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繰り返し変わる

沖縄における直接行動の現在進行形



阿部小涼


1 はじめに:SACO以降の長い「失われた10年」

 この屈辱は耐え難い。ぼく(たち)は合意しない。忘れ難い記憶があるからだ。記憶は未来の先導者である。(1)

 沖縄戦という完膚無きアトロシティーの後、捕虜として収容された瀬嵩、大浦湾をはさんで向こうに眺める辺野古の丘陵。現在の沖縄における基地問題の争点を捉えながら、その風景に、常に折りたたまれて瞬時によみがえる記憶があるということを再確認させる、中里友豪の文章がある。

 書いてきた文章の中に、「復帰」前に書いた文章と似たような記述がある。あのときと状況は何も変わっていないということだ。変えていかなければならない。(2)

 国政選挙拒否から70年代に向かう反復帰運動に光を当てようとする試みは、しばしば見られることであるが、当事者たちもまた、現在の状況を当時に重ね合わせながら、再びの決意を迫られている。焦燥感とも取れるこうした文章に接するたびに、同じことが繰り返されているのか、何も変わっていないのか、問い続ける作業の必要性を思う。
 沖縄における社会運動について考えるとき、その多くが、米軍基地にまつわる諸問題を根源とし、直接・間接に関係・介入していることは、改めて強調してよい。だが、沖縄という状況が社会運動に与えた影響を考えるならば、どうだろう。沖縄戦から終わらない占領が続いている。何も変わっていない。にもかかわらず、現在の社会運動に質的変化を看取しようとすれば、それは、どのような事態によるものであろう。2005年10月に発表された日米軍事再編計画という局面を迎えながら、1996年SACO以降の日本政府による温情主義的補助金行政が、沖縄の運動を解体していった、沖縄アクティヴィズムの失われた長い10年ではないか、と筆者は考えるようになった。(3)
 その長い10年とは端的に、「アメとムチ」「振興策」という語が、基地の整理縮小交渉と、当たり前のようにセットで語られるようになった島田懇談会事業などを端緒としている。そこで進行していたのは、徹底的で可視的な暴力的弾圧ではないかたちで継続された、反基地運動の「島ぐるみ」的契機に対する切り崩しであった。重大な出来事のひとつは、正規の手続きに則った反対の意思表明が、政策に反映されないという事態である。1990年代以降、日本の再帰的近代を特徴づける動きとしてしばしば言及される条例による住民投票(4)の、早期の先行例となった地位協定と米軍基地整理縮小の賛否を問う沖縄県民投票(1996年9月)、普天間基地返還にともなう代替海上ヘリポート案の是非を問う名護市民投票(1997年12月)、いずれも、基地強化を拒否する声が過半数を超えたにも拘わらず、自治体首長をはじめとする機関の政策決定は、それらを反映させることはなかった。公式の手続きに則った民主主義が機能不全を起こしていると認識させられた10年であった。その結果、米軍基地による土地収奪について、沖縄では決して敗北の一方ではなかった(たとえば昆布闘争、安波・安田の闘い、自衛隊との問題では本部町豊原P3C闘争など)にもかかわらず、反対しても結局土地は取り上げられる、それなら条件交渉に切り替えて、少しでも補償を多く勝ち取るほうが現実的選択、といった思考作法による諦念が、党派を超えた全県的な運動参加者を動員できない状況を生む10年であった。それは、かつての「島ぐるみ」運動を回願する10年でもある。SACO以降の長い10年を経て、現在われわれは、日本政治の大きな転換期を目撃している。「失われた10年」は、果たしてどのような時代であったのか、省察すべき時期に立っている(5)。
 2006年の米軍再編合意、両国の政権交代を経た2010年5月の日米合意でこの長い「失われた10年」は(「失われた20年」とじきに呼ばれることになるのだろうか)しかし、辺野古と高江というふたつの重要な直接行動によって端的に特徴付けられる時代であった。本稿ではまず、このふたつの運動の現在に至る状況を外観する。特に、筆者がより深く知りうる機会を得ている高江における直接行動を可能な範囲で詳細に言及してみたい(6)。さらに、そこからの派生、あるいは変態としての次世代的アクションについて考察することで、沖縄における直接行動の現在進行形を描く試みとしたい。

辺野古新基地建設反対運動

 1996年、SACO(沖縄に関する特別行動委員会)の最終報告で、日米両政府は、都市部にあって危険性が問題視されている普天間基地を閉鎖する代替として、沖縄本島東海岸沖に海上を埋め立てて新たに滑走路を建設すると発表した。そこで移設先として指定されたのが「辺野古」である7。これに対し、1997年、辺野古の住民によって「命を守る会」が結成され、浜での座り込みによる示威行動が開始される。同年12月には、名護市民投票が実施され、海上案に反対の票が過半数を超えたにもかかわらず、名護市長は独断で受け入れを発表した(8)。
 「命を守る会」の8年に及ぶ座り込みと多くの反対の声にも拘わらず、2004年4月19日、那覇防衛施設局は基地建設を目的としたボーリング調査を強行する。ここに至って、市民による座り込みという非暴力の阻止行動が開始され、同年9月には、海上での作業を阻止するためのシーカヤックを用いた海上座り込みに展開した。業者によって海上にボーリング機材を設置するための単管やぐらが設置されると、今度はそのやぐらを占拠して座り込みを継続し、座り込みが、一時期は24時間体制で実施されることもあった(9)。2005年、「台風の接近」を口実に単管やぐらが撤去されたのち、結果的に、辺野古沖海上案は、事実上断念せざるを得ないところに追い込まれるに至った。
 ところが、2005年10月末、日米両政府は、「米軍再編計画」として、今度は「沿岸案」に合意したと発表。辺野古は再び、基地建設の対象地として指定される。2006年にはV字型滑走路として発表されるこの計画案は、大浦湾からキャンプ・シュワブ沿岸部を埋め立て、V型の滑走路と、装弾場、洗機場、軍港施設などを含む大規模な内容であることが、抵抗運動の側の情報公開の努力によって次第に明らかになっていく。国による情報隠しが次々と明らかになり、根拠に基づかない「事前調査」の強行、法の精神をないがしろにする環境アセスの実施などに対して、さまざまな方法での抵抗運動が試みられた。座り込み阻止行動は長期化するに及んで、海上保安庁や受注業者との間で衝突が激化するものの、現場における直接行動と並行して準備されていた米国におけるジュゴン訴訟、辺野古沖を回遊する絶滅危惧種の海洋哺乳動物ジュゴンの撮影の成功、大浦湾側のリーフチェックによる大規模な珊瑚礁群落の発見など、さまざまな成果が、基地建設反対運動に連なる市民運動の手によって達成された。
 辺野古における直接行動の特徴は、10年を優に超える長期にわたって継続中の反基地運動であること、市民投票の先駆けとしての名護市民投票があったこと、「金武湾を守る会」から石垣白保の新空港建設問題を経由して辺野古の運動へと合流する人的・組織的流れ、「命を守る会」「ヘリ基地反対協」「平和市民連絡会」3つの組織による共同行動の実践形態、裁判闘争としての米国ジュゴン訴訟と環境保護運動とのリンケージなど多岐にわたってあげることが出来る。最も新しいところでは、革新政党が議席の過半数以上に転じた沖縄県議会で、2008年7月、辺野古沿岸への新基地建設反対の意見書と決議が採択され、2010年の県知事選挙では、元宜野湾市長で革新統一候補の伊波洋一に対抗し再選を果たした仲井真弘多が「県外移設」へと主張を転じている。また、2009年9月には、辺野古で実施された環境アセスメントの違法性を問う集団訴訟が堤訴された。直接行動の現場、フォーラムとしての市民運動に加えて、議会と法廷というフェイズが、辺野古における基地建設の進捗を押しとどめ、影響力を持ち続けて現在に至っている。
 この間、辺野古の直接行動の現場を支えてきた人々の顔ぶれの変遷を想起することは、ある種の感慨を呼び起こす。運動の各局面でそれを担う個性が変化すること、国政から地方自治体レベルまで様々な選挙のたびに、革新系政党による候補者選びのプロセスで、共闘の可能性が追求され離合集散があり、それが現場の人間関係に直接に影響すること。それだけではない。運動を担う諸個人も、また、家庭や生計と運動とのあいだで種々のコンフリクトに晒され続けている。直接行動が長期に及ぶこととは、こうした運動に関わる諸個人の暮らしを破壊し損ない収奪し、かつまた、その上に新しい関係を構築する。かれらもまた、経済的困窮、ドメスティック・ヴァイオレンス、セクシュアリティや権力関係にひそむあらゆるハラスメントから無縁であるはずがなく、そうした「生きる」ことと運動とを、切り分けておくのが不可能だということに他ならない。2010年2月には、海上座り込みの開始から2500日を迎えた、例外的に長期にわたる座り込みによる阻止行動を、そのものとして評価する必要があるだろう。

高江「ヘリパッドいらない」住民の会

 辺野古の基地問題の端緒となったのと同じSACOで検討されたのが、北部訓練場の返還問題であった。沖縄島北部の「やんばる」と呼ばれる亜熱帯の森林地帯の7833haに拡がる広大なこの海兵隊の訓練場は、米軍政下の1957年から使用が開始された。ベトナム戦争期には高江区住民を「現地住民」に見立てての戦闘訓練が行われるなど、ジャングル戦闘訓練に供され、枯れ葉剤の使用も疑われるなどその全貌は明らかにされていないところも大きい(10)。その提供区域面積の半分を超える、約4000ヘクタールを返還することが合意された。しかし、残される区域にヘリパッド(ヘリコプター着陸帯)を移設するという条件が付され、ここでも条件付き返還という建前によって、基地機能の強化が目指されていた(11)。その後、移設先をめぐって、生物調査が行われ、紆余曲折のうちにあったこの問題が再び焦点化するのは、10年を経た2006年のことだった。絶滅危惧種とされる貴重鳥類ヤンバルクイナ生息地の南限とされ、ノグチゲラもしばしば目撃されている東村高江区の集落を海に向かって囲い出すかたちで、6カ所のヘリパッド建設計画が発表されたのである。高江区は区民総会による反対決議を2度採択するが(12)、計画に変更が加えられることはなかった。反対決議に基づいて区は「ブロッコリーの森を守る会」を発足し抗議・要請活動を行うものの、2007年7月には沖縄防衛局(当時は那覇防衛施設局)によって着工が発表される。この時点で直接行動への躊躇から会としては事実上の活動停止状態となる。しかし、区の公認された住民運動に参加したごく数家族が、運動の継続と着工現場への座り込みを決断し、直接行動へと展開したことから、高江の住民運動は新たな局面を切り拓くこととなった。住民は2007年7月から、本稿を執筆中の現在もなお、着工に反対する座り込みを続けている。

高江における住民運動の形式

 現在における高江の直接行動は、行政という公的なインターフェイスを外された後に、自律的に問題提起の継続と解決の方途を模索した人びとによって成立している。かれらが公式に現在の組織名を名乗るのは、座り込みの開始から1ヶ月ほど経過した2007年8月のことで、外部への組織的支援を要請するためのインターフェイスが必要であると求められて、極めて便宜的に「結成」されたのが「ヘリパッドいらない」住民の会ということになる。「ヘリパッドいらない」住民の会は、「ブロッコリーの森を守る会」の流れとの切断を意図した名称変更ではある。また、身近な前例としての「ヘリポートいらない名護市民の会」からの継承関係も彷彿する。しかし「ブロッコリーの森」(13)というナチュラリスト的で創造的な名称や、「いらない」という軟性の名称は、非攻撃性や伝統的左翼のドグマティックな路線からの逸脱を一貫して堅持していることを示し、いっぽうで「共闘」や「連絡会」「連合」といった硬質の語を意識的に避けることによる、ゆるやかさ、開放性が担保されていることが指摘できるだろう。こうした開放性に基づく運動の継続を担保しているのが、参加する諸個人の個性であることは言を俟たない。かれらの直接行動の基盤は地域住民としての親密圏であり、それは社会学の用語で理論武装などせず率直に表現するところの友情であると言って良い。日々の暮らしに「現場」があること。象徴的な行動として、あるいはデモンストレーションとしての行動ではなく、テンポラリに出現するスペクタクルとしての闘争でもなく、具体的に工事の進行を押しとどめるという日々の成果を挙げる。そこに座り込み、占拠し、暮らし続けることによる直接行動の持つ意味は大きい。
 現場であるヘリパッド建設予定地がある高江区域の北部訓練場は、その殆どが国有林で占められている。沖縄県内各地で闘われた土地闘争に並ぶような地主としての「所有権」意識を基盤とした運動に展開しにくいことが、従来的な沖縄における土地闘争と一線を画すものにしている。高江に隣接する国頭村で、復帰前の1970年末から71年年明け、安田で実弾演習場建設に激しく抵抗、訓練を中止させるという抵抗運動があった(14)。また復帰の後1981年ハリアーパッド建設計画が浮上した安波では、1987年から88年にかけてやはり村ぐるみの座り込みと米軍への対峙の後、計画を断念させている。高江のヘリパッド移設(しかし一部は国頭村に含まれる)に関しては、国頭村からこうした過去の事例に匹敵する直接行動による住民運動への参加が見られないことにも、時代背景的な差とともにそうした質的な違いを看取出来るだろう。復帰前後というコンテクスト、米軍との直接対峙か日本政府との駆け引きかという「敵」の相貌の変質、入会権など領有地権益に関わる生活感に根付く感情の有無、そして、冒頭で触れたような、SACO合意以降の「振興策」という自治体の補助金依存構造を助長した「失われた10年」の深刻さというものが、うかがい知れる。そして、むしろ、私的所有権を根拠としない抵抗運動という点で、高江の直接行動を評価することが出来ると言えるだろう(15)。
 沖縄人のアイデンティティをコアにした運動という民族主義的価値も、部分的に妥当するとはいえ、それが、高江の運動を表象しているとは言い難い。たとえば環境問題への意識的言及は、「地元」を大きく凌駕した抵抗運動というネットワーク形成の特徴を持ち得ている。高江区周辺には沖縄島の重要な水源地であるダムが点在しており、「県民の水瓶を守ろう」という表現、高江の水を飲むならば自分の「地元」のこととして問題意識を持って欲しいとの呼びかけを通じて、運動への動機付けが陥りがちなアイデンティティ・ポリティクスの陥穽をきわどくすり抜けることに成功している。青森県六ヶ所村の核燃料再処理施設に対する抵抗運動、東京都高尾山トンネル工事反対運動、山口県上関の反原発運動など、沖縄の米軍基地問題に限定されない運動参加者の協力関係構築にも、その一端が表れている。
 じっさい、座り込みに参加するのは高江区住民に加えて、非正規雇用あるいは無職の若年層、放浪系の旅行者など、社会的には弱者とみなされがちな人々が座り込みの中心的な部分を構成している。「うちなーんちゅ」のアイデンティティは、こうした座り込みを共に経験することで現場に創造される「親密圏」との間で相対化されてきている。
 もう一歩踏み込んで検討するならば「地元」という表象自体が、分断のための策略的言辞としてしか機能していない点も重要である。高江は小学校の開学100年を迎える古い集落だが、炭焼き・木材の切り出しなど「山稼ぎ」と呼ばれる生計に依存してきた地域である。通信・交通網からの隔絶は、公式に現れる経済的富からの断絶を意味し、同時に、独立自営的精神を涵養してきたとも言える。沖縄戦後の移住、農地改良、自治体の再編などを経験した後、高江区は、現在では人口160名規模の小さな集落で、「シマ」と呼ばれしばしば排斥主義的風潮を持つと見なされがちな沖縄のローカルな場所としては例外的に、移入家族を大いに歓待する風潮もある。住民の会の構成メンバーは、過去10数年間の間に高江に転居して来た人々である。誰が「本来の」「地元」の人なのか、誰に「地元住民」としての発言の資格があるのか、を問うのは、むしろコミュニティ内部の分断を助長する言説として働いてきた。
 法的・政治的解決という側面で殆ど効力が発揮されていないことも、高江の直接行動を説明する上で必要な論点である。国政レベルでは自治体首長の態度や判断が「地元」の声と都合良く採り上げられるが、自治体の中心区域で経済的権益の集約される東村平良区から遠く、村長の「2割を犠牲にしても」発言など、地元の基地被害の実感は同じ村内でも隔たりがある。行政単位としての区あるいは地区は議会へ議員を選出する選挙区とは異なるため、村議会にしても、上位の県議会にしても「高江区」の利害を代表する議員選出には至っておらず、このことは、代議制による民主主義の議論のテーブルに、高江の問題が上りにくいことを裏付ける。こうしたことは、NIMBY施設建設をめぐって辺境農村地域において頻発する問題であるが、そのイシューが、地域自治の範疇を大きく超えた国政・国防レベル、国際関係レベルに直結している点で、高江のヘリパッド問題は異常性を極める。人口160名弱の地区が、外交・安全保障問題に正面から対峙させられているのである。
 また、運動の支持基盤として、労働組合や政党の運動組織などに代表される既存の組織的動員に依存しない点も重要であろう。例えば、辺野古の現場には、「辺野古命を守る会」と「ヘリ基地反対協」そして「平和市民連絡会」という3つの組織とネットワークが、協同しながら日常的な運営を支えている。高江では「ヘリパッドいらない」住民の会の座り込みに、沖縄平和運動センター(自治労、国交労[国公労?]、高教組、沖教組、マスコミ労協、全港湾、など社民党・社大党系列の平和運動組織)、統一連(「安保廃棄・くらしと民主主義を守る沖縄県統一行動連絡会議」、日本平和委員会、民医連、医療生協、県労連、民青同盟、新婦人、民商などの共産党系組織による平和運動母体)のほか、沖縄戦跡の平和ガイド活動を行う平和ネットワーク、奥間川流域保護基金、有機無農薬農家の組織などが支援者として恒常的に訪れている。
 しかし、そうした組織に代表されない数多くの個人の参加が見られることこそが、高江の大きな特徴といえる。遠隔地であるという地理的要因が組織的な動員を困難にしているが、それがかえって動員に依存しないアクティウィズムを創造しているのである。また、代議政治、議会民主主義の手続きに上せにくい環境は、会議室での議論よりも現場での対峙により価値を置く姿勢を生んでいる。先行例としての辺野古を参照しつつ、非常に少数の人員で座り込みという非暴力直接行動の現場主義を貫いている。
 現在まさに係争中の内容も含まれるため、そこで起こっていることを書き尽くすことが出来ないながらも、運動内部に入っていくつかの特色を挙げてみよう。まずもって出色なのは、事務局が事実上存在しないことである。会は設立当初3名の共同代表を擁して発足したが、かれらを含め主たる構成メンバーは、組織による命令を徹底的に拒む指向性を持ち、トップダウン的に物事が進行することが殆どない。週に1度、行われることが慣例となっているミーティングが、唯一の運営と決定に関わる場といえる。そのミーティングすら、決まった役割の者による招集があるわけではない。またここでは多数決による決定が採用されることはない。合意と決定がなされたように見えて、それは何度も覆る。
 参加者の多くは家庭単位というよりは構成員が自律的に濃淡を保ちながら運動に参加しており、男女を問わず集会での発言、登壇など活発に行っている。エッセイ執筆など、運動を表現する著者性も特定の個人に特権化することなく分掌されている。参加者の多くは、「反対派」というレッテル貼りを嫌い、「闘争」「団結」などの左翼活動家に用いられる用語の使用に抵抗感を抱く。経済階層的には、有機無農薬栽培い[に]高い価値を置く独自営農家や、伝統工芸、カフェ経営などの自営業層と統計上はインフォーマルセクターに分類される不定期・非公式労働に就く層とが相互扶助的に存在し、世代的には、1960年代以降に生まれた30−50代の年齢が運動の中心を担っている。思想的には、第2世代ヒッピーカルチャー、化学品・化合物の拒否、有機農法、自給自足などの特徴的な、反グローバライゼーション・ムーヴメントを文化的に支える層と、人民党から施設権返還後の共産党へ継承された沖縄の左翼ラディカリズムを汲む層とが、意図せざるかたちで合流して、この直接運動の空間を形成している。
 音楽への深い傾倒も、高江の運動の大きな特徴となっている。DIY的な音楽フェスティヴァルの開催を通じて、運動への理解と周知を促進し、呼びかけ、コモンを形成していくということを、意識的に実践している場所といえる。これに応えるように、メジャー、インディーズを問わずミュージシャンたちが高江を訪れることも多い。UA、七尾旅人、花&フェノミナン、知久寿焼らとの交流が高江の運動自体の知名度を拡げていく有効な手段にもなっている。プロ・ミュージシャンとの交流もさることながら、直接行動のメンバーの殆どが、ギター、パーカッションなどの楽器を奏でる名手である。「座ろうか」と「ロッカーズ」の混成語として命名された「スワロッカーズ」名義で、ライブ演奏をすることもしばしばである。沖縄民謡、オキナワン・ロックというよりは、そこに折り重なるようにルーツロック、レゲエ、ジャズなどのジャンルに傾倒した1960年代生まれの世代がこの空気感を支えている。権力関係的にはもっとも脆弱な地位にあるバンドリーダーは、沖縄の詩人、山之口獏の詩を元に作られた高田渡の代表作であるフォーキーな楽曲「生活の柄」を唄三線で飄々と奏で、多くの支援者の支持を得ている。このような運動の性格が、高江の直接行動を教条主義的というよりも詩学的に特徴付けているゆえんである。
 こうした特徴付けから、地球市民とか世界市民というレベルでの市民権意識、市民感覚を根拠にした運動、端的に反G8や反グローバライゼーションの新しい社会運動の潮流に合致する側面を持つと分析することは、非常に興味のある展開ではある。アフィニティ・グループとネットワーク形成を、運動のもっとも強固な支持基盤としていると整理できるし、既存の運動における常道を逸らす、あるいはずらすような、シュプレヒコールと動員体制への批判的態度は、抗議デモからマーチ、フェスティバルなどの祝祭的空間へと移行しようとする抵抗運動の新しい傾向と軸を同じくするものであろう。環境保護、反グローバリズム、有機農業、サーフィン、旅とキャンプ、自転車、DIY(16)など、新しい社会運動の備えるラディカリズムの表現型は、高江の運動を説明するためにも有る程度有効である。
 構成員によるトップダウンの拒否と、ときに迷走する合意形成への努力の様子は、「不和あるい不合理」こそをデモクラシーの原理とするジャック・ランシエールの理論17の実践系として高江の座り込みを論じることを可能にする。あるいは、ジュディス・バドラーの「プレカリアス・ライフ」を根拠とした共同体の洗練に引き寄せて批評すべきである。バトラーは、政治的共同体が練り上げられ鍛え上げられるときに、司法のレヴェルの「権利」の主張が用いる言語で定義される共同体では、不充分である点を説く。「自分が誰であるかを定義しようとするときに、司法のレヴェルで自分が何に関与している存在であるかを述べれば十分であると考えてしまうとすれば、それはおそらく間違いを犯すことになる。こうした記述は、人間の存在論に関する自由主義的議論で組み立てられた枠組みのなかで法的正統性を私たちに与えてくれるが、それだけでは情熱や悲しみや怒りといった感情に対処できない」。こうした感情がつながる先に、身体と自己決定の新しい政治共同体の創出を見出そうというのである。


 私たちにとって自律を求めて多くのやり方で闘うことがどのようにして可能か、そして同時に、定義上お互いに依存しあい、身体的に互いを傷つけあう可能性のある存在によって占められた世界に生きることによって、身に負わされた要求をも考慮することがどうしたら可能だろうか?
 こうした条件を別個にもっているということにおいてのみ、私たちが互いに似ているような共同体、すなわち差異なしに想定することができないような条件を私たち皆が共有しているような共同体、これこそが共同体を想像するもうひとつの方法ではないだろうか?(18)


 しかし、いっぽうで、明確な「ローカル」を持っているという固有性を同時に併せ持つことも、強調しておきたい。音楽が運動のなかに収まりの良い、動員に使われる音楽であることを拒否する視点を持ちながらも、デモや集会で肩を組んで「頑張ろう」や「沖縄を返せ」を大合唱する人々を目にして、自分たちの世代は果たして同じような歌を持っているだろうかと反省的に自問する(19)など、沖縄で長く継続されてきている反基地闘争・平和運動を、自分の一部として含み込んでいるという意識は高い。仮に「ポスト復帰運動の沖縄における抵抗運動」という枠組みを措定してみることも、過去を継承しつつ新しい運動を評価する契機となるだろう。

市民的不服従と抵抗権

 ところで、辺野古と高江の両者に共通するもっとも重要な特徴は、座り込みによる具体的な直接行動という点である。なにしろ辺野古での、海上で座り込むという実践の斬新さは、世界的に注目されてよい。海を占拠する、海上で座り込むというスタイルの創出は、ビエケスの漁民、山口県祝島の原発敷設反対運動などと並んで、辺野古の直接行動の価値となっている。高江では、道路交通法と、米軍提供地域に対して適用される刑特法との間にあるグレーゾーンすれすれにテントをはって座り込みが続いている。提供区域は、一般的に「安全保障上の問題」から、どこからどこまでなのか、明らかにされていない。特に広大な北部訓練場は、普天間や嘉手納のようなフェンスで囲まれることがないので、その曖昧さが、ある種の目に見えない恐怖となって住民を支配している場所でもある。座り込みは、その見えない線を見えるようにする、そのような効果を持っている。
 辺野古と高江における社会運動の具体的な展開として、雑駁ではあるが、1)代表制度に託して政治的な解決を模索する方法、2)裁判を起こして法廷に訴え裁定を引き出す方法、3)メディアを利用しつつアピールして世論を喚起する方法、4)不服従の直接行動という四つの方法があるとすれば、両者は、直裁に直接行動を主眼としている点が特に注目されると言える。
 もちろん、それぞれの方法のいずれかが選択されるわけではなく、時代的なコンテクストを踏まえて、複合的なアプローチが行われるのが通例だろう。辺野古については、米国におけるジュゴン訴訟が、法廷における闘争を切り開いたし、運動参加者の姿勢として繰り返し引用される「本当に阻止できるとは思っていない。時間稼ぎをしている。そのうちに世論が味方になって議会で議論が行われるまで、工事を遅らせているのだ」という言い方もある。
 しかし、市民投票や地元の反対決議を重ねても、地元首長が容認に転じるまで10年以上の歳月をかけて執拗に建設を迫る政府の圧力、専門家や国際機関の再三の勧告を採り上げず、アセスメント法には罰則規定がないこともあって、形骸化した環境影響評価の手続きとゼロ・オプションの不在、それらを抑止する政治力の不在。このような状況に対峙して、見えない暴力を可視化する詩学的価値こそが、座り込みという直接行動の持つ意義である。
 こうして長期に持ちこたえている辺野古と高江の運動は、まさにその価値を正統に評価するものとして、市民的不服従という語を当てはめるのが適当だろう。そして、その評価と検討のためには、内外における同様の実践、すなわち、米軍基地に抵抗する市民的不服従、あるいはより大きな文脈で抵抗権の実践について、その事例を比較検討することは、有効であろう。沖縄において、この反基地運動に「市民的不服従」という語を意識的に適用したのは、プエルトリコ、ビエケス島の海軍射爆場撤去運動を視察し交流を持った活動家の真喜志好一であったことも興味深い。
 高作正博は憲法学の立場から、基地建設を止める直接行動は「民主主義の質を高めるためのとても重要な行動」であると高江の住民の会の行動を賞賛した。これは住民の会が開催した学習会での一コマで、かれは、市民的不服従は憲法で認められるものだとして根拠を挙げながらその法理を説明した(20)。憲法学の見地では、12条「憲法が保障する自由と権利は国民の不断の努力で保持しなければならない」と、97条「人類の多年にわたる努力で得られた侵すことのできない永久の権利である」という権利の沿革が、その根拠とされているという。しかし、その適用については厳格な要件を満たすべきとの裁判所判断が積み上げられてきたことを、遅滞なく指摘するのである(21)。抵抗権の行使は、理論的には美しいが実際問題としては難しいと言うわけだ。
 いっぽうで、ヘリ墜落現場の制圧、MPによる繁華街の巡回など、米軍による「治外法権」の事実上の行使ばかりが繰り返される沖縄の現実がある。憲法が最高法規としての価値が軽んじられているここ沖縄において、抵抗権はどのように実践されてきただろうか。
 即座に想起すべきなのは、コザ反乱、コザ暴動、コザ事件、いろんな呼び方がなされてきたあの、1970年の末に起こった出来事の、その後の経緯である。暴動の後、当時の琉球警察によって多数が騒擾罪で逮捕された。その後、琉球政府検察は騒擾罪の適用を見送り、10名を凶器準備集合罪と放火罪で起訴した。裁判は施政権返還後に及び、那覇地裁コザ支部は、1975年6月18日事件の被告4人に有罪判決を下す。1976年3月17日、福岡高裁那覇支部が控訴を棄却し判決が確定した。このとき弁護側が立論を試みた「抵抗権」の主張は認められなかった。
 刑特法(22)に関わる裁判ではどうだろうか。1976、77年、県道104号越え実弾演習を阻止しようと、着弾地に進入した労働組合員や学生が刑特法違反で逮捕、起訴されたいわゆる「キセンバル県道越え実弾演習阻止」で、弁護側は安保条約と刑特法が違憲だとして無罪を主張したが、執行猶予付き有罪判決が下された。
 米軍基地に抗う「抵抗権」の諸相をもう少し見てみたい。1996年、4人の女性がイギリスの航空機会社に侵入し、戦闘機を非武器化するという事件が起きた。この行動に対し全員に無罪判決が言い渡されたことで、世界の注目を引きつけることになった。「プラウシェア」という呼称で知られるこの運動は、その後、オーストラリア、アリス・スプリングス近くのパインキャップ米軍基地に進入し秘密とされた通信施設を暴露した、いわゆるパインキャップ・フォーの無罪判決にも引き継がれた。いずれも、大きな市民性という理念に基づく抵抗権を法廷が認める判決である、と言ってよい。また、とくにオーストラリア、パインキャップの判決は、日本でいうところの刑特法違反に問われ、無罪を勝ち取っている点は、注目に値するだろう(23)。
 ジャック・ランシエールは、反乱とはすなわち抑圧された人々による権利の要求そのものなのであり、「暴力」か非暴力かという道義的審問を排して、擁護する立場にたつパワフルな思想を展開している。あるいはバリバールが言うように「公然と不服従を行うことで市民権を鋳直す行為」として、あるいはプラウシェアが練り上げてきた世界市民としての義務を果たしているものとして(24)、抵抗権という民主主義の正義の実践を、実現する行為遂行として、沖縄における反基地運動の直接行動の評価を積み上げていく緊急の必要があると、筆者はやや性急に考えていた(25)。
 しかし、温情的経済措置主義によって、「住民運動」が成立するためのはしごを外された、沖縄におけるアクティヴィズムの失われた10年は、同時に、権力による弾圧がスペクタクル的に出現しない、すなわち、対決の図式が見えにくく、不服従という抵抗のスタイルが、矛先を見失う10年でもあった。
 辺野古では、10年を超える直接行動の経過のなかで、活動家が逮捕されたのは、1度のみであった(26)。高江では、工事現場前での座り込みが「提供区域」内に入ると「刑特法違反だ」という警告が繰り返されてきた。ところが、2008年11月になって、刑事事件としてではなく、座り込みが民事法に基づく「通行妨害」であるとして、国が住民運動の参加者に対して仮処分を申請するという前例のない展開に及んだ。1年にわたる審尋を経て、2010年1月、民主党連合政権によって2名が正式起訴されるに至った。国による民事訴訟という手法は、脅迫的手段として裁判を流用するSLAPP訴訟として批判されるべき内容であると同時に、機動隊を導入して逮捕するなどの刑事事件として対峙するスペクタクルを忌避し、対抗図式を隠蔽し見えにくくする効果を持っている。

新たな思想の構築をめざす運動

 沖縄における運動の継承という側面について、批評の現場からの確認作業も必要だろう。メルクマールとしての1960年代末から70年代の施政権返還前後の時期は、くり返し参照され、これまで多くの研究が存在する。例えば、新崎盛暉が同じ時代を併走しながら折々に書いた文章をまとめた『未完の沖縄闘争』は、精緻に状況を捉えつつ俯瞰して分析する視点を併せ持ち、現在なお古びることがない。その70年前後の文章群のなかで、新崎は「新しい潮流」を感知したことを記している。
 そのひとつは、基地撤去問題を(人民党の瀬長以外は)黙殺したかたちでの選挙戦が戦われていた1968年、8月11日から13日、沖縄学生稲門会(早稲田大学における沖縄県人会)が主催したティーチ・インであった。発言の中心は「革共同革マル派と親近性を持つ沖縄マルクス主義者同盟(沖マル同)の影響下にある学生や労働者であった」という。沖縄の学生達が涵養してきたナショナリズム批判が、「心情的」との留保を付けながらも、共感を呼んでいることを指摘している。復帰運動が「ユートピア的彼岸として仰いできた祖国」に民衆運動を「歪曲」したこと。結果として、復帰は日本政府への請願運動と、心情的ナショナリズムの空洞化によって沖縄の現状を固定化するイデオロギーとして機能する実利主義を、課題として提示したのだと見ている(27)。(この箇所など、1996年以後10年の空洞化を説明するものかと見まがうではないか。)
 中野好夫の評論を引く形で(28)、当時30代以下の若い琉球大学出身者たちが復帰運動に質的変化をもたらしたことに注目した(29)新崎は言う。「もちろん、これらの世代の政治的あるいは思想的立場は一様ではない。また、それが新たな闘いや思想の構築をめざしている以上、既成の運動の総体を事後追認的に語る者にみられるような一種の安定感を欠くことはやむをえまい。当然ですらある」。伊江島土地闘争における阿波根昌鴻を参照しつつ沖縄の闘争における「ジンブン」は沖縄なればこそといったような「虚像の沖縄」に根拠を求めるのではなく、「本来的に存在したというよりも、悲惨な闘いの過程で身につけられたもの」と理解している。そのような政治学者の視線の先に、2.4ゼネスト中止の後の全軍労・軍港湾労の単独ストがある。労働者の権利を公然と要求するものとして、「『復帰』を実現するという圧力型復帰運動」から、「日本政府への一切の期待と幻想を断ち切った自立的闘争」に転化したと評価するのである(30)。
 新崎が感知した「新たな思想の構築をめざす」琉球大学卒業生たちのなかに、冒頭で触れた中里友豪の姿もあった。中里の「変わっていない。変えていかなければ」との切実さは、思想の堂々巡りを伝えているのではない。常に刷新、更新、書き換えていこうとする変革の思想的態度、その試みが、変わらず繰り返されているのだと、読まなければならないことに気付かされる。
 このティーチインの記録は、熱気さめやらぬ同年11月に『沖縄:本土復帰の幻想』として公刊された(31)。当時、八重山にいて川満から贈られた本書を手にした新川明は、その時の鮮烈な印象を述懐している。


 ページを開いて、私を驚かせたのは論文、討論の参加者全員がかつての仲間たちであったことである。いれい・たかし(伊礼孝)、川満信一、中里友豪、嶺井政和の面々は『琉大文学』に拠った旧メンバーたちであるし、真栄城啓介はグループの外にいたとはいえ私たちにもっとも近い一にいた詩人である。(32)

 そのラディカルな政治への介入主義的姿勢から、除籍処分者を出し発刊禁止に追い込まれる『琉大文学』同人たちからの刺激を受けて、新川は施政権返還に雪崩れ込む復帰論を厳しく批判し、日本との関係を批判的に問い直す視座を涵養していく。後に「反復帰論」と呼ばれるに至る視座が、このようにして獲得されていた。

 ヤマトゥ(日本)ならびにそこに住むヤマトゥンチュー(日本人)にとって、ウチナー(沖縄)はつねに辺境であるように、ウチナーンチュ(沖縄人)にとってみずからすむ土地も、ヤマトゥに対してつねに辺境であった。(略)その命題を、ボクたちウチナーンチュがあらためて問い返すことによって、自分の内なる「辺境」からみずからを解き放す視点を確保することができ、それはこんごウチナーンチュたるボクたちがなさねばならぬ、もっとも大きな作業でなければならぬと思う(70年1月1日『日本読書新聞』「内なる『辺境』から」)。(33)

 すでに1956年という早い段階で、『琉大文学』に「有色人種抄」を発表し、人種差別にあえぐアフリカ系アメリカ人と沖縄人とのあいだに共闘すべき価値を見出す才覚を得ていた新川のこの文章には、「二重の自己意識」(W.E.Bデュボイス)や「植民地主義論」(エメ・セゼール)と並べて考察すべき価値の転換を図っていることが理解されよう。こうして成熟された「反復帰」=「反国家」の視点は、後に、政治的独立論をめぐって、新崎盛暉と論争を展開することになる。
 しかし、ここで強調しておきたいのは、新しい思想の変革を感知し、自らもその渦中にあった両者が、市民運動と直接運動の現場で行動を共にしていたという事実である。沖縄島東海岸の金武湾の進出を図ろうとしたアルミニウム工場の建設阻止に端を発した環境保護の市民運動「金武湾を守る会」は、石油備蓄基地(CTS)建設計画に反対する「CTS阻止闘争」へと展開していた。この運動に支援を行ったのが、新崎、岡本恵徳(新川と同期の『琉大文学』同人)、新川らであった。その運動は自主講座や交流合宿、そしてミニコミ誌『琉球孤の住民運動』を生み出し、現在なお刊行の続く地域誌『けーし風』へと、市民運動のフォーラムを形成する原動力となった。
 ところで、同じ時期の日本で、社会運動を別の視角から批評していた政治学者に栗原彬がある(34)。「生活政治」「市民政治」「人間の政治」など、かれの用いた語彙群からは、60年代以降の環境問題への傾倒と市民運動の在り方のなかで、組織が、従来的な動員組織ではなく、親密圏として意識されていたことを物語るだろう。日本の文脈のなかで語るならば、たとえば数多くの団体が採用した「守る会」という名称に現れているのは、このような脱「闘争」的価値ではなかったか。1970年代の栗原の着想は、ときにメルロ=ポンティの「窓」「眼の手法」から「仮面」「詩学」に至り、ときにイヴァン・イリイチの「自律共同性」をたぐり寄せる(35)。栗原が「自律」市民社会の親密圏を政治の根拠に求めたころ、沖縄では「自立」的な闘争を構想しなければならないとの焦燥感があった。新崎が察知しつつも「心情的」で理論化される必要があると見たものを、栗原は、啓蒙主義的なロゴス中心主義を脱した政治詩学として語ることを可能にしていた。だが、栗原がその詩学を可能にしたのが、無条件に指定できる市民社会であったならば、新川の政治詩学は、まず二重に辺境化された自己を内側から解放して市民性に到達することこそが目指されていた。
 新崎が予見した「新しい闘いや思想の構築」の一角を担った人々のひとり、あるいはその先行者として、新川明の名前を挙げることは間違いではないだろう。「反復帰論」というムーヴメントの論客として、現在に至ってなお影響力を保つ新川の思想について、「アナキズム」という具体的で普遍性を持つドグマとして類型的に語られないことは非常に興味深い(36)。大川正道の翻訳や著作からの影響を認める言辞(37)を引きながらも、屋嘉比収は「しかし、だからといって短絡的に新川の思想的基盤を『アナキズム』一般として回収してはならない。むしろ現実政治の復帰運動を批判し、さらにその復帰思想の背後にある近代沖縄市を貫く沖縄の<日本志向>を根底から批判するために、沖縄人が国家にのめり込む心情を拒絶する志向性の探究としてマルキシズムからアナキズムへと至ったという、その新川の思考の軌跡のあり方にこそ注目しなければならない」と、警戒を解かない(38)。
 新しい社会運動としての反グローバライゼーション運動の波及が、日本における運動にも変革を促している。2008年の反G8運動、非正規雇用の増加に対抗するフリーター・ユニオンの形成とデモンストレーション、それらに先行するサウンドデモや「素人の乱」など、T.A.Zなど理論化されつつある祝祭的ムーヴメントを横目に見つつ、その間の沖縄で起こったことといえば、2005年8月の沖縄国際大学への米軍ヘリ墜落とその後の現場の米軍による制圧、歴史的教科書における沖縄戦の記述の歪曲、度重なるレイプ事件。世界的ムーヴメントのスタイルを流用しようと試みても、どこかでそうした祝祭的解放を許さない重苦しさが付きまとう。あるいは、日本で隆盛を見ているアナキズムへの関心の高まりに、沖縄の思想潮流から呼応しようとすれば、つねに警戒感のほうが先に立つ。
 そのようななか、市民的不服従、反基地運動、アナキズム、琉球大学、文芸批評、自律性、環境保護、音楽。沖縄における直接行動の現在進行型の様々な補助線を頼りとして、過去を継承しつつ変わっていくスタイルを示し得た人々が、やや意外な「現場」から唐突に現れた。

「私たちは占拠を実行します」:琉球大学の占拠

 2008年末になって露見した琉球大学の語学カリキュラム改悪を受けて、キャンパスを数人の学生たちが「占拠」した。大学構内にテントを建てて約1ヶ月にわたるキャンプを継続し、大学当局に対して、抗議の姿勢を示したものである。元をたどれば、それは前年、那覇地裁に提訴された同大学教授のセクシュアル・ハラスメント事件で1審が原告の請求棄却となった際、抗議の意を示すために、昼休みにジャズのライヴ演奏とカレーをふるまうという企画を遂行した学生たちであった。


 この占拠は、知を創造し共有するべきはずの大学が、自ら教育の場を放棄し、教育を貧困化させ、大学のネオオリベラル化に猛進する琉球大学当局の暴挙を阻止しようとする抵抗のアクションです。この占拠は、学生への一切の説明もなく、また学生を意志決定の過程に参加させることもなく、決定事項の一言で強行する大学当局に対話の場を開かせる抵抗のアクションです。
 私たち学生は、琉球大学当局が断行しようとする学生の声の黙殺という暴力に抵抗し、大学の自治権を学生の手に取り戻します。
 最後に私たちは、非常勤講師切り捨てと教育の放棄を恥ずかしげもなく謳い上げた新カリキュラムの白紙撤回を心から願い、行動するすべての人々と連帯する意志を表明したいと思います。
 琉球大学、そして全ての大学が「大学」たらんことを願って(39)。


 舌鋒鋭いが、じっさいに当局との暴力的対峙を演出することは全くなかったところに、かれらの強烈な個性がある。占拠とはいえ、学長室や高い建物に籠城したのではなく、緑豊かな中庭の芝生の上にテントを建てて行われたキャンプは、どことなく暢気さや鷹揚さを備えていた。
 その無名性・匿名性を積極的に打ち出すことによって、かつての「琉大事件」を総括できない大学を批判し、大学キャンパスを占領するというスタイルにおいて、ニューヨーク、アテネ、パリその他で同時多発的に勃発していたグローバルな大学闘争が自らのカウンター・パートであることを示そうとした学生たちは、また、沖縄の反基地闘争を継承することについても、充分に意識的であった。


 そこで私たちは、正義、自由、権利、抵抗を学んできた学生として、大学当局の暴挙を黙することに抵抗するために占拠を実行しました。沖縄の歴史を振り返ると、座り込みという占拠の一つのかたちもまた、抵抗のアクションとして行われてきたことがわかります。 
 座り込みは、戦後の沖縄において民衆により担われたラディカルな「自己決定」の作法として現在まで脈々と受け継がれてきました。座り込みは、圧倒的な軍事力に対し、人々がそれぞれのより良い未来のための話し合いの場を直接的に求めるための手段として、沖縄に脈々と根付いてきました。私たちは、沖縄における抵抗の歴史に学び、座り込みという抵抗のアクションによって新カリキュラム廃止を訴えます。(40)


 学生有志たちにとって、占拠しキャンプすることは、直裁に辺野古と高江の直接行動に対するオマージュであった。また、キャンプが、来るべき戦闘モードを準備する訓練としてではなく、まさにそこに暮らすことを目的として実践されたことは、例えばかれらの、食への深い傾倒として現れている。行為としての食事を、抵抗運動の欠くことの出来ないコアなものとして志向している点は、従来的な運動から一線を画した高江の直接行動が涵養するスタイルを、反復的に継承したものとして、注目に値する。

 ルー大生の提起の中で重要だった事は、ルー大占拠は模倣であり特に新自由主義に抗するグローバルな運動に強く影響を受けたのはもちろんだけれども、沖縄の反基地運動の文脈も非常に大切な位置を占めていた、と帝都東京で表明したことではないのか?とひそかに妄想している。
 模倣の表明。これは分断されているものを紡ぎなおす何かを有していやしないか。それは沖縄と本土かもしれないし、基地とネオリベラリズムかもしれないし、思いも付かない何かと何かかもしれない。高江、辺野古、スユ+ノモ、ニュースクール、反G8、1999シアトル、フランスゼネスト…人が集まると何を模倣しているかもわからない中で模倣し続けることが繰り返される。そこにはひょんなところから共同体の出現という応答を紡ぎ出す力が宿っているのだ。(41)


 沖縄の抵抗運動の亜種か、直接行動の突然変異体というべきか。しかし、かれらの表現の随所に現れているのは、かれらが失われた10年のあいだに胞胚されてきた沖縄の直接運動の水脈を正統に継承しているということであり、新しい状況に即応する所作を身につけた機知である。
 これら学生の声明を読むとき、脳裏には、アミリ・バラカの「同じでありながら変化していく」(42)ということばを掴み取ったヒューストン・ベイカー・Jrの解釈が想起される(43)。ブッカー・T・ワシントンの再評価を通じて、「ハーレム・ルネサンスは失敗だった」というジェームス・ウェルドン・ジョンソンの幻滅を打破する試みとして、「形式の修得と修得の変形」を定置した、その戦略性に対置しておきたい思いに駆られる。あるいは、ウェス・モンゴメリーの「カリバ」(44)。いきなりのベース・ソロから繰り出されて度肝を抜きつつ聴衆を沸かせるこの演奏は、モンゴメリーのオリジナルのラテン・ビートの秀逸な楽曲である。その名を知らしめた彼一流のオクターブ奏法によるソロの美しさは、それに応答するウィントン・ケリーのピアノの旋律とのイメージの交歓によって完成している。インプロヴィゼーションが、特定の個人の技術の高さや着想のみに依存するものではないことを想起させるのだ。どのようなコンテクストに配置するのか、音の輪郭を際だたせるのは、そのような配置にかかっており、コンテクスト(ケリーのピアノ)のほうが、一連の試行錯誤(ソロ演奏)に応答し、繰り返すように見えて旋律を少しずつ変更し、ズラし、ときにはテーマを先取るように提供しつつ、インプロヴィゼーションを解釈しようと試みる、そのような呼びかけと応答として聞き取ることが出来る。繰り返すことは、異なる窓を開く試みなのである。
 このようにアフリカ系アメリカ人の文化価値について言及するのは、あながち的外れなことではない。2008年5月、哲学者コーネル・ウェストが来沖した際のパーティの席上で「沖縄の人々はブルーズ・ピープルだ」と語ったとき、それは交流の証としての交歓の表明以上の、重要な連関について言い当てていたのであった。


 そしてもちろん、あなたの心のなかのブルーズの深淵なる感性を大切にして下さい。なぜなら、ブルーズとは、悲惨な経験を歌詞に込めつつも、優雅さと気品を保ち続けることだからです。闘争について語ることは、ブルーズについて語ることと同じです。権力があなたに襲いかかって潰されそうだと判っていても、現実と向き合い、笑顔を忘れず、反抗し闘い続けるやり方。それがブルーズです。(45)

 くり返される現実の悲惨さに向き合いながら、しかし優雅さを湛えて高踏的に、笑いとユーモアを随所に仕掛けることも忘れずに、反抗し続けてきた親たち先達たちのことを、身につまされるように知っていたからこそ、その言葉は会場の体温を上げ、歓声によって大学生たちに受けとめられたと考えるべきであろう。このパーティ空間を共に過ごした大学生たちによって、琉球大学占拠は実践されたのである。
 沖縄における直接行動の現在進行形を、様々な補助線を頼りに、何か一貫性を持つパースペクティヴとして組み立てようとすれば、それは失敗に終わるだろうか。その交錯点は、常に「消失点」として失われていくような、捉え所を失う感覚に陥るだろうか。そして、それは既視感を持って「同じことがまた起こっている」との焦燥感で捉えられるだろうか。しかし、もしもそうだとすれば、それは常に別の生き方、別の社会を求めて、繰り返し変革しようと試みているからである。同じでありながら変わっていくものだから、である。


[後記]
 辺野古・高江の反米軍基地運動は現在も継続中である。高江のヘリパッド建設反対運動は、法廷闘争の局面において、弁護団によるスラップ裁判の立論が精緻にされ、また那覇地方裁判所の酒井良介裁判長から「政治的問題であって司法判断では解決しない」との異例の見解を引き出すに至っている。いっぽう現地では、2010年12月22日未明より突如として工事が再開され、翌2011年2月末まで、工事を強行する沖縄防衛局・作業員と、反対する住民運動とが直接対峙する激しい展開となった。このような経過と併せて、運動の新しい技術やスタイルの発明、運動体の性格や傾向、参加者の意識に及ぼす影響など、今後も継続して社会運動分析を試みる予定である。


[注]
(1)中里友豪「記憶と想像」『前夜』第T期9号(2006年10月)13頁-16頁。
(2)同上。
(3)2005年から更に5年が経過した。ここでは時期区分にまつわる検討はせず、「長い10年」と捉えておくにとどめる。
(4)日本における住民投票の実施が本格化したのは1990年代後半からであり、正統的な民主政治の枠組内で、省察的に制度を鋳直して、市民が積極的に介入する経路を開いた。沖縄における2例は、住民の直接請求による住民投票実施例としても、日本政府の方針への反対意見が多数を獲得した例としても先駆的であった。今井一『住民投票:観客民主主義を超えて』岩波新書2005年。
(5)「失われた10年」の語を用いるのは、それが経済危機を端緒とした雇用・生活環境・格差社会論などに見られる日本版ロスト・ジェネレーション論に対して、ある種の横やりを入れたいという動機からでもある。経済格差の自覚から覚醒した日本における若年層の社会運動への関心を、世代論的に総括しようとしても、それは日本という国家のなかにありながら沖縄でも同様に起こっているとは言い難いからである。あるいは「危機の時代」という表現を、沖縄に適用してみることも有効だろう。ジョージ・リプシッツは、危機の時代にこそ立ち現れる新しい運動の萌芽を、ポップな表象のなかにこそ読み解くべきという姿勢を要請している。George Lipsitz, American Studies in a Moment of Danger (Minneapolis : Univ. of Minnesota Press, 2001)
(6)筆者は2005年から辺野古の海上座り込みに幾度か足を運びつつ、ヘリパッド問題を通して2006年に初めて高江を訪れた。その後、2007年7月の座り込み開始期から、直接行動への参加を通して、高江の運動について、観察を大いに上回る参与・介入というかたちで研究を継続している。運動の現場から学んだ知見は圧倒的であり、ロゴスを超えた感謝を、ここに記しておきたい。また、高江の座り込み運動は始まって3年半が経過し、いまだ継続中であるため、学術的な分析はこれから先待たれているところである。秀逸な端緒を切った先行研究として、森啓輔「社会運動の萌芽:沖縄県東村高江のヘリパッド建設に対する座り込みを事例に」(2008年度琉球大学法文学部卒業論文)、「非決定性空間の権力地図:沖縄県東村高江における米軍基地建設に反対する住民の座り込みを通して」(2010年度一橋大学社会学研究科修士論文)を挙げておく。
(7)移設先として辺野古が指定されたことは、さかのぼって施政権返還以前の1966年に、米軍内で提起されていたキャンプ・シュワブ沖の埋立軍港計画と関連づけて、その再来であると捉える分析もある。真喜志好一、崎浜秀光、東恩納琢磨、高里鈴代、真喜志トミ、国政美恵、浦島悦子、南くみ子『沖縄はもうだまされない:基地新設=SACO合意のからくりを撃つ』高文研2000年。キャンプ・シュワブ建設の経緯と併せれば、この地が1956年に提供開始されて以来、半世紀以上にわたって、軍用地への土地提供問題に曝され続けてきた場所として見る視点の重要性を改めて強調しておかなければならない。基地を強要する側(軍人・政府・公務員)は交替するけれども、押しつけられる側の地元住民は、数十年の長期にわたって、そのストレスに向き合い続けなければならないのである。
(8)辺野古の住民運動の萌芽、市民投票の経緯については、『沖縄タイムス』『琉球新報』の県内2紙の特集記事のほか、地域誌『けーし風』などにすでに非常に多くの文章が発表されている。ここでは以下を紹介するにとどめる。浦島悦子『豊かな島に基地はいらない:沖縄・やんばるからあなたへ』インパクト出版会2002年;『シマが揺れる:沖縄・海辺のムラの物語』高文研2006年;『島の未来へ:沖縄・名護からのたより』インパクト出版会2008年。
(9)海上座り込みについては拙稿「海で暮らす抵抗:危機の時代の抵抗運動研究のために」『現代思想』(特集:女はどこにいるのか)(2005年9月)も参照されたい。
(10)知念忠二『大河の流れと共に』あけぼの出版2008年。近年になって、一部施設と訓練がマスメディアに情報提供されている。1999年から2000年にNHKで放映された番組「隣人の素顔:検証・沖縄米軍基地」とNHK沖縄放送局編『隣人の素顔:フェンスの内側から見た米軍基地』NHK出版200年。梅林宏道『情報公開でとらえた沖縄の米軍』高文研1994年。
(11)なぜ、移設が必要とされたのか、SACOでの日米両政府による議論は明かにされておらず、情報公開法による請求も却下されている。「高江ヘリパッド、米、資料を非公開」『琉球新報』2009年6月18日。
(12)ヘリパッド移設問題以前にも、SACOによる普天間飛行場閉鎖の条件としてヘリポート機能の県内移設先が模索されたとき、宮城茂東村村長(当時)は、高江区周辺を念願に受入を表明している。このときも、高江区は区民総会によって反対決議を行っている。この点で、高江区もまた、辺野古と同じように10年以上の長期に及んで基地の押しつけを拒否し続けてきた集落であると見なければならない。
(13)やんばるの森林地帯の植生の中心を占めているイタジイが、ブロッコリーのように見えることから名付けられた。
(14)比嘉康文『鳥たちが村を救った』同時代社2001年。
(15)「やんばる」と呼ばれる森林地帯は、琉球処分以前の杣山(王府所轄の森林)から、琉球処分以後、日本国有林へと移管されている。米軍占領下で海兵隊の訓練場として提供された後、施政権返還にともなって、書類上の手続きのみで、改めて日本の国有林が米軍に提供されたものと形式を整えられた。杣山の利用については、地域によって入会権などの慣習は異なっており、地域の人びとにとっての所有・共有意識には、濃淡があったと推察される。やんばる地域が、兵役拒否者、政治思想による弾圧からの逃亡者を受け容れる土壌であったことも、検討すべき課題となるだろう。こうした観点のほか、戦争や移民を含む人の移動など、高江の運動の社会史的分析については、今後の検討課題となる。
(16)ただし、高江での暮らしは自ずとDIY的にならざるを得ないこと、DIY的生活を選択して高江に移住した人びとによる運動であることなど、都市的な運動論で出現するDIYその他の諸概念と単純に同一視することは控えなければならない。T.A.Zにしても、創出された「自律空間」としての抵抗と占拠の空間が辺野古や高江のように長期にわたり、暮らしと不可分となる現場を、充分に汲み取りきれない点があるのではないだろうか。
(17)ジャック・ランシエール著、松葉祥一訳『民主主義への憎悪』インスクリプト2008年。特に「デモクラシー、不合意、コミュニケーション」の章を参照。
(18)ジュディス・バトラー著、本橋哲也訳『生のあやうさ:哀悼と暴力の政治学』以文社2007年、60頁。
(19)「ヘリパッドいらない」住民の会「沖縄のブロッコリーの森が一大事:水源の森に米軍のヘリパッド!?新春座談会」『軍縮問題資料』No.341(2009年4月)
(20)高作正博「民主主義の『質』と憲法学:市民の直接行動の位置づけをめぐって」、ヨンパルト・三島・竹下・長谷川編『法の論理27特集:日本国憲法をめぐる基本的問題』成文堂2008年。ここでは民主主義理論の枠内で、市民による直接行動を意義付ける、民意の形成、議会外における討議の重視という点で、市民運動は民主主義の「質」を高める機能を持っていること、多数決による民意の切断、疎外をカバーするという観点が示された。
(21)過去の判例として繰り返し参照される1962年(昭和37年)1月、札幌地裁での要件は三つ、1憲法の民主主義の基本秩序に対する重大な侵害であること、2不法であることが客観的に明白であること、3いっさいの法的救済手段が使えない、最後の手段であることだった。
(22)刑特法といえば、最初の判例ともいえる砂川事件の、最近明らかになりつつある顛末は注目されている。1957年7月8日、東京都立川(当時の砂川町)米軍立川基地で、デモ隊の一部が基地内に立ち入り、7人が刑特法違反で起訴された事件で、東京地裁は安保条約に基づく米軍駐留が憲法9条に反するとして1959年3月に無罪を言い渡した(伊達判決)が、最高裁大法廷は同年12月、1審の破棄、差し戻しとし、いわゆる「統治行為論」を根拠に、司法判断の対象から除外するとした判決だが、この最高裁への飛躍上告と伊達判決の破棄の背後で、米国大使と最高裁長官との密談の存在が公文書で明らかになった。「砂川事件「伊達判決」直後、日米密談の文書存在」『毎日新聞』2010年。4月3日。
(23)イギリスの96年ブラウシェアについては、A.ゼルダー「私たちはなぜ核兵器を破壊するのか」『世界』679号(2000年9月)。パインギャップ・フォーについてはメールマガジンTUP Bulleting関連記事を参照。
(24)エティエンヌ・バリバールは「反抗を解放せよ」と訴える。「公民的(civique)不服従であって、市民的(civile)不服従ではない−対応する英語の表現<civil disobedience>をあわてて書き替えることによって、信じこまされているように。実際、問題はたんに権威に反対する個人ではない。むしろ問題は、重大事態に際して、国家への「不服従」を公然と率先して行うことによって、市民権をつくり直すような市民である。」「この反抗要求を解放しなければならない。」エティエンヌ・バリバール著、松葉祥一訳『市民権の哲学:民主主義における文化と政治』青土社2000年(184)。
(25)この点については、拙稿で論じた。Abe Kosuzu, “Rethinking the Right of Resistance: Henoko and Takae Sit-inners Standpoints,” Peace Studies Bulletin No.27 (November 2008), pp.6-8.
(26)基地建設に伴う兵舎の移転工事のための史跡調査作業を阻止しようとした市民が、逮捕されたが、不起訴となった。間接的には、この他に、嘉手納基地付近でビラを撒いていた仏教僧、東京で反G8デモに参加した辺野古の活動家が、それぞれ逮捕されたことがある。
(27)新崎盛暉『未完の沖縄闘争』(沖縄同時代史別巻・1962〜1972)、327-338頁。
(28)「30代以下の若い、とりわけ琉大出身者たちに国家権力への批判意識が明確になってきており、それが復帰運動にある種の質的変化をもたらしつつあることを伝えている。/つまり、米軍の布令によって設立された琉球大学の教育環境全体を反面教師としながら、50年代後半の島ぐるみ闘争を闘った世代、そして、沖縄において安保闘争を作り出し得なかった意味を問い返しながら、現行日米安保条約自然承認の日[60年6月19日]に沖縄を訪問したアイゼンハワー米大統領に対して戦闘的なデモを敢行した世代、これらの世代がようやくにして新たな変革の主体として登場してきつつあるのである。/であってみれば、そこで「復帰」の根源的な意味が問い返され、国家権力が否定され、自律した主体的闘いが追求されるのはむしろ当然のことである。彼らの目は、ものほしげにはるかなる祖国を見つめているのではなく、みずからの内部を直視しているのである」(368-370)。
(29)新崎は、前後に川満信一「本土の返還運動を告発する」『朝日ジャーナル』や儀間進の「常に自分の視野の中に在日朝鮮人や未解放部落の人々を入れて考えていくこと」「日本とつながる沖縄の中にある日本をこそ断ち切るべきである。償いなども要求するのではなく、被差別意識を捨てて本土を拒絶すべきだと考えている」を引用し、彼が名指す対象が具体的に誰たちのことであるのか、提示している。
(30)もうひとつの新しい傾向として、新崎が注目するのが、コザ暴動であったことも特筆しておかねばならない。「民衆の行動の反基地闘争としての性格こそ、街頭における車の焼打ちという派手な現象以上に重視されなければならない。コザ“事件”はコザ市で起こった“米人車焼打ち事件”ではない。むしろ、12.20行動とでもよぶべき反基地闘争なのである。」(400)
(31)吉原公一郎編著『沖縄:本土復帰の幻想』三一書房1968年。これによれば、討論でパネリストとして登壇したのは伊礼孝(元自治労県本部教宣部長)、川満信一(沖縄タイムス記者)、中里友豪(沖縄高教組)、真栄城啓介(元沖縄音楽協会)、嶺井政和(沖縄教職員会情宣副部長)であったことが判る。また新崎自身も、第2部の報告3「沖縄返還運動に内在する問題点」として登壇している。
(32)新川明「自分史の中の『反復帰』論」『沖縄・統合と反逆』筑摩書房2000年、107頁。
(33)新川『沖縄・統合と反逆』113頁。
(34)大本教の調査、水俣病者の運動の調査を行った。いわゆる「新しい社会運動」の文脈から沖縄の運動を語る上で、栗原彬の著作が検討に値するという観点については、森啓輔氏の教示を得た。
(35)『政治の詩学:眼の手法』新曜社1983年。イリイチのconvivialityについて、山本哲士の訳語に重ねて栗原は「共に生き生きと生きること」「生き生きと響応すること、「交響的=創造的な共存」(260)との意味を充てていて興味深い。また後に自らも積極的に関わってきた市民運動を総括する立教大学の最終講義のなかで、小田実が「市民」を60年代には「デモに参加する人たち」と定義し、70年代には「日常生活を自発的に営む人、すなわち、自発的に暮らす、働く、ともに楽しむ、戦う」人びとと定義したことを紹介している。「市民は政治の地平をどのように生きたか」『「存在の現れ」の政治:水俣病という思想』以文社2005年、138頁。
(36)例えば、当人自身の言明さえ「僕はこう見えても自分ではアナーキストだと思っているから(笑)。」と揶揄的あるいは自嘲的な表現としてテクスト化されている。新川明「反復帰論と同化批判:植民地下の精神革命として」(聞き手:中野敏男・屋嘉比収・新城郁夫・李孝徳)『前夜』第T期9号(2006年10月)。57頁。
(37)新川明「『亡国』のすすめ」『反国家の兇区』新版349頁。
(38)屋嘉比収「自らの内側を穿つ思想:新川明の『反復帰』論」『前夜』第T期9号(2006年10月)90頁。
(39)琉球大学学生有志「占拠声明」(2009年3月9日)
[http://loudaisei.seesaa.net/article/115398547.html](2009年10月1日取得)。
(40)琉球大学学生有志「座り込みと支援のお願い」(2009年3月10日)
[http://loudaisei.seesaa.net/article/115398895.html](2009年10月1日取得)。
(41)しゅんぺー「模倣の共同体」『すきま』(ルー大生、早稲田へ行く!琉球大占拠が早稲田で語られた!Reclaim Our Education!)vol.3(2009年5月22日)。
(42)リロイ・ジョーンズ著、木島始・井上謙治訳『ブラック・ミュージック』晶文社 年、[Amiri Baraka (LeLoi Jones), Black Music (New York: William Morrow, 1967)]255。
(43)ヒューストン・A・ベイカー・ジュニア著、小林憲二訳『モダニズムとハーレム・ルネッサンス』未来社2006年、[Houston A. Baker, Jr. Modernism and the Harlem Renaissance (Chicago: University of Chicago Press, 1987)]、34;42。
(44)Wes Montgomery, Full House (RIVERSIDE VICJ- 60028)1987.
(45)コーネル・ウェストのスピーチより(「合意してないプロジェクトmeets Dr.Cornel west」2008年5月11日、沖縄県宜野湾市G-shelter)
[http://okinawaforum.org/disagreeblog/2008/05/post_60.html]。


政策科学・国際関係論集 第13号(琉球大学法文学部2011年3月)

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