新語法(ニュースピーク)はオセアニアの公用語であり、イングソック即ちイギリス社會主義のイデオロギー的要求に應へるべく考案された言語であつた。一九八四年には、ニュースピークを讀み書き用の唯一の傳逹手段として用ゐたものはまだ一人もゐなかつた。ザ・タイムス紙の社説はニュースピークで書かれてゐたが、それは專門家だけによつて實行され得る一種の離れ業(ツール・ド・フォルス)に過ぎなかつた。ニュースピークは二〇五〇年頃までに、結局は舊語法(オールドスピーク)(或はわれわれのいふ標準英語)に取つて代はるべきものと期待されてゐたのである。この間にニュースピークは着實に普及して、全黨員は日常會話にも益々ニュースピークの單語や文法的構文を用ゐる傾向が出てきた。一九八四年に使用されてゐた表現、またニュースピーク辭典第九版、第十版に收録されてゐた言語形態はいはば暫定的なものであり、多數の不用な單語や古い文體を含んでゐて、それは後日、廢棄處分となる豫定になつてゐた。……
原文新字新かな
「當用漢字」「現代かなづかひ」は日本の公用語であり、戰後民主主義即ち日本社會主義のイデオロギー的要求に應へるべく考案された言語であつた。一九四六年には、「當用漢字」「現代かなづかい」を讀み書き用の唯一の傳逹手段として用ゐたものはまだ一人もゐなかつた。朝日新聞の社説は「當用漢字」「現代かなづかい」で書かれてゐたが、それは專門家だけによつて實行され得る一種の離れ業(ツール・ド・フォルス)に過ぎなかつた。「當用漢字」「現代かなづかい」は二〇〇〇年頃までに、結局は正漢字正かなづかひ(或はわれわれのいふ舊漢字舊假名遣)に取つて代はるべきものと期待されてゐたのである。この間に「當用漢字」「現代かなづかい」は着實に普及して、全國民は日常會話にも益々「當用漢字」「現代かなづかい」の單語や文法的構文を用ゐる傾向が出てきた。一九四六年に使用されてゐた表現、また「新明解漢和辭典」「新明解國語辭典」に收録されてゐた言語形態はいはば暫定的なものであり、多數の不用な漢字や古い文體を含んでゐて、それは後日、廢棄處分となる豫定になつてゐた。……
オーウェルは人工言語がイデオロギーの産物であり唾棄すべきものである事を述べてゐる。人工言語を使はされる事は洗腦と同じである(それを誰も疑はなくなる)事、急進的な革新イデオロギーが過去を否定し斷絶を目的とする事を述べてゐる。
『1984年』の世界はおぞましいものである。しかし、本書を讀む日本人は、皆が皆、他人事だと思つてゐるのではないか。今、本書の「パロディ化」をしてみたが、實は日本の社會は『1984年』のディストピア社會と全く變らない。「現代かなづかひ」「占領漢字」はオーウェルの言ふ「ニュースピーク」と全く同じ性質のものである。
『1984年』の社會に住みたいと讀者は思ふか。「嫌だ」と思ふ讀者が大多數である事を私は希望する。しかし、「嫌だ」と思ふ讀者が皆、既に『1984年』に描かれてゐるのと同じディストピア社會に既に住んでゐるのである。私は讀者に、斯る現實を自覺して貰ひたいと思ふ。
新しい綴字法に關する法案を議會に提出しようとする動きがあるらしいが、これについては、私は新聞記事でしか讀んでゐない。もしその法案が私たちの綴字法を合理化するための、他のもろもろの計劃と同じやうなものであるとすれば、私は前もつてそれに反對を表明する。大多數の人々も反對するだらうと思ふ。
綴字法の合理化に反對する最大の理由は、たぶん怠け心である。私たちはすでに讀み書きを習得してゐるので、もう一度それをやり直すことを望まないからである。このほかに、もつとりつぱな反對理由もある。まづ第一に、もし計劃がきびしく實行されなければ、恐ろしい混亂が生じるだらう。といふのは、それを受け入れる新聞社や出版社もあれば、それを拒否したり、部分的にしか採用しないところも出てくるだらう。それから、新綴字法だけを習得した人は舊綴字法で印刷された本を讀むのは大變難しいことになり、それゆゑに過去の文學全體の綴りを書き改めるといふ膨大な作業が企てられねばならないだらう。それに、綴りを十分に合理化するためには、それぞれの文字に固定價値を與へる必要があるが、さうするためには、發音を標準化しなければならないだらう。ところが、この國では發音を標準化しようとすれば、たいへんな爭ひが起きるだらう。たとへば、'butter'(バター)や'glass'(ガラス)のやうな單語についてはどうするのか。といふのは、これらの單語はロンドンとニューカスルとでは發音が異なるからである。ほかにも、'were'のやうに人の好みとか文脈とによつて二通りの仕方で發音されるものがある。
原文新字新かな
以上は、オーウェル自身が、語の綴り(表記)を「合理化」する事に反對する理由を述べた文章である。皮肉にも、合理化に反對する心情的な理由として「怠惰」が擧げられてゐる。そして、もつとりつぱな反對理由
として、以下の事が擧げられてゐる。
これらは戰後の日本で行はれた國語國字改革に對しても有效な批判である。
日本では、新聞社が率先して「現代かなづかい」「當用漢字」を採用したので、混亂は少かつた。そして、日本人は屡々「混亂が少かつた」と云ふので、戰後の國語國字改革は「成功した」と考へる。だが、全ての新聞社が率先して政府の方針に從つた事は正しかつたのか。
戰前の新聞社は全て、「大本營發表」をそのまま掲載し、大東亞戰爭遂行に率先して協力したではないか。前者が許されるのならば、後者も許される事になる。戰後の「現代かなづかい」「當用漢字」を認める事は、戰前の「軍國主義」を認める事である。
新綴字法が全體主義の産物である事をオーウェルは指摘してゐる。同じやうに、「現代かなづかい」「當用漢字」は全體主義の産物だ、と私は指摘したい。
「進歩主義」が「反動」と同じやうに、「全體主義」の性質を持つと云ふ事實を、日本人は認識すべきである。そして、全體主義を拒否する爲に、戰後の國語國字改革を拒否しなければならない、と云ふ事實を、日本人は承認すべきである。
殊に日本では、獨裁主義・全體主義は「國家」の側から一方的に押附けられるものであり、それに反抗する「市民」は何をやつてもその種の「惡」と看做され得ないものだ、とする發想があり、特に「左翼」と呼ばれる人々にその種の考へ方が定着してゐる。
勿論、その種の圖式的な考へ方を認めるにしても、一部の人々(表音主義者)が文部省・国語審議会(當時)を乘取り、國家權力を用ゐて特定の政策(即ち「國字の簡易化」)を一般の國民に押附けた事は否定し得ない。
しかしながら、戰後の國字改革に就いては、「漢字」「歴史的かなづかひ」なる「既存の權威」への「市民」による「反抗」であると定義して、それを恰も「善い事」であるかのやうに見せかけ、正當化しようとする人が多數存在する。さうした「定義」の操作による自己の行爲・自分に都合の良い政策の正當化は、日本では一般的に行はれて來た因習で、それは惡い意味で「封建的」と看做されても仕方がないものなのであるが、自分は進歩的な左翼である、と以て自任する人々にとつて、その種の認識をされる事は、單なる嫌がらせにしか見えないものであるらしい。一方、その種の人々が屡々行ふのが、價値觀に基いた割切りであるが、それを彼等は常に「客觀的」な判斷であると稱する。戰後の國字改革を全く無反省に「民主的」等と極附ける事こそ危險なのだが、彼等にして見ればそれは餘りにも當り前の「自明の事柄」に屬するものである。
かうした先入見に基く判斷は極めて問題のある行爲である。豫め價値觀の混入した用語に基く價値判斷は、過程としての論理的思考が妥當であつたとしても、常に結論を誤らせる。しかし、言葉の用ゐ方を誤つてゐる人々が、その種の誤に氣附く筈はない。そして、その種の誤を冒す人々が、屡々敵對する人々を潰す爲に、豫め用語を操作して――意圖的にか無意識的にかは判らないが――自らに都合の良い結論を引出さうとする事は、例へばウェブの「ブログ」等でも良く見られる事である。
その種の人々の中に、『1984年』を自分に都合良く解釋して、國字改革を正當化しようとする議論をする人がゐる。しかし、何んな理窟を附けても、そもそも「言葉を弄る」事自體が許されない事なのであり、言葉に對する人爲的な操作を正當化しようとする理窟は認められない。國家による操作のみならず、國家に反抗する人々に據る操作もまた。
特に、國字改革に反對する議論をそれ自體として惡と定義し、さう云ふ論者を民主主義なり進歩主義なりを破壞せんとする惡の一派と極附ける左翼すら存在する。とは言ふものの、左翼思想にはそもそも反對派をあらゆる手段で抑壓する事を正當化する「理論」が存在するのであり、さうした(他人の目から見れば明かな)「獨裁主義」であつても彼等にとつては政治的に正義である。
國語の表記を人爲的に操作すると云ふ行爲も、「民主化」や「進歩」或はそれに類する大義名分を立てられれば、彼等には即座に正義となるのだし、既にさうであると心底信じ込んでゐる人も多數ゐる。そして、目的が正義であるならば、それは手段を聖化する――全ての人間にとつて眞實の事であるが、手段として國家權力を使用する事は、國家權力に抵抗する左翼においてすら、極めて自然な事と認識される。
――一方、現在の日本に於いては、單なる現状維持の主張と、保守主義・傳統主義とが混同されてをり、保守派と目される人にすら、當然のやうに「現在の表記」を「保守」する事を當然と信じ込んでゐる者が存在する。
斯うした状況下、國家權力のみならず「世論」或はマジョリティの主張として、國語の積極的な破壞――と言ふよりは「破壊された結果としての現在の國語の表記」の護持と云ふものが存在する。言換へると、國字改革の「既成事實」としての「破壞」が、「破壞」の側面で以つて革新派に、「既成事實」の側面で以つて保守派に、國字改革を支持する理由となつてゐる。
だが、それら現象面での皮相な理由で以つて政治主義者が政治的に支持を表明し得る國字改革は、オーウェルが『1984年』の本文で指摘してゐるやうな、樣々な危險を含んでゐる。虚心坦懷に『1984年』を讀むならば、國字改革を正當化せんとする樣々な言ひ訣も、國家權力による獨裁政治のみならず、現代的な意味での獨裁的社會――思想の均一化された社會を、現實世界に出來せしめる契機となり得る事が理解出來よう。そして、恐ろしいのは、國家權力による押附けられた思想ではなく、國民が自ら望んで思想的に統一されようとする事である。
極めて多くの左翼が勘違ひしてゐるのだが、思想的に劃一化・單純化された社會の出現する事は、全く望ましくない事である。「反對勢力の思想を抑へつける爲には暴力的な手段を取るのが正しい」と云ふ考へ方は、右翼の間でも左翼の間でも、日本では極めて強力に滲透してゐるものだが、その結果は、望ましからざる獨裁政治の出來か、或は望ましからざる統一思想を市民が自ら率先して受容れた劃一社會の出來である。結果は硬直した不自由な社會の出現となる訣だが、「自由」の概念にすらそもそも混亂があるのであり、所謂自由主義に就いても非道い混亂が存在する。常識的な意味での「不自由な社會」もまた、或種の價値觀を所有する人々にとつては大變に自由な社會と看做し得るのであつて、さうした偏つた思想に支配された社會を拒否すべき事を私は主張してゐるのだが、それが受容れられない所以である。