制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
公開
2001-05-19
改訂
2009-06-29

「陪審員に訴ふ」より

『増補版 私の國語教室』には、幾つかの興味深い文章が「増補篇」として收められてゐる。新潮文庫版と中公文庫版には入つてゐたのだが、現在の文春文庫版には未收録となつてゐる。

「陪審員に訴ふ」は、福田氏がNHKのTV番組に出演し、表音主義者とやり合つた時の話である。昭和三十年代の番組で、録畫は殘つてゐない筈。

一 「あなたは陪審員」樂屋話

NHKテレビの社會教育部が企てた新番組に「あなたは陪審員」といふのがある。おそらく安保反對鬪爭の後を承けて去年の選擧直前に三黨討論會を試み、それが聽視者の人氣を集めたことから思ひついた企劃であらう。その三囘目に「國語問題」が採りあげられた。見てゐない人のために、概要を説明しておく。正面中央に裁判長(鈴木アナウンサー)がゐて、その向つて左側に檢察官、右側に辯護人が扇形に開いて居竝ぶ。國語問題は目下延燒中でもあり、うるさ型が多いといふ理由から、檢察官、辯護人、いづれも二人づつといふことになつた。高橋義孝氏と私とが檢察團を構成し、戰後の國語國字改革、及びその當事者である國語審議會を被告として起訴するわけだが、それに對して高橋健二、平井昌夫の兩氏が被告辯護を引受け、たがひに物的證據、證人を出しあつて論戰を展開するといふ仕組みである。陪審員は聽視者といふことになる。

もちろん、一種の見せ物である。といつて、ジェスチュアー紅白試合と異なり、素面、素籠手の眞劍勝負でもある。企劃者が言つてゐたやうに、普通の座談會や討論會では、遠慮があり、また遠慮に隠れての逃げがあつて、對立の焦點がはつきりせず、黒白が附かぬままに終りがちであるが、模擬裁判の形式を採れば、いづれも後には退けなくなる。陪審員たる聽取者は、大相撲でひいき力士が負けるのを目の當り認めねばならぬやうに、自分と同意見の檢察側あるいは辯護側が敗退するのを確認せざるをえぬであらう。つまり、對立する兩者はそこまで徹底的に眞劍をもつて爭はねばならないのだ。それにもかかはらず、それはやはり一種の見せ物である。

その間の事情が内村直也氏には解らなかつたらしい。思ふに、かつては芝居を書いたが、この頃は放送劇の審査員ばかりしてゐるせゐであらう。あの番組の第一囘を見て、冷や汗が出たなどと、馬鹿々々しいにも程がある。「私は貧しい家に生れて獨學で……」といふ辯護人側證人マツザカ・タダノリ氏の言葉に對して、私が「唯今、松坂さんから甚だ浪花節的なお話を伺ひましたが」と言つたのを批判し、「公の席上」で言ふべき言葉ではないと評してゐるが、内村さん、あなたは本氣ですか。いや、あなたも本氣ですか。

私の揶揄に對して、すぐ松坂氏より「失禮ではないですか」といふ深刻な聲が掛り、正直、私は少々あわてた。芝居と本氣との兼合ひが、私と松坂氏とでは大分違ふことを發見したからである。私は五分五分なのに、松坂氏は九分通り本氣で、芝居氣は一分くらゐ、いや、それも甚だ怪しかつたのである。ああいふ番組では、芝居と本氣とは精々五分五分で止めなければならない。新聞や週刊誌などで普通よく用ゐられる「浪花節的」といふ輕い揶揄に對して、かつとなつてしまつたのでは、それこそ見せ物としてのテレビ番組の作法に反するといふものである。内村さん、よく考へてごらんなさい。あなたの冷や汗は「浪花節的」といふ私の言葉によつてではなく、その後の「失禮ではありませんか」といふ松坂氏の言葉によつて流れ出したもので、感情的になつたのは私ではなく、松坂氏なのですよ。また、あなたなのですよ。その證據に、松坂氏はテレビが濟んで控室に戻つて來ると、さすがに落着いたのであらう、自分の失言を私に詫びて、「あれも實は芝居なので」と照れ隱しを言つてゐた。

だが、内村氏の冷や汗の眞の原因は、氏が陪審員たる唯の聽視者の資格を缺いてゐたことにある。第三者なら、たとへ私の言葉にひどいことを言ふと思つても、冷や汗までは流れない。が、内村氏は松坂氏と同樣、國語審議會委員であり、私達檢察團が槍玉に舉げてゐる當の被告である。つまり、自分がやられたのと同じで、それなら冷や汗も流れよう。松坂氏と同じ被告であればこそ、檢察官側の「失言」ばかり氣がついて、辯護人側の缺陷が目につかぬのだ。繰返して言ふ、あの番組に内村氏の言ふ「ユーモア」が見られなかつたのは、辯護人側の硬直した態度によるものである。松坂證人だけではない。平井辯護人も同樣で、二人とも手がぶるぶる震へてゐるのが、私達にもよく見えた。失禮だが、このことは特筆大書しておく必要がある。なぜなら、第二囘の放送についても私達に對する非難が起ることを豫想するからである。

第一囘が終つて、控室に戻つてから、辯護人側は憮然、かつ憤然としてゐた。もちろん、私達の「失言」に對してではない。早くも敗北を自覺したからである。高橋健二氏は私達があのやうな原則論を大上段に振りかぶつて來るとは思はなかつたと文句を言ひ始めた。當用漢字、現代假名遣、新送假名等、戰後の改革の具體的事實につき、それがどこに、どんな混亂をもたらしたかを討議するのだと思つたといふのである。高橋さん、あなたは全く出たら目な人だ。その數日前、平井氏は缺席したが、その他の檢察官、辯護人、兩者相會して、第一囘は原則論、第二囘は現象論と定めたはずではないか。高橋氏はその時、既に敗北を豫期して上がつてゐたので、すつかり忘れてしまつたのであらうが、NHKの企劃者が立會つてゐたので、それ以上、何も言へなかつた。要するに、負けたのが面白くなくて、駄々をこね、言掛りを附けただけの話である。

……


「演戲する」事の大事を福田は屡々説いてゐる。

重要なことは、陶醉よりも、そのあとで醒めるといふことではありますまいか。いや、陶醉しながら醒めてゐることではないでせうか。醒めてゐるものだけが醉ふことの快樂を感覺しえます。

變に醒めてゐるのもよろしくないのだが――と云ふのは、何かに熱中する際には、陶醉しつゝ、同時に覺醒してゐるべきだからだが――Webと云ふ公開の場で議論に熱中する人々には、議論に陶醉するばかりではなく、醒めた目で自分を見つめる事も必要だ、と言ひたい。

國語改革の推進者の中に、「醒めて踊る」事の出來ない人間がゐた――イデオロギーの虜となつて、冷靜に自分の言動を顧みる事なく、他人を罵らうとした人間がゐた。さう云ふ論者を福田は批判してゐる。

ひたすら「熱く」なつてゐる論者が、自己の主張を反省する事もなく、國語改革を推進めてしまつたのではないか。自分のいただく表音主義と云ふイデオロギーの絶對無謬なる事を信じた表音主義者が、反對意見を頭から否定し、理性的な判斷を行ふ努力を抛棄して、感情的に改革を進めてしまつたのではないか。感情的に熱辯をふるひ、他人から誤りを指摘されても全くききいれない論者が、一方的に獨善的な個人的意見を押しつけようとするのは、ウェブの論爭でもよく見る光景である。

我々は、落着いて物事を判斷し、議論する癖を附けたらどうか。

福田氏は、TVでのエピソードを採上げて、論じてゐる。TVとウェブとは、性質は同一ではない。しかし、ウェブがメディアであり、公開の場である以上、掲示板の論爭はテレビ番組と同樣、「見せ物」である。そこで人は屡々「熱く」なり過ぎる。これは反省されるべき事だと思ふ。

しかし、公開の場ではない場所に於ても、人は感情的な信念を絶對視して良いものだらうか。人は自分の中に他人を養つておくべきである――自分の中の他人とは、即ち理性である。

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