縄文文化を巡る!  
 2018年「waiwai隊」 縄文遺跡を巡る旅

国立科学博物館 ≪2018年10月14日≫

 今日の宿泊先は、東京駅八重洲口近くのビジネスホテルを予約しています。上野駅のコインロッカーは、何度か利用しているのでウロチョロとはしません。そして上野公園も同様に、ここ数年毎年のように訪れています。

 しかし今日は、いつもは素通りする≪国立科学博物館≫です。正面入り口には『65歳以上及び・・無料』と、書かれているではありませんか。

 小生はいつも通り、免許証などを携帯していますので、年齢を証明するものについては問題が無かったのですが、相棒は薬と共に健康保険証をスーツケースに入れてコインロッカーへ預けてしまっていたのです。

 慌てた相棒が、ポケットや財布を探しています。諦めかけたその時、何とか年齢を証明しそうな物が・・それは某鉄道会社の“株主優待乗車券”でした。受付の女性にそれを提示して入館する際、わずかにほほ笑む受付の女性の顔を私は確認したのでした。



【関連リンク先】 国立科学博物館


尚、小生が使用している時代区分を以下に記します。

【AMS法による区分】

  草創期   15,000〜12,000年前
  早期     12,000〜7,000年前
  前期     7,000〜5,500年前
  中期     5,500〜4,500年前
  後期     4,500〜3,300年前
  晩期     3,300〜2,800年前

 
 ・10月9日(火) 
 松山  岡山新大阪  金沢市(石川県埋蔵文化財センター) 金沢市
 
 ・10月10日(水)  
 金沢市  富山市(北代縄文館・富山県埋蔵文化財センター・富山市民俗民芸村考古資料館)
 富山  長野  松本  上諏訪 
 ・10月11日(木)  
 上諏訪   〜岡谷(岡谷考古館)〜富士見町(井戸尻考古館)〜北杜市考古資料館
〜釈迦堂遺跡博物館〜甲府市 
 ・10月12日(金)  
 甲府市  松本  長野  軽井沢  〜御代田町(浅間縄文ミュージアム)〜高峰高原ホテル 
 ・10月13日(土)
 車坂峠〜槍ヶ鞘(ピストン) 高峰高原ホテル  〜軽井沢  高崎市 
 ・10月14日(日) 
 高崎市  群馬県立歴史博物館 高崎市  上野(国立科学博物館) 上野   東京  
 ・10月15日(月)  
 東京  新宿〜京王多摩センター(東京都埋蔵文化財センター)  東京  岡山  松山  


 階段を3階まで上がって、順路は吹き抜けの左側のコーナーへと指していました。最初の展示室は、【@日本列島の素顔】となっていました。やはり日曜日の上野公園は、どこの館も空いている事は無いのでしょう。小さなお子様連れの家族も次々に入って行きます。

【日本列島の素顔】
ユーラシア大陸の東縁に沿って南北に長く連なる日本列島。四季の変化に恵まれ、季節風と海流の影響を強く受けた複雑な自然環境は、多様な生き物たちを育んできた。


部屋に入ると、最初に目に付く場所に、下記のパネルが掲示されていました。


≪日本列島の自然と私たち≫

季節変化に恵まれ、
豊かな森と
海に囲まれた日本列島。
その複雑な自然環境は、
日本固有の豊かな自然環境は、
日本固有の豊かな
生物相を成立させた。

私たちは、この変化に富む
多様な自然とともに生活する中で、
古来より独特の自然観を養い、
創意工夫を重ねてきた。

ここ日本館には、
日本列島の自然と生い立ち、
そこに暮らす生き物たちの進化、
日本人の形成過程、そして
私たちと自然との
かかわりの歴史が展示されている。

この豊かな自然と文化を
次世代に引き継ぐため、
私たちに何が求められているのか、
展示を通して考えてみたい。


 私たちが観覧したいのは、このコーナーでは無いので展示の詳細は“端折り”ます。



 

 

【日本の鉱物・日本に落下した隕石】

 



 南館と北館との間に、隕石のコーナーがありました。つい先日、『隕石が落ちてきた』との報道に接したばかりです。

 続いての北館は、【A日本列島の生い立ち】です。


【日本列島の生い立ち】

数多くの生き物たちが繁栄と絶滅を繰り返してきた日本列島。地層に刻み込まれた生き物たちの痕跡は、この列島が成立するまでのダイナミックな変動の歴史を物語る。



 



 階段で2階へ降りると【B生き物たちの日本列島】のコーナーです。



【生き物たちの日本列島】

約170万年前から続く氷期と間氷期の繰り返しの中で、氷期に陸化した海峡を渡り大陸から日本列島に移りすんだ生き物たち、海で隔てられた間氷期には、日本列島の複雑な自然環境に適応しつつ独自の分化を遂げた。



 

 


 日本列島での生き物は、絶滅してしまった生物や植物。そして、氷河期を生き延びて現在も生息している動植物など、多様な生物の進化や分化が見られます。それらは今なお、日本列島へと南下したものと北上してきたものの棲み分けが現存しています。

 氷河期のマンモスとナウマンゾウ、現在のヒグマとツキノワグマ、アマゴとヤマメなどなど。不可思議な自然と呼ぶのか、多様な自然と呼ぶのが妥当なのか・・。

 その答えは、直ぐには引き出せないものと考えますが・・。






 続いて、北館に移動すると【C日本人と自然】のコーナーです。


【日本人と自然】

約4万年前、私たちの祖先は、森と海の恵みにあふれた日本列島を見いだした。この豊かな自然の中で、固有の文化をもった、さまざまな人々が融合し、今日の日本人が形成された。

 このコーナーに目的の“沖縄で発見された旧石器人骨の復元”が展示されています。



 目的の展示室に入ると、ガラスケースの中のマネキンが目に入ってきました。向こう側の通路に立ち止まっている、うら若いお嬢さんの目線の先に何があったかは、後述することします。

 

 
【日本列島における人類史のはじまり】
 後期旧石器時代の祖先たち

日本列島に私たちの祖先が現れたのは、今から4万年前ごろであったと考えられる。そこから縄文時代が始まるまでのおよそ2万5000年間を後期旧石器時代と呼んでいる。当時の祖先たちは、定住するのでなく、野生動植物の狩猟・採集・漁労を行いながら移動生活を送っていたようだ。この時期は氷期で気温が低く自然環境は現在と異なっていた。後期旧石器時代は決して静的でなく、時代や地域によって動的に変化した文化であった。





左写真の人骨は≪もっとも完全な旧石器人の化石≫との紹介があり、以下の文章が載せられています。


最初の日本人は、どのような人たちで、どこから来たのだろうか。沖縄で発見されたこの男性の化石には、小柄で顔が四角く立体的など、縄文人と似ている点がある。しかし、頭骨には原始的な特徴があり、体の骨には独自の特徴も多くあるので、縄文人との類縁関係はよくわかっていない。


 続いて、上の写真の左のコーナーでは、当館(国立科学博物館)の【海部陽介博士】が行っている≪3万年前の航海 徹底再現プロジェクト(その様子については、コチラから )≫実証実験の様子がパネルにて紹介されています。この際の様子については、一昨年来NHKなどでたびたび取り上げられています。ここでは、その詳細には触れません。

≪縄文時代≫


【巧みに生きる縄文人】
 列島に行き渡る採集狩猟文化

1万年以上にも及ぶ縄文時代、私たちの祖先は狩猟と採集に依存する暮らしを営んでいた。長期間にわたってこのような生活を続けることができたのは彼らが自然を損なうことなく巧みに利用していたからにほかならない。ここでは、遺物や人骨の研究から明らかになった彼らの実像について見ていくことにしよう。




















【骨を読む】
 縄文人はどんな人たちだったか

縄文人の骨は、北は北海道から南は沖縄に至るまで、時代の古さの割には比較的たくさん発見されている。これは、カルシウム分を多く含む貝塚、あるいはその周辺に埋葬されていることが多いためである。同じ縄文人でも草・前期に人骨は全体的に華奢であるが、中・後・晩期になるとがっしりと筋骨たくましくなる。現代の本土日本人と比べると顔や眼球の入る眼窩は上下に短く、鼻筋が通っている。中・後・晩期人の平均身長は男性が158cm女性が149cmほどである。



小生は『縄文時代は、狩猟・採集の時代だった』と一概には云えない、との考えに至っています。それは、縄文人が定住生活を送っていた事が根拠です。定住生活という事は、そこで継続的に食料の調達が出来なくてはなりません。

 遠く、アフリカを出発した祖先が日本列島までやってきて、ここに留まった理由は何なんでしょうか?祖先が日本列島へと辿り着いた当時、日本列島の自然条件は過酷なものだったと思われます。“氷河期の最終段階だった”というのは、現在だから云える事です。




【縄文のくらし】
世界的に見ても、縄文人はもっとも早い時期に土器を使った人々だった。沖縄から北海道まで、地域によって環境がさまざまにことなる日本列島のなかで、彼らは創意工夫によって、それぞれの土地にあった生活様式を確立していた。彼らはどのような道具を使って、どのような生活を送っていたのだろうか。遺物が語る彼らの生活に目を向けてみよう。 




 先に述べた定住生活に必要なもののうち、一番大切なのものは住居でした。渡り鳥が巣を作るのは、繁殖の為。繁殖行為は、生き物が一番おろそかに出来ない事。

 私たちの祖先の定住生活を可能にしたのは、日本列島の豊かな自然がもっとも大きな要素でしょう。しかし、そればかりではなく食糧を栽培する事を発見したものと思われます。

 大型獣の絶滅によって、動きのすばしっこい中・小型獣を捉えるために弓矢を造り、落とし穴猟を考え出しました。これらは、全国各地にある遺跡の発掘と共に現代に現れました。

 又、三内遺跡で証左されている『クリやクルミなどの栽培』は、縄文土器を生み出したとともに、定住生活がもたらしたものは他にもあります。“文化”とも呼べる、集団の生活痕です。それは、土器だけに留まらず、土偶という精神文化を残しました。
 
【縄文のかたち】
縄文土器は、世界的にも優れた芸術作品として高い評価を得ている。1万2000年以上続いた縄文時代には、時代や地域によってさまざまに異なる形の縄文土器がつくられた。そのため、現在では土器の形と文様を基準として、全国で300にものぼる編年の体系が構築されている。縄文土器のなかにはここに展示した火焔型土器のような豪華で立体的な装飾をもつものがある一方で、繊細で調和を感じさせるスタイルの土器もある。縄文人が土器に表現した野生的で繊細な美の意識は、私たちのなかにも受け継がれているのだろう。


≪この土器について≫
道尻手遺跡はおよそ1000年間継続したと考えられている。展示している土器は、およそ5000年前の縄文土器である。
縄文土器はさまざまな形や模様をもつが、特に装飾豊かな4つの突起をもつ土器が火焔型土器と王冠型土器である。この火焔型土器は、信濃川流域を中心として、新潟県内のみで出土している。飾りものではなく。木の実などを煮る鍋として使われた実用品である。新潟県は、関東地方や信州、東北地方、北陸地方と接している。火焔型土器は、これら周辺地域の土器文様の影響を受けながら、独自にできあがったと考えられる。


≪縄文時代の手厚い介護≫


この縄文時代の10代後半の個体(おそらく女性)の四肢
骨は、異常に細い。おそらく幼少時に小児麻痺か何かの
病気にかかり、麻痺したまま一生を寝たきりで過ごしたも
のと思われる。                        
彼女がこの年齢まで生きることができたのは、縄文時代
にあっても仲間の手厚い介護があった証拠と考えられる。


 小生が縄文の文化の素晴らしさを説く際、上記の“介護骨”は象徴的な例えでしょう。

≪弥生時代≫


≪骨を読む≫
弥生人はどんな人たちだったか

弥生人とは弥生時代の日本列島にすんでいた人々のことであるが、骨の特徴を調べると大きく2種類の人々がいたことがわかる。ひとつは北九州や本州西部から発見される、いわゆる渡来系弥生人、もうひとつはそれ以外の地域から発見される縄文人的な特徴を残した在来系弥生人である。渡来系弥生人の顔形は縄文人とはずいぶん異なり、鼻の付け根が平坦で顔は全体的に上下に長く、のっぺりしていた。渡来系弥生人の平均身長は男性が163cm、女性が151cmほどで、縄文人よりもかなり高かった。



≪渡来人はどこから来たのか≫

大陸からの水田稲作の技術を携えた人々が渡来し、そのときから弥生時代が始まった。しかし、この渡来系弥生人と呼ばれる人々の源郷が大陸のどこにあるのかは、現在のところ確定していない。さまざまな証拠から、朝鮮半島を経由したと考える説が有力だが、弥生時代開始時の朝鮮半島からはほとんど人骨が出土していないので人骨の研究からは確実な結論が得られていない。水田稲作の発祥の地である中国江南地方からは、近年の発掘によって、北部九州の渡来系弥生人によく似た人骨が発掘されている。今後の研究の進展によっては、この地域でも渡来系弥生人の源郷のひとつとして候補になっていく可能性がある。


 ここでは、小生の持論を紹介しましょう。

 まず、渡来系弥生人は何者か?という事。この人たちは、“中国本土からの難民だった”と推測します。ここで、小生が根拠とする中国の歴史を書き出しておきます。

 長江文明(16000年前〜2800年前)
 黄河文明(9000年前〜5000年前)、夏(4000年前〜3600年前)、殷(3600年前〜3100年前)
             西周〜春秋時代〜戦国時代

 既に明らかになっている点ですが、水田稲作の発祥の地は長江文明だという事。そして、その水田稲作をしていた民がタネモミを手に故郷を捨てる意味は何だろうか?と考えた時、難民(戦渦から逃れて来た)が、一番説得性があります。

 そして、その難民の辿ったルートは“朝鮮半島を経由して”が説得力があります。それは、その渡って来た時期によりますが、“朝鮮半島では水稲稲作が不可能だった”という自然環境が大きく左右したのでは・・と考えます。行き先を持たない難民ならば、“そこで生活が出来れば土地は選ばない”ものとも考えます。

 勿論、日本列島と朝鮮半島との間では、その時期(縄文後期以降)には既に人的交流があったものと考えます。


 D弥生のくらし
 
E地域集団の変遷  F琉球人・本土人・アイヌ
 


 ここで弥生時代以降についての記述がありましたので、引用します。


【地域集団の変遷】

現代へとつづく日本列島の人々の礎となったのは、縄文人の血を引く在来集団と、大陸からやってきた渡来集団という、姿形や文化の異なる二つの集団である。古墳時代以降、集団の構成を変化させるほどの大規模な日本列島への渡来はなかったようだ。二つの集団の混血の度合いと、時代による生活様式の変化や環境要因の違いなどによって、列島に暮らす人々は大きく三つの地域集団に分かれていった。


【渡来人の拡散】

≪縄文時代≫

約1万5000年前から、日本列島には縄文人が住んでいた。この縄文人の起源に関してはいまだに不明の部分が多いが、彼らはその後約1万2000年間、日本列島に住み続けていた。


≪弥生時代−古墳時代≫

2900〜2500年前、すでに北方アジアで寒冷地適応をしていた人びとが、おもに朝鮮半島経由で西日本に渡来し、縄文人と混血しながら日本列島を拡散していった。これが渡来系弥生人で、その身体的特徴は次の古墳人にも引き継がれる。


≪歴史時代−現代≫

歴史時代になっても、渡来系弥生人の子孫が混血しつつ分布域を広げ、日本列島の大部分を占めるに至る。これがいわゆる本土日本人である。さらに渡来系弥生人は南西諸島にも広がり、縄文人の子孫と混血して琉球人となった。他方北海道では縄文人がほぼそのままアイヌとなった。なお、小規模な渡来は時代を通じて、いろいろなところからあったものと思われる。



 上記、パネルからの引用ですが、小生、少々疑義がある文章が見られます。気が付いた点のみ箇条書きで以下に記し、小生のの考えを述べることとします。尚、その基になる小生の考えの基本点は、コチラから 


≪その1≫ 『現代へとつづく日本列島の人々の礎となったのは、縄文人の血を引く在来集団と、大陸からやってきた渡来集団という、姿形や文化の異なる二つの集団である』

 在来集団と渡来集団が別々の集団であるという前提は、果たして正しいのか?

 小生は、オーストラリアや南北アメリカ大陸へと移民となって渡った白人(欧米人)などが支配して行った国々と同様の発想はしません。つまり、それらの国々では英語やスペイン語やポルトガル語やフランス語を使用することとなります。つまり、渡来人が日本列島の縄文人を凌駕するのならば、朝鮮語や中国語を喋ることとなる筈ですが、そうではありません。

 渡来人の血を引く人々が弥生以降に多くなったのは、理由があると考えます。只、アマゾンなどで発見される未開の人々が現代人と交流することで絶滅するのと同様と考えるのも、一つ。


≪その2≫ 『日本列島には縄文人が住んでいた。この縄文人の起源に関してはいまだに不明の部分が多い』
 縄文時代に日本列島に住んでいた人を縄文人と呼びます。また、『縄文人の起源が不明だ』という学者には出会った事はありません。文明が興ったり、文化が発展する契機は誰も知り得ませんが、縄文人を過去の人のように記載するのは、同意しかねます。小生、縄文人の血を引き継ぐ身である事に、“ホコリ”を持っています。


≪その3≫ 方北海道では縄文人がほぼそのままアイヌとなった

 もっと、分るように記述出来ないもんでしょうかねぇ〜。

 Wikipediaからの引用を以下に記します。≪縄文時代→続縄文時代(2世紀〜7世紀)→擦文時代(7世紀〜13世紀)→アイヌ文化≫と、時代は変遷していきます。正確には『縄文人の子孫がアイヌ文化を興した』と言うべきでしょう。


G骨は語る
  
 
 さて、冒頭に紹介したマネキンは≪旧石器時代人の姿(上・中写真)≫でした。女性の方は“腰蓑”を纏っていますが、男性の方は“ブツ”がもろだしでした。うら若き女子がうつむいていたのは、こういうシチュエーションだったからなのですかねぇ〜。

≪国立科学博物館のpンフレット≫ 




 上野駅からは、在来線を使って東京駅へ到着しました。さて、八重洲口の改札を出ましたが、ビジネスホテルへは地下街を行くのが良いか、地上の歩道を歩くのかが分かりませんでした。結局、地下街で駅前の大通りを渡った先に抜け、地上に出た先の道は目的の建物の一本先の筋でした。

 いずれにしても、大都会ではビルの谷間にある行き先を探すのは大変な事です。