イスタンブール(歴史建築物編)

ヨーロッパとアジアの地理的な接点でもあり、黒海と地中海(マルマラ海)をつなぐ海の接点でもあり、西洋と東洋の文化の接点でもある、トルコ最大の都市である。

アヤソフィアアヤソフィア

 4世紀にコンスタンチ1世によって初めて創建されたキリスト教の教会であるが、反乱や火災によって2度失われ、現在のは3度目に建てられたものである。6世紀頃には東ローマ帝国の中で最大の教会となり、1438年まで教会として使用された。その後オスマントルコの時代となりモスクとして使用されるようになったのだが、当時の皇帝メルメット2世が、武力で接収したのではなく、当時の教会牧師に対して互いの宗教を尊敬し、共存を求めたことに対して、牧師が感謝の気持ちから寄進したとされている。教会内部にあったモザイク画は破壊されず、上から塗料で塗られたため、今日塗料の下から当時のモザイク画が現れ、その美しさを見ることができる。祭壇の天井には聖母マリアのモザイクがあるが、そのすぐ下にはモスクの祭壇がある。トルコからはエルサレムの向きとメッカの向きがほぼ同じく東となるため、このような並びとなっている。

ブルーモスク (スルタンアフメットジャーミー)

 スルタンアフメット1世によって17世紀に作られたモスクで、唯一6本のミナレット(尖塔)がある。内部には26000枚のタイルが張られた壁や、モスクで初めてステンドグラスを使用したものであり、天井のドームは空をイメージしている。巨大なドーム天井を支える4本の柱は「象の足」と呼ばれるほど太いものである。シャンデリアは当時から使われているもの(もちろん当時の照明はろうそく)である。ミナレットは現在はスピーカーがついているのがほとんどだが、昔は塔の上から街へ向かって呼びかけるために使われていたそうだ。またミナレットの数が4本までは一般のモスク、4本以上あるのは王様のモスクとして使われた。ちなみにモスクのことをトルコ語では「ジャーミー」と呼ぶそうだ。スカーフで髪をおおい、お祈りをしている信者もしばしばいた。

地下宮殿

イスタンブール旧市街の地下に、6世紀のビザンチン帝国時代に貯水池として作られたものである。中には336本もの柱とそれに支えられたアーチがあり、まるで宮殿のようであることからこの名前がついた。今でもある程度水がたまっていて、鯉などの魚が泳いでいる。これは単に飼っているのではなく、敵が攻めてきたときには毒をこの池に撒くことにしていたため、市民が毒の入った水でないことを確認できるようにと魚を入れていたことの名残である。天井からは時々水がしたたり落ちてきて、ひやっとする。そして、この宮殿の最も奥の柱の基礎には横向きと逆向きの「メデューサ」の頭部の像が使われていて、暗闇の中で少々不気味である。

トプカプ宮殿

 15世紀に作られた宮殿で、「大砲の門」のトルコ語に相当する。4つの中庭があり、1番目は考古学博物館、2〜4番目が宮殿内部そのものである。当時3000人分の食事を作った台所が陶器の博物館となっており、有田焼も一部展示されている。また、第2の門(幸福門)をくぐると皇帝の肖像画の展示された間や衣装を展示した部屋などもある。

そしてトプカプ宮殿最大の観光スポットが「ハレム」である。ハーレムの語源となったところである。多いときで数百人の女性が男子禁制のハレムにいたそうだ。大広間やハマム(風呂)、壁に果物の絵の書かれた食事の間、女性たちのおしゃべりの間や王様のプールなど、どれも豪華なものばかりである。王様のお母様が、礼儀正しい、きれいな女性たちを面接して入れていた。王様の愛人はなんと400人と聞き、びっくり!奥さんも4人いて、あそびまくり!
一番奥(4番目の中庭)まで行くと、ボスポラス海峡を見渡せる展望台になっており、記念写真を撮る観光客であふれていた。すぐ真下にはオリエント急行の東の終点駅への線路も見える。


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