制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
公開
2001-11-27
改訂
2005-01-30

『大衆の反逆』より「フランス人のための序文」

原文

ところで、「状況の多様性」の漸次的衰退とともに、われわれは後期ローマ帝国への道をまつしぐらに辿ることになる。あの時代もまた、大衆と驚くべき均質化の時代であつた。アントニウス一族の支配の時代に、早くも一つの奇妙な事実がはつきりと認められるのである。この事実は、それに値するだけの強調も分析もなされてゐないが、人々が愚劣になつて来たといふ事実である。この愚劣化の過程はそれ以前にすでに始まつてゐた。活動的でしかも機敏な知性を持つて事実に直面し、それを観察することのできた最後の古代人はキケロの師でストア哲学者のポセイドニオスであると言はれてゐるが、これは当たつてゐないわけではない。彼以後、人びとの頭脳は固くなり、アレクサンドリアを中心として活躍した学者を除いては、ただ、前の蒸返しと、形式的なこと以外は何もできなくなる。

しかし、均質であると同時に愚劣──これは相互相通じるものであるが──であるといふ、ローマ帝国の隅ずみにまで行きわたつた、この生活形態の最も恐ろしい兆候と証拠は、思ひもよらない面、しかも私の知るかぎりでは、まだ誰も気づいてゐない面にある。つまり、言語の面である。言葉は、われわれが言ひたいと思ふことをじふぶんに表現するには役立たないが、望みもしないのに、その言葉を話す社会の非常に神秘的な状態を明らかにする。ローマのヘレニズム化してゐない場所では、われわれのロマンス語の母体となつた「俗ラテン語」と呼ばれるものが通用語であつた。この俗ラテン語は、今日あまりよくは知られてをらず、その大部分は再現されたものである。しかし、知られてゐるものだけでも、その二大特徴がわれわれを驚嘆させるにはじふぶんである。一つは、古典ラテン語との比較における、その文法構造自体の信じがたい簡素化である。上流階級の使ふ言葉にはインド・ヨーロッパ語の味はひ深い複雑性があつたが、それが平民の言葉によつて、簡易な構造を持つと同時にその簡易さのため、用具としては重苦しいほど機械的であるものに代へられてしまつたのだ。つまり幼児の話のやうに、もたもたと、回りくどい文法になつたのだ。実際に、平民の言葉は子供つぽい、どもりの言葉であつて、それは論理の精緻な稜角や、詩的な色合ひなどを表現できない。それは光にも暖かみにも、明澄性にもやさしさにも欠けた、手探りでよちよち進む哀れな言葉である。その語彙は、まるで地中海地方の居酒屋をいやといふほど転々として来た不格好で、手垢に汚れた、古い銅貨のやうに思はれる。この無味乾燥な言語といふ構造の背後に、本来の姿を失ひ、永遠に陳腐な日常性のなかに留まることを運命づけられたなんと荒涼たる生命がほの見えることか。

俗ラテン語のもう一つの恐るべき特徴は、ほかでもなくその均質性である。恐らく飛行家に次いで物に動じない人種である言語学者たちは、カルタゴ、ガリア、ティンヒタニア、ダルマチア、イスパニア、ルーマニアといつたまつたく様相を異にする国々が同じ言葉を話してゐる事実に驚いた形跡がない。しかし私はかなり小心なので、風が葦原の葦を一様になびかせるやうに猛威をふるふその言語を見ると、その事実に戦慄せざるを得ない。私にはただただ獰猛なことに思はれるのだ。実をいへば私は、外面的には静的な均質性と思はれるものが、その内部においてはどのやうなものであつたかを想像しようと努めてゐるのである。つまり、右に述べた静的な事実の下にひそむ動的な現実を発見しようと努めてゐるのだ。もちろん、アフリカ的語法、スペイン的語法、フランス的語法といふものはあつた。とは言ふものの、距離的には遠く隔たり、交易もあまりなく、コミュニケーションも困難で、また文学が言葉の定着に貢献などしてゐなかつたといふ状態にもかかはらず、各国で用ゐられてゐた言葉の基幹が共通で同一のものだつたのだ。生の水準が全般的に低下し、もはや独自の生を失つた結果としてでなければセルティベロ族とベルギー人が、ヒポナの住民とルテチアの住民が、マウリタニア人とダキア人が一致するなどといふことが有り得ただらうか? 俗ラテン語は今、寒気を催させる化石として、つまり、かつて歴史は、豊饒なる「状況の多様性」が消滅した後、卑俗といふ均質的な帝国の下で苦悩しなければならなかつたといふ証拠として、古文書保管所の中に収められてゐる。

原文新字新かな。

解説

カナモジカイは以下の様に「主張」してゐる。

漢字は 字数がおおく, また, つかいかたも 規則性がなさすぎて,学習にムダな時間が かかりすぎ, しかも,日本語のよさを ゆがめています.

漢字の字数については, 常用漢字1945字のきまりは ありますが, この範囲をこえて かく人もおおく, 現実には限界はありません.  つかいかたに ついては,音よみにも, 訓よみにも いろいろあり, いつも ただしい よみかたが できるとは かぎりません.  また,もとからの日本語にたいしては, 漢語の乱用の結果, きいただけでは わかりにくいコトバが おおくなっています.

カナモジカイは, ヨコガキと, カタセンガナ (肩の線をそろえて, よみやすくしたカタカナ) を つかう運動をしてきました.  カタカナは よみにくいと かんじる人が おおいのですが, これは, いま一般に つかわれている書体にも 原因があります.  実際には, このヨコガキ〜カタカナばかりでなく, よこがきが ふえるのも, 漢字がへるのも, それなりの収穫と かんがえていますので, いろいろな かきかたを こころみ, 次のような研究をしています.

また日本のローマ字社は以下の様に自己紹介をしてゐる。

Nippon-no-Rômazi-Sya (NRS) wa, Nipponzin no gengo-seikatu o kôzyô saseru tame ni, Nipponsiki tuzuri ni nottotta Rômazi o tukau koto no tyôsa ya kenkyû o okonai, Rômazi ga nitizyô ni tukawareru han'i o hiromete, Nippon no kyôiku, bunka no hatten ni yakudatu koto o mokuteki ni sita zaidan hôzin desu.

カナモジやローマ字が簡易な構造を持つと同時にその簡易さのため、用具としては重苦しいほど機械的である事は明かである。まさに幼児の話のやうに、もたもたと、回りくどい文法であり、子供つぽい、どもりの言葉であつて、それは論理の精緻な稜角や、詩的な色合ひなどを表現できない偽物の日本語である。(これらの事は、別に詳しく書いた)改良といふ名の均質化・愚劣化を施した日本語といふべきである。

こんな「日本語」を使ふ様になれば当然日本の文化は消滅する。日本人の生の水準が全般的に低下し、日本人が独自の生を失ふのは自明の理である。そして、日本人は豊饒なる『状況の多様性』が消滅した後、卑俗といふ均質的な帝国の下で苦悩しなければならなくなる。

「現代仮名遣い」「常用漢字」もまた日本語の均質化・愚劣化を志向したものである。詳しくは「國語の歴史」及び「1984年」を参照されたい。このやうな悪質な言語を、日本人は半世紀に亙つて平然と使ひ続けてきた。鈍感にも程がある。