な労働力の確保を可能にさせる。
 「アフリカ人諸社会からの労働力の抽出を可能にさせる諸条件(出稼ぎ労働、農地固定、アフリカ人農業での低い資本投下)の保存は、これら諸社会の生産能力を破壊することに奉仕する(人口増加は、限定された土地面積や後進的農法等のために過剰人口を形成することを考えるなら)。リザーヴ経済からの生産物の減少は、農村の貧因化を生み出し、また、資本制セクターが間接賃銀に責任を負わないため、極端な都市での賃因化を生み出す。その結果、賃銀や農村諸条件に関するアフリカ人の圧力が増加する。この圧力こそが、1940年代と50年代における政治・経済構造全体への攻勢を作り出したのである。アパルトヘイトは、こうした反対に直面した資本制国家が、政治的支配の『完全化』され『近代化』された装置の建設によって、低廉な出稼ぎ労働システムを保持しょうとする試みである。」

国内植民地概念は可能か

 国内植民地という概念は、繰り返すが、一国内部における階級的支配(搾取関係を基軸とした)が民族的支配と合致することを前提としている。この「民族」という言葉を「エスニック」な集団と言い替えても、問題の構造は同じである。
 であるなら、まさしくS・アミンの近著のタイトルに示されるように、この議論においては、階級と民族とは同じ社会的実在として認められることになる。ハロルド・ウォルプの批判は、まさにその点に向けられていると思われる。民族とは、階級と同じ資格を持った社会的現実なのであろうか。ウォルプ自身はこの問題を扱ってはいないが、筆者ははっきりと否と答えたい。ここでマルクスを持ち出すのは唐突かもしれないが、『剰余価値学説史』で彼はつぎのように述べている。
 「民族は実在しない。あるいは、単に資本家階級としてのみ実在する。」(K.マルクス『剰余価値学説史』国民文庫版8−P178)
 マルクスは少なくとも、民族なるものの中立的・客観的実在を否定していたことは確かである。ウォルプたちのいわゆる生産様式節合論は、階級関係にのみ実在性を認め、その再生産のうちで民族イデオロギーがいかなる作用を担うかを問う。ある特定の地域なり社会集団なりが、国内植民地として地域的ないし集団的に搾取されると考えるのは、生産関係を曖昧にし、それを支配・被支配のメカニズムと同一化することになりかねないのである。民族とはマルクスの言葉をパラフレーズして言うなら、支配階級としてのみ実在する。支配階級はそのことによって、一方では国内被支配階級を同一の「民族」に統合して階級対立を歪めさせ、また他方で植民地支配においてこの「民族」による統治という外見を押しつけることで、前者の歪みを拡大させ、さらには「民族」解放闘争を惹起させる。このため、「民族」は支配階級のイデオロギーでありながらも、国内被支配階級を包摂するイデオロギーとなりうるという、複合的な機能を持つようになる。
 いわゆる第三世界主義が、理論的にA・エマニュエルやS・アミン(彼ら自身は単純な第三世界主義に組みしないと名言はしているが)のような洗練された形態をとりつつも、根底的に誤まっているのは、イデオロギーとしての「民族」が客観的に実在し、民族による民族の搾取という事態を可能にするというその主張においてである。国内植民地論はこうした第三世界主義と理論的基盤を共有しているのである。
 もちろん、南アのリザーヴ、沖縄、チアパス州、アイルランド等で搾取や抑圧が不在なわけではない。それらは明白な事実である。しかしながら、そうした諸地域での支配・搾取関係は、民族的な支配や搾取という論点を持ち出さなくとも、充分に分析可能なのである。生産様式節合論は、まだ荒削りにではあるが、そのような分析のための理論装置を発展させつつあると思われる。


〔註〕
(1)R.Stavenhagen,Social Classes in Adrarian Societies Anchor Books,New York.1975,p.204.
(2)この「エスニック」という形容詞は、実に曖昧な内容を持っている。一般的に、民族を国家的な集団、エスニック集団をその下位集団と見ることが多い。
(3)管見に入ったものとして、原田誠司、矢下徳治編著『沖縄経済の自立にむけて』(1979年・鹿砦社)、比嘉良彦・原田誠司編著『沖縄経済自立の展望』(1980年・鹿砦社)、市村朔夫『日本辺境論叙説』(1981年・御茶の水書房)がある。
(4)『沖縄経済の自立にむけて』92ページ。
(5)A・G・フランク『世界資本主義と低開発』大崎正治他訳、拓殖書房を参照。
(6)James Cockcroft, et al., Developmentand Underdevelop-ment,Anchor Books, New York, 1972, chap,10.
(7)拙稿「民族問題の再検討のために」『インパクト』第8号。
(8)Michael Hechter, Internal Colonialism:The Celtic Fringe in British National Development,1536-1966, Univ. of California Press, Berkeley/Los Angeles, 1975, p . 32n.
(9)Harold Wolpe, "The theory of internal colonialism:the South African case",in :I. Oxaal, et al.(ed.), Beyond the Sociology of Development, R.&K. Paul, London,1975.
(10)Ben Molapo, "On the national question" , The African Communist, No.66, 1976
(11)H. Wolpe. "Capitalism and cheap iabour power in South Africa:from segragaton to apartheid",Economy and Society, November 1972.
(12)Joe Ngwenya,"A further contribution on the national question", The African Communist,No.67,1976.
(13)E・ラクラウ「ラテンアメリカにおける封建制と資本主義」大阪経済法科大学『経済学論集』1980年第2号、訳出。
(14)A・G・フランク『従属的蓄積と低開発』吾郷健二訳、岩波書店。
(15)C・メイヤスー『家族制共同体の理論』川田・原口訳、筑摩書房、第2部、山崎編訳『マルクス主義と経済人類学』柘殖書房、を参照。問題点の全面的な整理は、John G. Taylor. From Modernization to Modes of Production, Macmillan, London, 1979 が優れている。
(16)メイヤスー、前掲書、S・アミン『階級と民族』(拙訳近刊、新評論)、および雑誌L'Homme et la Socie'te' Nos.39-40,1976.での両者の論争。
(17)この点については、拙稿「生産様式の節合と帝国主義の理論」『季刊クライシス』1980年第5号、を参照。また、望月清司「第3世界から提起された新世界史論争」高橋彰他編『第3世界と経済学』東大出版会、も。
(18)K・マルクス『剰余価値学説史』国民文庫版G、178ページ。
 なお、本稿脱稿後に、S. Marks/A.Atmore(ed.), Economy and Society in Pre-industrial South Africa, Longman, London1980. を入手できた。生産様式節合論からする優れた研究(特にフィリップ・ボンナー)が収録されている。

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