縄文文化を巡る!  
 2018年「waiwai隊」 縄文遺跡を巡る旅

東京都埋蔵文化財センター ≪2018年10月15日≫

 昨日のビジネスホテルは、八重洲口の直ぐ側にもかかわらず、実に綺麗で快適な一夜でした。ただ、八重洲の地下街での夕食は覚悟していた通りの金額は嵩みました。もっとも、このあたりの出費は大阪以外の大都市では仕方が無い事。

 さぁ~、今日は新宿まで移動して京王線で“京王多摩センター”へ向かいます。相棒のタブレットにて、事前に新宿からの電車のダイヤを調べて、JR中央線で新宿へ向かいました。東京都埋蔵文化財センターの開館は9時30分でしたので、東京駅を8時過ぎの電車に乗車しました。さて、新宿で京王線へと乗り継ぎます。

 京王線の改札で駅のアナウンスから『遅れて、出発しています』と聞こえて来ました。『月曜日なので事故があったのかなぁ~』との呟きは、相棒の持論です。結局、電車の車掌によるアナウンスでは『新宿駅で気分が優れない乗客の救助のため、30分ほど遅れて運行している』とのことでした。

 通勤・通学の時間帯の乗車でしたが、運よく二人とも席に座る事が出来ました。今冬、東京を訪れた際は相棒がつり革を握ろうとすると、目の前の若い人が席を譲って下さるシーンに何度か合いましたが、結局、今回はそういうシーンは無い旅でした。



【関連リンク先】 東京都埋蔵文化財センター


尚、小生が使用している時代区分を以下に記します。

【AMS法による区分】

  草創期   15,000~12,000年前
  早期     12,000~7,000年前
  前期     7,000~5,500年前
  中期     5,500~4,500年前
  後期     4,500~3,300年前
  晩期     3,300~2,800年前



 
 ・10月9日(火) 
 松山  岡山新大阪  金沢市(石川県埋蔵文化財センター) 金沢市
 
 ・10月10日(水)  
 金沢市  富山市(北代縄文館・富山県埋蔵文化財センター・富山市民俗民芸村考古資料館)
 富山  長野  松本  上諏訪 
 ・10月11日(木)  
 上諏訪   ~岡谷(岡谷考古館)~富士見町(井戸尻考古館)~北杜市考古資料館
~釈迦堂遺跡博物館~甲府市 
 ・10月12日(金)  
 甲府市  松本  長野  軽井沢  ~御代田町(浅間縄文ミュージアム)~高峰高原ホテル 
 ・10月13日(土)
 車坂峠~槍ヶ鞘(ピストン) 高峰高原ホテル  ~軽井沢  高崎市 
 ・10月14日(日) 
 高崎市  群馬県立歴史博物館 高崎市  上野(国立科学博物館) 上野   東京  
 ・10月15日(月)  
 東京  新宿~京王多摩センター(東京都埋蔵文化財センター)  東京  岡山  松山  


 開館時間までには少し時間に余裕がありましたが、駅前にある歩道橋を渡り『東京都埋蔵文化財センター』への案内標識どおりに向かおうとすると『工事中に付き、迂回して下さい』と通行止め。

 初めて訪れた場所。う回路など分かる筈がありません。結局、大回りして、元の通路へと戻るのに苦労したのでした。工事さえしていなかったら、一直線で来れる道です。


 いつものように、“埋蔵文化財センター”は無料で入場出来ます。玄関ホールには、ケースに入った土偶さんが安置されていました
  

≪左、丘陵人の肖像 右、多摩ニュータウンのヴィーナス≫

 

 




≪後期旧石器時代≫ 食料を求めて移動する暮らし

 多摩ニュータウン地域で人々が暮らし始めたのは、今から32,000年年前、氷河期の終わり頃でした。気候は現在の北海道に近く、主な食糧は針葉樹林にすむ大型の獣や川を遡ってくる鮭、草木の実などでした。人々はナウマンゾウやオオツノジカなどの獲物を求めて、移動する生活を送っていました。遺跡からは、狩りや動物の解体に使ったと考えられる様々な石器や、調理に使用したと思われる焼けた石などが見つかっています。


 館内のレイアウトは、部屋の中央部に『企画』の展示を並べていて、壁際にぐるっと年代順に展示されています。まずは、常設展示を見て回って行きます。

≪後期旧石器時代≫

 




≪後期旧石器時代末~縄文時代草創期≫ 暖かくなり、縄文土器が出現した

 20,000年前頃を過ぎると、気候は暖かくなり始めました。食糧となる動植物の種類や量の変化に適応するため、それまでとは異なる新しい石器が造られるようになりました。
 そして、15,000年前頃、土器が登場すると、食材の加工技術や調理方法が飛躍的に進歩し、人々の生活は大きく変わりました。縄文時代の幕開けです。



 下に“おとし穴”の断面の写真があります。その解説文に『八王子寺沢地区の遺跡では、600基以上』、『多摩ニュータウン地域では1万5千基以上にのぼるおとし穴が発掘されている』記されています。

 次の写真では、『縄文時代の道具』とパネルにて解説され、石器類が展示されています。


 
≪後期旧石器時代末~縄文時代草創期≫

 




≪縄文時代早期≫ 竪穴住居の生活が始まった

 地球規模の火山活動が徐々に減り、気候温暖化は一段と進みました。大型動物にかわって増加した、脚の速いイノシシやシカなどの中小の動物が狩猟の対象になりました。このため、弓矢や「落し穴」などの新しい狩りの方法が発展しました。
 また、食料に占める植物の割合も増し、それらを加工するための土器や石器が数多く作られました。
 多摩ニュータウン地域では、この頃から竪穴住居が造られ始めます。



 竪穴住居については、センターの一角に何棟か設置されています。その事については当センターを見て回った後の項で紹介します。




≪縄文時代前期≫ 拡大する兵陵人(おかびと)の動き

 温暖な気候は前期中頃(約6,000年前)にピークとなり、海水面は現在よりも3~5mほど上昇していきました(縄文海進)。
 多摩ニュータウン地域では、発見される住居跡は少ないものの、兵陵のほぼ全域で前期後半の土器が見つかっていることから、兵陵人たちの活動の範囲が拡がっていったことがうかがえます。
 土器には、いろいろな文様が様々な道具を使って描かれ、石器の種類も増えました。また、玦状(けつじょう)耳飾りなどの装身具も造られました。



 縄文時代の早期(12,000~7,000)と、前期(7,000~5,500)の年代の違いは、気候が温暖となって安定するまでの時期にあたります。

 小生は、ここで考慮に入れるべき点として、日本列島の緯度と高度による考察を加えての検討が必要と考えます。





≪縄文時代中期前半≫ 大きなムラが出現した

 約5,000年前、温暖な気候は安定し、獣や魚、山菜や木の実が豊富な落葉広葉樹や照葉樹の大きな森が広がっていました。兵陵人たちは豊かな自然環境を背景に大きなムラを作り、安定した定住生活をするようになりました。
 ムラには決められた場所に「捨て場」があり、土偶や石棒などのまつりや儀式に使われた道具も発見されています。
 土器の文様にはヘビなどの動物をモチーフにしたものが多く、有孔鍔付き土器のような特殊な形の土器も作られます。








≪縄文時代中期後半≫ 兵陵に往き交う人々

 南関東で最大規模を誇るNo.72遺跡では、中期後半(約4,500年前)の住居跡が275軒も発見されました。多数の遺物の中には、このムラの人々とさかんに交流していたことを示すものも含まれています。例えば、黒曜石は主に中部地域から、ヒスイは北陸地方から運ばれたものです。また、わずかですが近畿・東海・東北地方などの土器も見つかっています。これらの品々のうち、黒曜石やヒスイは、このムラを中継地点として、さらに複数のムラへ運ばれたと考えられています。









≪縄文時代後期≫ 兵陵からおりる人々

 多摩ニュータウン地域では、後期前半(約4,000年前)までのムラは、少ないながらもみられます。この時期の遺跡からは、石を規則的に並べた配石遺構などの特殊な遺構やまつりで使われたと思われる道具が多く見つかります。これらの道具には、兵陵人の安寧や豊かさへの祈りが込められているのでしょう。
 後期後半になると、人々はなぜかこの兵陵からいっせいに姿を消してしまいます。




 昨日の国立科学博物館のパネルの解説には、少なからず、納得できない記述がありましたが、ここの“埋文”の記述はすっと胸に落ちる記述でした。

 縄文の遺跡は、大規模な集落が形成されても、長くとも数千年の形跡で消える場合が殆どです。その後に、ムラが作られて継続的に使用されるケースはあります。

 私たちの祖先が森を出て徐々に平野部で生活するに至る様は、理由があります。大自然と共に生きて来た祖先。そして近年の治水・治山の名の列島改造。耐震対策や大津波の対策として、大堤防。大砂防堰堤を造り、ハザードマップとかいう根拠の乏しい避難計画で良いのでしょうか。

 果たして大地を作り変え続けて、私たちは大自然には“畏れ”を抱かなくて良いのでしょうか。


 

  

 

≪注口土器(No.194遺跡)≫

 



≪弥生時代~≫



 

 

 


≪企画展示≫
『蒼海わたる人々』


 展示室の中央部に、企画展示が置かれてています。小生、今まで触れた事がない歴史が紹介されていました。ここでは、その展示の一端を披露したいと思います。


Ⅰ.海の幸を求めて

とうきょうの島々からも、多くの遺跡が見つかっています。そこから浮かび上がるのは、さまざまな時代に、海をわたった人々の姿では、なぜ人々は海をわたろうとしたのでしょうか


【黒曜石で作ったいろいろな道具】 【とうきょうの島で採れる黒曜石】 【神津島産黒曜石の広がり】

 【神津島産黒曜石の広がり】

今から約5,000年前の縄文時代中期は、神津島産の黒曜石が盛んに利用された時代です。東京周辺のこの時期の遺跡を見ると、集落で使われた黒曜石の実に9割近くが神津島産という遺跡があります。
原口遺跡では、総重量にして約90kgもの黒曜石が見つかり、その大部分が神津島産でした。中には、加工していない黒曜石の大きなかたまりもあることから、黒曜石の加工地もしくは中継地であることが考えられます。
島からもたらされた貴重な恵は、このように関東各地へ運ばれて行きました。


 


 神津島産黒曜石は、実に興味深い解説ですね。『都心から170km離れた神津島から運ばれた黒曜石』という解説ですが、遺物から判る事実は?
 上記記述では、縄文中期と原口遺跡が関連性あるかのように書かれています。




Ⅱ.島に生きる

島にくらす人々は海の恵みを活かし、彩り豊かな食生活をおくっていました。その一方で、火山島でのくらしは常に噴火の恐怖と隣り合わせだったのです。平穏なくらしが続くよう、祈りを続けた場もみつかっています。



 小生が生活している土地が瀬戸内海に面しているので、海を眺めると島々が垣間見える風景があります。しかし、湾内ならまだしも、太平洋や日本海を目の前にして海の彼方に島があることを想像するのは、果たしてどんな人なんだろう。


 

  


 


 展示室を出て玄関ホールを奥に行くと、倉庫の陳列棚が見えました。その通路には展示棚もあり、驚きました。倉庫には、棚に並べられている土器類が何点あるのかも分かりません。一般人は、目にすることは適わないのでしょう。



 

 
 
 
 上の土器には、口縁部にヘビの飾りがあります。今回、長野県から山梨県にかけての考古館などでも見られたと同様に飾られた土器を見ることが出来ました。遠く離れた地域で、どのような交流が行われていたのか、興味は尽きません。


≪平成30年度企画展示 蒼海わたる人々≫
 
 ≪遺跡庭園 縄文の村≫
  


 “縄文ムラ”は、日本全国、どこも同じ作りです。土器や土偶などは地方や時期によって様々です。また一昔前までは、日本列島の北と南、太平洋側と日本海側では、住居の構えが違っていました。

 遺跡が発掘され、住居に用いた遺物が掘り出された際に、どのような検討が為されているんでしょうね。

 さて、帰路は往きに通行止めで通れなくて、“う回路”が分かりませんでしたが、反対側からなので簡単に見つけれたのです。そこは、マーケットの2階へと通じていましたが、初めて利用する我々には、見つけるのは不可能でした。




 丁度、昼食時間となったので、往きに見付けておいた定食屋風の店に寄ると、あいにく定休日でした。そこで、デパートやサンリオビューロランドなどを廻ってみましたが、昼食が食べれそうな適当な食堂はありません。
 駅前の通りをぐるっと一周して、結局、駅ビルへ戻って探すと、見知った昼食屋を見つけました。小生らが近頃良く利用しているショッピングセンター内にある、全国チェーン店の天丼屋だったのです。

 さて帰路の電車は、東京発≪ひかり479号≫(16:03分)→岡山(20;19)、岡山発≪しおかぜ27号≫(20:39)→松山(23;32)です。

さて、次回の旅は何時になるのでしょう。