制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
公開
2001-05-19以前
最終改訂
2007-05-13

『民俗學について・第二柳田國男對談集』より

「象形文字と音標文字」

川端(康成)
山本(有三)先生や安藤(正次)先生の気持ち、また運動は、象形文字というものを認められますか、あるいはまっ殺する方向に向って進んでいるのですか?
山本
そうですね。ぼくはそこを今ハッキリ言えないのです。第一、日本はご承知のように漢字が昔からはいってきている。ところが、日本から漢字が一字もなくなってしまってもいいという研究」は、まだ出来ておりません。そういう研究が何も出来ていないのに、今すぐ漢字を全廃しろというのは、どうかと思うんです。だからカナモジだけにするということもまだ言えない。ローマ字はいいと思うけれども、あしたからローマ字にしろとは言えない。ぼくは三本の馬を駆けさせろ。そしてどれがいいかを、いっぽうではしっかりした国家の研究所で十分に研究をし、一方では国民の民論に問うてきめるべきである。そう思っていたのです。今どれがいいかということを、私がいうのは早すぎると思うのです。
安藤
これを私はハッキリ言えます。私は現状のままで漢字かなで行くべきだ、という論なんです。
柳田
ところが、山本さんにいたっては、カナモジカイも、ローマ字会も包容しなければならないから、ここで旗じるしをはっきりさせると逃げられてしまうから……これは雑誌に出してはいけないよ。(笑声)
川端
象形文字というものを残すという方針で進んでおれば、当用漢字の数は非常にむつかしいんじゃないかと思いますよ。今日の支那でもだいたい三千字で用は足りる。その三千字は普通教育で覚える。またキリスト教のほうで制限した千字でも何とか用は足りる。そう聞きましたが……。
柳田
象形文字というとむつかしくなるけれども、それこそ、月、川、水、あれをかなにしなければならないというのはあまりあこぎですよ。(笑声)一、二、三、四、水、日、月といったようなものは最少限度残るものと見ていいからして、したがって、川端さんの質問にたいしては、”そうじゃない”とはっきり答えられていいんです。それが山本さんが答えられないゆえんのものは、一方に何もかも入れてしまおうという考えがあるからで……。
川端
私は、簡単に言いますと、文字は音標文字でよろしい。音標文字はかなよりもローマ字のほうがいいだろうと考えているのですけれどもね。ローマ字がいいということは万々知っています。ただ、ローマ字を使つた場合にどれだけの不都合があるかということは、十分に調べていませんのではっきり言える自信がありません。
柳田
書けないのです。字というものは、無知文盲の者でも、それこそ八十五パーセントの選挙人も書かせなければならないのですから、タイプライターがあったところでなかなか容易じゃないのにタイプライターがないのですから、そうすると、かなでさえ間違えているのに、間違いなしにローマ字を書かせるということはむつかしい。
川端
いま急にローマ字にさせろということでないけれども、しかし私がローマ字でもよろしいでしょうと言うのは、むしろ日本語を守りたいという、保守的な考えからのことです。日本語を純に美しく、ほんとうの日本語にかえしたいという……。しかしとにかく、自分が現在やっていることといえば、耳に聞いてわかるような文章をなるべくきれいに書きたい、ということですね。
安藤
川端さんのような人がそれをやってくれさえすれば心強いですよ。

感想・解説

川端康成も、妙に自信のなささうな言ひ方をしてゐる。川端は、のちに林武の『國語の建設』に推薦文を寄せて、林の切實な民族愛、傳統愛を評價してゐるが、國語そのものに就いて、實は何の意見も表明してゐない。

表音主義者は「反省しない馬鹿」として屡々批判される。彼等の強硬で高壓的な表音主義者に對抗すべき「表意主義者」の態度は、屡々軟弱で、自省的である。

改革派は情熱的であるし、その事を誇りに思つてゐるからその高慢な態度を自覺できないし、だからこそ常に高壓的・強壓的である。それに對し、保守派は大變に弱腰である。これは、當然と言へば當然の話ではあるが、それでは改革派の勢ひを止める事は出來ない。

纔かに福田恆存のみが、歴史的な立場から、表音主義者に激しい批判を加へてきた。ところが、高慢な表音主義者のみならず、多くの「保守派」が、福田を「高慢」などのレッテル貼りをして、否定し去つてゐる。福田をまともに擁護した「保守派」は殆どゐない。「保守派」は反省すべきである。國語改革を止められなかつた事、一度なされた改革が覆されなかつた事の責任は、改革派ではなく、保守派の側にある。

最近の「保守主義者」らは、戰後の國語改革を「保守」する事を以て「保守派」の使命だとすら思ひ込んでゐる。例へば、福田恆存の弟子を自稱する西部邁や、西部の信奉者らは、正字正かな派を「狂信者」呼ばはりし、激しく罵倒する始末である。あきれたものだ。福田は、假名遣だけは絶對に讓れない、と考へてゐた。假名遣以外の思想で福田に同意してゐるとしても、假名遣の點で福田と考へを異とする西部は、福田の弟子ではない。

松坂忠則の定義によれば、國字問題においては、「現代表記を保守する」立場が「保守派」であり、福田のやうに「現代表記に反對し、歴史的な表記への囘歸を主張する」立場は「復古派」である。西部邁らは、(國字改革における松坂の所謂)「復古派」としての福田恆存の弟子ではない。

しかしながら、話を更にややこしくしてゐるのは、川端のやうな「表記が發生する以前の時代への復古」を唱へる人間の存在である。かうした「ウルトラ復古派」が「保守派」の中にをり、表音主義を肯定する爲に、表音主義と云ふ改革主義が保守主義にすり替へられる結果となつてゐる。

結局のところ、「保守派」「復古派」のやうな用語が、ジャンルの異る領域で使はれてゐるにもかかはらず、「同じ保守」「同じ復古」と云ふ「聯想ゲーム」によつて「同じもの」扱ひされ、それによつて「我と彼とは同じ立場」と云ふ主張がなされてゐる爲に、話がをかしくなつてゐるのである。言葉の皮相的な外見で、話を進められては困る。

他の問題でもさうだが、國字問題においても、きちんと學術的・論理的な檢討によつて、論者は自らの立場を定め、議論を進めて貰ひたいものだ。が、非論理的な思ひ込みから自らの立場を決めてしまひ、また、改革は「やりとげねばならない」と主張してしまふのが日本人である。一度出來上つてしまつた既成事實は大變に重要である。既成事實であるがゆゑに撤囘されない。國字改革において、「改革を行ふ」と云ふ大方針は、最早心情的に決して撤囘されない。日本人は、議論拔きに改革を始めてしまつてから、「議論」「議論」と言つて反論を封じ込め、始められた改革を維持しようとする――かう云ふ「戰術」が日本では當然の事として罷り通つてゐるし、それが「大人の態度」として大絶讃されるし、それに激しく反對すれば「誹謗中傷され、意見を封殺されても當然」であり「侮辱されるのが當然なのだから、それに反論するのはとんでもない思ひ上りで、人間として許されない事だ、何としてでも潰さなければならない」とすら極附けられ、嫌がらせが繰返される。國字改革に反對する人間に對して加へられる嫌がらせの非道さは筆舌に盡し難い。ところが、さう云ふ嫌がらせをする人間は、自分が大變に良い事をしてゐるのだと心から思ひ込んでゐる。處置なしである。

日本において、素晴らしい理想の掲げられた改革は、屡々、どうしやうもなく非道い下劣な性根の持ち主の人間によつて進められた。諸外國においてもさうだと云ふ説もあらう。けれども、日本において、改革には何んな場合にも齒止めが效かない。日本人は何うしやうもない人種だと思ふ。

初出誌

「人間」昭和二十二年二月號
鎌倉文庫
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