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海で暮らす抵抗

危機の時代の抵抗運動研究のために


阿部小涼



辺野古から眺める

 5月の連休を利用して辺野古に出かけたのは、海上座り込みという実践が混迷と矛盾をはらんだ現場でありながらも、想像力に満ちた豊かな意味産出の場でもあるだろう。それを自分でも体験したいと、ずっと思ってきたからだ。
 それ以前に、抵抗の現場を築き上げた人たちに遠慮してか、ぎこちない場違いな行動を慎むあまり、行動自体に参加しにくい、との声を聞いていた。あるいは、心からの声援を贈ったつもりが、「『頑張って』と言わないでくれ。私たちはもう可能な限り頑張っているのだ」、と返されると、それだけでもう何も言えない雰囲気だと思ってしまう。座り込み行動に賛同しつつも、何となく入って行けない感じだと言って、それ以上は考えることをやめてしまう。丸一日座り込み、泊り込みとまでは出来ないから、かえって迷惑をかけると感じて遠慮している、その様な声だ。私自身の中にもあって、一歩踏みだす気持ちを萎縮させてしまう様なそれらの声に反論するためには、やはり身をもって検証してみないと始まらない。そう考えておずおずと座りに行ってみたわけだ。
 早朝に集合し、ライフジャケットを着けて船に乗る。その日私が割り振られた「2号」と名付けられた単管は、百戦錬磨の女たち(と座り込み初心者の私には見えた)によって守られて来た。唯一、金網の設置に踏み込ませなかった、別名「シニア」とも呼ばれる場所である。そこが気に入って、いつも2号を指定座り込み先にしている定住派もいるほどだという。じっさい、4月に夜間作業が強行された結果、その当時は24時間体勢で座り込みが行われていたため、定住とは洒落ではなくなっていた。
 単管はこの原稿を書いている現在、1、2、3、5と番号を付けて呼ばれる4ヶ所がある。それぞれは3層構造になっており、3階建ての2階と3階部分には作業用の床板が渡されていた。そこに座り込んで待機する。海上座り込みの素晴らしいのは、緊迫した場面を別として、ほかに何もすることがないことだ。それまでのエピソードやそれぞれの体験談を沢山聞かせてもらい、弁当を一緒に食べ、考える時間を共有する。既存の組織を支柱にしつつも組織の枠を超えて緩やかにつながる参加者の多様性にあらためて気づかされる。船舶免許を取得したばかりと聞いていたのに、たまに訪ねるたびに、操縦の腕を上げている人。初めは船から単管に乗り移ることも怖かったという人。ウェットスーツに身を固めているのだがシュノーケルは上手く使えないので「お風呂で練習するといいのよ」と仲間に勧められている人。放浪型の旅の途中で辺野古に立ち寄り、そのまま滞在している人。座り込みに張り付いているうちに畑の雑草が茂ってきたのを気にかけている人。様々な人物が集まって話は尽きない。ときにはテントからの無線の指示にケチを付け、組織のまとめ役的な男について「あの人あの歳になって初めてみんなにお茶を入れたらしい」などと悪口も織り交ぜて楽しむ。
 海上を見渡せる海辺のテントはこの座り込み行動の連絡拠点であり、海上に出ない人たちにとっての座り込み現場である。厳重に人の出入りを管理するわけでもないのだが、初めて来た人が声をかければ、要点と状況説明をしてくれる人がいる。1ヶ月の予定で東京から来てテントに座り込み、その時間を利用してジュゴンぬいぐるみを製作販売して運動資金に貢献する人にも会った。
 これまで遠くからウェブを通して運動の様子を眺め、施設局との交渉、取材に対する代表者としてのコメントなどを読むにつけ、「闘争」や「運動」の声が潜在的に備えているように見える男性性というものが気になっていた自分は、現場に座ってみて初めて理解できたことがある。これは女たちが生み出す現場だ。
 肝の細い私は、さぞ、そわそわと落ち着かないように見えたことだろう。まず最初に「トイレに行きたくなったら、どうしましょう」。これを聞きたかったのだ。なんと言っても海の上だ。半日以上を過ごすのにトイレがなかったらどうするのだと、正直なところでかける前から気になって仕方なかった。行動を共にしている漁師船が停泊している場合は、目隠しにその船室を借りる。あるいはダイレクトに海へ!との回答を得た。しかし、人目を避けるだけでさっと用を足してしまうオジサン連中と違って、彼女たちは「個室」を準備していた。ビニールシートや筵を単管の枠に紐で固定した空間に、バケツ。見事な仮設トイレが出現した。用を足し終わったら、バケツに付けた紐でするすると地下階ならぬ海上階まで降ろして、忘れてしまいたい過去のように水に流す。「この紐ではバケツを傾けて流すのが難しい。まだ改良の余地があるわね」と2号住人の一人が言う。
 座り込みの場を創造しているのは、女たちだったことに気付かされた瞬間だった。居住空間として暮らしやすく、無理なく、気に入ったかたちで長時間を過ごす、自分たち流のやり方を編み出す。チェーンと南京錠を持参し、なんとなれば単管に自分をくくりつけて死守するのだ、との決意を表明しその気迫で周囲を圧倒したかと思えば、一方で、警戒船の人たちに対して笑顔で声をかける、手を振る。表情のない施設局の役人や雇われた警戒船としてではなく、名前のある個人として接しようとしていた。私もゴムボートの乗員に「今日は憲法について考える日ですよ!」と声をかけ手を振ってみるが、意外に小さい声しか出ていない自分の不甲斐なさに驚く。
 トイレは、実に問題だった。回数を重ねる防衛施設局の抗議のなかで、ある時「生理的行為を撮影するのはやめてほしい」という文言が小さく報道されたこともあった。調査と称して顔を撮影するかのようにカメラを向けられているだけでも苛々するというのに。施設局はそのような品性下劣な振る舞いも平然と行うというのだろうか、驚き呆れる。と同時に、座り込みという行為に生活を持ち込み、それを要求として突きつける反対運動の姿勢はきわめて理に適う。夜間の作業を非難し、土日は休むよう訴え、運動の人間性と正当性を獲得するプロセスが、そこにはある。抵抗を日常のなかに引き込み、抵抗に生活者の感覚を持ち込んでいるのは、そういう役割だけを押しつけられてきた女だからこそ、可能なイマジネーションだろう。
 単管の状況は刻々と変化している。夜間と土日の作業は、「反対派が座り込みをしないならば警戒船も出さない」という明文化されない譲歩を引き出すことで、辛うじて、行われない日が続いている。「台風対策」を目的として、取り付けられた金網が撤去され、機材や足場となった床板の大部分が撤去された。焼けるような夏の日差しと雷や台風への警戒は、座り込みの住環境を新たに困難にしている。しかし、きっとまた新しい想像力によって、多くの人を惹き付ける場を、日々作り出しているに違いない。それを目撃しに、また私も出かけることにしよう。

グロデスクな言辞の横溢に対峙する

 現在、辺野古への基地移設については、「撤回か」との報道が関係筋のリークや「施設局の更迭人事をめぐっての背景」を推察するようなかたちを取って取り沙汰されている。撤回に向けた運動に情熱を注ぐ人たちが、そうした言辞の粗製濫造に一喜一憂させられるのはかなわない。感情を摩耗させ倦怠感を促そうとする悪意すら疑ってしまうような、その種の暴力的な言辞の乱発によって、コントロールされそうなときには、あきらめずそれらに対峙しようとする力強い声に耳を澄まそう。
 7月3日、米兵が小学5年生に対してわいせつな行為を行った。このとき、かつて自分もレイプ被害に遭ったという人が、こうした状況を告発すべく稲嶺知事に宛てて公開書状を出した。

 稲嶺知事、あなたは95年10月に行われた県民大会の壇上にいらっしゃいました。あの日の気持ちをどうぞ思い出してください。まだ「たったの10年」しかたっていません。その10年間の間にも、どれだけの女性が犠牲になったかわかりません。それとも、振興策と引き換えなら県民の命や、人間としての尊厳を差し出すことができるのでしょうか?
 私は被害者の1人として訴えます。私は、高校2年生のときに米兵によるレイプを受けました。学校帰りにナイフで脅され、自宅近くの公園に連れ込まれ3人の米兵にレイプされたのです。本当に怖かった。「もう終わりだ、自分は死ぬのだ」と思いました。何度叫ぼうとしても声も出せずにいました。そのとき米兵は「I can kill you」と言いました。「殺すぞ」ではなく、「殺せるぞ」と言ったのです。(『沖縄タイムス』7月9日)

 ところが、この発言について問われた町村信孝外相は「米軍と自衛隊があるからこそ日本の平和と安全が保たれている側面が、すっぽり抜け落ちている。バランスが取れた考えとは思えない」とこの訴えを批判したのである。(『沖縄タイムス』7月14日)。すさまじい暴力的顔を顕現させたこの町村発言に対しては、様々な人たちから非難の声が上がった。例えば琉球大学大学院で学ぶ大城永子は言う。「I can kill you≠チて言われても、その言葉の後にand/but I protect you≠チて言葉を創造してほしい」とは、「どんなグロテスク加減」なのだろうか。「『批判』はしてないつもりでも、彼女の訴えを『無力化』しうという意図はあったんじゃないの?それが安全な位置にいる、自分が『男』であると思っている側からのとてつもない『暴力』だってことに気づけ」と。
 安全な位置にいる者による訴えの無力化とは、正鵠を得ている。私自身はと言えばあまりに厚顔無恥な政府高官の暴言と、それをまき散らして慣らされている現状に絶句していたところ、当事者からの明快な反論が、町村外相に宛てた「最後の手紙」として提示された。

 「事件が起きた時、ある意味死んだようなものだった。外相発言でもう一度つぶされたというか、極端に言えば死ねといわれたような、気持ちになった」。「被害に遭っても黙っておけということだと思った。これがセカンドレイプというものだと思う」。「国のために国民があるのか、国民のために国があるのか。沖縄の歴史の中で、軍隊は一度も住民を守ったことはない。それなのに国民は平和であるというなら、平和でない状況にいる沖縄の人は、国民じゃないということでしょうか」(『沖縄タイムス』7月15日)

 被害者はついには黙らされるものだという諦念を、覆してくれる力を持つ言葉である。絶望的な状況のなかでも声を失わない被害者の雄弁は、抵抗を抑制しておきたい側には不穏当に響くはずだ。だからこそ、「バランス」感覚の欠格と烙印しておきたかった訳だ。それならばなおさら、発話者として、喚起者として屹立する意志を、きちんと受け止めていかなければならない。私が容易に絶句してはいけなかったのだ。
 グロデスクな認識という点では、次に見る発言も見逃せないだろう。米兵によるわいせつ事件を県内報道メディアが一斉に報じた7月4日、『琉球新報』第2面には、米軍基地問題に相互に重なり合うように関連する三つの記事が奇妙な符合を見せながら同居していた。その紙面は、偶然とはいえ、しかし、沖縄の政治的状況を象徴していると言えるものだった。まず当該事件に関して、稲嶺県知事の抗議談話全文に加えて、「タイミングが悪過ぎる。日米両政府に対する県民の負担軽減の要求値が高まる」という、県幹部のあまりに本音過ぎるコメントが紹介されていた。その下段に、小さな記事だが見逃せないのは、「『普天間』代替推進協を設立 辺野古有志」という記事。辺野古の海上座り込みテント付近に基地移設推進派が真新しいプレハブの建物を設置したのである。元区長で市軍用地主会会長でもある大城松勇は、設立の挨拶として「区外の人の反対で移設作業が滞っているが、辺野古キャンプ・シュワブが来て発展した地区。新しい基地がくれば人口はさらに何倍にもなると期待している」と語っている。
 さらにその右上段のコラムでは、稲嶺県政の政策参与をつとめる比嘉良彦が、都市型施設で行われようとしている訓練の強行について記者の質問に答える形で自説を展開している。
 「地域住民から指示されない軍隊がいかに危険か。イラク戦争で現に米軍が日夜体験していることだ。訓練強行は米軍の『良き隣人政策』にも背き、『あしき隣人』『招かれざる客』を自ら立証してしまうことになる。対テロ戦争の観点からしても、訓練以前の問題だ。敵は倒す前につくらないことが肝心だ。県民世論を敵に回すことになる」。「負担軽減に逆行することは言うまでもないが、私は抑止力維持という点でもマイナスと考える。地域に敵視される施設・区域は、建設過程そのものがテロ戦争の教訓になったと考えるべきだ。教訓を生かさず世論を敵に回しては、何のための訓練か分からなくなる」。
 わいせつ事件にタイミングの良い時期とはいつだろうか。米軍は「良き隣人」であったことが、かつてあったのだろうか。「自ら立証してしまう」ほど招かれざる客であり続けたというのが事実ではないか。そうしたことに目をつぶり耳をふさぎ、米軍キャンプが来て「発展」し人口が何倍にもなれば、事件事故が後が絶たなくても、それは別の問題だと切り分けて思考できるのだろうか。そうした全体像を見据えたかのように「テロ戦争の教訓」と言うとき、その想定において、米軍にとっての仮想「敵」として沖縄住民が差し出されていること、それ自体が私には恐怖だ。「ここはまるで占領地だ」「イラクの様だ」とは、主権・人権を平然と踏みにじる米軍を弾劾するための隠喩である。ところが、沖縄が「テロ戦争の教訓」「教訓」とは、いったい誰の目線に立って誰に向けて放たれた言葉なのか。
 沖縄県政に深く関わる者の口から、沖縄住民が、あらかじめ米軍が対処すべきテロリストと想定されるとは、いったいどのような事態なのだろう。海上座り込みは、「反対派の行為は公務執行妨害ではないか」との自民党県議に防衛施設局長は「けが人が出ないよう慎重にならざるを得ないが、法的手段は考えていない」と述べたとの報道もある(『琉球新報』ウェブ版5月3日)。ここでも、基地に反対する人々の抵抗運動を、法に抵触する「妨害者」と推定しておいて情勢いかんで取締りも可能なのだと威嚇しているのは県議の側のように見える。
 北部の都市型訓練施設で強行された実弾演習に対して起こった超党派での抗議集会は、機が熟さないうちに小規模にガス抜きをすませてしまおうとする保守派の思惑に沿って行われたことが暴露された(『琉球新報』7月16日)。準備されたプログラムの後も、しかし、ゲート前で米軍車両を追い返し、歌を歌い、金網を叩き掴む人たちがいたという。抑制の効いた「超党派」の「集会」の事後に、そうした行為は不穏当なものと見られ、共感を覚えても巻き込まれることの恐怖から距離を置いてしまうほど、私たちの思考は馴化されていないか。神経細胞の末端にまで染み通っていくような思考の枠を少しだけ外すことで、テロリストと名指される側の、市民としての不服従を想像し、そこに自分も参加していくことが可能になるだろうか。

大学人はヒューマンチェインの夢を見るか

 辺野古の海上座り込みを体験しながら、これは実にふさわしい「スクウォッチング(squatting)」の実践であると考えていた。そこで想起していたのは、ニューヨークにおいてたびたび起こされたレント・ストライキや建物の占拠のことだった。人間の当然の権利として生活の場所を要求する。明け渡さない。居座り、占拠する。このとき法に抵触し公務を妨害する行為に正統性を与えるのは、より大きな文脈、人権や社会正義に照らした正しさに他ならない。ニューヨークでハーレムのアフリカ系たち、イースト・ハーレムのプエルトリカンたちはそのような占拠運動を闘いながら自分たちのコミュニティを涵養していた。アルレーネ・ダビラの『バリオの夢』が扱うのは、そのような経験を経た後のイースト・ハーレム、通称エル・バリオと呼ばれるプエルトリカン移民のコミュニティである。バリオが不動産投棄によって再開発に向かう、そのプロセスで生起するアイデンティティの政治が、しかし、コミュニティの現実としての階級格差や多人種性と衝突し調整を迫られる。そのような、都市のネオリベラリズムに対する抵抗の困難と、しかしながらそこから拓かれる可能性とを描いている。
 あるいは、基地を撤去させ土地の返還を求める運動は、「リペレイション(reparetion)」に通じるだろう。ロビン・ケリーは『自由の夢』のなかで、アフリカ系アメリカ人の抵抗運動に見る賠償要求の正統性について、揺るぎない議論を展開している。奴隷制度から解放しただけでは、ことは済んでいない。不払いで提供させてきた労働、身体、土地、共同体の破壊、歴史の収奪、こうしたことに対して償還するようにと求めることが、アフリカ系の人びとの自尊心にとっても、白人を含めた社会全体の平等達成にとっても重要だとみなす。差別をされた過去が可哀想だから恩恵を受けているのではない。当然の支払いを要求しているのだ。
 沖縄に重ね合わせてみよう。基地の撤去は当然のことだ。いい加減に貸した土地を返してくれ。代替案を沖縄に迫るのもよしてくれ。沖縄は基地経済に依存して自尊心・自立心を失っているのではない。不払いの返済が十分ではないだけだ。稲嶺県知事に訴えるべきは、「振興策と引き換えで県民の命や、人間としての尊厳を差し出す」行為の前提自体が歴史的誤認であるということだ。むしろ「まだ支払われていないのに、さらに犠牲を増やすのか」というべきなのだろう。
 ところで、2人の研究者がハーレムの東西を舞台に夢を描いたのは、偶然ではない。ジョージ・リブシッツの著書『危機の時代のアメリカ研究』は、90年代の米国において生活のあらゆる場面で保守化が深刻化するなかで書かれた。社会主義を求める運動、抑圧に抵抗する運動をふさわしく位置づけ、将来の理想につなげる研究の必要性を、彼もまた思考しているのである。アメリカにたびたび起こったラディカリズムはどのような限界を内包してきたのか。「われわれ」のなかにあって超克すべき問題とは何か。彼らは自らの革新性の内側で待ち受けている陥穽について、いくつかのポイントを指摘している。そのひとつひとつが、彼自身の経験の省察であり、現在の状況への警鐘であり、後の世代への継承としてある。傾聴に値するそれらのなかから、少々長くなるが、選択肢に抄訳してここに紹介しておきたい。

 完璧なバスを待つこと。自分の理想的基準に耐えうる実際の社会運動を見つけるのは困難なことが多い。あらゆる政治プロジェクトは矛盾をはらみリスクの可能性を伴う。「完璧なバスを待つこと」とは政治行動を起こすより前にあらゆる危険性を除去すべきだと主張するような、理屈っぽい戦略のことを言っている。それはとりもなおさず、行動を起こさず、結果として闘いを始める以前に降参することである。完璧なバスを待っていたら、どこにもたどり着けない。
 本当は補聴器が必要なのにメガホンを使うこと。知的労働には雄弁な発話や優雅な分析が求められる。だから、学者の活動家はしばしば、対話が求められているというのに独り言のようになる。被害にさらされているコミュニティについての研究成果は、当該地域の戦略となる。しかし、聞くことは、喋ることよりも、しばしばずっと大切な組織化のスキルである。学者や芸術家は時折、自分自身の結論に頼みすぎるあまり、ほかの人たちが自分自身でよく考えることのできる組織のための空間や場を生み出す努力を怠る。
 個人の主体性を社会分析よりも優先すること。意図的に距離を置くというのは知識人に見られる慎重な態度だが、それを頭で判っているため、それを補おうとするあまり、当事者としての経験を優先する。知識人や芸術家が、他者の苦しみに敏感になり、自己表明の機会となる場を立ち上げるのは、間違いない。しかし、個人の感情のカタルシス的表現は抑圧的な社会構造をそのままに残すどころか、実際は強化する。自分たちの苦悩を集合的なものではなく個人的なもの、構造的なものではなく主観的なものと考えるよう助長するからだ。活動家の学者や学者の活動家は、接近しかつまた距離を置いて、物事を見つめる必要がある。
 町で最後のラディカルの生き残りみたいに振る舞うこと。前世代の闘争のヴェテランたちは、現在の運動を自分たちと比べると全く不充分で劣っていると、審判する。過去の運動へのある種のメランコリーと苦い経験のため、しばしば、噂に寄れば革命的だったあの頃と比べれば、現在の運動は改革主義、順応主義だと性格付けがちだ。
 政治のなかからアイデンティティを抽出せず、アイデンティティから政治を抽出すること。1960年代のニュー・レフトの登場とそれ以後の抵抗運動の存続は、アイデンティティの重要な軸、抵抗の政治のための重要なアリーナとして人種、ジェンダー、性的思考を認識することに少なからず負ってきた。それ自体、社会正義のための闘争として重要だったゲイ、レズビアン、フェミニスト、有色の人々のコミュニティによる政治的動員は、その他の社会運動に率先して道を示した。状況に根ざした知識の価値、領域を横断するアイデンティティの性質、ミクロな社会経験とマクロな社会の権力構造を結びつける力、状況を転覆すると同時に治癒的でもあるよう、思い描く未来を実践する社会運動だ。社会主義のための運動は常に、単純なアイデンティティを乗り越えざるを得なかった。しかし、実のところこうしたグループの多くのプロジェクトが、自分たちのアイデンティティ分類内部で、ゲイとやレズビアンとは何か、女とは何か、抑圧された集団の構成員であるとは何か、という政治化された定義を巡って争う運命をたどってしまった。

 この署名運動ではやり方が良くない、あの程度のプロテストでは効果がない、などと独り言ちて、完璧なバスが来るのを待っていないか。スタイリッシュな批評のみに力を求めて、経験から生まれる語りとの対話を避けていないか。あるいはその逆に、直接的な経験のみからしか語ることは出来ないと言って介入を放棄していないか。「今の若者は」と苦言する前世代のヴェテランたちに、今の私たちの抵抗のやり方を伝える努力をしているだろうか。アイデンティティを梃子とする運動に共感するあまり、アイデンティティ・ポリティクスが併せ持ってしまう避けがたい陥弄に黙して無批判で居続けられるのだろうか。
 ひとつひとつの指摘は、今の私自身にも当てはまる批判として突き刺さってくる。しかし、リプシッツは、これらの指摘を踏まえた上で、何が可能かを問おうとしている。ダビラやケリーは、それでも「夢」を語ろうと言う。
 2年間のブランクを経て沖縄に帰ったとき、残念だったのは、大学に勤める人間が力を失っていること、あるいはそのように見られていたことだった。地域の人たちから「あなた達は期待に応えていない、学者、知識人は、いったい何をしているのだ」との声が聞こえてきたことだ。大学改革という大波のなかで無力に無抵抗に行きながらえている自分の有様と、研究者としての知識や理念との間に折り合いを付けられずに煩悶し落胆する私自身の姿から透視できるのは、地域の運動に加わっていけないほどに損なわれている知識人のアクチュアリティという問題だ。
 沖縄国際大学に米軍ヘリが墜落した後、大学とそこで働く研究者が地域とどのように関わろうとするのか、大学の自治をどう回復するのかが問われ、「大学人」とは何者なのか、と地域の人々から厳しく指弾された。私が考えるひとつの回答は、大学に勤める研究者も、当然のことながら住民であり納税者であり労働者である、というごく当たり前の結論だ。
 だが、もうひとつの回答は、先に示した3人の研究の在り方に沿っていくことだ。抵抗運動の実践を看取し、言葉をそこに当てはめ、参照すべき歴史の過程から自分たちの現在を位置づけ直す。大学人といってどやされても、教室で学生に伝えることが出来る。知識人といって戦力外通告されても、金網を叩くように掴む手を言葉に置き換えていくのが、仕事だ。
 辺野古の海上座り込みと、那覇防衛施設局前での座り込み、伊芸地区の都市型訓練施設反対の集会、全国で同時並行的に起こっている沢山のアクションが、相互に経験を分有しながら連携していく、その想像力を喚起する知とはどんなものだろうか。コザ暴動から都市型訓練施設の抗議集会へ、ビエケス島から沖国大へ、ハーレムから辺野古の海へ、抵抗運動を次から次へと手渡し、つないでいくことが、どんな風に可能だろうか。基地を包囲する人間の鎖が、場所を越えて世代を超えて、まるでディジーチェーンのようにつながっていく、そのような理想を描きながら研究してみるのも、悪くないだろう。

参考文献
黒澤亜里子編『沖国大が占領された日』青土社2005年。
『けーし風』第47号「特集戦後60年それぞれの継承」(2005年6月)
Davila, Arlene. Barrio Dreams : Puerto Ricans, Latinos, and the Neolibeeral City. Berkeley : Univ. of California Press, 2004.
Kelley, Robin D.G.Freedom Dreams : The Black Radical Imagination. Boston : Beacon Press,2002.
Lipsitz, George. American Studies in a Moment of Danger. Minneapolis : Minnesota Univ. Press, 2001.
『沖縄タイムス』『琉球新報』の県内2紙、QAB琉球朝日放送など報道機関以外にも次のようなサイトを参照されたい。
ちゅら海を守れ!沖縄・辺野古で座り込み中!〔http://blog.livedoor.jp/kiti-hantai555/〕毎日の様子が携帯電話からの画像と共にアップされ報告されているほか、沢山の関係サイトへもリンクが貼られている。
ジュゴンネットワーク沖縄(暫定ブログ)〔http://jaga.way-nifty.com/du-gong/〕防衛施設局との交渉など関連する文書資料を多く入手可能。
ジュゴンの家日誌〔http://dugong2003.fc2web.com/index.html〕名護のリサイクルショップを拠点として辺野古の運動に関わる方々の様子とともに新しい情報を紹介している。


(あべ こすず・米国・カリブ海地域研究)
現代思想2005.9青土社/特集=女はどこにいるのか

慌ててバックナンバーを取り寄せた。予想に違わず、一気に読んでしまった。とりわけ、「トイレ」談義は、その問題意識とともに人となりを彷彿させる。「もっと楽しく」とか「肩肘張らず」とかの言説が、他を萎縮させるものへと転化してしまいそうな時に、こんな風な「真摯」な文章は希有だ。うーん、少し誉め過ぎか。
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