四国のみちと遍路
                                                              
≪四国のみち・香川≫ 【root-2(雲辺寺山のへんろみち)】

2015年12月19日
part-1 ≪第66番雲辺寺〜雲辺寺山登山口〜逆瀬池)≫(7.6km)から遍路みちへ

          
 私たちは昨日の予定をはかすことが出来なかったので、当初の≪四国のみち 香川ルート3(中蓮寺峰野鳥のみち)〜ルート4(箸蔵街道をたどるみち)≫を辿るのを断念した。しかし、雲辺寺からの降りだけは決行したかったので、雲辺寺から≪四国のみち 香川ルート(雲辺寺山のへんろみち)≫から、札所を巡って観音寺からJRにて帰る事としたのだった。

  
 6時40分、青空屋のご夫婦に見送られて道路歩きだ。雲辺寺ロープウェイ乗り場までは4km弱という事で、小一時間のアスファルト歩きである。昨夜同宿のお遍路さんは、我々より一足早く宿を出発した。その方は、昨夜「明日の宿泊を予定した宿が取れないので、行程を変えなくてはいけない」と云っていたのだ。歩くほど、徐々に夜は明けてきた。車の往来は無い。山間を抜ける道だが、狸の死骸が横たわっていないのは、撥ねていく行く車が通らないからなんだろう。

  
 ロープウェイ駅には7時37分に着いた。遍路姿のオジサンが「8時まで、出ないようだ。待合所にも入れてくれない」と、車へ戻って行った。ベンチから望める景色は、朝陽に照らされた讃岐平野が望まれる冷えた朝の景色だ。昨日、係の人が「今日から新しいトイレが使用出来ます」と云っていたトイレに相棒が入って行った。係の人は、屋外のバルブの栓を開けて廻っていたのだった。

  
 ロープウェイ駅で待っている若者がスキー板を担いでいるのを見た相棒が「スキー場があるんかなぁ〜」と話し掛けて来た。なんと、雲辺寺山の北斜面に人工降雪機のスキー場があるという。香川県からだと、一昔前なら大山や氷ノ山や剣山へ行くしか無かった筈。時代は変わる。ロープウェイに乗り込むと、先程の遍路姿のオジサンが、「歩き遍路さんはエライ。」と言う、相棒が昨日の顛末を云って「昨日は、雲辺寺さんで納札したあとロープウェイで降りてしまったので、もう一度戻って、雲辺寺さんから遍路道を降ります」の相棒の言葉にはいたく感心された。そして、「奥さんに、このお札を収めてもらおう」と錦札を差し出したのだった。もちろん有難く頂戴したのでした。


≪五百羅漢≫
     元駒澤大学館長 奈良康明
 羅漢様。   らかん様。   ラカン様。
 羅漢さん、という言葉は私たちに親しい。子供の頃からなじんでいて郷愁にも似た響きがある。日本中何処に行っても羅漢さんはいらっしゃる。五百羅漢さんは「野の仏」然として並んでいるし、十六羅漢さんは彫刻や絵画、襖絵などに姿を見せている。
 羅漢さんの表情は千差万別である。彫刻した石工たちが自分の知り合いの人をイメージして彫ったのではないかという。庶民的な顔ばかりである。この点、沈潜と静まりかえった表情の下に限りない知恵と慈悲を秘めた仏・菩薩像とは雰囲気ががらりと変わっている。目を見開いたり細めたり、口を大きく開けて哄笑したり、皮肉な笑いをたたえていたり、哀しげな表情を見せるかと思うと刺すような目つきで私たちを眺めたりしている。
 自由奔放な羅漢さんの表情の中に、しかし、共通なものが一つある。眼だ。さまざまな表情の中に眼だけはしっかりと私たちの心を見ている。
 喜怒哀楽の表情の中に、私たち人間の性を見ぬき、その愚かさを嘆き、悲しんでいる眼がある。いや、人間の悲しさと愚かさを知り、しっかりと生きていけと言わんがためにこそ、私たちの心を映した表情をして見せている。と言う方が正しいのかも知れない。
 そう。それもその筈なので、羅漢さんとは仏法を守護し、私たちを救ってくれる聖者なのである。


   
 羅漢さんには、台座に番号が彫られていた。しかし、我々は羅漢見物に来たわけでは無い。一通り道を歩きながら撮るのみだ。


≪乳銀杏≫
 とても立派なイチョウの木ですね。このイチョウには、昔、子供が生まれても乳の出ない人のために、弘法大師がイチョウの苗を植え、乳が出るようお祈りをされたといういい伝えがあります。
 このイチョウの木の幹を削り、煎じて飲むと乳が出るようになったそうで、大師乳銀杏とよばれています。
 幹から空中にたれ下がった気根の形が乳に似ていることから、こうしたいい伝えがうまれてきたものと思われます。
                                  昭和六十二年三月 香川県



   
 アンテナを過ぎると、≪四国のみち利用者のみなさんへ 四国のみちを安全・快適に利用していただくために、自転車・バイク等の進入を禁止します。みなさんのご協力をお願いします。≫の注意書きがあり、その先からは山道となっていた。この四国のみちを自転車通行禁止にしているのは、ここだけなんだろうか。8時半だ。15分ほど降りると、左手、木の向こう側が開けている。

  
 四国のみちらしく、木で造られた階段が現れたが、遍路道らしく整備が行き届いている。


≪へんろみち≫
 四国八十八か所のへんろは西国三十三か所巡礼とともに、お伊勢まいりを筆頭として、地方地方にみられる七か寺まいりなど信仰と旅との出会いのかたちの中でも際だったもののひとつであるといえます。
 へんろのための道、つまりへんろ道は、このように長い年月と、数えきれないほどの名もない人々が、それぞれに思いをこめて歩きならした道なのです。いいかえればそれは、人々の足と手とでつくった道であり、まさに自然と人間との対話の道であるといえます。

                               昭和六十二年三月 香川県


   
 9時から30分ほどの間に次々に案内標識が現れた。その内≪ヤマザクラの話し≫だけは割愛したのだった。9時3分、案内標識の傍らの木製ベンチに腰掛けて小休止である。


≪へんろみち≫
 あなたが今歩いている四国のみちは、六十六番札所雲辺寺と六十七番札所大興寺を結ぶへんろみちです。みちばたに、大体等間隔で舟の形をしたお地蔵さんが立っていることに気づきましたか、このお地蔵さんは丁石(ちょうせき)と呼ばれるもので、札所と札所の間に一丁(約百九メートル)ごとに立てられたものです。一つ一つの丁石には、立てた人々の様々な願いが込められていることでしょう。
 平地部のへんろみちは、道路の改良等に伴って次第にその数が減ってしまっていますが、残された文化財として、これらの丁石や道標等大切にしたいものです。
                               昭和六十二年三月 香川県



≪鰻淵(おうなぎさん)の伝説≫
 昔、大和の国(奈良県)から別所平内という人が、この地に来て谷あいを開墾して住んでいました。平内には源左衛門と源三郎という大変親孝行で信心深い二人の子供がありました。
 ある年、四月から夏にかけて百日余りも雨がなく、大干ばつで作物は枯れ、人々が大変苦しみました。それを見かねた兄弟は困っている人々を助けようと、山の峰にこもり、七日間雨乞いをしました。最後の夜、美しい女の神様が顕われ、お告げがありました。そのお告げどおり翌朝地面を掘ったところ、清水がこんこんと湧き出しました。そしてその中からまばゆいばかりの五色の光と共に小さな黒い鰻が表われ、岩の上に登りました。更に兄弟が大雨を降らせて下さいと一心に祈り続けると、うなぎが再びもとの清水にもぐるやいなや一天にわかにかきくもり大雨となりました。雨は田畑を十分に潤し作物はよみがえり人々は助かりました。それ以後この渕はおうなぎさんと呼ばれる様になり、お参りする人があとをたたなかったそうです。
      「観音寺市誌より」
鰻淵は、このへんろみちの東側の谷で林道から少し入ったところにあります。)
                                      昭和六十二年三月 香川県



 
 さて、このルートの撮影ポイントの≪一升水≫には、9時半に着いた。そこには一人の登山者が上がって来ていたのだった。昨日の午後、七田からここまで誰にも会わなかったので、久々の人との出会いだった。

  
 9時51分、登山口に降り立つと、道路脇に愛媛ナンバーの車が停まっていた。道端には沢山の案内標識が建っていた。もちろん、その中に青空屋さんのブルーの案内もある。その案内に従って降りると、9時57分、朝方ロープウェイへと歩いた道に出たのだった。それにしても、香川県は案内標識が多い。標識の撮影担当の相棒は、“上手く撮ろう”という考えは半ば諦め気味だ。


≪指導標や標識など≫

  

 

   

 

  


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