2002年7月13日:アムステルダムまるかじり(1日め)


アムステルダム中央駅この日の早朝、福岡を出発し、成田経由で現地時間17:30にアムステルダムのスキポール空港へ到着した。スキポール空港もこれで3度目となり、だいたいの施設の位置はわかるようになってきた。空港から電車で15分で「アムステルダム中央駅」へ到着した。前年の「北欧旅行」の際、トランジットで立ち寄って以来、約1年ぶりだ。東京駅のモデルになったといわれている駅舎である。

 ホテルは中央駅から5分くらい歩いたところにある。中央駅や「ダム広場」に近いのが決定の決め手となったのだが、さらに「飾り窓」地区に近いせいか、一本裏の路地は歌舞伎町を思わせる雰囲気の区域にあるホテルなので、ホテルの出入りはやや緊張気味になった。今回はここに4泊した。

 ホテルに荷物を置いた後、7時半だというのにまだ陽が高いので、夕食がてらに街に散歩に出た。ホテルの裏の通りを歩いてみたが、コーヒーショップ(オランダは麻薬が合法化されており、マリファナなどを吸う店)やセックスショップ(オランダは売春も合法化されている)などあやしい店がいくつもあった。薬のせいか、らりっている人も歩いていて、不気味な雰囲気だったので、早歩きで通りを後にした。その後、「ダム広場」まで歩いて5分くらいで着き、「アンネフランクの家」が夏は夜9時までやっているということで、早速行ってみた。

アンネフランクの家「アンネ・フランクの家」は西教会近くの運河沿いにある緑色のドアが目印である。アンネ・フランクは1929年にドイツで生まれたが、ドイツのユダヤ人狩りを逃れるため、オランダに移り住んだのである。1942年から44年までの2年間、ここの”隠れ家”で生活していたが、結局ドイツ兵に一家は捕まり、アンネは強制収容所に送られてしまう。生き延びたのは父のオットーだけで、アンネは1945年に病死という悲しい歴史の舞台となった家である。

”隠れ家”への入口はいまだに本棚が置いてあり、ドアのように開き、階段へとつながっていた。昼間は下で会社(父のオットーが経営する事務所があった)で人が出入りするため、”隠れ家”ではひそひそ話し、忍び足、朝9時から夜7時まで水道やトイレも使えないという生活・・・を想像しながら、アンネの部屋も見ることができた。
 本当に悲惨な写真の数々も展示しており、戦争の悲惨さ、人種差別のむごさを痛切に感じた。同じ人間がここまで残酷なことができるのだろうか、集団の恐さ、ヒットラーの考えに洗脳された人々が不思議でもあった。アンネが最後まで人間の根本を善と信じていたことも心を打った。どんな時代・状況に生きていても、人間の良心を信じるということは大変なことだろうが、とても大切なことだと感じた。

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