制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
公開
2000-11-27
改訂
2014-01-18

福田恆存と國語國字問題

福田氏の國語問題に對する態度の變遷

のち「國語改革の目附役」を以て自任するやうになる福田氏だが、最初は必ずしも國語改革に反對であつた訣ではない。もちろん、幾つかの文章を讀めば、福田氏が國字改革に好意を持つてゐなかつた事は判る。

概要

大體、昭和二十年代のうちは、一般の文藝家と同樣、「容認」の姿勢を見せてゐた、と言つても良い。基本的に從來の書き方である歴史的假名遣を福田氏は用ゐてゐるが、出版時に妥協して「現代かなづかい」に據る出版も行つてゐる。

けれども、「改革」を調べ、その實態を知るにつれて、福田氏は國語改革への態度を變化させた。昭和三十年前後から、福田氏は國字改革に關して積極的に反對の姿勢を示す。その間、「論爭屋」として挑發的な發言も行つてをり、さうした「流れ」の中で、國字改革反對運動の理論書として『私の國語教室』を發表する事になる。かうした思想の變化は、福田氏の前後の主張で「矛盾」を指摘出來る場面の出現を齎してゐる。けれども、さうした「矛盾」は、理論的な破綻を意味すると捉へるべきでなく、英國的な現實主義に基いた思想の深化と見るべきである。(福田氏の人格的異常とまで極附ける向きもあるが、さう云ふ非難は論外である)

『私の國語教室』は、「運動初期」に出現する典型的な「理論書」であると言へる。あらゆる社會的な「運動」において、耳目を引く努力は必然的に要請される事であり、その爲、「運動」に關する初期の文献は、常に挑發的な内容を含むと言つて良い。マルクスの「共産党宣言」を典型として、事例は幾らでも擧げる事が出來る。野嵜自身、「HTML・ウェブの正常化運動」において、盛に煽つた經驗がある。

「運動」が「運動」として社會的に認められるには、それだけの主張が纏められて存在しなければならない。歴史的に存在が認められる「運動」には常に指導的な理論書――「聖典」と言つても良い――が存在する。

國字改革反對運動もまた「運動」である。と言ふより、從來「運動」として存在すら認められなかつた「壓制」に對する無言の抵抗の意志を、改めて表面化したものである。その「表面化」の最大の立役者となつたのが福田氏である訣だが、「運動」を改めて水面下から日の下へ引出したのには、その理論的指導書たる『私の國語教室』の存在が重大な意義を持つ。或意味、本書一册で國字改革への反對運動が歴史的な運動として成立したとすら言へる。國語問題に關する福田氏の評價をするとしたら、『私の國語教室』と云ふ一册の理論書を世に送つた事が最大の功績である、とすら言つて良い。

『私の國語教室』以後、數年間、福田氏は積極的に表音主義批判・國字改革批判を續ける。それが收まるのは、国語審議会の委員の入換へ・表音主義者の國字改革からの「撤退」がきつかけである。昭和三十年代、福田氏を含んだメンバーによつて國語問題協議會が設立され、國字改革の展開に「待つた」をかけた訣だが、その成果が昭和四十年代に入る頃から出始め、最終的に「当用漢字」「現代かなづかい」の廢止と「常用漢字」「現代仮名遣」への轉換が行はれる訣だが、その過程で福田氏の「敵」たる表音主義者の聲は小さくなり、それにつれて福田氏の「論爭」も無くなつて行く。

しかし、「常用漢字」「現代仮名遣」が國字改革の繼續と既成事實化である事は明かであり、福田氏は依然、國字改革反對の姿勢を崩さなかつた。『私の國語教室』は新潮文庫で増補版が刊行され、それが絶版になると中公文庫から再刊された。のみならず、國語問題協議會のメンバーとともに、福田氏は引續き「日本語」の問題を採上げて行く。

『私の國語教室』以後、福田氏は一貫して著書(單行本)を正字正假名で刊行してをり、その點、妥協してゐない。シェイクスピアの文庫版や『老人と海』の文庫版、或は中村保男氏と共譯で出版した「ブラウン神父」は「現代かなづかい」に基いてゐるが、それらは新潮文庫・創元推理文庫等、「現代文學」については「新字新かなに改める」と出版社で方針が定められてゐる叢書である。『アウトサイダー』『正統とは何か』等についても出版社の意嚮が通つたものと看做すべきであるし、飜譯である點、福田氏の意嚮を通せる著書とは區別する必要がある。

中公文庫『人間・この劇的なるもの』は新字新かなだが、矢張り再刊であり、また文庫であると云ふ事で著者の意嚮よりも出版社の方針が優先されてゐるものと見て良い。もつとも同じ中公文庫でも、『私の國語教室』は正字正假名で印刷されてゐる。この本に關して福田氏は妥協を許さなかつただらうし、國字改革に反對すると云ふ本の趣旨からも表記を新字新かなに改める事は出版社も出來なかつたのだらう。

福田氏は、漢字の字體については「正字體を讀めない世代」が出現してゐる事實を認め、漢字については妥協する事を容認してゐた。が、字體を改める際、從來、常に假名遣も「改めねばならない」と、出版社側が「信じて」ゐたであらう事は推察出來る(かうした「一貫性」は、出版物のデザイナーが常に「拘る」ものだ)。福田氏の一部の再刊書・飜譯書が新字新かなに「されてしまつた」のには、さうした事情が「ある」と考へて良い。

晩年に至るまで主要著書は全て正字正かなで印刷されてゐる。正字正假名での印刷が出版社に容認される場合、福田氏は一切妥協してゐない。特に晩年、新潮文庫等で飜譯書が新字新かなで再刊されるやうになるが、さう云ふ形でしか著譯書を世に問へない状況が出來してゐる現實に應じたもので、福田氏の「現實主義」的な「妥協」と見て良い。運動初期の『私の國語教室』等で「正字正假名でも良い本は賣れる」と言つて出版社や著述家を非難した福田氏の態度と比較して「矛盾」と極附け、人格的異常と非難する向きもあるが、繰返すが、論外である。

「新字をしか讀めない世代」の養成と「新字と新かなとをセットで考へる思考樣式の確立」によつて福田氏を「追込んだ」點で、寧ろ、國字改革の支持者・推進者をこそ非難すべきである。彼等が現實を「變へた」事で、福田氏は「新しい現實」への對應と妥協を強要された訣だが、さう云ふ意味で、福田氏は被害者であり、(餘り言ひたくはないが)「弱者」である。

さう云ふ福田氏を、かつての舌鋒の鋭さを根據に、「非難すべき對象」と認識し、貶めるべき人間と極附け、無闇矢鱈と誹謗中傷してゐる人が最近では出現してゐる。福田氏は早く昭和三十六年に、言論やTV討論の「ショー」的性格を指摘し、「見せ物」としての性格を意識したエンタテインメント的な發言に對する「本氣」の非難の存在を「困つたもの」と指摘してゐるのだが、相變らずその邊の事が分つてゐない人が日本ではゐなくなつてゐないらしい。

事實

以下、福田氏の發言・記事・刊本、その他について取敢ずざつと纏めた。(以下、敬稱略)


漢字と假名の問題に關する福田氏の立場

國語問題に關する福田氏の考へは以下の通り。福田恆存評論集第7卷後書

……。しかし、世間一般が考へてゐるのとは反對に、漢字問題よりは假名遣問題の方が重大である。なぜなら、第一に、漢字制限や音訓整理の方は始めから無理があり、現にその制限は破られつつあるからである。第二に、假名遣の表音化は國語の語義、語法、文法の根幹を破壞するからである。……。明治以來、日本の近代化の過程において、僅かに吾々の手に殘された日本固有のものと言へば、日本の自然と歴史と、そしてこの國語しか無いのである。

「全集」第四卷の「覺書」は次の言葉で終つてゐる。

かうして幾多の先學の血の滲むやうな苦心努力によつて守られてきた正統表記が、戰後倉皇の間、人々の關心が衣食のことにかかづらひ、他を顧みる余裕のない隙に乘じて、慌しく覆されてしまつた。まことに取返しのつかぬ痛恨事である。しかも一方では相も變らず傳統だの文化だのといふお題目を竝べ立てる、その依つて立つべき「言葉」を蔑ろにしておきながら、何が傳統、何が文化であらう。なるほど、戰に敗れるといふのはかういふことだつたのか。

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