もと技術系管理職の石井さんから……。
主題の件、時間差攻撃で誠に恐縮ですが、「もとい」で貴方が下した判断「もとゐ」ではなく「もとい」だは正しいと思いますが、なぜ「もとい」の出発点が「もとへ」なのか。辭書を頼ったところがまずかったようです。
貴方の考察中
敢へて言へば岩波の辭書で「もとへ」の項に實際には「もとい」(と聞こえる場合)が多いとあったのが…
と、書いておられますのが本塁打性の大ファウルではないでしょうか。
- 私が子供のころ、女の子が自分のことを「あたい」と自称するのをよく聞きました。「あたいんちの猫は三毛よ」とか「それ、あたいの櫛よ、かえして!」などと使う「あたい」です。
これは、私(わたくし:watakusi)のあたまの w がとれて atakusi となり、更に、ku がとれて atasi となり、さらに末尾直前の s がとれて atai:あたい となったと説明できるそうです。
- 鞴(ふいご:figo)も似たような例です。鞴(ふきがわ:fukigawa)が fuigawa へ、更に fuigou を経て fuigo となったようです。
この様な音変化は沢山あるようです。
- 昭和の三十年代まで活躍した浪曲師廣澤虎造(二代目、東京都港区芝出身)の「清水の次郎長傳」を CD で聞く機会がありました。有名な「金比羅代参・三十石船」の次が「見受け山の鎌太郎」その次辺りで、森の石松が都鳥三兄弟にだまし討ちに遭い、七五郎夫婦の家に逃げ込み都鳥三兄弟の追撃をかわし、これからどうするか思案して言うよう「浜松はいい所だ。そこに行けばきっといい医者がある。よし、おれは浜松へ行こう…」と言う台詞があります。「そこに行けば…」の「そこに:sokoni」が「そこい:soki」と聞こえます。以下注意して聞くと何度も同じ例が出てきます。
- 結論 以上から、「もとに:motoni」が「もとい:motoi」と変化したものと考えて良いかと思います。
国語学者の意見を拝聴したいものですね。では、益々のご発展をお祈りして。
との御意見です。「もとへ」ではなく「もとに」が「もとい」に變化した、と云ふ説。どうも有難うございます。
實際のところ、裏づけとなる決定的な證據はなく、依然として一つの説の域を出ません。
野嵜は現時點でも「もとい」については結論を持つてゐません。專門家の方の意見など相變らず募集してゐます。どうぞよろしく……。