四国のみちと遍路
                                                              
≪四国のみち・香川≫ 【root1(阿讃県境のみち)】

2015年12月18日
≪愛媛県境〜旧曼陀峠〜第66番雲辺寺)≫(7.3km)

          
 結果的に、宿泊予約をしていた民宿の方にご心配をお掛けしてしまった事は、反省点である。これも、小生の事前の情報集めが足りなかった事が発端である。

  
 さて、愛媛県と香川県の県境で記念写真を撮り、再出発だ。植林の中の道を15分ほどで、綺麗な舗装道路に出たのは、14時10分だ。そのすぐ下には、工事の通行止めの看板が建っていた。

  
 そこには、四国のみちの香川県の案内板が建っていた。その看板は薄汚れていて、判別出来ない部分さえあった。その案内板の横に『四国のみち掲示板』があり、張り紙が三枚貼られていた。その張り紙も解読が出来ないような箇所があるが、以下に一部を転載した。そしてすぐ先に、広大な耕作地が現れた。


≪四国のみち利用者の皆様へ≫
 四国のみちにつきましては、利用者の皆様からのご意見 情報を戴いて維持管理、整備を進めていきます。
 四国のみちを歩いて、気づいたこと、気になることがありましたら、お手数ですが香川県みどり保全課までご連絡をお願いします。
<連絡先>
香川県みどり保全課 自然公園・緑化推進グループ
 電話番号 ・・・・



  
 すぐ先で、右手には徳島の山々が雪を被っているのが見える。14時29分、曼陀峠の看板が建っていた。

≪昔栄えた曼陀(まんだ)峠≫
 ここは、標高約六〇〇メートルの曼陀峠です。昔、阿波と讃岐を結ぶ生活の道が、この峠を越えて南北に通じていました。又、東は四国霊場六十六番札所雲辺寺、西は六十五番札所三角寺に通じるへんろみちもちょうどこの峠を通っていました。
 曼陀峠の曼陀は、曼茶羅(まんだら)の転訛(てんか)したもので、屋島の合戦後平家一門がこの地に落ち延び、一族の供養のための法要、曼茶羅供を営んだところから名付けられたものだと思われます。
 江戸時代は巡検道として使われ、また、第二次世界大戦前までは、農耕用の牛を阿波から借り、農作業が終われば米や賃金を払って牛を阿波に帰す、いわゆる借耕牛(かりこうし)の道として夏、秋に賑ったところです。

     昭和六十二年三月 香川県


  
 先程までの植林の中のみちを違って、高原散歩のような雰囲気だ。愛媛県の四国のみちと違って、香川県の四国のみちは、案内標識が沢山建っている。


≪落人の里有木と阿弥陀如来像≫
 香川県側の山裾には、かつて栄えた五郷渓温泉と町指定の文化財である阿弥陀如来像を祀る阿弥陀堂があります。又、斜面を利用して香味の良い五郷茶が栽培されています。
 寿永四年(一一八五)早春の屋島で繰り広げられた源平合戦のおり、小松少将平有盛は夜陰にまぎれて曼陀峠に落ち延び、有盛は有木谷へ、家臣の真鍋次郎清房は愛媛県の川之江市切山の奥深く隠れ住んだといわれています。
その時有盛が持参したと伝えられる桧材寄木造り彩色漆箔の阿弥陀如来像(五二、五センチメートル)は、藤原時代(十二世紀)の都作りとして有名です。また、有盛が身につけていた名剣小烏丸は盗難にあい、陣太鼓は有木三部神社に祀られています。

    昭和62年3月 香川県



  
 高原散歩のような歩きが続いたが、大分、この辺りでは雪が残っていた。雪の中に、男性が歩いたであろう足跡が残されていた。
そして、道端のお地蔵さんも寒そうである。


≪曼陀高冷地野菜団地≫
 昭和四十五年度、四十六年度による自立経営農家を育成する目的で造成された畑です。雲辺寺山頂付近から曼陀峠に傾斜した、東西四キロメートル南北〇・三キロメートルの尾根沿いに開かれており、総面積は三二・一ヘクタールです。
 現在、曼陀高冷地野菜生産組合が組織され、毎年四月から十月頃にかけて、キャベツの二作取りを中心に栽培がおこなわれています。
 平均標高六〇〇メートルの高冷地で栽培されるため病害虫の被害が少なく、高品質のキャベツが生産されています。


  
 15時12分、小休止。再度、民宿へ電話連絡を入れた。今度は繋がって、女性が応対に出たので「昼前に電話連絡したものです。昼過ぎに電話したのですが、繋がらなかった。今、雲辺寺まで2.5kmまで来ていますので、よろしくお願いします」との当方の申し出で、連絡番号と名前を名乗り「二人、お願いします」と申し添えたのだった。この場所は、徳島からの道の合流点だ。案内表示は≪雲辺寺口バス停 約5km≫と読める。10分ほどの休憩後、再出発だ。

  
 そして、次々に案内板が現れた。先ほどの四国のみちの案内板と同様の案内板が現れたのは、徳島からの道が合流したからなのだろう。掲示板の張り紙は、“やっと見える”程度だが、こちらは読むことが可能だ。15時40分頃、携帯が鳴った。先ほどの民宿の奥さんからだった。内容は『雲辺寺さんからの降りを、暗い道を降りるのは危険なので、雲辺寺さんからロープウエーで降りてこられたらどうですか、17時まで運行しています。駅までは迎えに行きます』との申し出だった。相棒は「私らは暗くなっても降りれるのにねぇ〜」と言うが、この際は再度の助言に従って先方の申し出に甘えることとした。


≪四国のみちを歩く方へのお願い≫
路傍に設置されているすいがら入れは、今後、撤去する予定ですので、すいがら、ゴム等を入れないでください。

≪大興寺、逆瀬池方面へ向かう方へ≫
 この時期は特に乾燥しますので、ひとたび出火事になれば大きな被害が出ます。山の中で火気を使うことはやめましょう。
 雲辺寺山頂近くは標高が高く、雪が積もることもあります。防寒対策や足元対策を十分にして歩きましょう。
 雲辺寺を通過して約4.6kmは下り階段では惰性で勢いがついてしまわないように注意しましょう。
 転倒や膝を痛める危険性もありますので、慎重に歩を進めましょう。積雪時には特に注意してください。
 山道は林内を通りますが、枯れている木もありますので、倒木や落枝に注意しましょう。
 崖に近接した箇所や、路肩が弱い箇所がありますので、山道の端には注意しましょう。
 山道が狭い箇所もあります。すれ違う時は安全な場所で譲り合いましょう。

          平成10年度 香川県


 そして歩き出すと、遍路用の案内板も設置されていた。設置年は、どれも古いものだった。

≪四国霊場めぐり≫
 四国遍路の旅にかける願いは限りなく多様である。
 南無大師遍照金剛
 札所の番号の順に参る順打ち、その逆に参る逆打ち、いずれも納経札を置いて通り過ぎていく、四国を七周すれば白札の納経札が赤札に変わり、二十回で銀札、五十回以上が金の納経札となる。
 四国を四回に分けての一国参りや、十か所参りなど、参拝の仕方にもいろいろある。
 昔も今も、歩いてめぐる遍路の功徳を尊ぶ風がある。

     昭和六十二年三月 香川県 



 雪道は、所々で融けている場所と滑りやすい場所があるが、我々は問題なく歩ける。。心配性の相棒は簡易アイゼンを持参していたのだが、問題は無い。

  
 15時57分、雲辺寺の参道の石段に着く。相棒は先ほど休憩した徳島側からの道を歩いていた。それは、1970年の2月の雪が積もっていた時で、雲辺寺で一泊したそうだが、当時の面影はお寺の横の石垣ぐらいだと言っている。山の会での山行は、徳島から列車。バスを乗り継いで登って来たとのことだった。


≪雲辺寺の観音さま≫
 香川県と徳島県の県ざかいの山に、雲辺寺というお寺があります。
 昔、このお寺の近くに与成(よなり)という、てっぽうをうつのがじょうずな猟師が住んでいました。与成は、毎日朝早く、「今日もえものがたくさんとれますように。」と雲辺寺の観音さまにお参りをしてから山へ出かけていました。
 観音さまは、「与成が動物を殺すのをなんとかしてやめさせたい。」と、考えていました。そこで、山の中でつりがねをかぶり、えものにばけて待っていました。いつものように山に出かけた与成は、なにやら動く、黒いものを見付けて、てっぽうでうちました。「グァーン」すごい音におどろいた与成は、木のかげにかくれてようすを見ていました。「与成はどこへ行ったのかなあ。」観音さまは、つりがねをもちあげてそっとのぞきました。与成は、光る目をめがけて「ズドーン」ともう一度てっぽうをうちました。「やったぞ。」よろこんだ与成は、えものの所へ行きました。しかし、えものはいなくて、血がおちています。血をたどって行くと、雲辺寺の観音さまのところへつきました。ふしぎに思って見上げると、観音さまの目から血が出ています。はっとした与成は、それから動物を殺すのをやめてしまったということです。目をうたれた観音さまは、目の悪い人をなおしてあげることにしました。
 今でも、目の悪い人がお参りすると、よくなるといわれています。
    「香川のむかしばなし」より

                          昭和六十二年三月 香川県


   
 雲辺寺の境内にある手洗い所には≪冬場 凍結の為、止水しています≫との張り紙があった。寺院には、私たち以外の姿は見えなかった。参拝を終え、ロープウェイ乗り場へと急いだ。乗り場へ着くやいなや、係員の『40分の便が出ますので急いで下さい』の声が聞こえた。切符は相棒に任せて、小生が携帯で「40分の便に乗りますので、お願いします」と、民宿へ連絡を入れたのだった。ロープウェイが出発すると、丁度、夕日が落ちる時間だった。


 
 ロープウェイの乗車時間は7分ほどだった。既に、民宿≪青空≫の御主人が迎えに来てくれていた。小生の我が儘を旨く誘導してもらい感謝である。

 民宿≪青空≫は遍路ブログで出て来る民宿だ。今回の行程(三角寺から雲辺寺までの遍路)で、もう一つ出て来る民宿は岡田屋さんである。こちらは、徳島県の三好市(旧池田町)の佐野にある。つまり、文中にも出て来る分かれ道へと上がってくる麓の集落にある民宿である。しかし、小生の翌日の予定は≪香川ルート3から4≫を繋ぐ計画だった。ここが、歩き遍路とは違っているのである。歩き遍路なら、観音寺市内の札所から次の行程を練り直せば良いだけなのである。
 これはこちらの事情であり、民宿の方がお客の安全を第一にと、チェックインの時間を厳しく云うのとは意味が違うというものである。

 迎えの車の中では、民宿のご主人に、今回の我々の計画(単なる歩き遍路では無い旨)を話したのだった。もちろん、四国のみちの事も良くご存じの様子だった。山間の集落にある民宿は“農家民宿然”としているが、さて、民宿に着くと女将さんの笑顔は垢抜けていた。荷物を部屋に置くと熱い風呂が冷えた体に心地よかった。風呂から出て間もなく、6時半頃には「夕食の準備が出来ました」と、呼ばれた。我々と、雪の中の足跡の主の三名が今宵の客だった。

 そして、食が進むのは食前酒のせいではなくて、民宿の食事が旨かったからだった。実は、電話での予約の際には一言も食事の話をしていなかったので『食事はあるんじゃろか〜』と、相棒と心配していたのだが、杞憂に終わったのだった。食卓に並べられたおかずをどれから箸を付けようかとしていると、天婦羅が出された。そして、ご主人が「こちらの名物の“骨付鳥”です」と出された。香川県と云えば“うどん”としか思い浮かばない小生の頭は、今回の旅で切り替わるんだろう。

 山形からの歩き遍路の方は「今回で七度目」という事だった。その方は、「お酒は頂きません」「お茶は要りませんから白湯で良いです」と、相棒の言によると“XX断ち”をしているようだ。しかし、遍路の『世界遺産登録』の運動をしている自治体の姿勢や一部札所の姿勢にも言及して、話は尽きなかった。

 さて、明日の我々の予定は決まったのか?


≪指導標や標識など≫

  

   

   

   

 

  

  

  

  



交通費など
高速道路ETC料金(川内→川之江) ¥2,020
ロープウェイ           一人=¥1,200