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文様あれこれ 「渦 (2)」 

 古代の人々がどんなに情熱を傾けてそれぞれの渦巻き文様をえがいてきたか、書き出せばきりもない。本当は、画像が載せられればいいのだが、自分で全ての写真を撮るのは不可能だし、良い写真や画像は自由にならないので、言葉ばっかりで申し訳ないが、もう少し古代世界の渦巻き文様について考えてみたい。

 対立する二つの力の代表といえば 陰と陽。「易経」に云う「一陰一陽これを道と謂う」であって、道教では竜が道の象徴である。水の精であると同時に空中を飛翔する龍。いかにも濛濛と雲が渦巻きそうである。中国の開闢神話の始原のの兄妹は龍の尾を絡ませている。
 中国の開闢神話は私のパソコンでは出せない漢字があまりにも多いので、残念ながら詳しいことは省略せざるをえない。しかし、渦巻く雲の文様は中国の文様の特徴といえるくらい、悠久の時を越えて描き続けられた。そして龍は皇帝のシンボルとなり、皇后は鳳凰をシンボルとして、どちらの周りにも常に雲気がたっぷりと渦を巻いて描き込まれている。

 白川静の字通によれば「神」という字の元の形「申」は、二つの繋がった蕨手状の渦巻きをあらわしていた。雷ももとは壘の下の土を消した恰好で、この田の形は古くは渦の形象だったという。雷雲は神霊の渦なのだろう。ラーメン丼のふちを飾る雷紋(四角くデザインされた渦巻きの繰り返し文様)は、厳しい歴史を秘めているのだ。
 三つ巴文様は雷神様の太鼓の文様である。日本でも、そのせいか、神道家の家紋に巴紋は多い。

 ギリシアのキクラデスの壺(BC2800頃)の胴に掘り込まれた蕨手風の螺旋はすでに洗練された端整な姿だ。
 そして怪獣ミノタウロスを封じたクレタの迷宮は螺旋形だったという。

 四大文明からは外れるけれど、アイルランドのニューグレンジの巨石に刻まれた神秘的な渦巻き文様はあまりにも有名だ。そして丁度そのころこの国でもよく似た渦巻き文様が作られていた。縄文土器。湧き上がるように渦巻き指紋の様に流れる造形は、岡本太郎もしびれさせた生命力にあふれている。どちらに国でも、渦の持つ力に憑かれたかのような、ダイナミックな文様の氾濫は見るものを圧倒せずにはおかない。

 ヨーロッパの西の端と極東と、遠く離れた土地にどうしてこんなにも多くの渦巻き文様が描かれたのか。そして、アイルランドのケルトの渦巻きはキリスト教を受け入れた後も生き残り、聖書写本に、墓標に、日常にも描き続けられたと言うのに、日本では、仏教美術の唐草の中に飲み込まれたかのように影が薄くなってしまうのは、なぜだったのだろう。

 紀元前三世紀ごろを中心に古代世界の渦巻き文様をざっと渉猟してきたが、この文様がほぼ全世界を覆っていることに改めて驚かされる。
 唐草文様はオリエントかギリシャに始まってインド、中国と伝播したとかんがえられるが、渦巻きはあたかも世界中に同時に発生したかのようだ。その後、渦巻文様は具体的な雲とか花とかを巻き込みながら徐徐に自然化・写実化してゆく。渦の力そのものは衰退して行くかのような印象をうける。

 さて、さきほどから、私の貧しい言葉で、「一見対立しているかに見える二つの力の合一(渦1より)」などなどと書いてきたが、古代の人々はそんな分析的な言葉にとらわれてはいなかったろう。むしろ全一なるものの変容の範列(パラディグム)として渦巻・螺旋の形態をとらえていたろう。たとえば人体にそれを見だす時、頭のつむじ、指先の指紋、胚、腸、耳の形、と、それらは次から次へと呼び起こしの想像力を刺激する。同時にそれは神秘的な象徴的意識、世界の深さの感覚もともなう。あまりこういう言葉は使いたくないのだが、 構造主義的な言辞を用いていえば、範列意識(パラディグム)と統合(サンタグム)を横断する特権的表象であるといえるだろう。

 螺旋の図像を眺めれば視線は自然に中心へと誘われまた戻って、とどまらない。見ているうちに目が回ってくる。文様がその目くるめく感覚そのものでもあるので、意味するものとされるものの恣意性という西欧的な象徴体系におさまりきれないのだ。

 しかし螺旋・渦に巻き込まれることはおそろしいとどうじに蠱惑的でもある。「螺旋歌」という詩集がある。

 

「長風沙から長門峡へ」

前略

(小さな笛、いちど、この、細い、本当に、静かな細い街道へ、おいで下さい。)

 夕暮、宇宙に、この里があって、彼方に渦巻き星雲も、まわっている。こうして、或る日、東京の山奥、青梅のすじのような処、小曾木の里に居て、少し身体を沈めてから、幽かな水音を聞いて、小さな御辞儀をしていた。
黒沢川が流れていた。

旅は、そう、反復する、そう、佇んで、

後略

吉増剛造 詩集「螺旋歌」より

 

 詩集の中で誰のものともつかない声がささやく。そして読者も不思議な声といっしょにさまざまな場所、中国の徐水を泗水を経巡り、風の砂漠から長門へ、折口信夫の言葉やや中原中也の詩の引用を綴りながら、ゆっくりと移動してゆく。進んでいるのか戻っているのかわからない、螺旋の、ときにはS字型のうごきで。こんな一節もある。

 

北から東へ、明るい、窓口のような、中也さんの故里まで、博多からS字型の、時が、ゆっくりと(満席の、通勤客は小倉で降りて、…)過ぎて、…行ったな。
(時が、ゆっくりと、…)

詩集「螺旋歌」より

 

 そして中原中也の詩「帰郷」の引用となる。少年時、走り回って彷徨っていたいた故里へ帰ること。S字型の両端に渦をつけた形のような。その形こそ先に書いた神の字の「申」部分の元の形、シッポで結ばれた二つの渦巻きだ。S字型の時間は過去から未来へと流れるだけではない。未来からこちらを照らす時間もある。「帰郷」も書いておこう。

 

   帰郷   中原中也

   柱も庭も乾いてゐる
   今日は好い天気だ
        縁の下ではくもの巣が
        心細そうに揺れてゐる

   山では枯れ木も息を吐く
   あヽ今日は好い天気だ
         路傍の草影が
         あどけない愁みをする

   これが私の故里だ
   さやかに風もふいてゐる
   ……
   あヽおまへはなにをして来たのだと…
   吹き来る風が私に云ふ

 

 縁の下から路傍の草へそして一気に空高くから中也に向って吹いてくる風は過去を問うているようだが、不安な未来からふいてくるのだ。     

 渦巻きの繰り返し文様は死と再生の無意味な反復のこの世界そのものだ。花や鳥や美しく飾ることはその無意味さからから優雅に目をそらすことなのかもしれない。人はおなじ状態にとどまることなく次から次に儚い変化をもとめる。仮に永続するように見えてもそこは螺旋の中のようにおなじ場所のようで同じではない。流動し反復して止まないのが私たち人間の心なのだ。

 

 夏石番矢の多言語本「無限の螺旋」にはこんな句がある。

   無限の螺旋
   黙して歌う
   われらの体内   夏石番矢

 

 なんとなく意味が通り過ぎて、わかり良すぎる気がしないでもない。DNAから星雲までくりかえす螺旋の神秘はだれしも共感できることではあるが。

 中沢新一は「芸術人類学」の中で、ホモ・サピエンスの脳の特徴について合理性をつかさどる左脳とそこにおさまらない無意識をつかさどる右脳のバランスの取れた状態を「バイロジック」と呼んでいる。そして

「芸術は「バイロジック」の典型的な形態です。「バイロジック」の活動を通じて、芸術は表現に秩序を与える論理的な能力と、そこからあふれ出る流動的で多次元的な、自由な活動を行う「流動的な心」という二つの知性形態を結合し、あたらしい表現形式を開こうとしているからです。したがって芸術派つねにあたらしく、そしてつねにもっとも古い知性活動をあらわしているということにお気づきになったと思います」(芸術人類学とは何か)

と、述べている。この「芸術」を文様と置き換えることは可能だろう。芸術という言葉はあまりにも西欧近代の市民社会の文化のにおいが強い。文様はもっともっと古く、文字以前から人間の「流動的知性」の道具だった。絵画の主題はすぐ古びるが、その縁を飾る文様は生き延びてきたのだ。

 しかし何故そうまでして文様を刻まねばならなかったのだろう。

「創造あるいは考察はここでは世界の始原的な『刻印』ではなく、最初の世界に似た一つの世界を真の意味で作り出すことであって、そうしたことは、最初の世界をコピーするためではなく、それを理解可能なものにするためになされるのである(ロラン・バルト) 「構造主義的活動」

 文様は「世界を理解可能なもの」にしてくれるほど偉大なだと言うつもりはないが、この地上にたった一人存在することを意識した寄る辺無い心を形にしてそっと身近なものに刻印することは慰めであったに違いない。渦巻き文様は「死と再生の無意味な反復」を初めて自覚しおののいた古代の人の心の「右脳と左脳を統一する知性の表現」としてうまれたのかもしれない。

 無言の自然の無限の繰り返しの中の異物のような人間の自意識。初めて母なるは自然から切り離されて一人ぽっちになった人の心の恐れと同時に自由も感じたことだろう。世界のおそろしさと不思議さに目を見開いた、その目くるめく感覚が渦巻き文様の中に今もこだましている。

  ◎…画像をクリックして大きな写真を御覧下さい

 赤絵湯呑 雷紋の下、沸きあがる雲気の渦の中に佇む人物。赤いバンダナ(?)を風に翻して、彼方の蓬莱島をながめているらしい。仙人というほど出来上がってもいないけれど普通の人でもないような。風師のような。

渦(1)はこちら

2007年6月18日 月曜日

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